日光街道(小金井宿→石橋宿→雀宮宿→宇都宮宿)
2009年11月27日
小金井駅(JR宇都宮線)・・・小金井の一里塚跡・・・慈眼寺・・・金井神社・・・小金井宿本陣跡・・・蓮行寺・・・薬師堂・・・旧道・・・国道4号・・・旧道・下石橋の一里塚跡あたり・・国道4号・・・夕顔橋の石仏群・・・(国道352号)・・・愛宕神社・・・石橋宿脇本陣跡・・本陣跡・・・開雲寺・・・下古山の一里塚跡あたり・・・鞘堂地蔵尊・・・星宮神社・・・(北関東自動車道)・・・茂原観音道標・・・雀宮の一里塚跡あたり・・・雀宮宿本陣跡碑・脇本陣跡・・・雀宮神社・・・(国道121号)・・・寿鶴薬師堂・・・菅原神社・・・江曽嶋の一里塚跡あたり(一里バス停)・・・国道4号・・・(JR日光線)・・・不動堂(不動前交差点)・・・(東武宇都宮線)・・・蒲生君平勅旌碑・・・台陽寺・・・熱木不動尊・・・一向寺・・・天満宮・・・報恩寺・・・戊辰の役戦士の墓・・・六道の辻閻魔堂・・・光琳寺・・・材木町木戸跡あたり・・・宇都宮宿本陣・問屋場跡あたり・・・朝日坂・・高札場跡・・・追分(奥州街道)・清住通り・・・三峰神社・・・亀の甲坂・・・延命院・・・宇都宮の一里塚跡あたり・桂林寺・琴平神社・・・国道119号・・・薬師堂・・・高尾神社・・・上戸祭の一里塚跡・文星大学前バス停→JR宇都宮駅・・・ホテルサンルート宇都宮
今日の予定は宇都宮宿までで、かなり距離もある。早起きしてラッシュ前の電車に乗る。朝霧で宇都宮線は5分ほど遅れたが、小金井駅には7時半前に着いた。駅のすぐ近くに小金井の一里塚跡が2基しかっりと残っている。塚の間を日光街道が通っていたというが、随分と狭い感じだ。ここを日光社参の行列が通ったのだろうか。
東京から88kmの標柱の立つパチンコ店(パーラークイーン)の駐車場から旧道に入る。下石橋の一里塚跡まで続いていると思いきや行き止りとなり、国道へ旭自動車の前から再び旧道に入るのだが、すぐにこの道も石橋消防署の裏手で行き止まりで一里塚跡ははっきり確認できず。石橋消防署の正面へ回って一里塚へ行こうとしたが、道もないようであまりウロウロしていると消防署へ放火でもするのではと怪しまれそうなので、すごすごと退散する。
石橋宿、雀宮宿にも昔の面影は残らず、この間、3つある一里塚も跡形、痕跡、説明板もなし。単調な国道歩きが続きいい加減に飽きと疲れが来た頃、やっと不動前交差点から国道4号とおさらばし、左に旧道に入ると宇都宮宿はもうすぐだ。もう国道4号と出会うこともなし、お互いせいせいしたか。出会えて嬉しいのは坂だ。日光街道を歩いて初めての坂、朝日坂(奥州街道の坂だが)を下って戻り、奥州街道との追分から日光街道を北に向う。街道から右へ下る亀の甲坂もあってまあまあ少しは疲れはとれたか。
その先で国道119号と合流する。4号とやっと別れたとほっとしていたら今度は119号と離れず日光までの道中だ。彼女(彼?)には歩道がしっかりとついているのと、車が少ないのを望むだけだが、どっちも無理な注文というものだろう。上戸祭交差点を過ぎると様々な木の並木道が始まる。今はちょうど紅葉が見頃だ。(上の写真) 日もだいぶ傾いてきたので、文星大学前の上戸祭の一里塚跡(ここは2基ともしっかりと残っている。)で打ち止めとして、バスで宇都宮駅に向った。けっこう疲れた。宇都宮泊りにしなければここまでは歩かなかっただろう。
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
塚の間が旧日光街道なのだが、やけに狭い感じがする。江戸から22番目の一里塚。
八代将軍吉宗が日光社参の時に休憩所とした寺。
関東八十八カ所霊場第20番札所。
弘法大師の作と伝える千住観音像ほか、延命地蔵菩薩・毘沙門天が安置されている。
小金井宿の鎮守
門だけが残る。小金宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠43軒だった。
もとは呉服屋だったとか。
将軍の日光社参の際には宇都宮城主がこの寺で出迎えた。
本尊は行基の作との説もある。
ずっと延びていて、下石橋の一里塚跡まで通じていると期待したが・・・。
正面の雑木林が江戸から23番目の「下石橋の一里塚跡」だろう。《地図》
「豚カツ」の店?
夕顔橋の石仏群 《地図》
国道に背を向けて立つ、地蔵・庚申塔・十九夜塔・観音像など10体の石仏。かつては街道沿いにあったのをここに集めたのだろう。夕顔橋とはロマンを感じさせる名だが、ここに橋があったのだろうか。今は夕顔、朝顔はもちろん何の風情、情緒もない所だが。
社殿の下は愛宕山古墳というが、それほどの高さはない。
弘化4年(1847)の建立
石橋宿脇本陣跡 《地図》
右の伊沢写真館。
石橋宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠30軒
伊沢茶舗
将軍の休憩所とされた寺。将軍家から下賜されたとされる葵の門入りの湯釜が伝わる。境内左手に「三体地蔵尊堂」がある。
毎年9月23日に「三体地蔵尊大縁日」が開かれる。
街道沿いに一部が欠けたり磨り減った石仏たちが虎ポールでガードされている。
下古山交差点の南側
暗く、暑苦しそうで入る気がしないが、中はそうでないのだろう。
室町時代の天授6年(1380)、下野の両雄宇都宮基綱と小山義政の「小山・宇都宮合戦」で、宇都宮軍が敗れて300人以上が全滅した。村民が戦死者の刀の鞘を集めて堂を作り、供養のための地蔵を安置したという。
鞘堂はこのあたりの地名にもなっている。
今は頭のみが安置されている。胴体はどこかへ持ち去られたのか、壊れてしまったのだろうか?
鞘堂の鎮守
下野三十三観音霊場第20番札所の茂原観音(普門寺)へはここから東方向へ1.5㎞もないか。
「大和田内科胃腸科」の看板下に、「雀宮本陣跡」の石柱だけが立っている。
雀宮宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠38軒。「雀宮一里塚」(25番目)は雀宮5丁目付近にあったらしいいが痕跡をとどめず。
こちらは立派な黒門と白壁の家。
下には小さな「馬力神」と「生駒神」が立つ。生駒神も馬の神のようだ。
雀宮神社 《地図》
宿の名前の由来になった神社で、「雀」の由来は ①長徳元年(995)に陸奥守に任ぜられた藤原実方のあとを追った妻の綾女がこの地で病没し、綾女の持っていた宝珠を埋め社殿を建てた。その2年後、陸奥の地で死んだ実方の霊魂が雀となって飛来し、数々の奇瑞を生じたので二人を合わせて祀り、雀宮と称した。②雀が村人を救ったという伝説。③道鏡が納涼のため造った亭を「すゞみの宮」と称したのが転訛したという説。などがあるそうだ。②は具体的な内容に乏しく、③も道鏡がこの地で相変わらず納涼の館を建てるほどの権勢を保っていたとも思えない。一番伝説的な①としておくのが由来話としてはよろしかろう。
小倉百人一首の藤原実方の歌 「かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを」
徳川将軍の日光社参でこの神社に参詣するのが例になっていたという。
寿鶴(すず)薬師堂(バス停寿鶴薬師堂前) 《地図》
寿鶴とは何か、人の名か? 由来が分からず。
堂の回りをダンプの工事人が掘り起こしていた。堂はなくならないと思うが。
「一里交差点」・「一里」バス停・ラーメン屋「一里」に名をとどめているが、塚は跡形も無く、説明板もない。
不動前交差点 《地図》
正面に小さな不動堂が立つ。左が日光街道、奥州街道で、直進が国道4号
蒲生君平勅旌(ちょくせい)碑 (東武宇都宮線を渡ってすぐ右側)
居酒屋「君ちゃん」は、「君平」にちなんでつけた名か?
「勅旌」なんてわけの分からん言葉だが、ざっくばらんにいうと「天皇から褒められた」碑か。宇都宮は蒲生君平の故里であちこちにゆかりの所がある。
台東区上野の臨江寺には墓がある。『六阿弥陀道②』
右が子安地蔵尊堂
宇都宮城主戸田氏の守り地蔵尊だったとか。
熱木(ねぎ)不動尊 《地図》
宇都宮氏の祖の藤原(宇都宮)宗円が奥州征討の際に、城山村多気山山頂にて戦勝を祈願して造った3体の不動明王像のうちの一体だそうだ。公民館になっていて堂内に不動尊の姿は見当たらなかったが。
金ちゃんはここでもお勉強だ。
世に異変が起こる前には、汗をかくという、「汗かき阿弥陀」(国重文)が安置されている寺。日曜日には開帳しているそうだ。
本堂は戊辰戦争で焼失したが、茅葺きの山門は寛永年間(1624~43)の創建時のままという。戊辰戦争で戦死した薩摩藩など官軍の墓がある。
境内を熱心に見ている女子中学生?がいた。何に興味があるのか話を聞いてみたかったが、挨拶だけにしておいた。
ここ六道の辻で戊辰戦争の大激戦があった。旧宇都宮藩士の士族や、地元の人たちによって建てられた旧幕府軍の戦死者の墓。
宇都宮宿問屋場、本陣跡あたり(伝場町交差点に東) 《地図》
伝馬町本陣青木家(上野家?)は200坪近い建物だった。屋敷の庭にあった大イチョウだけが往時の面影を偲ばせる。
宇都宮宿は本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠42軒で、池上町のみずほ銀行あたりに本陣石塚家があった。
朝日坂 池上町交差点あたりから東へ下る国道119号(奥州街道)。
日光街道と奥州街道との追分の小幡郵便局の所。
【ル-ト地図】の34大谷石の塀と蔵と格子窓。追分の本陣ともいう上野家とつながる家だろう。
亀の甲坂(坂下方向) 日光街道から東に下る坂。【ルート地図】の35
鎌倉時代の作という、延命地蔵さん(栃木県の有形文化財)の顔は堂内で拝めず。
延命院は蒲生君平が幼少のころ学問を学んだ所で「蒲生君平修学の寺碑」がある。
桂林寺には蒲生君平の墓がある。
門前の交差点あたりに、「宇都宮の一里塚」(27番目)があったようだが痕跡、説明板なし。
「最中」とあるから菓子屋と思ったが。
これも牛馬の守り神。
高尾神社 《地図》
境内左に地蔵堂がある。江戸時代までは神と仏は一緒に祀られていた名残りだろう。
「妙吉安産子育高地蔵尊」の額が架っている。昔、村の大男が自分の背丈を記念に残すために、自分の座高の五尺の石塔を建てたという。石塔は地蔵の後ろのものか?座高五尺とは大巨人だが。
塚の上には宝篋印塔が立つ。円墳だったのか?
上戸祭町交差点を越えると、さまざまな木の混ざる並木道が始まる。桜が一番多いようだ。
上戸祭の一里塚跡(東塚) 文星大学バス停の手前 《地図》
江戸から28番目
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