岩槻慈恩寺道(葛飾区)
2009年12月7日
新柴又駅(北総開発鉄道)・・・医王寺・・・佐倉道分岐・上小岩親水緑道(公園)・・・(北総開発鉄道)・・・寅さん記念館・・・山本亭・・・柴又帝釈天(題経寺)・・・柴又駅・おりつ地蔵・・・(京成線)・・・柴又八幡神社・・・真勝寺・・・川甚・・・矢切の渡し・・・新葛西橋(水戸街道)・(JR常磐線)・・・葛西神社・・・光増寺①・・・金蓮院・・・しばられ地蔵(南蔵院)・・・松浦の鐘・・・水元公園・・・蓮蔵院・・・内溜・・・岩槻橋・・・長伝寺・・・延命寺・・・小合不動堂・・・地蔵堂・・・薬師堂・・・日枝神社・・・熊野神社・・・光増寺②・・・遍照院・・・閘門橋
坂東三十三ヵ所観音霊場第12番慈恩寺への道が岩槻慈恩寺道だ。佐倉道との分岐の、江戸川区の上小岩親水緑道公園にある慈恩寺道の地蔵道標から北へ、葛飾区の岩槻慈恩寺道を行く。かつて道沿いにあった道標が移設されている寺などを訪ねて歩くので、慈恩寺道からはずれている所もある。
少し冷たい北風に向って、「男はつらいよ」の柴又の帝釈天、矢切りの渡し、大岡裁きの「しばられ地蔵」。水元公園などに寄りながら、埼玉県三郷市との境の閘門橋まで歩く。三郷市の慈恩寺道は、「三郷七福神①」で歩いた中川沿いの旧道の道筋と重なるようだ。その先、慈恩寺道は、吉川市に入り、武蔵野線を越えて中川を渡り、元荒川沿い?を進み、越谷市で日光街道を横切り、慈恩寺へと通じていると思うが、詳しい道筋は調べていなので分からず。(元荒川と葛西用水が併流する越谷市のしらこばと橋手前の葛西用水分岐地点あたりに岩槻慈恩寺への庚申塔道標がある。『赤山街道③』に記載)・足立区を通るルートもあった(ある)ようだがこれも未調査)
*参考:『かつしかの道(岩槻慈恩寺道)』(葛飾区教育委員会)
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
医王寺
足利義満の時代の建立で、眼病に霊験あらたかな薬師瑠璃光如来が本尊。それで「医王」寺か。
邪鬼の下に「ぢおんじ道 是より七里」と刻まれているそうだが、磨り減っていて読めず。
以前は医王寺は北東約300mの柴又6-22(今は寅さん記念館がある)の岩槻道に面した柴又堤上に建っていて、大正4年に現在地に移転した。
親水さくらかいどう(佐倉街道(成田街道))
小さな流れは昔の農業用水路、右の小屋はお堂ではなく、清掃用具などの格納庫か?
巡拝塔道標・地蔵・馬頭観音の小堂(江戸川区の上小岩親水緑道公園内)
成田街道との分岐地点 【ルート地図】の①
左に小堂、正面は江戸川の土手
右側面に「是より右岩付慈恩寺道」と深く刻まれている。 この巡拝塔は正徳3年(1713)に坂東西国秩父の百札所の巡礼記念に建てられたもの。この道標も昔は慈恩寺道沿いの路傍にあったのだろう。中央は地蔵?で左は馬頭観音。
山本亭の洋風長屋門
大正末期から昭和初期に建てられた和洋折衷の建物と純和風の庭園。門をくぐって亭内を通り帝釈天の方へ抜けられる。もちろん無料。
以前は番人が常駐していたそうだ。
記念撮影しているのは福島県から来た団体さん。バスガイドさんが訛っていた。正面がニ天門、その右奥が鐘楼。
「男はつらいよ」によく出てきた柴又駅。以前来た時には寅さんの像は立っていなかったと思うが。
実の親に殺された幼い娘の哀れで、悲痛な由来話の地蔵尊が祀られている。寅さんはこの地蔵のことを知っていただろうか。
顔がはがれてきているようだ。これも律子の恨み、悲しみのなせる業か。新しくするか、修復して供養してあげたい気がする。
社殿は帽子を被った「寅さん埴輪」が出土した古墳の上。6世紀後半築造の直径20~30mの円墳。
神社の裏手をしつこく探したが、石室の名残りのようなもの見当たらず。
万治3年(1660)に建てられたもので、全国的に見ても五仏がそろっているのは数少ないという。
川魚料理「川甚」
寅さんがよく口にしていた店だが、立派なビルになりすぎていて、あまり情緒がないと思うが。今日は「はとバス」の団体さんなどの予約が入っている。昔は矢切りの渡しの北の江戸川の河川敷にあったという。
12月から3月初旬は土・日・祝日の運航。
♪「矢切の渡し」♪を口ずさみながら江戸川の土手を遡る。
境内は工事中だった。初詣のかき入れ時までに整備するのだろう。
境内の南角に「じおんじ道」の道標があるというが見逃した。もとは慈恩寺道沿いにあったそうだ。
葛西神社前の慈恩寺道沿いに立つ、文政2年(1819)建立の庚申塔。風雨にさらされ風化・摩滅が激しい。ずっと昔から慈恩寺へ向う人たちを見送ってきたのだろう。
右に「ミキいわつきしおんじミち」、蓮台正面に「金町村 道行弐百三十五人」とあるそうだ。慈恩寺は多くの信仰を集めていたようだ。これも以前は街道沿いにあったもの。元禄7年(1694)の建立で、刻銘のある道標では葛飾区内で2番目に古いもの。
元文6年(1741)建立の地蔵の左側に「これより左いわつき志”おんじ道」、これは何とか見える。
二十六夜待講中が宝永7年(1710)に建立したもの。愛染明王の石像は全国的にも少ないそうだ。染色業者の信仰が篤いという。愛染→藍染か。
地蔵を召し捕り縛った大岡越前の登場する『由来話』。やさしい顔立ちの地蔵さんだ。顔にまで縄を巻くのは可哀そうだよ。
大岡政談の由来話は戦前の教科書にも載っていたそうだ。
せちがらい、不況の昨今、願い事が多いせいか顔にまで縄が巻かれている。これじゃあ窒息死してしまいそうだが、「おりつ地蔵」と違って虐待されているわけではなく、自ら望んで?縛られているのだ。縛り縄(1本100円)、願いが叶った時の「解き縄入れ」も置かれている。
元旦に初詣に行けば、テレビに映るかもよ。映ってもカメラの前でVサインだけは勘弁してよ。
松浦の鐘(水元公園の遊歩道沿い) 《地図》
「松浦の小夜姫伝説」とはゆかりはない。
風が強くさざなみが立っている。水鳥は気持ちよさそうに波にちゃっぷちゃっぷ浮かんでいる。
観音像の下に「右いわつきぢおんじ道」と刻む。これははっきり見える。もとは慈恩寺道の岩槻橋交差点(南水元4-27)にあったもの。岩槻橋はもとは観音橋と呼ばれていた。
正面上部に左方面を指す「手指」の線刻と「成田道 是より十四里」とあるそうだが、料亭の敷地内の玄関前なのであまり長居はできず、文字もよく見えずあきらめた。これも岩槻橋交差点にあったもの。成田道は佐倉道から成田不動尊へ通ずる道。
水元公園小合溜の内溜
内溜は正面奥の岩槻橋交差点近くまで伸びている。
水元桜大滝は水を循環、ろ過して内溜をきれいに保ち釣り天国にしているそうだ。
寛永7年(1630)の建立で、紀年銘のある石灯籠では区内最古のもの。
この観音像?は元禄6年(1693)の銘のあるが、風化、摩滅も少ないしっかりした石像だ。(不動堂境内)
石灯籠の台座には享保4年(1719)の銘がある。
薬師像は拝めず。
扉の中は、また扉で見えず。左は天明4年(1784)の観音像?、右は天明?年の六面地蔵石憧。
熊野神社 《地図》
右はタブの木
右面に「此方志おんじ道」だが、はっきり見えず。嘉永3年(1850)の建立。以前は光増寺南西100mほどの東水元5-10に立っていた道標。
中央上部に梵字でキリーク(阿弥陀種子)を印刻。それ以外の刻銘などは見えないが、当初から無かったのか、風化、摩滅で消えてしまったかは不明という。以前は閘門橋付近の堤上の「勢至のマキ」と呼ばれる大木の下に立っていたそうだ。
閘門(こうもん)橋 【ルート地図】の③
荒れ狂う風雨と必死に闘いながら閘門の堰板を差し込んでいる姿のブロンズ像が2体。
閘門橋から大場川(昔は小合川)
『柴又街道』
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