日光御廻り道①
2009年12月8日
幸手駅(東武日光線)・・・陣屋道(駅前通り)・・・裏町(通り)・・・裏町天神神社・・・満福寺・・・幸宮神社・・・妙観横町・・・日光街道分岐点・・・妙観院・・・雷電神社・・・庚申塔・・・宝持寺・・・(東武日光線)・・・県道152号・・・真乗院・・・千塚神社・・・宝性院・馬頭観音道標・・・(東北新幹線)・・・八甫鷲宮神社・宮裏橋(北側用水路)・・・中川土手・・・(JR宇都宮線)・・・愛宕山神社・・・光厳寺・・・浅間神社・・・県道3号・・・宝泉寺池(ここまで日光御廻り道)・・・金山橋(葛西用水路)・・・霊樹寺・・・新宿橋(六郷堀川)・・・鷲宮神社・・・新道橋(青毛堀川)・・・鷲宮駅(東武伊勢崎線)
徳川将軍の日光社参の「幻のルート」、日光御廻り道を2回に分けて歩く。この道筋は幸手宿と栗橋宿の間の権現堂川による洪水被害の危険地帯を避けるために、11代家斉の文政の社参の延期から12代家慶の天保14年(1843)の社参の準備の間に整備されたものという。歩いて見ると日光街道からは随分と離れ、迂回路、遠回り道というより別のルートという感じだ。
天保の社参を最後とし明治維新を迎えたので、結局この道筋は一度も使われなかったのだが、洪水を恐れ堤防も造れず大きく回り道する将軍の行列を見れば、地元の村々から笑われ将軍家の権威もさらに落ちたことだろう。
幸手駅前から日光街道に向う陣屋道を少し進み、陣屋稲荷の手前で左に裏町通りに入る。香ばしい匂いの漂う、手焼せんべい店と手作り豆腐屋が道を挟んで並ぶ妙観横町の辻を右に行くと日光街道にぶつかる。ここが日光御廻り道との分岐点だ。
日光御廻り道は宝持寺の先で左に曲がり北西へと向い、どんどん日光街道からは離れて行く。よほど権現堂川の氾濫による洪水が怖かったと見える。東武日光線、東北新幹線、宇都宮線、県道3号を横切り、宝泉寺池を過ぎて葛西用水沿いに進み、やっと北東から東方向に向い、再び東武日光線をくぐり、宇都宮線を渡り栗橋宿へと入って行き日光街道と合流する。
今は車の多い県道歩きが多く、あまり面白味のある道ではない。途中、県道から離れ北側用水路や中川の土手歩きを混ぜながら、今日の御廻り道歩きは宝泉寺池までとし鷲宮神社へ寄り鷲宮駅へ向った。
*参考:『埼玉ふるさと散歩(日光街道・古利根流域編』(さきたま出版会)
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
幸手の語源は、①アイヌ語で乾いた土地を意味する「サッ」とする説。 ②日本武尊(ヤマトタケル)が東国遠征の時に立ち寄った島の名前の「薩手(さって)が島」からという説。
①は「テ」は何か? ここは乾いた土地だったのか? ②はここは島だったのか? などの疑問が残り、どっちもいまいちの説で説得力が乏しく思うが。
駅の付近は戦国時代に当地を支配した一色氏の城跡だったらしい。
東側の日光街道が表通り。周囲が水路や沼地で浦をなし、本来は浦町であったともいう。
一色宮内大輔が建立したという、「一色五天神」の一つで、幸手城の鬼門「艮(うしとら)」除けの守り神。「一色五天神」は源頼朝が鎌倉二階堂に鬼門守護として祀った江柄天神社から勧請した、幸手宿、平須賀村、神扇村、天神島村、上高野村の天神社。
荏柄山と称し、裏町天神神社、八幡香社の別当寺だった。本尊の観世音菩薩は安産子育てにご利益があり。満福→満腹か。
左手前は延命地蔵堂で、当時は東京に住んでいて日頃からこの延命地蔵への信仰が篤かった女性が、関東大震災の前夜に地蔵が夢枕に立ち導かれ、当地へ戻り震災の難を逃れたのを感謝して建てたという。(今の堂は昭和48年の再建)
幸手の総鎮守で、もとは八幡香取社といった。
突当たりの中山家具の前が日光街道と日光御廻り道との分岐点 【ルート地図】の①
江戸時代には「幸手領総社」ともいわれた。垂仁天皇の時代に黄金の雷電像が田の中に降臨して創建したとか。
宝持寺前にも庚申塔・地蔵などが並ぶ。
雷電神社の別当寺だった。
一面に2体の地蔵が三面に彫られている。
宝持寺の北で左に曲がり東武日光線(正面)を渡り、県道へ152号へ。
右端は真乗院
社殿前は落葉と沢山の銀杏で埋まっている。靴で踏んづけて匂いがついてしまった。かなり前に落ちたもののようだ。もったいない。
前の「ささら獅子舞」の標柱が説明板にピッタリとくっつけて立っているので、説明板の後半が見えない。何を考えていることやら、いい加減なことをするよ。
「新四国弘法大師埼東八十八ヵ所の第7番札所」「関東、坂東、埼東」、○○ヵ所、ややこしい札所があちこちにあるなあ。
右が不動堂
「北 新井ふなとみち」・「東 ごんげんどうみち」
東は幕府が恐れた権現堂堤への道。今の県道152号で日光御廻り道。
右は葛西用水の支流の北側用水路で、中郷用水、南側用水とともに、幸手領三用水の一つ。
そば屋「元禄」の手前で県道から離れ右へ、北側用水路沿いに進む。
宮裏橋を渡り、ここで左に曲がって車道を行くのだが、直進して中川土手に向う。
宇都宮線を越えた左側
浅間神社だった。
長いすべり台が塚上から下りている。
瑠璃山薬王院と号す曹洞宗の寺で、鷲宮の霊樹寺の末寺。
かつては利根川流路の一部だった。宝永元年(1704)の利根川水系の洪水の濁流で窪んだ所にできた池) 池の脇にあった宝泉寺はいつ頃まであったのだろうか?
日光御廻り道は右へ曲がり、池から離れて行く。《地図》
この先、栗橋宿の日光街道との合流点までは次回に歩く。
地蔵堂 《地図》
右は頭部を新しくしたようだ。
中央のは何か?下部は「第一ばん」か?
霊樹寺門前の松並木は鷲宮町の天然記念物。並木というほどでもないが。
白鶴が運んできた松の枝から、松が伸びて繁ったという伝えがある。それで山号が「鶴松山」なのだろう。
鷲宮山(じゅぐうざん)鶴松院(かくしょういん)と号する曹洞宗の寺で、陸奥国白川関川寺の末寺。
参道両側に並ぶ羅漢には番号札がつけられている。何かの霊場の札所になっているのか?
鷲宮神社参道 【ルート地図】の⑤
境内は広く、参詣人も多い。
本殿の堅魚木(かつおぎ)(鰹木)に日があたり、光を放っている。
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