赤山街道-3(越谷道①)
2009年12月16日
新井宿駅(埼玉高速鉄道)・・・県道161号・・・源長寺・・・県道161号・・・赤山交差点(首都高速川口線)・・・赤山陣屋跡・山王社・・・赤芝東横断ボックス(東京外環自動車道)・・・安行植物園・西立野道標・・・西福寺・・・県道161号(越谷鳩ヶ谷線)・・・花山下東交差点・旧道・・・県道161号・・・天満宮・・・伝右橋(伝右川)・・・二つ橋交差点・旧道・・・一ノ橋(綾瀬川)・・・県道161号・・・大沼大明神・・・県道324号(蒲生岩槻線)・・・辰ノ口橋交差点・・・県道161号・・・(草加バイパス)・・・(JR武蔵野線)・・・三ツ谷地蔵・・・越谷駅西口・(東武伊勢崎線)・・・(日光街道)・・・観音堂・・・越谷市役所・中央市民会館・・・観音寺?・・・八幡宮・・・稲荷神社・・・庚申塔道標・・・しらこばと橋(元荒川・葛西用水)・・・不動橋・・・大聖寺・・・日枝神社・・・県道52号(越谷流山線)・・・大相模久伊豆神社・・・浄音寺・・・(東埼玉通り)・・・水神社跡・・・下妻街道合流地点・・吉川橋(中川)・・・延命寺・・吉川交番前交差点・下妻街道分岐地点・吉川道(岩槻慈恩寺道)合流点・・・吉川道・・・鷲神社・・・吉川駅(JR武蔵野線)
赤山陣屋の四ツ門の一つ越ケ谷口から赤山街道の越谷道を行く。日光街道を越えた観音堂先の分岐点からは、①北東へ久伊豆神社から大広戸の杉浦陣屋跡へ向う道筋と、②東方向に元荒川の南側を吉川へと向う道筋があるが、今日は吉川へのルートをたどった。出発が遅く、迷ったり間違ったりしたので思ったより距離があり時間がかかった。吉川駅に着いたのは5時近くであたりはすっかり暗くなっていた。
*参考:『赤山街道総合調査報告書 Ⅱ(越谷道をたどる)』(川口市教育委員会)
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
伊奈家の菩提寺
赤山陣屋本丸跡前の農家
意外と小さな祠だった。
幼稚園、保育園と広い敷地と立派な建物。ここが今の赤山城か。
西立野道標(正面の石塀の前) 《地図》
正面に「百堂母○道是より二丁」、右側面に「こしケ谷道」、左側面に「いしがみ道」
「百堂」は百観音の西福寺のこと、「いしがみ」は石神。
西国、坂東、秩父の百観音信仰の寺。
元禄6年(1693)に完成した県下で一番高い木造の建造物。
天満宮 《地図》
ここ安行藤八では、「夏祈祷」の獅子舞が行われる。
一ノ橋(綾瀬川) 《地図》
二つ橋の手前から県道を離れ大きく東方向に迂回する。それは新栄団地付近が大沼と呼ばれる沼地で、綾瀬川氾濫時の遊水地の役割を果たしていた場所だったから。
大沼大明神 《地図》
武主大名神、兵(もののふ)神社ともいう。①戦国時代に戦に敗れ落ち延びた戸塚の城主がこのあたりで没した。里人はこれを憐れんで武主大名神として祀った。②戦国時代に築城の荷物を積んだ船が、大沼を渡る際に大風で難破し沼底に沈んだ。里人は兵神社を勧請し供養した。
このあたりは大沼と呼ばれた沼地だった。
谷中村三ツ谷集落西川家の覚心法師が諸国を遊行中、元文2年(1737)に悪人に襲われ死去した。西川家では供養塔墓石を屋敷内に建立したが、以来不幸が重なったため当地へ移したという。地元ではこれを「三ツ谷地蔵」と呼び、娘が嫁ぐ時、赤子が生まれた時、子どもの帯解祝いには必ず参拝をしたという。
東武伊勢崎線をくぐる。右は越谷駅でこのあたりは「赤山1丁目」。
馬頭観音道標(左・文化10年(1813))・徳本供養塔(右・文政5年(1822)) 観音堂境内
右側面に「大さがミ道」、左側面に「のだ せうない道」
「大さがみ」は大相模不動の大聖寺、「のだ せうない」は野田、庄内。かつては観音横丁の突当たりの分岐点に立っていたのだろう。今日は「大さがみ道」を通り吉川の延命寺まで行く。
越ヶ谷御殿跡 《地図》
逆川(葛西用水)が元荒川を伏越でくぐった所。
越ヶ谷御殿跡の50mほど東側の稲荷神社の隣。
庚申塔道標 《地図》
右側面に「これより上じおんじ迄三里半」、左側面に「これより左吉川へ壱里 大さがみ門 これより右市川まで五里」
「じおんじ」は岩槻の慈恩寺で、この道も江戸川区、葛飾区、三郷市、吉川市から続く、(岩槻)慈恩寺道のルートの一つ。『岩槻慈恩寺道』参照。
大聖寺(だいしょうじ)山門
小山評定の後、関ケ原へ向う家康は当寺に立ち寄り太刀一振を寄進したそうだ。
「虹だんご」とはしゃれた名だ。時間に余裕があれば食べたかったが。
正面の東門から続くのが旧道
もとは本堂裏手の元荒川の土手上にあったという。
日枝神社 《地図》
この地は武蔵七党の一つ野与党の大相模次郎能高の本拠地という。ここでも与野党逆転か??
塞神塔道標(享和3年(1803)) 《地図》
正面の生垣の下
右側面に「野道」、左側面に「吉川道」
これはずっとここにあるのだろう。
左下中央のが庚申塔道標(万延元年(1860))か?
それなら、右側面に「江戸みち こしがや道」、左側面に「よしかわ成田十五里」とあるはずだが摩滅しているのと、薄暗くなりかけてきて判然とせず。
ここに水神社があったのだが移設されてしまったのか? 撤去ではあるまい。ここは元荒川と中川の合流点。水神の祟りは恐いぞ。 《地図》
武蔵国新四国三十三霊場の第一番札所
右側面に「右松ぶし ほうし花道」、左側面「左こしがや 江戸道」 「松ぶし」は松伏町、「ほうし花」は江戸川沿いの春日部市宝珠花のことか。
もとは吉川橋を渡って80mの所を左折して20mの所に東を向いて置かれていたそうだ。この先の吉川交番前交差点の先で左折し、北に向う道は下妻街道で、吉川交番前交差点で右折し、南に向かう道は吉川道(岩槻慈恩寺道)で、三郷市、葛飾区、江戸川区へと続く。
バスの行き先の「エローラ」は松伏町にある音楽ホール。
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