日光御成道(幸手宿→岩槻宿)
2009年11月30日
幸手駅(東武日光線)・・・陣屋稲荷・・・県道65号(岩槻幸手線)・・・志手橋(倉松川)・・・(東武日光線)・・・追分(日光街道・日光御成道)・・・琵琶溜井(葛西用水)・・・馬頭観音道標・・・天神社・・・下高野の一里塚跡・・・和戸橋(大落古利根川)・・・和戸交差点・庚申塔・・・(東武伊勢崎線)・・・国納橋(備前堀川)・・・西粂原鷲宮神社・・・上野田交差点・庚申塔・供養塔・・・下野田の一里塚跡・・・野田橋(姫宮落川)・・・往還橋(隼人堀川)・・・庚申堂(お玉さま)・・・宝国寺・・・日枝神社・杉並木・相野原の一里塚跡あたり・・・観音入口交差点・・・天満宮・・・毘沙門堂・・・慈恩寺・・・新井薬師堂・・・地蔵・・・石仏群(慈恩寺公民館)・・・表慈恩寺交差点・・・慈恩寺橋(元荒川)・・・(南辻の)地蔵・・・龍門寺(上の写真)・・・田中口跡(槍返しの門跡)・・・(東武野田線)・・・浄安寺・・・時の鐘・・・岩槻城址公園・・・岩槻宿の一里塚跡碑(岩槻区役所前)・・・大龍寺・・・愛宕神社・・・願生寺・・・岩槻宿本陣跡あたり・・・岩槻駅(東武野田線)
日光街道との合流点の幸手宿から江戸に向って岩槻宿まで日光御成道を歩く。車の多い県道65号で街道風情は松、杉並木の名残りと一里塚跡ぐらいだが、ちょうど銀杏の黄葉がピークで目を楽しませてくれた。雲っていて寒い日だったそうだが、南方向に向っているせいか風も弱く、坂道散歩には手頃な日だった。
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
陣屋稲荷(一色稲荷) 幸手駅から南東へ、日光街道へ向う陣屋道の右側。 《地図》
古河公方足利氏の家臣、一色氏の館跡の南東に祀られた一色氏の守り神で、鎌倉の一色稲荷神社を分祀したものという。幸手駅あたりが一色氏の館、幸手城だったという。
日光街道(左)との追分 スーパー「ベルグ」の前の三叉路。《地図》
琵琶溜井(葛西用水)
直進が日光御成街道岩槻方向。
昭和30年頃までは松並木が残っていたという。
天神社 《地図》
幸手の一色氏の家臣の相良氏が幸手城下の裏町天神神社を分祀したものという。一色氏は源頼朝が鎌倉の二階堂に祀った荏柄天神社を崇敬し、領内各所に天神様を祀り、「一色五天神」(幸手宿・平須賀村・神扇村・天神島村と、ここの上高野村)とも称された。
江戸時代の下野村の鎮守の一つ。
ここは西側を流れる古利根川の自然堤防の上。
和戸橋(大落古利根川)
和戸橋交差点を左に入った永福寺の門前に「西行見返りの松」がある。
(2018年4月27日撮影)
落語『西行』
ブロック塀をへこませて作り、しっかりと保護している。
分からず。
左側面は道標になっていて、「・・・下高野村・・・」などと刻まれている。
(2018年4月27日撮影)
将軍家の日光社参は、二代秀忠を初めとして、全19回行われた。天保14年(1843)の12代将軍家慶の社参では、家慶は宝国寺から歩いてこの社で休憩し、軽食をとったとの記録があるそうだ。
2m以上の高さがあるか。左は「東日本廻国供養塔」
日本橋から11番目の一里塚。(写真は通り過ぎた所から)
これでも「一級河川」だ。昔、岩槻の村人はこの橋まで来て日光社参の将軍一行を見送ったという。この橋で義理を果たしたので、地元ではひそかに「義理橋」と呼んだという。義理とはいえ、忙しい中をわざわざここまで出向いて見送るのだから村人もご苦労さん、迷惑な話だ。
子どもが病気になると、村人はここからお玉を借り、治ると借りたお玉と新しいお玉を奉納する習わしだった。お玉は汁の実(身)を掬う(救う)から。
永正9年(1512)に没した熊山和尚が開山という。山門の西側には将軍の日光社参の折、新茶屋が設けられ、小休止所とされた。ここからは富士山がよく見えて富士見台と呼ばれていた。
日枝神社 《地図》
日枝神社先の「相の原」バス停前の坂の坂下あたりか?
観音入口交差点から左に入り、慈恩寺へ向う道の右側。もっと大きな社と思っていた。
毘沙門天堂 《地図》
運慶作と伝える毘沙門天像が祀られているというが・・・。
慈恩寺山門
坂東三十三ヵ所観音霊場12番札所。『岩槻慈恩寺道』
天長年間(824~833)の創建。かつては66もの堂塔を誇ったという古刹で境内は広いが、樹木が少なく殺風景な感じがする。
地蔵さんが見守るのどかな道。なだらかに下っているから「地蔵坂」と呼ぼうか。
庚申塔・廻国供養塔・千手観音(馬頭観音かも)などが集められている。《地図》
右へ御成道へ戻る。
塀の前に馬頭観音
(南辻の)地蔵 《地図》
左が御成道
慈覚大師の作という、「手なし不動」が安置されている。岩槻藩主大岡忠光の墓もある。大岡忠光は名奉行大岡越前守忠相の一族で、前藩主の永井直陳(なおのぶ)が「槍返しの門」の一件で、美濃加納城に国替えになった後を継いだ。
「手なし不動」の伝説:「この不動はたいそういたずら好きで、毎夜大入道に化け、御成道に出て通行人を驚かした。この話を耳にした武士が待ち伏せし、現れた大入道に切りつけた。すると大入道は大きな音を立てて崩れ、黒雲が天地を覆ってしまった。翌朝、寺僧が見に行くと不動の片腕が落ちていた。これ以後、何度腕をつけても落ちてしまうので、「手なし不動」と呼ばれるようになった。」 この不動は今は本堂内に安置されているという。
田中口木戸門跡 《地図》
ここに番所、高札場があった。
八代将軍吉宗の日光社参道の折、ここの木戸門の屋根が低く、行列が槍を立てたまま通ることができなかった。屋根を壊すよう命令が出たが、時の岩槻城主永井直陳(なおのぶ)は、「槍を倒してお通りください」といって通させた。これが幕府の怒りにふれ、美濃加納に国替えされてしまったという。それ以来、この門は「槍返しの門」と呼ばれるようになった。現在は浄安寺の山門になっている。
岩槻藩主は目まぐるしく、入れ替わっている。永井直陳の頃の岩槻藩は3万3千石で、美濃加納藩には3万2千石で入っている。「槍返しの門」事件の幕府の怒りが国替えの原因だったとも思われない。中山道沿いの加納藩(岐阜駅の近く)の方が、岩槻城下よりも発展していて賑やかだったのではないか。左遷ではなくむしろ栄転だろうか。
田中口から移された「槍返しの門」
江戸後期には、1日12回撞かれ、城内、城下に時を知らせていたという。
「岩槻に過ぎたるものが二つある 児玉南柯(なんか)と時の鐘」とうたわれていた。さほど著名人でも名所でもないと思うが、岩槻の人たちは謙譲の美徳を心得ているのだろう。
岩槻城下説明板
もとは城内のどこにあった門なのかは不明。明治維新後に埼玉県庁の正門となり、後に知事公舎の正門となり、昭和29年、岩槻市に払い下げられ、昭和45年、現在の岩槻城址公園内に移築された。
これもここに移築されたもので、かつての位置は不明。
後ろは岩槻区役所
岩槻城主青山伯耆守忠俊の開基で元和6年(1620)の創建。
城下を囲む外堀と土塁の「大構」(おおがまえ)の上に社殿がある。
右が土塁跡で、下に堀が廻り、野田線の線路を越えて田中口まで続いていた。《地図》
正面は東武野田線の踏切
どっしりとした茅葺き屋根で落ち着いた雰囲気の寺。
『東武野田線』
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