日光街道(徳次郎宿→大沢宿→今市宿)
2009年11月28日
JR宇都宮駅 バス→文星大学前・・・釜川・・・光明寺・・・(宇都宮北道路)・・・高谷林の一里塚跡・・・(東北自動車道)・・・薬師堂・・・(国道293号)・・・徳次郎宿・智賀都神社・・・宝木用水・二宮堰・・・大網下橋?(田川)・・・国道119号・・・石那田(六本木)の一里塚跡・・・田川大橋(田川)・・・石那田八坂神社・・・お願い地蔵・・・新渡神社・・・上小池の一里塚跡あたり・・・日光杉並木寄進碑・・・大沢宿・・・王子神社・・・龍蔵寺・・・八坂神社・・・水無の一里塚跡・・・来迎寺・・・さくらすぎ(桜杉)・・・七本桜の一里塚跡・・・(国道461号)・・・(東武日光線)・・・追分地蔵(日光西街道(壬生道)・日光例幣使街道合流点)・・・下今市駅(東武日光線)
宇都宮の朝は冷えるかと思っていたが、そうでもない。今日は車がひっきりなしに行き交う国道119号歩きで見るべき所も少ない。徳次郎宿、大沢宿には宿場の面影は感じられず、一里塚跡を目標に歩く、一人オリエンテーリングみたいだ。
飽きてきてつい足早になる。そうすると疲れが増す。徳次郎宿の智賀都神社から街道を離れ、宝木用水、二宮堰の方へ入る。のどかで静かで、用水の流れのある道で生き返る。(上の写真) 二宮金次郎の事蹟を見るには初めてのような気がする。どうも彼には薪を背負いながら苦労して勉強したお兄さんのイメージしか湧いてこない。気分のいい道歩きは長くは続かず、再び酷道に戻りひたすら歩く。それほどの悲壮感はないけど。
日光杉並木に入れば往時の街道風情を楽しめるかと期待したが、杉並木の間は車中心の通りとなっていて、あてが外れた。遊歩道の部分もあるが、それは杉並木の外についている所が多い。一度歩けば日光(杉並木)は、もうけっこうだ。杉並木を抜けると、日光例幣使街道との合流点で、地蔵堂に大きな追分地蔵が祀られている。ここを今回の日光街道歩きの終点とした。この先、東照宮へは倉賀野から日光例幣使街道を歩いて来てからのこととしよう。
【ルート地図】
(この先は『日光西街道(壬生通)④・日光街道(鉢石宿→日光東照宮)』に続く)写真をクリックすると拡大します。
寺の前には立場があったといい、徳川将軍の日光社参の時には休憩所にもなった。山門は四国八十八カ所のいくつかの寺にもある竜宮門。
高谷林(こうやばやし)の一里塚跡(東塚) 【ルート地図】の36
江戸から29番目
薬師堂(徳次郎交差点の手前左) 《地図》
右の覆屋に馬頭観音などが並ぶ。
馬頭観音の台石側面には側面には「右 山道 左 氏家 白沢道」と刻まれている。
「神社入口道五丁 田中道」と刻む。「神社」は国道293号を西に進んだ日光宇都宮道路近くの「神明宮」だそうだ。
徳次郎交差点から西50mに「痣地蔵堂」がある。
「とちぎ名木百選」の樹齢700年の「徳次郎のけやき」
徳次郎(とくじら)宿は、本陣3軒、脇本陣4軒、旅籠72軒 で、日光側から上徳次郎、中徳次郎、下徳次郎の3宿からなり、一月の上10日を中徳次郎、中10日を上徳次郎、下10日を下徳次郎に割り当て、交代で継立を行っていた。日光に大きな勢力を持っていた久次郎(くじら)氏の一族が、日光の宗家・久次郎氏に対して外久次郎氏を称したことに由来するといわれる。もともとは上徳次郎だけが人馬の継ぎ立てを行っていたが、中・下の願いにより享保9年(1724)からは中徳次郎と下徳次郎にも宿場が置かれた。
街道沿いに宿場の面影を残すものは見あたらず。
智賀都神社 《地図》
徳次郎宿の総鎮守
田川の水位が低いので堰により水を溜めて取水し、灌漑用水とした。正面の堰は二宮金次郎の設計によって造られた当時のものではないようだ。
このあたりは親水公園となっている。
【ル-ト地図】の37元気で何よりだ。
船生街道入口交差点の「一里塚バス停」の所。江戸から30番目。
「兵どもの夢の跡」?か。街道沿いの廃墟で寒々しい。
身体の悪い所に赤い布を付けて願うと、全快治癒のご利益あり。享保15年(1730)の建立。「うらない仏」はこの地蔵のことのようだ。
神体は石の不動尊
来年は寅年の人が多く登るかも。
南塚跡が残っているというが、探しても分からず。江戸から31番目。
日光神領の境界に4箇所立てられていて、境石と呼ばれている。
王子神社 《地図》
大沢宿の鎮守。樹齢200年の大イチョウというが、一本だけなので目立つようだ。もっと大きなイチョウはあちこちで見かける。
大沢宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠41軒。ここも宿場の面影はない。
太い台木に2カ所の接木をして、現在は4本の太い枝が伸びている。見頃は5月半ば。
鳥居の右前が2本の杉の根元が癒着した二又杉の「枝喰い杉」か? うっかりしてよく見なかった。
杉並木の間は一方通行の車がスピードを上げて通る。歩道が分離していなく、歩きづらいので杉並木の外側を歩いてみた。
昔は今頃は真っ白だったのだろう。
江戸から32番目
ここもさっきの「お願い地蔵」同様、赤い布を着せられている。
杉の割れ目に桜の種が落ち、杉の体内を通って根をおろしたもの。一本の木のようになっている
七本桜の一里塚跡(東塚) 七本桜交差点の手前 【ルート地図】の39
江戸から33番目
塚上の杉の根元が大きな空洞になっている。4人くらいはここで泊まれそうなので、「並木ホテル」と呼ばれている。3方向に口が開き、中から1本の竹が外へ伸びている。
日光西街道(壬生道)・日光例幣使街道(右)との追分 【ルート地図】の40
正面に追分地蔵堂
追分の分岐点に立つ、露座の小さな石地蔵さんと思っていたが、堂の中の巨大な坐像だ。八代将軍吉宗の時にはすでに現在地にあったという。この前には「くさ地蔵尊」、「二十三夜尊」、子育地蔵、安産地蔵などが控えている。
この地蔵尊は弘法大師が日光含満ヶ淵に建てたものだが洪水で流され、大谷川の砂原に埋まっていたのを、近くの人が大石と思い楔を打ち込んだところ赤い血が出た。という逸話があるそうだ。
追分地蔵の脇仏のようで、悟りきったような顔をしている。
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