日光西街道(壬生通)②(壬生宿→楡木宿)
2010年1月19日
壬生駅(東武宇都宮線)・・・壬生宿(蘭学通り・脇本陣跡・本陣跡)・・・舟町通り・・・雄琴神社・・・壬生城址公園・・・蘭学通り・・・興光寺・・・国道352号・・・東雲橋(黒川)・・・高館橋(江川)・・・愛宕塚古墳・・・(県道2号)・・・車塚古墳・・・牛塚古墳・・・県道2号・・・神代橋(黒川)・・・壬生寺・・・常楽寺・・・国道352号・・・(北関東自動車道)・・・(県道221号)・・・金売吉次の墓・・・稲葉一里塚跡・・・梅林天満宮・・・金毘羅神社・・・判官塚古墳・・・磐裂根裂神社・・・北赤塚一里塚跡・愛宕神社・・・磯山神社・・・(東北自動車道)・・・追分交差点(日光例幣使街道合流点)・国道293号・・・楡木宿・・・(東武日光線)・・・神社橋(小藪川)・・・楡木神社・・・楡木駅(東武日光線)
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
脇本陣松本家(松本内科医院) 《地図》
ここも松本家。奥に古い家屋と土蔵が見える。古い門が残っているそうだが見逃したか。
電線がなく、広く明るい空が気持ちいい。
左は石崎家の長屋門で今は店が何軒が入っている。
舟町通り(左に雄琴神社、その先の東武宇都宮線の踏切を渡り黒川へ通ずる) 《地図》
黒川の壬生河岸から壬生城下への重要な産業道路として賑わった通り。
近江の雄琴神社に初代壬生氏の祖の小槻今雄が祀られている。そこから分霊、合祀した壬生の総鎮守社。
内部に御殿があり、江戸時代初期には将軍の日光社参の宿舎に使われた。天守や櫓は築かれなかった。
徳川家光の通夜が行われ、「葵」の紋が贈られた寺。山門屋根の紋は「三つ葉葵」だろう。
壬生城の鬼門除けの愛宕神社の建つ後円部から前方部方向。
黒川左岸の段丘上に築かれた古墳時代後期の壬生地域の首長3代の墓の一つ。愛宕塚古墳→牛塚古墳→車塚古墳の順で築造された。
直径82mの円墳。南側に横穴式石室が開口している。
石室は前室と玄室からなり、羨道は壊されて残っていない。大谷石で造られた最も古いの建造物(石蔵)の一つだろう。
玄室の奥行きは3m。がっしりしていて今でも十分寝泊りできそうだ。
帆立貝形の前方後円墳だが墳形ははっきりしない。
壬生寺山門
「慈覚大師誕生地」の門柱が立つ。後ろはライシャワー元駐日大使の手植えの桜。
樹齢350年のイチョウ・右に大師堂・正面奥に円仁産湯の井戸・その左は六地蔵堂
『日光例幣使街道④』の岩舟町にも誕生地があった。
小像さんが出迎えてくれる「像楽寺」か。
金売吉次の墓(正面の小さな松の下に石が2つ積んである)と吉次の守護仏の小観音堂の覆い屋(右後ろ) 【ルート地図】の7
「奥の細道」の旅で芭蕉と曽良はここを通って、畑の中にこの墓を見ている。吉次は奥州街道白河の境の明神あたりで強盗に襲われ殺害され同地に葬られたともいわれ墓もある。
金売吉次の墓のすぐ先
石の小鳥居と小祠に鉄の大釜の取り合わせはどういう意味か、別に意味などないか。(稲葉小学校前歩道橋の左先)
北赤塚バス停の所
右が後円部で、南側に土に埋まりかけた横穴式石室が開口している。義経が冠を埋めたので冠塚ともいわれる。
全長5.9mの両袖型の横穴式石室式。
右袖が見える。
この地域に多い、開墾・農耕の神社。
右に旧道らしき道が残っている。
例幣使街道を歩いた時は遥拝で済ませたが、今日は参ろうぞ。参道はあじさいがぎっしり並ぶ。花の時期に祭礼があり、夜間もライトアップされ見事という。
高さ約41m、樹齢400年以上の双幹の杉。
左からの日光例幣使街道と合流。地元ではこの先、今市までも日光例幣使街道と呼び、地図の表記も「日光例幣使街道」となっている。日光西街道、壬生通よりは何となく格調が高いからだろうか。
ここから先、楡木駅までは昨年12月30日に歩いたばかり。
「右 中仙道 左 江戸道」
40分ほどの電車待ちの間に寄ってみた。手前は神社橋(小藪川)
| 固定リンク
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 坂道散歩(2021年11月~2022年6月)追加分(2022.06.20)
- 結城街道⑥(下館駅→日光街道合流地点)(2020.07.02)
- 結城街道⑤(岩瀬駅→下館駅)(2020.06.29)
- 結城街道④(稲田駅→岩瀬駅)(2020.06.23)
- 結城街道③(内原駅→稲田駅)(2020.06.19)
コメント