日光西街道(壬生通)③(楡木宿→奈佐原宿→鹿沼宿→文挟宿→板橋宿)
2010年1月21日
楡木駅(東武日光線)・・・成就院・・・奈佐原宿・・・光明寺・・・猿田彦神社・・・押原神社・・・鹿沼宿・(鳥居跡・雲龍寺・薬王寺・本陣跡・大日如来堂・今宮神社・鹿沼城址・星宮神社・塩なめ地蔵(松源寺))・・・御成橋(黒川)・・・下野不動尊・呑龍寺・・・並木寄進碑・・・小倉一里塚跡・・・延命地蔵尊・文挟宿・・・二荒山神社・・・板橋一里塚跡・三本石・・・板橋宿(本陣跡・福生寺・栖克神社)・・・下野大沢駅(JR日光線)→宇都宮駅・・・ホテルサンルート宇都宮
春のようなぽかぽか陽気で、上着を脱いで歩いても暑いくらいだった。見どころの多い鹿沼宿から日光連山の眺めのいい御成橋を渡り、杉並木の間を壬生通り最後の板橋宿まで行く。去年の11月から日光関連諸道を歩いてきたが明日はいよいよ今市宿で日光街道へ入り、本丸の日光東照宮へ討ち入りだ。今日は宇都宮へ泊まり、ビールを飲んで餃子を食べながら明日の作戦を練って、早めに寝ることとしよう。
*参考:『鹿沼日和』
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
2代目の木で「とちぎ名木百選」。
ここを左に曲がって東武日光線を越えると、「泣き相撲」で有名な生子(いきこ)神社がある。
説明板の後ろはもみやま保育園。園児の何人かは、赤子の時に「泣かせ相撲」で泣かされたことだろう。親が3500円も払って、なぜわざわざ泣かされるのか。人の世の不条理を初めて味わったことももう忘れたのか、「泣き相撲」のおかげで元気に育ったのか、大声を上げて無邪気に遊んでいる。
説明不足の感じがするが。
山門には屋台彫刻と同じ見事な彫り物が施されている。
門は閉まっていて寺の回りをうろついていたら、怪しまれたのか寺の奥さんから「お参りですか」と声を掛けられた。仏像泥棒が多いので閉めているのだそうだ。
「木造阿弥陀如来立像」(鎌倉時代)
猿田彦神社への参道の意なのか?
平将門の乱の際に、平貞盛、藤原秀郷が戦勝を祈願したという。
境内左手に「竜神の泉」があるというが気がつかなかった。
鳥居跡(とりいど) 《地図》
源頼朝が日光山の遠鳥居を建てた跡。今は正面の分岐点に二荒山神社の小祠が建つ。ここから鹿沼宿で、右は旧来からの田町通りで、左が鹿沼宿が整備される時に造られた内町通りで、ここを進む。
「鈴木石橋の墓」がある。鈴木家は本陣家で、石橋の開いた私塾の門下生に寛政の三奇人の一人の宇都宮宿で生まれた蒲生君平がいる。今でも地元では「石橋(せききょう)先生」と敬われているそうだ。
「鹿沼屋台夢箒」のとおり、2階からもほうきがぶら下がっている。 鹿沼箒は鹿沼の名産で、「箒屋千軒」とも呼ばれていたが、今は数軒だけとか。
左が由来碑のようだが、読むのを忘れ写真も撮らず、どんな由来があるのか分からず。日光社参の折に家光が献じたものにしては少し粗末の感じがする。家光の鎧(よろい)をここに掛けたのか? 日光社参に鎧をつけては行かないと思うが。
大日如来像は33年に一度の開帳らしい。
本陣跡の「石橋のさと」公園 《地図》
左隣の街道に面している鈴木内科が本陣家。
仲町屋台公園の屋台展示収蔵庫 《地図》
白木彫刻屋台だがガラス越しの見学。屋台造りが過熱して、「彩色彫刻黒漆塗屋台」にまで出現し、ついには幕府から華美禁止令が出されてしまった。それならばと、白木の彫刻のより絢爛華麗な彫刻屋台を造り出したそうだ。
明治から大正時代の鹿沼屈指の麻商だった長谷川唯一郎の造営の庭園。鹿沼の三名園で現存する唯一のもの。泉池?に水がないせいか、殺伐とした感じがする。
鹿沼城の鎮守。毎年10月の例大祭には、絢爛豪華な彫刻屋台が繰り出す。
鹿沼城址(御殿山公園の本丸跡の野球場) 【ルート地図】の12
大永3年(1523)の宇都宮氏と皆川氏の川原田合戦で、皆川氏を援けた壬生綱房が天文元年(1532)に築城。
星宮神社 《地図》
小さな社だが地元の彫物師の彫刻で飾られている。屋台の彫刻と同じ技術なのだろう。
元禄年中(1688~1703)に大谷石で造られた延命地蔵で、塩を供えて願掛けをするとご利益があるという。
堂内にも塩が積まれている。
左が男体山
並木寄進碑 《地図》
むろん車も通るのであまり楽しくはない。
追分の廻国念仏供養塔道標(右の木の根元) 《地図》
国道121号の文挟(ふばさみ)交差点の所。手前が壬生通で右が鹿沼方向、正面方向(道標の左方向)はJR日光線の文挟駅へ。
宝暦12年(1762)の建立
このあたりから文挟宿なのだが宿場の面影や家並みは残っていない。
冬で赤い毛糸の帽子とセーターか。一年中この恰好では可哀そうだよ。
今も看板に「問屋」と標示している。この向い側が本陣跡らしい。
鳥居の前に昭和24年12月の大地震の「震災復興記念碑」が立つ。この時の地震は街道にも被害を与え、杉並木がずれて街道も一部分移動してしまった。そこは明日歩く「地震坂」となって今でも名をとどめている。
左は江戸時代に飢饉などに備え、村民が共同で建てた食料備蓄倉庫の郷倉。
どんな由来か?
弥勒菩薩?
この先に大貫屋酒店がある。後ろは板橋城があった城山(443m)。板橋城は永正年間(1504~1520)に宇都宮一族の日光山遊城坊が設けた里坊の館だった。その後、天文年間(1532~1554)に後北条氏が同盟軍の壬生氏のために派遣した板橋将監がこの城を拠点とした。壬生氏の滅亡とともに板橋氏も滅び廃城となったという。
祭神は祭神は中筒男命
東照宮造営の副奉行で、同僚と争論して自刃。
この先で杉並木の間の道となる。
すぐに上り坂となるが、これは地震坂ではない。歩道がなく歩きづらい道だ。しばらく進み、右へ曲がって街道から離れて下野大沢駅に向った。
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下野大沢駅のそばの小公園内
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