日光例幣使街道③(太田宿→八木宿→梁田宿→天明宿)
2009年12月24日
パールホテル太田・・・県道2号・・・富士重工工場・・・追分地蔵・・・県道213号・・・(東武伊勢崎線)・(東武小泉線)・・・女体山古墳・・天神山古墳・・・長岡橋(鶴巻川)・・・馬洗い場跡碑・・・地蔵堂・・・賀茂神社・・・台の郷の辻・・・県道128号・・・旧道・・・韮川用水路・・・八坂神社・・・新宿の辻・・・辻地蔵・勢至堂・・・新宿橋(矢場川)・・・八木宿(宝性寺・本陣跡・廓街道・ニ柱神社・母衣輪神社)・・・(東武伊勢崎線)・・・勝光寺・・・(国道50号)・・・簗田宿・長福寺・・・川崎橋(渡良瀬川)・・・川崎天満宮・・・(県道128号)・・・樋詰橋(尾名川)・・・出流川橋・・・村上大橋(旗川)・・・県道223号・・・高田橋(旗川)・・・元三大師・・・一本松地蔵・岡崎山古墳群・・・両社神社・・・地蔵(旗川渡河地点)・・・白旗橋(旗川)・・・(両毛線)・・・才川・・・(両毛線)・・・菊沢川・・・(県道270号)・(県道67号)・・・中橋(秋山川)・・・天明宿(佐野厄除大師・観音寺・星宮神社)・・・ホテルサンルート佐野
追分地蔵の所から少し回り道をして、女体山古墳、天神山古墳に寄ってから例幣使街道に戻る。歩き始めて2時間もたたないうちに腰が痛くなる。そのせいで注意力が鈍るのか、この先何度も道を間違える。鳥居のない賀茂神社へ行くつもりが、鳥居のある賀茂神社へ行ったり、出流橋から一本松地蔵へ出るはずが、旗川を渡って県道223号に出てしまったりした。
今日は天明宿(佐野)までの予定だったが、手前の富田駅であきらめようかと弱気にもなってきた。手打ちそば屋でうまい鴨南蛮うどんを食べて一休みしたら、気力、体力が戻ってきて、元三大師から一本松地蔵に大きく遠回りしてなんとか佐野まで歩くことができた。佐野厄除け大師に今日の厄払いを願い、暗くなった天明宿の町並みを抜けホテルに向った。賽銭も上げない厄払いは当てにできないから、佐野ラーメン、ぎょうざ、ビールを腹に供えて明日に備えるとしよう。
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
「右 たてはやし こか道 左日光道 やき さの駅」
「館林・古河・八木・佐野」
東武小泉線の跨線橋から。
東日本最大の全長210mの前方後円墳
全長108mの帆立貝形古墳。天神山古墳が男体山古墳。
帆立貝のような墳形が分かる。
県道から後円部
手前に小さな水路がある。
台の郷の辻 《地図》
例幣使街道は左へ行く。
「北 丸山桐生道」・「東 福居佐野道」・「南 龍舞小泉道」・「西太田道」
福居は八木宿のこと。
「鳥居のない賀茂神社」へ行くつもりだったのだが。《地図》(右上の韮川小学校の東側、鳥居のない賀茂神社は左下)
「昔、日光例幣使の一行が石原の賀茂神社で休んでいると犬が激しく吠えるのでその首を切ってしまった。すると首が鳥居に跳ね上がってそこにいた蛇に食いついた。犬に助けられたことを知った例幣使はその犬を手厚く葬り、鳥居も外してしまったという」
犬に吠えられたくらいで首を切るとは乱暴な例幣使一行だ。坂道散歩では犬に吠えられるのは日常茶飯事のこと。そんなことをしていたらもう何百匹の犬の首を切っていたことだろうよ。
矢場交差点で左折し、その先で右折し旧道に入る。手前に新しい道標。
道路に面した方に、「この先 桜山跡」とある。桜山とは?
矢場工業団地の裏側を行く殺風景な旧道。《地図》
左の「村社八坂神社」の石柱下の台石は道標
旧道と県道128号の合流地点 《地図》
例幣使街道と館林道の分岐で、ここにあった道標は左前方の勢至堂前にある。
辻地蔵の台石が道標になっている。
ここは《地図》では長浜観音堂となっている。
矢場川の新宿(あらじゅく)橋を渡った所。
八木節創始者の堀込源太の墓。墓地ではなく参道にある。
一本北側の通りには昭和の初めまで遊郭があり、「廓街道」と呼ばれていたそうだが、今は全くその面影、痕跡はなかった。
「南・・・・」読めず。
女郎屋跡か?
庄屋の大黒屋か? 右下に「こばた」とあるから煙草も売っていたのだろう。
簗田宿は総戸数105軒の小さな宿場だったが、本陣が2軒で飯盛女も多くいた。今は昔の面影はない。
長福寺 《地図》
旧幕府軍は簗田宿で飯盛女と遊んでいるところを官軍に急襲され戦死者64名という屈辱的な敗戦をきっした。物見遊山、女遊びをしながら官軍と戦ったたのは、遠足気分だった奥州街道の二本松藩の二本松少年隊と同じで、これじゃあ官軍に勝てるわけがない。
旧幕府軍の「東軍」を刻む碑は少ないそうだ。
昔は船で渡り、例幣使は対岸の川崎天満宮に必ず参じた。今は橋を渡って大回りして天満宮に向うが、橋を渡り、直接土手を下りらればすぐだが。
左は渡良瀬川の土手。
玉村宿本陣に歌を残している綾小路有長がここでも歌を詠んでいる。(三首目)
今渡ってきた川崎橋のガードくぐる。《地図》
ここを右に曲がる。
正面のムロオカ産業の手前で左に曲がり、県道128号に出て、尾名川、出流川を越えた所までは間違えずに進んだが、そのまま直進して旗川の村上大橋を越えて県道223号の「吾妻小北」の交差点に出てしまった。出流橋から村上大橋へは新しくできた道ようだ。
直進して旗川の村上大橋を越える。車道も歩道も新しい。《地図》
ここでやっとどこを歩いているか分かった。県道223号の交差点。
そば屋で小休止して、元三大師への道から例幣使街道の一本松地蔵を目指す。
厄除け料は何段階もランクがある、営利商業主義的な寺でなじめない。
ここでやっと例幣使街道に戻り右に曲がる。
標柱は立っているが、あまり整備、保存はされていないようだ。
道標(2基) 《地図》
国道67号との合流点。このあたりに一里塚があったらしい。
地蔵 《地図》
旗川の渡河地点の土手脇。寛文10年(1670)の例幣使街道の整備時期に建てられた古いもの。
冬は水が枯れ、夏は浅瀬を歩いて渡った。正面の橋はJR両毛線。
街道は白旗橋を渡り左折、右折し免鳥、花岡の集落を抜けて佐野宿へ向う。
今は少し右側の中橋を渡って天明宿へ 《地図》
佐野厄除大師の金銅大梵鐘
こんな物まで造って、儲かってしょうがないのだろう。
田中正造の墓
手前は石川啄木の歌碑
『足尾銅山と田中正造』
こっちの方が断然いいと思うよ。
今日は道を間違えたりしてあまりついてなかった。その厄落しと明日の無事を願ったが無理だろう。賽銭も上げないのだから。
天明宿の鋳物師が奉納した享保20年(1735)の銅の明神鳥居。
天命(てんみょう)家次という鋳物師が朝廷に鉄の灯籠を献上したところ、それが天をも明るくしたとして、天明という苗字を贈られたという。『天明のいわれ』
以来、天明の鋳物師として全国に知られるようになった。例幣使街道が整備された時には佐野藩は改易となり、佐野城も廃されていたので、佐野宿ではなく天明宿になったのだろう。
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