日光西街道(壬生通)①(喜沢の追分→飯塚宿→壬生宿)
2010年1月18日
小山駅(JR宇都宮線)・・・日光街道(県道265号)・・・喜沢の追分(喜沢東交差点)・日光西街道(県道18号)・・一里塚跡・・・小山ゴルフクラブ内古墳・・・東島田子育地蔵尊・・・大日山美術館・・・扶桑歩道橋・・・半田橋(姿川)・・・七面堂・妙典寺・飯塚宿・・台林寺・天満宮・・・摩利支天塚古墳・・・琵琶塚古墳・・・伝紫式部の墓・・・しもつけ風土記の丘(防人街道・下野国分尼寺跡・下野国分寺跡)・・・県道18号・・・飯塚一里塚跡・・・紫雲寺・・・花見ケ丘交差点・・・県道44号・・・蓮華寺・・・県道18号・・・御成橋(黒川)・・・壬生一里塚跡・・・縄解地蔵尊・・・(東武宇都宮線)・・・壬生宿・蘭学通り・・・脇本陣跡・・・壬生駅(東武宇都宮線)
日光西街道(壬生通)は、日光街道(奥州街道)の喜沢の追分から北西に入り、飯塚宿、壬生宿を経て楡木宿で日光例幣使街道と合流し、奈佐原宿、鹿沼宿、文挟宿、板橋宿を通って今市宿で再び日光街道と出会う。宇都宮宿経由の日光街道よりは2里ほどの近道となる。「奥の細道」の旅で芭蕉はこの道をたどり、「室の八島」に参詣して日光へ向った。芭蕉らよりはゆっくり、のんびりと日光を目指す。
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
日光街道は直進し、右へ細い旧道に入る。日光西街道は斜め左に曲がる県道18号。
ゴルフ場内に一里塚、古墳群が残っている。
ゴルフ場内にある。
もとは全長36mの帆立貝形古墳で、5基の喜沢古墳群の主墳だった。出土した歯から被葬者は30歳前後の女性と判明した。『探訪とちぎの古墳』
卑弥呼と同じシャーマン、巫女的な首長だったのだろう。
東島田子育地蔵尊 《地図》
右の坐像の地蔵は享保12年(1727)の建立。
子育地蔵のすぐ先の街道の左側
古い農家を移築、改築した絵画、版画、陶芸品などの美術館だそうだ。
「末法鎮守七面大明神」の石柱が立つ。向い側は妙典寺。
宿場の面影は残らず。
この向い側の空き地が鈴木本陣跡
右のそば屋「よろずや」の向い側が脇本陣の谷田貝家だそうだが今は普通の民家になっている。
「奥の細道」の旅で芭蕉と曽良はここから思川の河原へ出て、室の八島(大神神社)へ向ったようだ。
全長117mの栃木県で最大規模の前方後円墳
後円部上の 摩利支天社
全長123mの栃木県で最大の前方後円墳
「伝承」ともいえない由来話だ。小さい方は侍女の墓だと辻褄合わせのような話があるが、大きさに差はないように見える。
伝紫式部の墓の南側からから東へ国分尼寺跡の方へ通じている。
南大門跡あたりから
国分尼寺に塔はない。
右の木の後ろが七重塔跡
小ぶりだが2基残っている。
寛政元年(1789)に尾張国からの女人二人(お似呂さん)の関東二十四旧蹟巡拝者が国分寺の親鸞上人済度の「蛇骨経塚」が荒廃しているのを嘆き、壬生城主の鳥居丹波守に願い出て、篤信の越後の農夫を開山として開基した寺という。
関東二十四旧蹟は親鸞上人ゆかりの地で、「蛇骨経塚」はその一つだろう。
親鸞上人大蛇済度の伝説は、「鎌倉時代の初め頃、浮気した夫とその相手を食い殺した女が大蛇と化して里人を苦しめていた。この地を訪れた親鸞上人がこの大蛇を済度し、大蛇は菩薩の姿となって往生した。」 大蛇の骨を経典と一緒に埋めたのが蛇骨経塚で、この先の花見ケ丘交差点を左に入った蓮華寺にある。大蛇が往生した時に空から蓮華の花が降ってきたので蓮華寺で、花見ケ丘の地名が起こったとか。
本堂は改築工事中で境内に入るのは遠慮したが、蛇骨経塚(境外か?)と、今は涸れた「大蛇済度の池」があるというのを後で知った。
壬生城の城主は将軍の日光社参の際にはここで出迎えたそうだ。
壬生に初めて城を築いた、小槻彦五郎胤業が京都から勧請して祀った地蔵尊。縄解きは、苦しみから解放される事で、信仰によって罪ある者さえ解放されるという意。京都市中京区壬生寺の「延命地蔵尊」、三重県名張市(壬生村)の「縄目地蔵尊」とともに、日本三体地蔵尊と呼ばれている。4月にお祭を開催。子授け・安産・子育・冤罪に霊験あらたかという。
地蔵さんは33年に一度の開帳。庶民の守り仏なのだからそんなけちなこと言わないで欲しいよ。
この先の壬生宿の中心の蘭学通りは次回歩く。
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