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2010年1月 1日 (金)

日光例幣使街道②(境宿→木崎宿→太田宿)

2009年12月23日

伊勢崎駅前 バス→堀口町・・・国道354号・・・昌雲寺・・・道満橋(韮川)・・・東京福祉大・・・豊武神社・・・大正寺公民館・・・伊勢崎織物発祥地碑・・・三ツ橋伝説地・三ツ橋牛打の松と芭蕉句碑・・・飯玉神社・延命寺・・・子どもの森公園・・・忠治茶屋・・・旧道・右赤城・・・国道354号・・・菅原神社・・・武士橋(広瀬川)・・・法光寺・・・長谷川たばこ店・旧道・境宿(乳母の懐・一本松稲荷・・嵯珂比神社・長光寺・愛染院・織間本陣跡・境稲荷神社)・・・県道312号・・・女塚薬師道しるべ(女塚会館)・・・法楽寺・・・(東武伊勢崎線)・・・子育地蔵尊・・・三ツ木橋(早川)・・・(国道17号)・・・石田川・・・矢抜神社・・・来迎寺・・・三本辻地蔵尊・・・医王寺・・・木崎宿(問屋場跡・本陣跡地・貴先神社・長命寺・色地蔵)・・・高寺川・・・県道312号・・・常楽寺・・・威光寺・・・聖橋(聖川)・・・椿森橋(虻川)・・・(東武桐生線)・県道2号・・・永盛橋(八瀬川)・太田宿(木戸跡あたり・長念寺・東光寺・春日神社・高山神社・本陣跡)・・・パールホテル太田

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_3608 昌雲寺 《地図

お辞儀をしているような石仏が出迎えてくれる。境内に「従是南本庄」・「従是北一丁伊勢崎」の領界石の文字庚申塔があるそうだ

Img_3615 豊武神社

Img_3617 二十二夜塔の如意輪観音の台座が道標になっている。

台石左側面に、「右ちヽぶ」・「左日光」、以前は例幣使街道沿いにあったもの。

Img_3616 説明板

Img_3620 道標(大正寺公民館敷地内)

「東日光道」・「南本庄道」 これも以前は街道沿いにあったものだろう。

Img_3625 宏洞松本翁頌徳碑

Img_3624 説明板

Img_3660 周辺案内図

Img_3628 分岐点に立つのが案内図の「万延元年の道標」と猿田彦大神の円柱。《地図

Img_3634伊勢崎織物 大絣(おおがすり)発祥の地」碑(豊受歯科の所)

Img_3629 三ツ橋伝説地 《地図

右側に細い水路があるだけで橋はない。子どもが麻疹(はしか)にかかったとき、橋の下をくぐると早く治るという俗信は知らなかった。橋下(はしか)を通り過ぎるから、はしかの病いも治るか?

Img_3630 説明板

Img_3642 三ツ橋牛打の松と芭蕉句碑と向松庵記念碑(三ツ橋伝説地の向い側)

「三ツ橋伝説」の栄朝禅師が牛に乗り、松の枝を鞭にして牛を打ちここまで来た。この松が根づいたので「牛打の松」。

芭蕉句碑(文政8年(1825)建立)は、「涼しさやすぐに野松の枝の形」

Img_3639 「向松庵」記念碑

Img_3647 飯玉神社

Img_3645 由緒

Img_3648 延命寺

例幣使の休憩所となった寺。伊勢崎佐波観音霊場の第一番

Img_3649 説明板

Img_3650 説明板

Img_3654街道沿いの庚申塔・甲子塔(左端)

十干十二支の甲子(きのえね)の晩に大黒天を祀り、豊作や商売繁盛を願う民間信仰を甲子待ちという。庚申待ちは徹夜、月待ちは月の出までを原則とするのに対して、これは子の刻(深夜12時)までとする。子待ちともいう。

Img_3663 子どもの森公園の「ぼうけん山」

冬休みなのに園内はガランとしていた。まだ時間が早いのかも。

Img_3666 公園のすぐ先の庚申塔、道祖神(左端)

Img_3670忠治茶屋 【ルート地図】の①

Img_3671 店内

Img_3672 焼きまんじゅう一串130円

大きいが小麦粉でふわふわしているので食べやすい。

Img_3673 忠治茶屋のすぐ先で、右赤城へ右に曲がる。

Img_3678 右赤城

中山道の清水坂の「右富士」では今は富士は見えないが、ここからの赤城はまだ見える。

Img_3676 説明板

Img_3681 道標

「東日光道」

Img_3689 菅原神社

右の猫は人なつっこく、にゃあ~にゃあ~と後を追ってくる。左は警戒心が強く、頭を撫でようとしても首を引っ込めてしまう。でも相棒がこっちへ歩いてくるので仕方なく後からついてくる。

Img_3690 由緒

Img_3692 武士橋(広瀬川)

昔は「竹石の渡し」の舟渡しだった。

Img_3696 法光寺

新四国八十八ヵ所霊場第21番札所

Img_3697 長谷川たばこ店の前から旧道に入る。《地図

Img_3699 「乳母の懐」あたり

居眠りをしていて起こされた例幣使の一言に由来。輿(こし)に揺られてくるとは贅沢な話だ。今でも国道とは大違いの眠くなるような静かな道。

Img_3698 説明板

Img_3701 一本松稲荷 【ルート地図】の②

八海山と呼ばれていた築山で、一里塚だったともいうが、定かではない。左の赤い鳥居が一本松稲荷。

Img_3703 説明板

Img_3713 二十二夜観音堂(境小学校の前)

Img_3714 嵯珂比(さかい)神社

Img_3716 由緒

Img_3718 境宿の説明板

嵯珂比神社の境内に立っている。

Img_3719 枡形の名残か。

Img_3720 長光寺

伊勢崎佐波観音霊場の第32番

Img_3721 説明板

Img_3728 愛染院鐘楼門

Img_3726 説明板

Img_3725 二十二夜塔道標

台座に「右本庄 秩父道」、「左中瀬 江戸道」とあるそうだ。

Img_3724 説明板

Img_3731 境宿の織間本陣跡碑(アバンセ駐車場前)

寛文2年(1662)に伊勢崎藩士鶴田弥太夫の家を当地に移築した。

寛政3年(1791)江戸から信州に向う途中の小林一茶が織間本陣の主人で俳人の専車を訪れたが不在で、「時鳥(ほととぎす)我が身ばかりに降る雨か」の一句を残して立ち去ったという。

Img_3732 後ろの説明板は文字が消えかかって読みづらい。

Img_3735 織間本陣の以前の飯島本陣は今は飯島歯科になっていて説明板や標示はない。

Img_3740 板倉薬局

Img_3745 水戸屋菓子店

左下に「かりやど」の石柱が立つ。「かりやど」は仮宿で、境宿は幕末近くの文久3年(1863)に正式な宿場となるまでは、柴宿と木崎宿の間(あい)の宿だったことを意味しているようだ。

旧道はこの路地を右に入る。

 

Img_3748 東町の廻国供養塔道標

ここが例幣使街道、世良田道(館林方面)、江戸道(深谷方面)との交差点だった。

Img_3749 説明柱

Img_3752 境稲荷神社 《地図

Img_3753 説明板

Img_3754 境内の芭蕉句碑

Img_3759 女塚薬師道しるべ 《地図

例幣使街道沿い→法楽寺→現在地と移動しているが、天明8年(1788)の物とは思えないほどきれいで新そうに見える。「右薬師湯泉道」・「左太田 日光」と刻まれている。

Img_3760 説明板

文中の「右薬師湯泉道」の、源頼朝も入湯したという「女塚薬師鉱泉」の一つの「旅館東荘」の廃屋が、ここから500mほど南東に残っているそうだ(2004年9月の話だから今はないかも)。少なくとも昭和30年代までは営業していたらしい。一晩で手拭が真っ黄色になるほどの成分を持つ鉱泉で、胃腸病、痔疾、神経痛、リュウマチス、眼病等に特効があったそうだ。

Img_3763 法楽寺 《地図

すぐ先で東武伊勢崎線を渡る。

Img_3765 庚申塔

Img_3767 子育地蔵尊(三ツ木橋手前)

左は享保10年(1725)の庚申塔

Img_3770 三ツ木橋から早川

対岸のゴルフ練習場では球を熱心に打っている。何が面白いのか、さっぱり分からん。向うもこっちを見れば同じことを言うだろう。

Img_3781 矢抜神社 《地図

新田氏ゆかりの神社のようだがよく分からず。

Img_3788 来迎寺

明治元年の火災による焼失を免れた鎌倉時代末期の仏頭が保存されているという。右は糸ひばの木

Img_3794 三本辻地蔵 【ルート地図】の③

Img_3792 説明板

Img_3791 左が辻地蔵

Img_3795 医王寺

大枝が切り取られたイチョウは葉も落ちて寒々しい。昔は境内は樹木が鬱蒼として、こうもりが飛び交っていたという。

Img_3796 説明板

Img_3798 「日本誉」蔵元山崎酒造

Img_3799 「木崎宿」の新しい石柱

Img_3804 問屋場跡(さいとう接骨院)、手前の空き地が茂木本陣跡地。

Img_3806 貴先神社

大穴牟遅(おおあなむち)命の后(きさき)、須勢理比売(すせりひめ)命を祀り、その后から社名が生まれたという。后→木崎(貴先)

Img_3810 長命寺

Img_3811 色地蔵堂 【ルート地図】の④

もとは子育地蔵だったが、木崎宿の飯盛女の信仰が篤く、色地蔵と呼ばれるようになった。

Img_3815 説明板

Img_3814 色地蔵さん

ニコニコとはいかないまでも、男がすき間からのぞいているので嬉しそうな顔をしている?

Img_3822 広々とした殺風景な旧道を行く。

Img_3832 常楽寺

Img_3838「群馬泉」の島岡酒造 《地図

Img_3842 旧家(島岡酒造の前)

Img_3846 旧家

Img_3847 威光寺

新田義興の墓という篋印塔はどれか分からず。

Img_3848_2説明板

「太平記の里」と書かれ周辺の案内図も載っている。

Img_3859永盛橋を渡った右に「旧日光例幣使街道」の石碑。このあたりに太田宿の木戸があったそうだ。《地図

Img_3867 春日神社

Img_3870高山神社  《地図

祭神は「寛政の三奇人」の一人、高山彦九郎。(奇人とは「優れた人物」という意味で、奇妙な変人ではない。あとの二人は林子平と蒲生君平)

境内は広く高山公園になっている。社殿は石段を180段ばかり上った小高い所にある。

Img_3872 本陣跡碑 【ルート地図】の⑤

本陣の建物は昭和58年に全焼したそうだ。

Img_3873元旦の実業団のニューイヤー駅伝はここを通るのだ。学生も実業団も駅伝ばかりに力を入れるから日本の長距離界(特に男子)は世界から遠くに離されてしまった。

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コメント

 こんにちわ。街道がなぜわざわざ西へ迂回するのか不思議に思っていました。貴ブログで広瀬川の蛇行のためと知り、なるほど納得です。蛇行→迂回→「右赤城」とは自然のなせる技の妙でしょうか。

            坂道散歩

投稿: 「トクチャン」様へ | 2011年8月17日 (水) 08:48

こんにちは。

トクチャンと申します。例幣使街道の記事を読ませていただきました。
その中で、私が育った集落の記事が出ていたので書かせていただきました。
例幣使街道の芝宿から境宿の間にある名所「右赤城」のあろ部落で育ちました。現在東京に住んでいます。さて、右赤城のところで何故街道が西に進路を変えたかというと、広瀬川が大きく蛇行して下蓮町の北側ギリギリまで流れていたため、川に沿って街道が西に折れ曲がったというわけです。
拙いブログですが、私の「トクチャンのブログ」(8/14/トクチャンが子供のころ住んでたふるさと)で書いておりますので、検索してみてください。トクチャンのブログで直ぐに出てまいると思います。
いつも楽しみに読ませていただいてます。

投稿: トクチャン | 2011年8月16日 (火) 23:12

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