日光西街道(壬生通)④(板橋宿→今市宿→)・日光街道(鉢石宿→日光東照宮)
2010年1月22日
宇都宮駅(JR日光線)→下野大沢駅・・・日光西街道(国道121号)・長坂・・・地震坂・・・十石坂・・・室瀬一里塚跡・・・追分地蔵・日光街道・・・今市宿(蔵助地蔵・報徳二宮神社・浄泉寺・瀧尾神社)・・・杉並木公園・・・高龗(たかお)神社・・瀬川一里塚跡・・・大日如来堂・・・生岡神社参道・・・砲弾打込杉・・・戊辰戦争隊士の墓・・・並木太郎・・・銀杏杉・・・明治天皇七里小休止所跡・・・麻疹地蔵・筋違橋(志度淵川)・・・異人石・・・(JR日光線)・・・東武日光駅・・・稲荷神社・西行戻し石・・・龍蔵寺・・・鉢石宿・鉢石・観音寺・・・日光橋(大谷川)・・・日光東照宮・二荒山神社・・・東武日光駅
昨日とはうって変わって、冷えたビールのようにきーんとくる寒い朝だ。手袋をしていても指の先の感じがなくなってくる。これが今時の本来の寒さなのだろう。杉並木の間の国道121号を行く。けっこうカーブもあり、通勤時間帯のせいか車も多くて歩きにくく、並木の外の踏み跡を通ったりしながら進む。木の根、折れた枝、落葉を踏みながらの歩きはいい運動で体はポカポカになる。見覚えある追分地蔵の交差点へ出て一休み。まだ時間はたっぷりある。途中で、資料メモを落としてしまいちょっと困ったが、昼過ぎには日光東照宮へ着いた。帰りは特急スペーシアだから早い。次ぎはどこを歩こうかと考えているうちにうとうと。すぐに春日部駅に着いてしまった。
【ルート地図】(追分まで)
【ル-ト地図】(日光街道)(追分→日光東照宮)写真をクリックすると拡大します。
緩やかに上って地震坂、十石坂へと続く。ちょうど通勤時間帯のせいか車が多く、のんびりと歩いてはいられず、左上の踏み跡を歩いたりする。
もとは街道は右の土手にあったが、地震による地すべりで杉並木とともに西の方へ移動してしまった。たしかに杉並木が乱れている。別名を「地すべり坂」
左側(東側)の土手が高く、ずいぶんせり出している。
昔はもっと急坂で、日光東照宮造営の際に、大石鳥居を奉納する黒田長政一行がこの急坂で難儀し、人夫たちに食べさせた米が十石にもなったという。
壬生通り最後の一里塚跡
ここで右から来る日光街道と合流する。分岐に追分地蔵堂がある。
右が日光西街道
地蔵というより大仏のようにでかい。
蔵助地蔵(玄樹院参道入口) 《地図》
弘治3年(1557)に大工の蔵助が造立したもので、今市に残る最古の地蔵菩薩像というが、座像で首も欠けているせいか地蔵のようには見えないが。
薪を背負いながら本を読む二宮の金ちゃんには親しみを感じるが、神様にまで祭り上げられてしまうと、もうこちとらとは縁のない雲上人だ。
玄関前にふくろうの石像が2つ。
本堂は焼失したようだ。慶安4年(1651)、日光山に向かう家光の棺がここで小休止したという。
油揚げでなく、そばが好物なお狐さんとは珍しいね。さっき昼飯に入った居酒屋風の店では、外人さんがうどんを茹でていた。それは別に珍しくはないか。
利子を活用した稲荷維持のための永久計画というが、明治維新で立ち消えになってよかったのでは。永久の計画なんてありえない。ましてお金が絡んではなおさらだ。
【ル-ト地図】(日光街道)の41
今市宿の西の入口で、木戸があった。
高龗(たかお)神社 《地図》
神護景雲元年(767)創建と伝う古社。祭神の高龗神(たかおかみ)は雨水を司る竜神。
日光街道最後の一里塚
【ル-ト地図】の42
小倉村の名主家を解体移築。
今市では杉線香の生産が盛んでその動力として、また米つき、粉引きにも水車が利用されていたそうだ。
今はそばが食べられる。
ここも「今市宿地蔵めぐり」の一つ。
【ル-ト地図】の43
砲弾痕の写真は木の間違った部分を撮ってしまって失敗。←いい年こいて絵文字なんか入れるなよ。
今は薬師堂だけが残る。堂の前の木の下に石の梵鐘が置かれたままというが見逃した。
標柱の左下が旧幕府軍の大草保助、右が広田銊太郎の墓。
生岡(いきおか)神社参道(跡) 《地図》
右に「生岡神社」の石柱。左手前に「生岡大日道」の石柱。弘法大師が草庵を結び、大日如来を祀ったという。「上野(うわの)の子供強飯式が神事として伝わる。
神社と弘法大師の取り合わせは愉快だ。昔の神仏混交の当たり前の姿だろう。今は参道の間をJR日光線が通っていて、ちょうど電車が通過して行く。
線路のガードレールの切れ目から線路を渡ると参道らしき階段が上っているが、ここから遥拝で済ます。今の参拝ルートは日光街道を西に進み、迂回して車道を神社まで行くのだろう。
それほどずば抜けて高いとも見えない。説明板がなければ気づかないだろう。
【ル-ト地図】の44
根が広がり張っているのだ。根の病気ではないようだ。
麻疹(はしか)地蔵 《地図》
筋違橋の左手前下。はしかにかかった時は橋の下をくぐれば治るという俗信。橋下→はしか
この俗信はつい最近に出会ったばかりだが、どこだったか忘れた。ぼけ封じ地蔵にでも参らねば。
明治の頃、この石に腰掛けて異人さんが杉並木を鑑賞していたという。
境内の左側に「西行戻し石」がある。
【ル-ト地図】の45
左の木の前の石は西行の歌碑。「くろ(黒)髪山」=男体山=二荒山
秩父の古道沿いに「西行戻しの坂」がある。登場するのは少年でなく、娘だが話も歌もよく似ている。「秩父巡礼道-1」
奥州街道の白河宿には「宗祇戻し(の橋)」があり、逸話も大同小異だ。「白河市の坂」
下野坂東観音三十三ヵ所第33番。結願寺ということだ。
鉢石 《地図》
日光開山以来、旅人の道標となった「鉢を伏せたような石」で、ここの地名の由来にもなった。
本陣は2軒で、入江家は、「御宮御菓子屋、本陣兼帯」といわれ日光御用達の菓子屋だった。今は「そば処 今要」。 もう1軒は高野家で、ゆば屋「さんフィールド」の駐車場の裏というが、資料メモを落としてしまい両方とも未確認。
創業は享保8年(1723)
まんじゅう店
ようかんの店
一番上の写真は門前から参道。
日本語の説明板は見当たらず。
神橋の手前
国の有形登録文化財のようだ。
【ル-ト地図】の46
渡るのには料金がかかる。
三神庫
「見ざる 言わざる 聞かざる」の三猿
二荒山神社楼門
日光山開山の勝道上人を助けた毘沙門天の化身の深沙大王を祀る。
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