東海道(由比宿→興津宿→江尻宿→府中宿)
2010年2月8日
由比駅(東海道線)・・・宗像神社①・・・東海道あかりの博物館・・・小池邸・・・八阪神社・・・鞍佐里神社・・・西倉沢の一里塚跡(40)・・・薩埵(さった)峠・中道・・・瑞泉寺・・・川越遺跡・・浦安橋(興津川)・・・宗像神社②・・・身延山道標・鬚の題目碑・・・興津の一里塚跡(41)・・・興津宿(17)・東本陣跡・脇本陣水口屋跡・西本陣跡・茨原神社・不動の滝・清見関跡・清見寺・・・高山樗牛寓居跡・・・興津坐漁荘・・・波多打川・・・(東海道線)・・・延命地蔵堂・・・庵川橋・・・細井の松原跡・(辻の一里塚跡(42))・・・小芝八幡宮・江尻城址・・・稚児橋(巴川)・・・江尻宿(18)・法岸寺・慈雲寺・木戸跡・追分羊羹屋・追分「志三づ道」道標・・都田吉兵衛供養塔・・・金谷橋(大沢川)・・・(東海道線)・・・久能寺道標・有東坂・・・上原延命子安地蔵堂・・・上原十七宮跡・千手寺・・・草薙の一里塚跡(43)・・・草薙神社大鳥居・・・(東名高速)・・・旧東海道記念碑・・・北村地下道・(東海道線)・・・兎餅跡地・・・(静鉄清水線)・・・菩提樹院(由井正雪の首塚)・・・長沼の一里塚跡(44)・・・護国神社・・・・・・伝馬町・華陽院(家康の祖母の墓)・府中宿(19)・上伝馬本陣跡・脇本陣跡・西郷隆盛・山岡鉄舟会見地の碑・城代橋・駿府城址(駿府公園)・二之丸橋・七間町・札の辻跡・・・静岡駅
【ルート地図】
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宗像神社①から駿河湾、伊豆半島 《地図》
7時を過ぎたばかりでけっこう寒い。
由比宿より昔の街道風情のある家並みが残っている。
もとは名主の館、今は休憩所になっている。まだ早過ぎて開いていない。
【ル-ト地図】の80間の道も緩やかな起伏とくねりを繰り返し古道の風情がある。
社殿からの眺めはそれほどでもなかったが、身体が暖まった。
鞍佐里神社 《地図》
日本武尊(ヤマトタケル)が東征の折に、賊の焼打ちの野火にあった時の伝承に由来する神社。
所々には木の橋が架けられていて、往時の街道情緒を出している。
由比側からの上りは緩やかだ。
昔の街道は崖下の海岸沿いの「親知らず子知らず」を通っていた。
万葉集に歌われ、足利尊氏と直義の合戦場で、広重の浮世絵にも描かれた「親知らず子知らず」の難所。
『広重の浮世絵』
薩埵山(峠)の由来は下の海岸から地蔵薩埵の像が漁夫の網に掛ったことからという。この地蔵は上道の地蔵堂に安置されているそうだ。
「薩埵」とは、密教で「衆生」という意で、大日如来の悟りを衆生に伝えるために使わされた地蔵ということか。普通の地蔵菩薩像とは違っているのか? 「菩薩」は「菩提薩埵」の略だそうだ。なんだかよく分からん。峠に上ったより疲れるなあ。
武田と今川もここで戦った。
上道、中道、下道について記載されている。
山部赤人の「田子の浦・・・・」の歌はこのあたりの海岸からの情景としている。と書かれている。今の「田子の浦」は吉原駅(富士市)の南方の浜をいうのだが。
蜀山人の狂歌にも「山の神 さった峠の風景は 三下り半に かきもつくさじ」と歌われた。
海岸に近い下道の方が距離はないが、今は中道を行くのが普通のルートのようだ。江戸の後期には上道が本道だったが今は廃道か。海岸に近い「親知らず子知らず」の難所を避けるために、朝鮮人使節が来朝の明暦元年(1655)に中道が、上道も天和2年(1682)の朝鮮人使節来朝の時に開かれた。
なんと歩道が分離していない。昔の川越しの方がましか。
神社の森は沖の舟から灯台代わりにされ、「女体の森」と呼ばれていた。興津宮を勧請したことから「興津」の地名の由来ともなった。
身延山道標と「鬚(ひげ)の題目碑」 《地図》
駿河と甲斐を結ぶ重要な交易路で、駿河侵攻を目論む武田信玄の軍用路として整備された。江戸時代になり、日蓮宗の総本山身延山への参詣道として使われるようになった。
興津の一里塚跡(41) 《地図》
右の石柱
北側に伝場所・東本陣市川家・脇本陣・西本陣手塚家
南側に脇本陣水口家・脇本陣身延家などが並ぶ。
商家(洋品店)
今は鈴与研修センター
石柱の立つ空き地
不動の滝 《地図》
水はわずかに垂れているというところか。普段もこんな状態らしい。この上に波切不動がある。
白鳳年間(672~85)に設置され、永禄年間(1558~69)に廃された清見関跡碑
代官領と清見寺領の傍示杭石(右下)
家康手植えの臥竜梅だが咲いていない。
高山樗牛の「清見寺鐘声」文碑
「東海名区」の扁額は朝鮮人の錦谷居士の筆。
清見寺の鐘の音を聞いた、三清館?跡。
坐漁(ざぎょ)荘 《地図》
西園寺公望の別荘。月曜は休館。
昭和の初期には多くの政治化がここを訪れ、「西園寺詣」と呼ばれた。
地蔵さんは見えず。
「袖師ふるさとの路」の⑩ 説明があればいいのに。
「袖師ふるさとの路」の⑥
辻町交差点に細井の松原碑。このあたりが「辻の一里塚跡(42)」で民家の庭に説明板があるらしいが見逃した。
細井の松原碑と街道で倒れた「無縁さんの碑」 【ルート地図】の82
戦時中に松根油の原料として松原は伐採された。この時に大量の人骨が埋葬されているのが発見されたという。戦闘機を松の油で飛ばそうとしたようでは、アメリカに勝てるはずはない。他の松並木も大量に伐採され消滅してしまっている。
小芝八幡宮 《地図》
江尻城の鎮守で江尻宿の産土神。
江尻城跡(八幡宮一帯)
武田信玄が徳川家康に対抗するために築いた城。
稚児橋 《地図》
橋の渡り初めの時に河童のような童子が現れたという。
橋の袂に河童の腰掛石があるようだ。
浄瑠璃「朝顔日記」のモデルとなった女性の墓がある。
宿場の面影は薄い。
「是より志三づ道」
浪曲でおなじみの森の石松、都鳥、清水次郎長の話。
やけにセンチな文だ。たかがヤクザの出入りなのに。
追分と金谷橋の説明板 《地図》
清水港への「志三づ道」との追分
久能寺道標と有東坂 《地図》
「久能寺観音道」の道標が立つ。久能寺は明治時代に廃寺となり、現在は鉄舟寺になっている。
安永7年(1778)の建立
東海道から南東方向に上る久能寺観音道。
各地にある「うとう坂」の一つ。さまざまな字を当てている。善知鳥坂・烏頭坂・鵜頭坂・宇都布坂・有藤坂、有度坂など。歌坂、唄坂、謡坂、音坂、お(御)塔坂、宇土坂なども「うとう」の転訛ともいう。『うとう坂表』
このすぐ先には有度小学校がある。
上原延命地蔵堂 《地図》
家康が武田の宿将の穴山梅雪と会見したところ。梅雪は家康に降り、武田氏滅亡のきっかけになったという。
宮跡はなくこの石柱のみだが、そばの「十七夜山保育園」にその名をとどめている。
十七夜宮はこの裏手にあったのか?
草薙神社の大鳥居
旧東海道記念碑 《地図》
車も通り、中は薄暗くてカーブしているのでちょっと怖い。後ろから大きな警笛を鳴らされてびっくり、頭にきた。運転する方も歩行者、対向車にピリピリと神経を使うから大変だろう。毎日ここを通る人、車はつらいと思うよ。
追分羊羹、安倍川餅と並び駿河の三大名物の一つで、蜀山人も「耳長う 聞き伝へきし 兎餅 月もよいからあがれ名物」と詠んだ。
今は静岡伊勢丹(札の辻の所)、松木屋で売られているとか。未確認。
油井正雪首塚(菩提樹院) 《地図》
さらし首になっていた安倍川そばの弥勒公園には正雪の墓跡碑がある。
寺の由緒、由来というより由比(油井)正雪の首塚の説明。
三脚を据えて熱心に写真を撮っている人がいた。正雪ファンなのか?
表面の穴は釈迦の骨を納める舎利孔を改造したもので、駿河城の手水鉢として使われていたという。
長沼の一里塚跡碑(44) 《地図》
ここまでかなりの距離を歩いて来て、甘い物が飲みたくなった。いくつかの自動販売機で「午後の紅茶」を探したが見当たらず。(午後の)ココアであきらめた。コカコーラの宣伝電車も走っているが、この電車よりは地味だ。
府中宿上伝馬本陣望月家・脇本陣松崎家跡 《地図》
「眼鏡市場」(トップセンタービル)の前の静岡の目抜き通りで古い家などは残っていない。街道の斜向いが下伝馬本陣跡。
駿府城巽櫓
まだ始まったばかりで、手つかずといった状況か。石垣を積む時には堀の水を抜くのだろう。作業を一緒に眺めていた地元の人の話では工事費に7億円もかかるとか。静岡市の負担とも言っていたが真偽のほどは分からず。
呉服町通りと七間町通りの交差点の伊勢丹前
府中の特産品(漆器・竹細工・家具・蒔絵・下駄・雛人形など)を売る店が並んでいたというが、そんな店は1軒もないようだ。
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