東海道(藤沢宿→平塚宿→大磯宿)
2010年1月31日
藤沢駅(東海道線)・・・白旗交差点・県道43号・・・(小田急江ノ島線)・・・藤沢宿上方見附跡・・・引地橋(引地川)・・・養命寺・県道44号・・・四ツ谷交差点・四谷不動(大山道標)・国道1号・・・四ツ谷の一里塚跡⑬・・・二ツ家稲荷・・・(茅ヶ崎市)・・・明治天皇小休止所跡・・・上正寺・・・牡丹餅立場(茶屋)跡・・・海前寺・・・八王子神社・・・(相模線)・・・茅ヶ崎の一里塚跡⑭・・・円蔵寺・・・十間坂・・・左富士(鳥井戸橋・千川)・・・鶴嶺神社参道・弁慶塚・女護ケ石・鶴嶺神社・・・神明神社・・・旧相模川橋脚・下町屋橋(小出川)・・・信隆寺・・・(平塚市)・・・馬入橋(相模(馬入)川)・・・馬入の一里塚跡⑮・・・神明社跡・・・馬入交差点・旧道・・・平塚八幡宮・・・お菊塚・・・平塚宿・江戸方見附跡・脇本陣跡・高札場跡・東組問屋場跡・本陣跡・西組問屋場跡・中原街道合流地点・要法寺・平塚の塚・鏡山お初の墓・春日神社・上方見附跡・国道1号・・・花水橋(花水川)・(大磯町)・・・善福寺・・・慶覚院・高来(たかく)神社・・・虚空蔵尊・・旧道・化粧(けわい)坂・化粧井戸・化粧坂の一里塚跡⑯・・・(東海道線)・・・大磯宿・江戸方見附跡・国道1号・日枝神社・神明神社・秋葉神社・延台寺(虎御石)・北組問屋場跡・小島本陣跡・地福寺(島崎藤村の墓)・尾上本陣跡・南組問屋場跡・高札場跡・鴫立庵・島崎藤村邸・上方見附跡・・・滄浪閣(伊藤博文旧邸)・・・八坂神社・・・切通橋(血洗川)・旧道・・・大磯城山公園・・・本郷橋(不動川)・・・国府本郷の一里塚跡⑰・・・国道1号・・・宝積院・(東海道線)・・・六所神社・・・(二宮町)・・・塩海(しおみ)橋(葛川)・・・二宮駅(東海道線)→平塚駅
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
「見附跡」の標柱のみで、藤沢市は東海道(を歩く者)に素っ気ない。
国の重文の薬師如来像を安置。
路傍にひっそり小さな地蔵さん。
大山道への鳥居が立つ。堂の左外の石柱は万治4年(1661)に建てられた古い道標を再建したもの。東海道と大山街道(田村道)の交差する辻で茶屋が立ち並び賑わっていたという。
延宝4年(1676)の建立
日本橋から13番目
二軒の立場茶屋があったという。境内は節分の準備で忙しい。
二ツ谷?
松並木はやっぱり気分がいいが、歩道を自転車が通るのがちとやっかいだ。
もとは上野の寛永寺にあったもの。どういう経緯でここに移されたのか?
牡丹餅立場(茶屋)跡(菱沼歩道橋の手前) 【ルート地図】の35
ぼたもちちゃ屋、一里塚(茅ヶ崎)、十ケ坂(十間坂)、鶴嶺八幡などが見える。
門前の石灯籠は二代将軍秀忠の菩提供養のため久留米城主が奉献したもの。境内の本堂前にも九代将軍家重に大名から奉献された2基の石灯籠がある。さっきの上正寺といい、将軍に奉献された石灯籠が多いのは何故なのか?
茅ヶ崎一里塚跡 《地図》
日本橋から14番目の一里塚
藤沢市と違いきちんとした説明碑だ。
今は傾斜はほとんどなく、回りの見晴らしもきかないが、昔は富士、大山、箱根、江ノ島、鎌倉、六浦、金沢などが見えて、「十景坂」ともいわれた。
左富士(鳥井戸橋)からの眺めだが晴れてはいるが富士は見えずがっかり。《地図》
京へ向う東海道で、左側に富士山が見えるのはこの先の吉原宿付近にある。それを楽しみとするか。ちなみに中山道の志村の清水坂は右富士で有名だったが、今は富士は晴れていても見えない。
鶴嶺神社参道を入った右側の民家の敷地内。義経塚はなぜ造らなかったのか?
左の凹みのある石。右が朝恵上人墓碑と顕彰碑
右は源義家が前九年の役の戦勝祈願に手植えたと伝う大イチョウ。幹の回りから何本もの乳柱が垂れ下がっている「たらちね銀杏」だ。
旧相模川橋脚 《地図》
源頼朝はこの橋の渡り初めの帰途に落馬して、その後まもなく死んだという。馬も川へ落ちて死んだので馬入川という。
ここは当時は水田で、鎌倉時代には相模(馬入)川の流路だった。
昔は橋は無く、「馬入の渡し」で渡った。
いい天気なのだが丹沢、富士もやっぱり見えない。
国道1号は右方向にカーブして行くが、旧道は市街地の商店街を直進して行く。分岐点の手前あたりが「馬入の一里塚跡」(日本橋から15番目)で、榎木町は一里塚上にあった榎に由来している。
相模国の八幡宮の総鎮守だった。
ここも節分の準備か。
お菊塚 《地図》
「番町皿屋敷」のお菊さんの墓。各地に残る皿屋敷伝説の一つ。千代田区五番町にはお菊さんゆかりの帯坂があり、姫路では「播州皿屋敷」でお菊神社、姫路城には「お菊井戸」がある。『出雲街道①』に記載。落語の『皿屋敷』
江戸方見附跡 《地図》
明治23年に崇善館を移築して小学校とした。今は崇善館公民館になっている。
本陣跡 《地図》
西組問屋場跡 《地図》
ここは中原街道の合流地点
日蓮が泊まった平塚左衛門尉泰知宅に建てられた寺。
平塚の塚 《地図》
塚の上が平らで「平塚」だという、面白くもなんともない地名由来話。人の墓にケチをつけるつもりはありませんが。
鏡山お初(松田たつ)の墓 《地図》
奉公先の女主人の仇を討ったという義女、烈女、猛女の墓。仇討ちをしても赤穂浪士のように咎めを受けて切腹もせず、かえって賞されて年寄になったというから女人は得だ。
上方(京方)見附跡 《地図》
広重の浮世絵はこのあたりからの眺めか。
親鸞上人の旧蹟で、国の重文の木造伝了大師坐像(鎌倉時代)を安置。
開基は曽我十郎と虎御前の間に生まれた祐若で、戦功で平塚の荘を賜ったが無常を感じ出家して、ここに草庵を結んだとか。
高来も背後の高麗山も唐と新羅の連合軍に滅ぼされた高句麗に由来する。王族の一人、若光が渡来し高麗山のふもとに住み、このあたりを開き高麗郡が置かれていた。もとは高麗権現と呼ばれ、高麗寺が別当寺だったが、明治の廃仏毀釈で廃寺となった。今は隣りに慶覚院がある。
化粧坂が描いてある。大磯町の東海道の案内板は絵図入りで分かりやすい。
虎御前の化粧井戸
虎御前は曽我兄弟の仇討ちに登場する白拍子、鎌倉時代の遊女で、兄の曽我十郎祐成(すけなり)の恋人。つまり物語りのヒロイン。この時代の遊女の白拍子は詩歌管弦に長じ、虎御前も舞いの名手で頼朝にも認められたという。鎌倉時代の古東海道の大磯はこのあたりが中心地だったという。
「高来神社との関係」とはどういう意味か?
日本橋から16番目の一里塚
大磯宿江戸方見附跡
東海道線をくぐって下って行く途中。
もとは説明板の下の街道沿いに「虎御石」があった。
虎御前の成長につれて大きくなり、曽我十郎の剣難を救ったという身代り石。虎御石は、いい男だと持ち上がるというので試そうと思って境内をずいぶん探したが見つからずあきらめた。法虎庵に納められているのだ。しっかり説明板を読めば分かったものを。しかし、「あしき男」には持ち上がらないのだから試さずによかったのかも。(普段は公開はしていないようだ。)
安置されている寺宝の最初に「虎御石」
【ル-ト地図】の39延台寺境内には虎御前ゆかりの供養塔などのほかに、大磯宿の遊女の墓もある。
小島本陣跡 《地図》
左端の小さな石柱が島崎藤村の墓
尾上本陣跡 《地図》
大磯宿ゆかりの「虎子まんじゅう」・「西行まんじゅう」
大正4年に立てられたもの。
新島襄終焉の地
百足(むかで)屋旅館で没した。
明治時代の大磯海水浴場の土産で、石そっくりのお菓子。その店の跡がここだとか。
西行の「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」にちなむ草庵。京都の落柿舎、滋賀の無名(むみょう)庵と並ぶ日本三大俳諧道場で、毎月句会が開かれるそうだ。
ここは「湘南」発祥の地でもある。
昭和16年からここを借り、昭和18年に病没するまで住んでいた。墓も小さいが、ここも質素な造りの住まいだ。
【ル-ト地図】の40 【ル-ト地図】の41中華料理店として使用されていたそうだが、それも閉店しているようだが。
旧道はこの先の切通しで右に入り城山公園の方に行く。西長院に血洗川の名の由来となったという「身代り地蔵」(切通地蔵・化け地蔵とも呼ぶ)があるのだが見落とした。血洗川は身代り地蔵にちなむ名というより、太田道灌によって攻められて落城した小磯城の多くの戦死者の流した血による名ではないだろうか?
旧三井財閥の別荘地跡で、その昔は戦国時代の山城の小磯城跡ともいう。
日本橋から17番目の一里塚。古代に国府が置かれていた地域。
大磯町最古の寛永8年(1631)銘の梵鐘と、後ろに最大級の樹齢300年以上というカヤの木。
相模国の総社
「二宮金次郎」ではなく、空襲で父を失った戦争体験を描いた小説「ガラスのうさぎ」記念の少女像と伊達時彰徳碑が立っている。
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