日光街道(日本橋→千住宿)
2010年2月14日
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この先は、『日光街道(千住宿→草加宿)』へ続く。
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
西河岸地蔵寺 《地図》
行基の作と伝う「日限延命地蔵菩薩像」を安置。
三方を高いビルに囲まれて窮屈で、肩身が狭いようだが、しっかりとガードされているとも見えるか。
西河岸橋から日本橋 《地図》
やっぱり高速が邪魔だ。
【ル-ト地図】の①反対側に道路元標(レプリカ)がある。
車はすべて駐車している。
寝袋にくるまって読書をしている人もいる。邪魔をしないように静かに通り抜ける。
承応2年創業(1653)の紙問屋。
江戸城外の宝田村の鎮守だったが、村人は江戸城築城の際に家康から移転を命ぜられこの地に移り住んだ。
日曜は休みの店がほとんど。
関東の幕府直轄領の年貢の徴収、治水、領民紛争の処理などを行った関東郡代の役宅跡。
ビルとコンクリの堤防に挟まれた神田川に浮かぶ屋形船、ゆりかもめ。(浅草橋から)
明治7年に創設された官立の図書館跡。左は繁昌稲荷社で、第六天榊神社は、「下町八福神 」の健康長寿の神。
千貫御輿の鳥越祭り
平将門の首が飛び越していったので「鳥越(=飛び越え)」という地名になり、この社名となった。あるいは、将門の身体はバラバラにされて江戸各地に埋められたが、この鳥越神社には手が埋められているという伝説がある。『日本伝承大図鑑』より葛飾北斎の富嶽百景の「鳥越の不二」にこの天文台が描かれている。
「首尾」のいわれには3説あるようだ。どれもこじつけの感じがして一長一短、帯に短し・・・・だ。今の松は7代目、もとは少し川下の川岸にあったそうだ。
落語『あくび指南』
楫取(かじとり)神社 《地図》
御蔵造営用の石を運ぶ船が遭難しかかった時に現れ、船を安全に導いた(楫取)という稲荷を祀っている。
明治9年の開設。浅草にもこんなに古い教会があったのだ。平成20年に国の登録有形文化財になったばかり。
五代将軍綱吉が京の石清水八幡宮を勧請。江戸城鬼門除けの守護神、将軍家の祈願所。
落語の『阿武松』・『元犬』・『松葉屋瀬川』などに登場する。
落語『蔵前駕篭』
享和元年(1801)創業の老舗
駒形堂 《地図》
浅草寺の観音像が隅田川から現れて最初に法安された地に建つ堂。
ここも由来は、①白駒・②絵馬・③駒形神と3説ある。
若い二人連れを乗せている人力車。今日は日曜でバレンタインデ-、かき入れ時か。
待乳山聖天(まっちやましょうてん)
天狗坂の石段は鍵が掛っている。
猪牙舟(ちょきぶね)を仕立てての吉原通いのコースだった。
源頼義と義家が奥州安倍氏征討の折に、戦勝を祈願して京都の石清水八幡宮を勧請。
「下町八福神」の縁結びの神で、この日は若い女性が多かった。
新撰組の沖田総司の終焉の地(千駄ヶ谷との説もある)で、今戸焼の発祥の地でもある。
車が少ない。日曜はいつもこうなのだろうか?
品川の鈴ケ森と並ぶ江戸の刑場。刑死者供養のために寛保元年(1741)に建立された。江戸から明治までここでの刑死者は20万以上という。
落語『真景累ヶ淵④』昭和38年(1963)に誘拐され殺された吉展ちゃんを供養する地蔵。円通寺にもある。
前の通るが「コツ通り」で、「コツ」の由来は小塚原(こつかっぱら)のコツカから、小塚原刑場あたり一帯から出た人骨から、などの説がある。
コツ通りから離れ西側の国道4号(現日光街道)に出る。
上野戦争の弾痕が無数に残る黒門。明治40年にこの寺に移築された。
後ろが彰義隊士の墓。
千住の河岸(熊野河岸)跡あたりで、新河岸川を下った川越夜船の事実上の終着地だった。
「千住の大はし」
江戸時代から続いた青物市場跡
戊辰戦争に従軍した芸州藩の戦死者の供養塔
千住宿には55軒の旅籠があり、うち36軒に遊女(飯盛女)を置いていたという。落語『藁人形』で西念をだましたのおくまのような、したたかで、ずる賢い女郎は少なく、薄幸薄命な女たちだったのだろう。
川魚料理人が建てたもの。
右の「無縁塔」は天保8年(1837)の大飢饉の餓死者の供養塔。左は千住宿の遊女の供養塔で台石に遊女の戒名が刻まれている。
勝専寺(赤門寺)
徳川将軍の休憩所にもなっていた寺で、「お閻魔さま」でも親しまれている。
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