« 2010年2月 | トップページ | 2010年4月 »

2010年3月31日 (水)

東海道(新居宿→白須賀宿→二川宿→吉田宿)

2010年3月19日

新居町駅(東海道線)・・・新居宿・山頭火句碑・浜名橋・新居関所跡・無人島漂流者顕彰碑・旅籠紀伊国屋・疋田弥五助本陣跡・飯田武兵衛本陣跡・新福寺・疋田八郎兵衛本陣跡・寄馬跡・諏訪神社・池田神社・新居の一里塚跡(69)・棒鼻跡・・・国道1号・・風炉の井跡・教恩寺・・浜名旧街道・・・紅葉寺跡・・・阿仏尼歌碑・・・立場跡・・・東新寺・・・明治天皇御立野所址碑・・・火鎮神社・・・白須賀元町の一里塚跡(70)・高札場跡・・・蔵法寺・・・潮見坂・・・おんやど白須賀・潮見坂公園跡・・・袈裟切り地蔵・・・白須賀宿・曲尺手・本陣跡・脇本陣跡・夏目甕麿邸跡・加納諸平生誕地・神明宮・火防の槙・庚申堂・・・境宿(白須賀加宿)・成林寺・・・笠子神社・・・境橋(境川・遠江と三河)・・・国道1号・・・一里山バス停・・一里山(細谷)の一里塚跡(71)・・・三つ坂・・・源吾坂・・・二川ガード(東海道新幹線)・旧道・・・筋違橋・・・(東海道線)・・・般若坂・・・二川の一里塚跡(72)・二川宿案内所(川口屋)・妙泉寺・十王院・二川八幡神社・東問屋場跡・脇本陣跡・本陣跡・本陣資料館・高札場跡・郷蔵跡・大岩神明宮・立場茶屋跡・・・(二川駅)・・・火打坂・・・松並木跡・・・殿田橋(殿田川)・・・飯村の一里塚跡(73)・国道1号・・・七富士稲荷大明神・・・瓦町不動院・・・吉田宿東惣門跡・・・造立神社・・・談合神社・・・豊橋公園・吉田城址・・・吉田大橋(豊川)・・・吉田宿問屋場跡・・札木町交差点・・本陣跡・・脇本陣跡・・田原街道分岐地点・・松葉公園交差点・・・豊橋駅(東海道線)

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_0642 山頭火句碑(右) 新居駅から新居関所への遊歩道。

「木のまんなかの道がまっすぐ」 昭和14年の遠州路の旅で、浜名街道を詠んだ句。『草木塔』に所載。

Img_0653 新居関所跡 【ルート地図】の①

「新居関所資料館」があるが、9時開館で早過ぎた。

Img_0654 説明板

Img_0657 無人島漂流者顕彰碑

無人島の鳥島に漂着し、なんと21年後に生還。

奇跡の生還 鳥島物語

Img_0658 説明板

Img_0660 旅籠紀伊国屋

紀州藩の御用宿だった。今は資料館になっている。

Img_0662 金松酒店

Img_0663 疋田弥五助本陣跡(疋田医院)

正面が飯田武兵衛本陣跡

Img_0666 飯田本陣

左隣の空き地が疋田八郎兵衛本陣跡

平岩弓枝の『水鳥の関』の主人公お美也の生家のモデル地という。

屋根にはなぜか「浜名湖競艇」への道案内が乗っている。

Img_0672 飯田本陣説明板

Img_0673 疋田八郎兵衛本陣説明板

Img_0670 新福寺

百観音が両側に並ぶ。

Img_0669 説明板

Img_0675 寄馬(所)跡

Img_0676 説明板

Img_0684 池田神社

天正12年(1584)の小牧・長久手の戦で、大垣城主池田恒興を討取った家康の家臣、長田伝八郎が恒興の首塚を築いた所。享保20年(1735)に神社となった。伝八郎は手柄により、永井直勝と名を改め、常陸の笠間藩主、下総の古河藩主となった。

Img_0686新居の一里塚跡(69)

左側の説明板の下に小さな「一里塚」の石柱が立つ。

Img_0685 説明板

Img_0688 西棒鼻跡

新居宿への西の入口の「西木戸」跡

Img_0689 説明板

Img_0692 教恩寺

山門前の「見返りの松」は昭和53年に松喰虫の被害で伐採された。

Img_0694 風炉の井(教恩寺の向い側)

源頼朝が上洛の折に、この井戸水を茶の湯に用いたという伝え。明応の大地震で今切口が出来るまでは舞坂と陸続きで、古代には橋本駅、中世には橋本宿があった。江戸時代には新居宿の加宿の橋本宿となった。

Img_0695 由来

Img_0700 松並木(旧浜名街道) 《地図

山頭火が歩いた頃には両側に松並木が続いていたのだろう。

Img_0701 紅葉寺跡

ここも頼朝と縁がある寺跡。石段上には石仏の祠、歌碑の石柱などある。

Img_0702 説明板

Img_0709 藤原為家・阿佛尼歌碑

「風わたる 濱名の橋の 夕しほに さされてのぼる あまの釣舟」 前大納言為家

「わがためや 浪もたかしの浜ならん 袖の湊の 浪はやすまで」 阿佛尼『十六夜日記』

古東海道は「濱名の橋」を渡っていたのだ。

Img_0707 説明板

Img_0711 立場跡

新居宿と白須賀宿の間の休憩所で加藤家が勤めていた。

Img_0710 説明板

面白い戯れ歌を詠む殿様もいるもんだ。

Img_0721 火鎮(ほずめ)神社 《地図

「火之迦具土神」を祀っても火災に遭うとはこれ如何にか。鎮火は早かったかも。

Img_0722 由緒

Img_0731 白須賀元町の家並み

もとはここが白須賀宿だった。宝永4年(1707)に津波の被害を受け宿場は全滅し、翌年に潮見坂の坂上へと移った。

Img_0737 白須賀元町の一里塚跡(70)・高札場跡

一里塚の説明板ははずされている。邪魔なのだろう。自動車の前の小さな石柱が「一里山旧址」の石柱。

Img_0735 説明板

Img_0739 長屋門の旧家

Img_0740 蔵法(ぞうぼう)寺

本尊の観音像は、宝永4年に白須賀宿に泊まった池田輝政に大津波の襲来を告げたという「潮見観音」で、遠州灘を通る船は帆を下げ、観音の名を念じることとされていたので、「帆下げ観音」とも呼ばれていた。

Img_0741 縁起

Img_0746 潮見坂 【ルート地図】の②

緩やかに上って、途中から急坂になる。

Img_0761 説明板

Img_0763 今でも海は見えるが、昔は富士も見えたのだろうか?

元禄4年(1691)オランダ商館長に随行したドイツ人医師ケンベルの『江戸参府旅行日記』には、「ここより初めて(中略)富士山を仰ぎ得たり」とあるそうだが。

Img_0767 おんやど白須賀 《地図

旅館ではなく、資料館兼休憩所

Img_0775 潮見坂公園跡から遠州灘

徳川家康がここに茶室をつくり、武田勝頼を破り尾張に帰る織田信長をもてなしたという。今は公園は白須賀中学校になっている。

Img_0771 説明板

Img_0782 袈裟切り地蔵への道

案内板などはなく、ここは分かりにくいよ。

Img_0780 袈裟切り地蔵 【ルート地図】の③

残りの六地蔵は無残にも割れて倒れている。

Img_0770 由来話

Img_0787 白須賀宿の家並み

Img_0793 曲尺手(かねんて)

昔は枡形と同じ直角に曲がっていたのだろう。

Img_0792 説明板

Img_0794 大村庄左衛門本陣跡(白須賀美容院前)

伊能忠敬の測量隊も泊まったそうだ。

Img_0795 説明板

Img_0801 脇本陣跡

「桐屋」と称した三浦惣次郎脇本陣だった。

左下に「脇本陣跡」の小石柱が立つ。

Img_0803 夏目甕麿(みかまろ)邸跡(左)

本居宣長門下の国学者。

Img_0805 説明板

Img_0808 火防樹の槙(民家内)

高台に移って津波の被害はなくなったが、西風の火事が多かった。「火除け地」を設け、火に強い槙を植えた。

Img_0809 説明板

Img_0813 庚申堂 《地図

この地方では一番大きな庚申堂で、天保12年(1841)の再築。狛犬の代わりに三猿の狛猿。

Img_0818 境橋

遠江(静岡県)と三河(愛知県)の境

Img_0827 一里山(細谷)の一里塚跡(71)

国道1号の一里山交差点の先の右側。

Img_0823 説明板

Img_0833 三ツ坂(坂下方向) 《地図

国道1号の三ツ坂交差点を北西に下る坂。

Img_0838 源吾坂

三ツ坂から続いて下る坂。源吾坂バス停がある。

二川村を開いた後藤源吾の名をつけた坂。二川宿はもとはこのあたりにあった。

Img_0868 二川新町開山の碑(二川宿の十王院境内)

「一翁善徳」は源吾の戒名

Img_0867 説明板

Img_0858 般若坂 北方向に上る坂。(東海道の坂ではない)《地図

東町から大脇へ行く途中の坂。かつては急坂で、坂を上る顔が般若のような形相になったことから名づけられたという。

Img_0852 二川の一里塚跡(72) 《地図

二川宿案内所(川口屋)の右前に「一里塚跡」の石柱。

Img_0863 妙泉寺

「ほうろく灸」でも有名な寺。

Img_0864 説明板

Img_0866 紫陽花塚

寛政10年(1798)建立の芭蕉句碑

Img_0865 説明板

Img_0872 二川八幡宮

Img_0871 説明板

Img_0878_2 駒屋(左)は文化11年(1814)建築の現存する豊橋市内最古の商家

東駒屋(右)は醤油・味噌の店だが、廃業しているようだ。

Img_0881 枡形の跡だろう。

Img_0887 脇本陣松坂家跡

Img_0888 説明板

Img_0889 本陣馬場家跡

本陣は後藤家→紅林家→馬場家へと移っている。

Img_0856 大正7年には今にも倒れそうなみじめな状態だったが、上のように立派になった。豊橋市は随分と金をかけたことだろう。

この頃は味噌・醤油の醸造業をしていたようだ。

Img_0892 説明板

Img_0896二川宿本陣資料館(本陣の後ろにある) 《地図

有料一般400円

Img_0902 本陣内では雛人形の展示会で、中年のご婦人たちで賑やか。すごすご退散。

Img_0906 旅籠「清明屋」

本陣に隣接して、文化14年(1817)に建てられた。

ここから奥に、主屋・繋ぎの間・奥座敷と続いている。

Img_0894 西駒屋

明治末創業の手作り味噌・醤油の製造販売。「味噌溜」の看板が掛かっている。外からだと営業しているようには見えないが。

Img_0911 高札場跡石柱・二川町道路元標(右下)

中原屋はお菓子の老舗

Img_0921 大岩神明宮

Img_0924 由緒

Img_0932 火打坂 【ルート地図】の④

岩屋山から採石された火打石による坂名。吉田宿には火打石から火花を移し取る「火口(ほくち)」を売る「火口屋嘉右衛門」もあったそうだ。

坂上から岩屋観音像が見えるというのだが、見えなかった。近所のおばあさんに聞いても見えないという答え。

Img_0944 クロマツ跡(バス停岩屋緑地北の先)

ここは松並木だった。

Img_0945 一本残っていたクロマツも松くい虫の被害にあい、平成19年2月28日に伐採された。

Img_0940 昭和33年頃の様子

変われば変わるものだ。

Img_0955 飯村の一里塚跡(73) 《地図

殿田橋を渡り、国道1号との合流点。分かりにくい所にあり、かなり先まで行って引き返す。

Img_0960 寿泉禅寺

山門も三重塔も平成になってからの築造。

Img_0964 瓦町不動院

山門に「吉田藩主の祈願所」

Img_0963 由来記

Img_0968 吉田宿東惣門跡 《地図

古くはこの地は今橋といったが、「忌まわしい」に通ずるとし、「吉」の吉田にしたという。

Img_0969 説明板

Img_0973 談合神社

境内の談合集会所で業者の”談合”が行われる?ここは談合町で、談合橋もある。

Img_0988 吉田城址 【ルート地図】の⑤

正面奥は鉄櫓(くろがねやぐら)

Img_0983 説明板

Img_0990 吉田城址の下を大きく蛇行する豊川。

潮流の関係で上流へと逆流しているようだ。

Img_1002 吉田宿問屋場跡 《地図

札木交差点のNTTの前

Img_1003 市電の札木停留所

札木町には65軒もの旅籠が集まり、飯盛女の多い宿でも有名で、「吉田通れば二階から招くしかも鹿の子の振り袖が」と歌われた。

Img_1005 本陣清須屋・江戸屋跡 《地図

現在は鰻の「丸よ」

Img_1006 説明板

Img_1008 脇本陣跡

鈴木庄七郎の「枡屋」跡

Img_1011 「菜飯田楽」の「きく宗」  《地図

一つ手前の交差点で田原街道が南に分岐する。芭蕉が愛弟子の杜国を訪ねて歩いた道でもある。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2010年3月28日 (日)

東海道(浜松宿→舞坂宿→新居宿)

2010年3月18日

浜松駅・・・伝馬町交差点・・・若宮小路・若宮八幡宮・・・松尾神社・・・成子坂・浜松宿西番所跡・・・(東海道線)・(東海道新幹線)・・・八丁畷・・・鎧橋・・・若林の一里塚跡(66)・・・二つ御堂・高札場跡・馬頭観音堂・・八幡神社・・・可美小学校跡・・・熊野神社・高札場跡・・・みたらし池跡・諏訪神社・・・熊野神社・高札場跡・・・浜松藩領界石・堀江領界石跡・・・地蔵院・・・麦飯長者跡・・・神明宮・・・篠原の一里塚跡(67)・・・高札場跡・・・長里橋・・・愛宕神社・・・稲荷神社・・・東光寺・・・引佐山大悲院観音堂跡・・・東本徳寺・・・西本徳寺・・・春日神社・・・舞坂松並木・舞坂橋跡・・・浪小僧・・(国道1号)・・稲荷山神社・・・舞坂宿見付跡・舞坂の一里塚跡(68)・新町常夜灯・仲町常夜灯・宝珠院・岐佐神社・本陣跡・脇本陣茗荷屋跡・西町常夜灯・本雁木跡・北雁木跡・那須田又七顕彰碑・・・弁天橋(浜名湖)・弁天海浜公園・弁天神社・・・中浜名橋・西浜名橋(浜名湖)・・・東門橋・・・ホルト通り・大元屋敷跡・・・中屋敷跡・・・関門橋・・・新居町駅(東海道線)

 名古屋では桜が開花したそうだが、すっきりしない天気が続き気温も低めだ。今回は浜松宿から桑名宿までの行程。宮宿から桑名宿へ渡る東”海道”の「七里の渡し」は今はなく、北回りの脇往還の佐屋街道を行き、「三里の渡し」跡、「ふたつやの渡し」跡から現東海道の尾張大橋、伊勢大橋と渡り、桑名宿まで歩きを続かせよう。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_0439 松尾神社 《地図

和銅年間の創建で、もとは浜松神社といい、浜松城主の祈願所だった。天満宮と伏見稲荷社が境内にある。

Img_0440 由緒

Img_0442 成子坂 成子交差点(西番所跡)から西方向へ緩やかに下る坂。【ルート地図】の①

坂名には「2つの由来話」がある。①坂上にあった地蔵堂に赤子が捨てられ泣いていた。「啼子坂」→「鳴子坂」→「成子坂」になった。 ②舞坂の漁師が天秤棒の片方に地蔵を乗せて家に帰ったところ、夜になって地蔵が「元の所の帰してくれ」と泣いたので、「泣き子地蔵」と呼び、成子地蔵になった。

Img_0446 坂下の子育地蔵堂

この中に「泣き子(成子)地蔵」はあるのだろうか? 中央がここの本尊の「首なし地蔵」らしい。首はあるように見えるが、後でつけ足したものなのか。地蔵のほかに巡礼供養塔もある。

説明板には、「長年子供に恵まれなかった町民が、願をかけたところ子供が授かったといわれる地蔵尊です。戦前は、今はない地蔵堂に集まり7月24日に地蔵盆を盛大に催していました。」と書かれているそうだが文字が薄くなって読めず。

Img_0454 鎧橋 《地図

戦死者を葬ったという千塚(血塚)は東海道線の南側に「血塚の森」として残る。

Img_0453 由来

Img_0457 若林の一里塚跡(66)

「イゲタヤ酒店」の向かい側。

Img_0458 説明板

Img_0473 二つ御堂(北側)【ルート地図】の②

藤原秀衡の愛妾が秀衡が死んだと聞いて建てた阿弥陀堂。愛妾は失意のあまりに没したという。秀衡が死んだというのは誤報だった。

このあたりに高札場があり、左奥は八幡神社。

Img_0468 阿弥陀如来像

Img_0467 説明板

Img_0470 二つ御堂(南側)

藤原秀衡が愛妾の菩提を弔うために建てた薬師堂

Img_0475 薬師瑠璃光如来像

Img_0480 諏訪神社

手前に「みたらしの池」の木柱が立っている。「御手洗の池」だろうか、由来は分からず。

Img_0490 浜松藩領界石(左下)

「従是東濱松領」で、浜松藩と旗本大沢家の堀江領との境界石柱。

Img_0489 説明板

Img_0491 堀江領境界石跡

旗本大沢家は明治維新後、堀江藩になり、堀江県となったが、「万石事件」で浜松県に合併された。

Img_0492 地蔵院(本堂は改築で解体中) 《地図

織田信長の命で殺された徳川家康の夫人の築山御前の守り本尊の腹篭(はらごもり)地蔵尊を安置。

「麦飯長者」の4人の孝行娘をもとにして著した、白隠禅師の『八重葎』(やえむぐら)ゆかりの寺。

Img_0493 説明板

Img_0495 麦飯長者跡

旅人に麦飯を喜捨した、小野田五郎兵衛家跡。五郎兵衛の息子夫婦は早逝する。悲しむ4人の孫娘に五郎兵衛は法華経の写経を教える。この幼い娘たちの平仮名の写経を見たのが名僧白隠で、これに感動し「八重葎」(やえむぐら)を著したという。

Img_0503 篠原一里塚跡(67)

右側の民家の植込みに説明板。

Img_0504 説明板

Img_0514 頑張って松

どっかで見たような??

Img_0352

浜松宿へ入る手前にも、左に倒れかけて支えられている松があった。(2010年3月3日撮影)

Img_0523 東光寺 《図》

曽我十郎の末裔が「冨士見庵」を建立し、薬師瑠璃光如来を安置したのが起こりという。

東海四十九薬師霊場第41番札所。

Img_0526 引佐山(いなさやま)大悲院観音堂跡 【ルート地図】の③

定朝法橋上人の作という観音像は、近くの如意寺に安置されている。

Img_0527 説明板

ここにも「小夜の中山の化鳥退治」の話が出ている。

Img_0530 旧家

Img_0536 西本徳寺 《地図

「海中出現 釈迦牟尼佛」は、日本左衛門が盗み出し浜松方面に逃げたが、気づくと相変わらず寺の門前だったという話がある。孫悟空が飛んだのは釈迦の手の平の上だけだったという話からのパクリか。

Img_0539 春日神社

狛犬でなく、眷属の雌雄の鹿がいいね。

Img_0538 由緒

Img_0541 舞坂の松並木 【ルート地図】の④

700mほどの間に300本くらいで見事だが、昔は1km近くに1400本もあったというからもっと壮観だったろう。途中に舞坂橋跡がある。

Img_0546 説明板

Img_0550 浪小僧(松並木の終点の小公園)

Img_0551 由来話

Img_0561 舞坂宿見附跡 《地図

石垣が残る舞坂宿の入口。

Img_0562 説明板

Img_0564 舞坂一里塚跡(68)・新町常夜灯

向い側は一里塚跡のポケットパークになっている。

Img_0566 説明板

Img_0565 説明板

Img_0574 舞坂宿の家並み

海苔、しらすの店も多い。海苔の養殖は文政2年(1819)頃、森田屋彦之丞と江戸大森の海苔職人の大森三次郎が舞坂宿に泊まった折に、偶然海苔の付着した石を見つけたことに始まるという。その後、養殖事業は幕府の認可を受け、天保期には評判になっていたそうだ。

Img_0576 宝珠院

海苔の養殖業を興した森田屋彦之丞と大森三次郎の墓がある。清水次郎長一家の「舞坂の冨五郎」の墓もあるそうだ。浜名湖岸八十八カ所霊場第61番。

Img_0575 説明板

Img_0582岐佐神社 《地図

Img_0581 由緒

Img_0584 赤石

恋に破れた兄たちが大国主命を殺そうとして落とした真っ赤に焼いた大石。

蚶貝比売命(きさがいひめ)と蛤貝比売命(うむがいひめ)の作った薬で大国主命は蘇生する。『古事記』に載る神話の一つ。

Img_0586 由来話

Img_0591 脇本陣茗荷屋堀江家

東海道で唯一残る脇本陣の建物。

向い側に宮崎伝左衛門本陣と源馬徳右衛門本陣があったが今は民家になっていて遺構は残らず。

Img_0590 説明板

Img_0600 奥が上段の間

間口は狭いが奥行きは深く2階もある。明治時代には一時、町役場として使用されていた。

Img_0602 西町常夜灯・本雁木(がんげ)跡

「今切の渡し」の船着場跡。「がんぎ」でなく、「がんげ」と発音する。

Img_0601 説明板

Img_0603 説明板

Img_0613 北雁木跡 《地図

古東海道は浜名川を浜名橋で渡って新居宿へ入って行った。明応7年(1498)の大地震で陸が切れて「今切」、浜名湖が海とつながり、東海道は渡し船(今切の渡し)で新居宿へ渡るようになった。

Img_0607 説明板

Img_0615 那須田又七顕彰碑

海苔養殖の基盤を作り、飢饉の時には被災民の救済に尽くした人物。

Img_0614 説明板

Img_0616 弁天橋、中浜名橋、西浜名橋で浜名湖を渡る。正面が「今切」の所で、遠州灘とつながっている。上を国道1号バイパスの浜名大橋が「今切」を越して行く。

Img_0620 弁天島公園

弁天神社の赤い鳥居が場違い感じで立っている。

Img_0623 弁天神社 《地図

明応の大地震で島となり、宝永6年(1709)に航路の安全を祈願して勧請され、弁天島と呼ばれるようになった。

この地に舞い降りた天女は冷たく、つれなく駿河の三保の松原へ去ってしまったという、悲しく情けない伝説が残る。

Img_0622 説明板

Img_0632 大元屋敷跡 【ルート地図】の⑤

江戸の初期には、渡船場と新居関所は現在地の南東の遠州灘近くのこのあたりで、東海道もここから西へ延びていた。元禄12年(1699)の大風雨で、新居高校付近に移転した。そこを中屋敷と呼ぶ。そこも宝永4年(1707)の大地震で被災し、関所と宿場はさらに北西の現在地へと移転した。

Img_0636 中屋敷跡

北側の新居高校に渡し船の航路標識にもなったという「堂頭の松」の2代目があるようだが探しても見当たらず。

Img_0638 関門橋を渡って新居町駅へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年3月17日 (水)

東海道(見付宿→浜松宿)

2010年3月3日

磐田駅(東海道線)・・・浅間神社・・・大乗院坂・くろん坊様・・・宮之一色一里塚跡(63)・・・秋葉山常夜灯・・・国道1号・一言坂古戦場跡・・・若宮神社・・・新天竜川橋・・・中ノ町(六所神社・軽便鉄道軌道跡・松林寺・高札場跡・金原明善生家)・・・姫街道分岐・安間一里塚跡(64)・・・安間橋(安間川)・・・(国道1号)・・・六所神社・・・浜松アリーナ・・・子安神社・・・琵琶橋(芳川)・・・馬込(向宿)一里塚跡あたり(65)・浜松宿外木戸跡・・馬込橋(馬込川)・・夢告地蔵尊・・(遠州鉄道)・万年橋(新川)・徳川秀忠生誕の井戸跡・・・鎧掛松・浜松城址・・・連尺交差点・浜松宿佐藤本陣跡・高札場跡・杉浦本陣跡・川口本陣跡・梅屋本陣跡・伝馬町交差点・・・浜松駅(東海道線)

 今回の終点は29番目の浜松宿。東海道五十三次も道中の半ばを過ぎてしまった。桜の咲く前あたりに続きを歩くとするか。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_0283 昔ながらの子どものおもちゃ屋

Img_0284 大乗院坂(坂下方向) 【ルート地図】の①

昔、坂の途中に山伏の寺の大乗院があったことによる坂名。

Img_0289 坂上方向

右に「くろん坊さま」の小祠がある。

Img_0285 説明板

Img_0287 くろん坊さま(大乗院坂の坂下)

物盗りに襲われ命を落としたインド人の旅僧を祀る「黒坊大権現」。咳、熱病にご利益あり。

Img_0286 由来

Img_0292 宮之一色一里塚跡(63)(下万能バス停の所) 【ルート地図】の②

Img_0295 説明板

Img_0290 秋葉山常夜灯(一里塚の先の左側)

風除けに周りを板で囲み、上部の格子から光が漏れるようになっている。

Img_0291 説明板

Img_0298 一言坂古戦場跡あたり 《地図

木原畷→一言坂→二俣城→三方ケ原と続く合戦場の一つ。この先に徳川家康と武田信玄の「一言坂の戦跡」碑と説明板が立っていて、姫街道の旧道の一部が残り、「一言観音堂」があるようだ。家康は一言、「戦勝」と願ったという。姫街道を歩く時の楽しみとしよう。

Img_0301 若宮神社 《地図

明治時代に29の村社を合祀した郷社。10月の例祭の奉納相撲の土俵がある。

Img_0305_2 「藤と香りの道」案内碑(若宮八幡の参道右)

平宗盛に見初められた熊野(ゆや)は京へ上るが、故郷に残した母親が病気になり、 「いかにせん 都の春も惜しけれど なれし東の花や散るらん」と詠んで故郷に戻ってきた。熊野は池田荘の荘司の娘とも、池田宿の遊女だったともいう。池田(天竜川)の渡し近くの行興寺は熊野御前の建立と伝え、境内の長藤は熊野の手植えという。

中遠昔ばなし『熊野御前

Img_0308 新天竜川橋(912m・右)を渡る。天竜川橋には歩道がない。

Img_0309 こんなに広い歩道がついている。

広重 見附(天竜川図)

Img_0312 中野町案内板

東海道の真ん中で「中ノ町」と名づけたという。『東海道中膝栗毛』にも、「江戸へも六十里、京へも六十里にて、ふりわけの所なれば中の町といへるよし」とある。袋井宿も「どまん中宿」が売り物だったが。

Img_0314 中野町案内図①

Img_0315

Img_0324 船橋之記碑・明治天皇玉座跡の碑 《地図

後ろは六所神社。船橋は明治元年に明治天皇が天竜川を渡る時に、船を並べて橋の代わりとしたもの。1日で撤去された。

Img_0328 中ノ町の家並み

Img_0330 浜松から中野町までの浜松電気鉄道中ノ町線(全長7km)の終点地。昭和12年に廃線。

Img_0331 松林寺

遠江四十九薬師第八番。寅年に開帳されるので「寅薬師」と呼ばれる。今年だ。

Img_0333 子育・延命地蔵尊(松林寺境内・享保5年(1720)の建立)

右は如意輪観音、左は馬頭観音

Img_0336 金原明善生家

私財を投じ天竜川の治水事業に取り組んだ明治時代の実業家。向い側に「明善記念館」がある。『金原明善物語

Img_0342 藤井歯科医院

Img_0347 安間一里塚跡 【ルート地図】の③

右の金網の中に木柱が立つ。ここの少し手前で北に姫街道の市野宿へ通ずる道が分岐している。

Img_0350 片側だけの松並木

Img_0352 自力と支えで頑張っている松。枝はちゃんと上方へ垂直に延びている。「人間も他力と自力で生きているのだ」なんてね。

Img_0357 六所神社 《地図

神社前の「お宮の松」は、昭和54年の台風による被害で伐採された。

Img_0358 説明板

Img_0363 子安神社 《地図

源範頼が娘の無事出産を祈願して建立したとも伝える。

Img_0364 由緒

Img_0370 浜松宿外木戸跡(馬込橋の手前)

家康が長年住みなれた浜松城を去り、馬込橋を渡り駿府城に向かう時、なごり惜しんで何度も浜松城を振り返ったという。ここにあった見返りの松は、大正10年(1921)に火事により焼失してしまったそうだ。

この手前(浜松東警察署前あたり)に馬込(向宿)一里塚跡の木柱があるはずだが見つからず。

Img_0371 外木戸(東木戸)跡(馬込橋東)

Img_0380 夢告地蔵 《地図

もとは安政5年(1858)に流行ったコレラ犠牲者を供養するための延命地蔵。明治になって廃仏毀釈により、土中に埋められたが町民の夢に現れて、「世上に出たい」と告げた。これが夢告地蔵として人気を呼び、ことに東西からの花柳界の女性の参拝が絶えなかったとか。

Img_0377 由来

Img_0430 徳川秀忠誕生の井戸 《地図

左奥に新しい井戸が造られている。むろん水は湧いていない。上は遠州鉄道で下を流れる新川(今は暗渠)には誕生橋が架っていた。 

Img_0431 秀忠の生まれた下屋敷は、ここより西方50m先にあった。

Img_0432 由来碑

Img_0427 鎧掛松(三代目・浜松市役所前)

三方原の合戦から逃げ帰った家康がこの松に鎧を掛けて休んだという。初代の松は城内の堀のそばにあった。

Img_0426 由来

Img_0407 浜松城跡

家康は元亀元年(1570)から17年間在城した。後の歴代城主の中には幕府の要職についた者が多く、「出世城」と呼ばれるようになった。

Img_0408 説明板

Img_0397_2連尺交差点から伝馬町交差点の「ザザシティ」の間に浜松宿の高札場(谷島屋書店前)と本陣が4軒あった。今はすべてビルになっていて昔の宿場を偲ばせるものは何も残らず。

Img_0386 佐藤本陣説明板 《地図

Img_0390 梅屋本陣説明板(ザザシティ浜松西館の前)

「ザザシティ」は、浜松の地名の由来となった、室町幕府の六代将軍足利義教の歌、「浜松の音はざざんざ」から名づけたのだろうか。

Img_0392 川口本陣説明板(てんまビルの前)

Img_0395 杉浦本陣説明板(浜松信金の前)

今回の東海道歩きはここまで。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年3月14日 (日)

東海道(掛川宿→袋井宿→見付宿)

2010年3月2日

掛川駅(東海道線)・・・掛川城址・・・円満寺・・・十九首塚・・・逆川橋・・・大池橋(倉真川)・秋葉道分岐・・・(天竜浜名湖鉄道)・・・白山神社・・・宗心寺・・・大池一里塚跡(59)・蓮祐寺・・・高松神社・(国道1号)・・(東名高速)・・・善光寺橋(垂木川)・・仲道寺・善光寺・・・間の宿原川・金西寺(原川薬師)・・・北野天満宮・・・同心橋(原野谷川)・・・花茣蓙公園(名栗の立場跡・可睡斎三尺坊道標)・・・松並木・冨士浅間宮赤鳥居・・・妙日寺(日蓮両親の供養塔)・久津部一里塚跡(60)・用行義塾跡・・・七つ森神社・・・新屋の秋葉山常夜灯・・・袋井宿・東海道どまん中茶屋・東本陣跡・宿場公園・問屋場跡・高札場跡・御幸橋・円通寺(川井代官所門)・十二社神社・・・旧沢野医院・・・木原一里塚跡(61)・許禰神社(家康の腰掛石)・木原畷古戦場跡・長命寺(笹田源吾供養塔)・・・西木橋・・・須賀神社(大クス)・・・全海寺・・・三ケ野橋(太田川)・・・三ケ野坂(明治の道)・道標・車井戸跡碑・・・(ヤマハスタジアム・・・善導寺)・・・遠州鈴ケ森刑場跡・・・三本松御旅所・・・秋葉灯篭・・・東坂・元門跡・愛宕神社・阿多古山一里塚跡(62)・見付宿東木戸跡・あと押し坂・見付天神社・鳥人浮田幸吉住居跡・御証文屋敷跡・御朱印屋敷跡・中川橋・西坂・旧見付学校・淡海国玉神社・脇本陣門・玄妙寺・慈恩寺・・姫街道分岐・西光寺・加茂川橋・西木戸跡・・・遠江国分寺跡・・・府八幡宮・・・磐田駅(東海道線)

 午前中は天気が悪そうで出発時間を遅らせたら、何度も道を間違えたり、目標物がなかなか見つからなかったりで苦労した。磐田駅に着く頃には薄暗くなり、気分的にもかなり疲れた。やっぱり早めに行動開始しないとだめだ。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_9954 掛川城

Img_9955 二の丸御殿

江戸時代後期の建物で、現存する城郭御殿としては、京都二条城など全国でも数ヵ所しかない貴重な建築物。

Img_9951 説明板

Img_9968 清水銀行掛川支店 《地図

山内一豊の妻の内助の功の逸話のレリーフ。

Img_9966 説明板

Img_9969 円満寺

掛川城の内堀(蓮池)にあった蕗の門を移築。

Img_9970 説明板

Img_9975十九首塚 【ルート地図】の①

朝廷の使者から打ち捨てるように命じられた平将門らの首を藤原秀郷が葬った首塚。このあたりは「十九所」という地名だったが、いつの頃からか「十九首(じゅうくしゅ)」と呼ばれるようになったそうだ。すぐそばに「十九首公民館」がある。

Img_9972 由来

かすんで見えないだろうな。

Img_9980 大池橋(倉真川) 《地図

秋葉道との分岐。東海道は左に曲がり、天竜浜名湖鉄道をくぐる。

Img_9981 説明板

鳥居は見あたらなかったが。

Img_9987 大池一里塚跡(59)

蓮祐寺の門前

Img_9992 柴田酒店

銘酒「曽我鶴」とある。今も営業しているのだろうか?

Img_0002 善光寺橋へ

Img_0008 仲道寺(右)・善光寺(左) 【ルート地図】の②

東海道の真ん中で「仲道寺」、善光寺の阿弥陀如来像は坂上田村麻呂の守り本尊とか。

Img_0006 説明板

Img_0013 原川の松並木

Img_0019 金西寺(原川薬師)

もとは土中に埋もれ、笠を被せられていて「笠薬師」と呼ばれていた瑠璃光薬師如来を安置。

Img_0020 間の宿原川

Img_0029 津波も恐いが、火事もだよ。

写真を撮っていたら、近所のおじさんから保険会社の調査員か何かに間違われた。

Img_0036 名栗の立場跡(花茣蓙(ござ)公園・同心橋を渡った所)

可睡斎三尺坊」道標が立っている。可睡斎とは幼い家康を助けた仙麟等膳(せんりんとうぜん)和尚のことで、後年、家康が感謝のために招いた席で居眠りをしたことからこう呼ばれるようになったという。

中遠昔ばなし『可睡和尚

Img_0039 説明板

広重 袋井(出茶屋ノ図)

Img_0042 案内図①

ここから袋井宿の中心まではかなりの4kmもある。

Img_0043

Img_0046 名栗の花茣蓙を売る店が並んでいたそうだ。

Img_0053 松並木

Img_0057 冨士浅間宮大鳥居

ここから北方向に1kmもないだろうが、遥拝のみ。

Img_0055 説明板

Img_0059 妙日寺の広い参道

Img_0060 由緒

Img_0063妙日寺の日蓮の両親供養塔。

柳生但馬守宗矩が寄進したんだと。

Img_0062 説明板

Img_0065 久津部一里塚跡(60) 《地図

東小学校の校庭。

Img_0064 説明板

Img_0069 「どまん中」東小学校

どうせなら東でなく中にしたらどうか。

Img_0075 用行義塾跡

Img_0074 説明板

Img_0085 七つ森神社

ここにも「小夜の中山の怪鳥退治」に向った7人の武士の伝説がある。7人もいてあえなく返り討ちにあったという。(鳥が人に返り討ちとはおかしな話だが) その後に、藤原良政が一人で退治したということか。

Img_0082 由緒

Img_0087 久野城跡がきれいに見えるというが、バイパスの高架が邪魔だ。向こう側の2つの山のどちらかなのか。

Img_0102 東海道どまん中茶屋 【ルート地図】の③

Img_0121 周辺案内図

Img_0106 東本陣田代家跡

中本陣・西本陣の3軒あった。

Img_0107 説明板

Img_0126 円通寺

山門は南側にあった川井代官所の門

Img_0127 説明板

Img_0128 十二社神社

Img_0129 説明板

Img_0132 旧澤野医院

享保以前からの医院。この建物は昭和9年の建築。今は記念館として開館している。

Img_0133 説明板

Img_0140 木原一里塚跡(61) 《地図

約60m東にあったものを復元。

Img_0142 説明板

Img_0149木原畷古戦場碑と家康の腰掛石(許禰(こね)神社境内)

家康が腰掛たのは「関が原の戦」の戦勝祈願でこの社を訪れた時という。

Img_0150説明板

Img_0146 許禰神社由緒

Img_0151 周辺案内図

Img_0154 笹田源吾供養塔(長命寺境内)

偵察に来て村人に殺された武田勝頼の家来。木原大念仏は源吾を供養するために始まったという。

Img_0153 説明板

Img_0157 六地蔵(長命寺境内)

享保17年(1732)の造立。遠州一姫・二十九福地蔵の第2番。姫地蔵は1ヵ所で、福地蔵が29ヵ所なのか?

Img_0162 須賀神社の樹齢500年の大楠

Img_0167 全海寺

遠州一姫・二十九福地蔵の第3番札所。

Img_0170 三ケ野橋を渡って、この先は「三ケ野坂の七つの道」に分かれる。鎌倉古道・江戸・明治・大正・昭和・平成①・平成②(質屋通いの隠れ道)の7つということらしい。

Img_0172 三ケ野坂(明治の道) 《地図

この先か手前で、左へ江戸の古道へ入るのが正解のようだ。そうすれば「本多平八郎物見の松跡」がある大日堂にも寄れたのだが。

Img_0173 坂上の「車井戸跡碑」・「明治の道碑」

三ケ野坂上の集落は、雨水を溜めたり、谷に水汲みに行ったりしていたが、弘化4年(1847)に医王寺によって参道の入口のこの場所に、滑車で汲み上げる井戸が掘られ、昭和35年まで使われていたそうだ。

Img_0174 「従是鎌田山薬師道」道標(弘化4年(1847)の建立) 《地図

南方1.5kmほどの新幹線の南側の鎌田山医王寺への道標。

この先で大きく道を間違える。どこを歩いているか分からなくなり、台地上の新興住宅街、工場群の間をさ迷いながら、ヤマハスタジアムへ下り、善導寺からなんとか東海道へ戻った。右へ曲がるのを直進して、どんどんと南の方へ行ってしまったようだ。

Img_0179 遠州鈴ケ森 【ルート地図】の④

実際の刑場は西の三本松村にあった。江戸で処刑された日本左衛門の首がここで晒された。その首を愛人が持ち去り、金谷宿の宅円庵に首塚を築いた。

Img_0182 日本左衛門の供養塔ではないだろう。

Img_0188東坂を下る。《地図

けっこうな急坂だ。左前方が愛宕神社

Img_0197 元門跡碑(東坂の途中)

江戸時代の見付天神社の表参道。

Img_0196 説明板

Img_0190 見付宿東木戸跡(東坂の坂下)

見付の由来は、西からの旅人がここで始めて富士を「みつけ」たとか、「うみつけのち」が転訛したとか諸説ある。

Img_0195 木戸跡のモニュメント

国道1号の方に立っている。

Img_0192 周辺図①

Img_0193

西坂町の交差点で姫街道が分岐する。

Img_0200 愛宕神社

社殿の後ろの塚が阿多古山一里塚跡。探すのに東坂を行ったり来たり。反対側の民家の間にも石柱が立っているそうだが、気づかなかった。

Img_0203 阿多古山一里塚跡(62) 【ルート地図】の⑤

Img_0202 石柱

Img_0194 説明板(愛宕神社の下にある)

Img_0208 愛宕神社から見付宿

Img_0209 あと押し坂

見付天神社へ上る参道。

Img_0210ということ。

Img_0214 悉平太郎(しっぺいたろう)像(天神社参道右側)

人身御供の化け物退治をした、「霊犬悉平太郎伝説」 人身御供の慣わしがなくなったことを喜ぶ踊りが「裸祭り」のルーツと伝わっている。

犬の縁で、悉平太郎がいた光前寺がある駒ヶ根市と磐田市は昭和42年に姉妹都市になった。「縁はいなもの味なもの」、「犬も歩けば縁を結ぶ」か。駒ヶ根市から贈られた(本物の)犬を2代目悉平太郎とし、その子どもの3代目も境内で飼われているとか。(もう4代目も生まれているかも) 会って見たかったなあ。

Img_0213 伝説

Img_0216 見付天神社(矢奈比売神社)

裸祭り」は国の無形重要民俗文化財

奥に日本唯一の犬を祀る「霊犬神社」がある。

Img_0212 説明板

Img_0228 鳥人浮田幸吉住居跡

日本で初めて飛行?した鳥人だ。「浮田」とはよほど空に浮きたかったのだろう。「風船おじさん」よりはずっとましだ。

Img_0232御朱印屋敷「冷酒(上村)清兵衛邸

「冷酒」は家康がつけたあだ名。武田勢に追われる家康を助けて、朱印を貰ったのだろう。近くに清兵衛と一緒に家康を助けた、安間平治弥邸跡(御証文屋敷)もある。

中遠昔ばなし『冷酒清兵衛

Img_0234 旧見付小学校 《地図

明治時代で5階建ての小学校とはすごいね。

この手前の交差点あたりが、問屋場跡、北本陣跡、南本陣跡なのだが、説明板・標示板などは見つからず。

Img_0235 説明板

Img_0241 脇本陣大三河屋門

Img_0239 説明板

Img_0243 慈恩寺

結願寺ということだ。

Img_0254 西光寺山門

家康の別荘の中泉御殿の表門を移築。奥は鐘楼門。

遠江四十九薬師霊場の第48番、日限地蔵尊の寺。

Img_0253 説明板

Img_0258 西木戸跡

西光寺の前

Img_0267 遠江国分寺跡

Img_0265 説明板

Img_0269 礎石をくり抜いたという手水石。

Img_0274 府八幡宮楼門 《地図

Img_0271 説明板

Img_5881 善導寺の大クス(磐田駅前)

樹齢700年

(2010年5月5日撮影)

Img_5879 説明板

Img_0277 磐田駅

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2010年3月11日 (木)

東海道(藤枝宿→島田宿→金谷宿→日坂宿→掛川宿)

2010年3月1日

Img_9732 藤枝駅(東海道線)・・・青木交差点・・・鏡池堂(六地蔵)・・・古東海道道跡・・・東海道追分・・・無縁寺跡(瀬戸地蔵堂・瀬戸古墳群供養塔)・・・千貫堤跡・瀬戸の染飯茶屋跡・・・育生舎跡・・・田中藩領傍示石跡・・・上青島の一里塚跡(51)・・・栃山橋(栃山川)・・・島田宿一里塚跡(52)・本陣跡・島田御陣屋跡・御陣屋稲荷・快林寺・大井神社・大善寺(時の鐘)・・・関川庵(吉三の墓・吉三地蔵)・・大井川川越遺跡・・朝顔の松・あさがほ堂・朝顔目明観音・川除地蔵・・・大井川橋・・・金谷宿渡し場跡・水神公園・八軒屋橋・・・宅円庵(日本左衛門首塚)・・・(大井川鉄道)・・・大代川・・・清水橋・・・金谷宿佐塚屋本陣跡・柏屋本陣跡・金谷一里塚跡(53)・長光寺・・不動橋・・・石畳茶屋・金谷坂・鶏頭塚・庚申堂・すべらず地蔵・・・諏訪原城址・・・菊川坂・・・間の宿菊川・藤原宗行詩碑・日野俊基歌碑・・・箭置坂(青木坂)・・・小夜の中山・久延寺(夜泣き石)・扇屋・西行歌碑・・・佐夜鹿一里塚跡(56)・・・鎧塚・白山神社・馬頭観音・妊婦の墓・涼み松・夜泣き石跡・沓掛稲荷神社・・・沓掛坂(二の曲がり)・・・日坂宿・秋葉山常夜灯・本陣扇屋跡・問屋場跡・旅籠川坂屋・光善寺観音堂・高札場跡・下木戸跡・古宮橋・・・若宮神社・・・事任八幡・・・(国道1号)・・(塩井神社)・・・伊達方一里塚跡(57)・・・諏訪神社・・・岩橋・・・本村橋・・・大頭龍大権現道標・・・馬喰橋(逆川)・・葛川一里塚跡(58)・・・七曲り・掛川宿東番所跡・本陣沢野家跡・・・掛川駅(東海道線)

 今日は今回の東海道歩きのハイライト。島田宿から「越すに越されぬ」大井川を渡り、小箱根の金谷坂、菊川坂から箭置坂を上り(上の写真は途中からの眺め)、歌枕の「小夜の中山」を越え、往時の宿場の面影の残る日坂宿を通り、山内一豊の掛川宿まで。かなりの距離だが足は大丈夫だろうが、頭の中がパンクしなければよいが。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_9477 鏡池(きょうち)堂 【ルート地図】の①

鏡ケ池に棲む神龍(悪龍)を鬼岩寺二世静照上人が退治したところ、池の中から六地蔵が出現した。智証大師の作の金色の木像という30cmの地蔵は33年に一度の開帳だそうだ。六体の像でなく、一面か六面に六体が彫られたものか。ここの西方の水神社の前が鏡ケ池(跡)。まあ池の中から引上げられたのだから金色に輝いていることはあるまい。

Img_9472 由来

渡辺崋山の名も出てくる。

Img_9479鏡池堂の先で右に瀬戸山(消滅)へ上るのが古東海道の道跡。

Img_9478 説明板

Img_9480 左(南東)に入るのが古東海道

Img_9481 東海道追分

Img_9482 松並木がまばらに残っている。

Img_9488無縁寺跡の瀬戸延命地蔵堂(右)と瀬戸古墳群供養塔(左)

無縁寺は寛永4年(1627)の大井川洪水の犠牲者の供養の寺だった。国道1号敷設、ゴルフ場建設などのために瀬戸山は古墳群とともに崩されて消滅してしまった。供養塔を建てたからといって被葬者は浮かばれないだろうよ。瀬戸地蔵堂ももとは瀬戸山にあった。

Img_9493 千貫堤跡

寛永12年(1635)に大井川の洪水から守るために築かれた堤防跡。

Img_9492 説明板

Img_9494染飯(そめいい)茶屋跡(千貫堤跡の向い側)

古東海道の時代から尾根の茶店で売られていた、旅人用のくちなしで染めた強飯弁当。染飯は今でも藤枝駅前の「喜久屋」で製造販売しているようだが、昨日の買うのを忘れた。

Img_9489 説明板

Img_9505上青島一里塚跡(51)

すぐ先に一里塚の石柱が立っている。

Img_9515 この先あまり見るべきものはないが、所々に古い建物が残っている。

Img_9519 栃山橋を渡って島田宿へと入る。《地図

Img_9520 説明板

Img_9525島田宿一里塚跡(52)

Img_9522 島田宿説明板

Img_9554 島田宿本陣跡 《地図

後方に陣屋(代官所)跡、御陣屋稲荷、快林寺と続く。

Img_9549 説明板

Img_9527島田御陣屋跡

Img_9532 説明板

Img_9537 御陣屋稲荷

風刺人形、川柳が作られるようになり、別名を「悪口稲荷

Img_9538 由緒

Img_9539 「悪口コンテスト」の入賞作品。

全国から投稿があるようだ。なかなか辛らつで手きびしい。「愛」はあるのだろうか?

Img_9546快林寺観音堂

左前に「島田宿中心地之碑」。梅花観音霊場第96番、秩父駿河観音霊場第9番。いろんな札所があるよ、まったく。

Img_9568大井神社

三柱の祭神は女神で、安産、女性、子どもの守り神。さすがに女性の参詣者が目立った。左は島田の帯祭りの大奴像。

Img_9565 由緒

Img_9572 大善寺 《地図

時の鐘は戦時中に供出され2代目のもの。

Img_9569 説明板

Img_9577 吉三郎の墓(関川(かんせん)庵 【ルート地図】の②

八百屋お七の恋人、吉三郎はお七が処刑された後に僧となり諸国遍歴のすえ、島田宿で没しここに葬られたという。また後年、たまたまこの寺に立ち寄った吉三郎の子の修行中の僧が納めたという「吉三地蔵」が安置されているという。ちょっとでき過ぎた話だが。吉三地蔵は本堂にあるというが、後ろの地蔵ではないのか?

吉三郎は出家して西運と名乗り、諸国行脚の末に目黒の行人坂下の大円寺の隣りの明王院に身を寄せ、お七の菩提を弔ったというのが一般的か。「お七地蔵」・「ほうろく地蔵」・「お七の墓」・「お七観音」・「お七吉三比翼塚」などいろいろあるが、やっぱり主役はお七だ。女は得か?

Img_9580大井川川越遺跡 《地図

川越人足の番屋が軒を連ね、川越しの事務所の川会所、人足が川札を金に替えた札場などもある。案内人の方からいろいろと面白い話を聞いて、かなりの時間を費やした。まだ先が長く、ちょっと心配になってきたが。

Img_9579 絵図

Img_9581 番屋内

最近は雛人形を飾る家が少なくなっているそうで、近くの家々のものを飾っているそうだ。一年に一度、明るく華やかな雛壇に並べられ、人形も晴れがましそうに見える。ただ虫干し、風通しをされているとも知らずに。

Img_9587 島田大堤

島田宿、大井川下流の人々の生活を守ってきた堤が途切れ途切れに残っている。

Img_9586 説明板

Img_9589 八重枠稲荷

増水時の激流から堤防を守る、「八重枠」から由来する川除けと、川越しで亡くなった人々を供養する神社。

Img_9588 説明板

Img_9592 朝顔の松・あさがほ堂

「朝顔日記」の深雪の目が開いて、初めて見えたのがこの松の木(2代目)とか。初代の松は正面左の「あさがほ堂」に木碑となって奉納されている。正面奥の小堂は「朝顔目明観音」と「川除地蔵」。

江尻宿の法岸寺には『朝顔日記』のヒロインの深雪の墓があったっけ。

Img_9593 由来

Img_9601 大井川橋(1026m)を渡る。

歩道もしっかりついているが、すごく時間がかかる気がする。ただただ渡るだけだからか。 『広重の大井川

Img_9607 今日は風が強く流れは急だ。昔なら川止めになっていたか。

Img_9614 金谷の渡し場

番屋、川会所などが並んでいるが、島田側のようには残っていない。『広重の大井川(金谷)

Img_9629 日本左衛門首塚(宅円庵) 【ルート地図】の③

遠州鈴ケ森(見付宿)で晒し首になっていたのを愛人の女が運び去りここに葬ったという。由比正雪の首といい、いつも生首を平気で持ち歩くのは女性だ。「女は強し、そして恐い、そして・・・・」

首塚には岡本天古の「月の出るあたりは弥陀の浄土か な」の句が彫られているそうだ。

Img_9627 説明板

辞世の「押取の人の思い羽かさなりて 身に青網のかかる悲しさ」

「かかる悲しさ」なんてセンチなセリフは大泥棒の最後らしくない。石川五右衛門のように、「・・・・世に盗人の種は尽きまじ」ぐらい言わないとかっこ悪いと思うよ。

Img_9622 宅円庵

北向地蔵、六地蔵などがある。無住の寺のようだ。

Img_9630 由来

Img_9638 金谷宿佐塚屋本陣跡 《地図

Img_9639 柏屋本陣跡(金谷南交流センター前)

本陣はもう1軒、山田屋があった。

Img_9641金谷宿説明板

Img_9648 金谷一里塚跡(53) 《地図

左へ東海道線、大井川鉄道のガードをくぐる。

次ぎの(54)・(55)番目の一里塚は欠番。

Img_9649 説明板

Img_9652 長光寺

芭蕉の「道のべの 木槿(むくげ)は馬に 食われけり」の句碑がある。

Img_9653 不動橋

金谷宿の西の入口。

Img_9655 説明板

Img_9656 中山新道説明板

新道に入らず、直進して金谷坂を上るのが旧東海道。

Img_9675金谷坂の石畳 【ルート地図】の④

Img_9664 説明板

Img_9665 仁誉地蔵尊

由来不明

Img_9668 鶏頭塚

Img_9666 説明板

Img_9670 三猿だけの庚申塔も珍しいか。

Img_9672 庚申堂

昔はもっと大きな堂だったのだろう。日本左衛門がここで盗み用の着物にドレスアップして夜盗に向ったとか。

Img_9671 由来 

Img_9677 すべらず地蔵

六角堂の中に双体の木造地蔵が立つ。

もちろん金谷坂で「滑らない」ようにだが、今は受験で「すべらない」ようにと受験生が訪れるそうだ。「藁にもすがる」思いか。もっと勉強した方がましよ。

Img_9678 説明板

Img_9673 坂の途中から金谷宿方向

Img_9684 金谷坂を上ると茶畑が広がる小高い台地に出る。

Img_9689 諏訪原城跡の大手郭、武家屋敷あたり。

天正元年(1573)に武田勝頼が築いた山城。扇状の形をしているので扇城の別名がある。

Img_9687 説明板

Img_9697 菊川坂の石畳を下る。

平成13年に復元されたばかりで、石の表面が平らでなく歩きにくい。雨の日はきついだろう。

Img_9698左側に舗装道路がついているから大丈夫。

Img_9707菊川坂・間の宿菊川の説明板

Img_9696 「茶」の字が浮かぶ栗ケ岳

Img_9705 間の宿菊川へ下る。

Img_9709 間の宿菊川

Img_9710 遠江三十三観音第25番松島山岩松寺への道標

欠けた上部を補修している。岩松寺は「歩き観音」で有名だそうだ。

Img_9718 案内図

本陣・脇本陣・庄屋・問屋場などが見える。

Img_9722 菊石

菊川の名の由来となった菊花紋の石。白菊姫の伝説もあるそうだ。酒造会社のイメキャラのような名で、名前を聞くだけでその美しさに酔ってきそうだ。白菊姫伝説とはどんなものか? 調べても分からず。

Img_9721 説明板

Img_9724中納言藤原宗行卿詩碑(左)・日野俊基歌碑(右)

承久の乱と約100年後の正中の変で鎌倉幕府討幕に加担し、捕まった二人の漢詩と和歌。宗行は鎌倉へ護送中に処刑、俊基は赦免されるが、懲りずに元弘の変に加わり死罪となった。

Img_9720 説明板

Img_9728 箭置(やおき)坂(青木坂) 《地図

菊川宿の西にあり、西坂とも、小夜の中山まで上る長い坂なので、長坂とも呼ばれる。確かに長い。ひと汗かいた。

広重の小夜の中山

Img_9731 坂下(菊川)方向

Img_9737 鎌倉へ向う阿佛尼が「十六夜日記」で詠んだ歌碑

「雲かかる 小夜の中山越えぬとは 都に告げよ 有明の月」

この先、歌枕の「小夜の中山」の多くの歌碑が街道沿いに並んでいる。

小夜の中山」の地名由来は、蛇身怪鳥を退治した藤原良政と結ばれた月小夜姫が都から戻って、この地に移り住んだことからという。良政と月小夜姫の子が小石姫で、「夜泣き石」の話とつながって行く。

昔ばなし『蛇身鳥物語

Img_9736 説明板

Img_9743 久延寺 《地図》 

家康手植えの五葉松の向うに「夜泣き石」

Img_9741 説明板

Img_9745 夜泣き石

身重で殺されたお石の霊が乗り移って泣いたという石にしては大きく無骨な感じがする。もとの「夜泣き石」は別の場所にあるがそれも大きい。(峠下の茶店の小泉屋《地図》→後述)

Img_9744 「夜泣き石」伝説

音八と母の仇の轟業右衛門は和解して、お石の菩提を弔ったという筋書きもあるようだ。

Img_9750 扇屋(久延寺の隣り)

ここは「子育て飴」伝説で、「小石姫は男児を出産後自害した。遺児の月輪童子は実父から伝えられた製法の飴で育てられた」、「夜泣き石伝説」のお石から生まれた音八もこの飴で育てられたというからややこしい。お石・小石姫・月輪童子・音八・月小夜姫・藤原良政など登場人物も多く、筋書きもあちこち適当にくっつけたりして絡み合い、結末もいくつかに分かれている。

店は閉まっていて飴は買えなかった。各地に残る「幽霊飴」・「子育て飴」伝説の一つだろう。

Img_9751 西行歌碑 「年たけて また越ゆべしと おもひきや いのちなりけり さよの中山」

晩年の69歳で、奥州藤原氏を訪ねる旅で、2回目の小夜の中山越えをしているのだから、やっぱり昔の人にはかなわない。平安時代末期の東海道もまだ整備されていなかった時のことで尚更だ。そしてこの歌が「小夜の中山」の名を一段と高めたのだからただただ平伏あるのみ。
西行は俊乗坊重源の依頼により、東大寺再建の砂金勧進のため藤原秀衡を訪ねるべく伊勢の二見ケ浦から伊良湖岬に渡り奥州へと旅立った。伊良湖岬にも歌碑が立っている。『田原街道④・伊勢街道(表浜街道)①』に記載

Img_9752 説明板

Img_9753 案内図

右端の「月小夜姫」は小石姫の母親。墓は気づかなかった。

Img_9762佐夜鹿一里塚跡(56)

Img_9761 説明板

Img_9768 鎧(よろい)塚

Img_9769 説明板

「中先代の乱」の北条時行には、三島宿と沼津宿の間の智方神社でも出会った。

Img_9784 馬頭観音

「小夜の中山伝説」で、蛇身怪鳥を退治した藤原良政が乗っていた馬を祀るという。良政と月小夜姫の間に生まれたのが小石姫。

Img_9783 説明板

Img_9786 妊婦(小石姫)の墓

Img_9787 説明板

小石姫は身重のまま自害したとしている。

Img_9788 涼み松

芭蕉がこの松の下で、「命なりわずかの笠の下涼み」と詠んだそうだ。

Img_9790 説明板

Img_9794 夜泣き石跡

もとの「夜泣き石」はここにあった。後に久延寺に移され東京の博覧会に出品されたが不評で、久延寺は持ち帰る途中で放棄した。その後、峠下へ移転していた茶店小泉屋が出資して自店の敷地内に移したという顛末。したがって現在、久延寺にある「夜泣き石」は偽物と言ったら怒られるか。

Img_9796 説明板

「現在の位置に移る」として、今どこにあるかを書いていない。久延寺に気を使った文面だろうがいただけない。

Img_9801 沓掛稲荷神社の先で急な沓掛坂となり下る。

Img_9803「二の曲がり」を下って日坂宿へ。

Img_9806 説明板

Img_9814 日坂宿の家並み

700mほどの小さな宿だが、古い建物も残っていて宿場風情を感じさせる。

Img_9817 説明板

Img_9815 常夜灯の隣りが片岡本陣扇屋跡

Img_9816 説明板

Img_9818 地図

Img_9820 片岡本陣扇屋跡

今は日坂幼稚園で平屋のレトロな建物がいい感じだ。

Img_9821 説明板

Img_9828 問屋場跡あたり

Img_9829 説明板

Img_9831

池田屋

「日坂宿 旅人御宿」の暖簾が掛っている。今は割烹旅館「末広亭」として営業。

Img_9833旧伊藤家

「藤文」と「かえでや」

Img_9834 説明板

Img_9841萬屋

食事を出さない木賃宿だった。

Img_9842 説明板

Img_9844 旅籠屋「川坂屋」

日坂宿の西端の旅籠。敷地は国道、バイパス建設で分断されている。

Img_9846説明板

Img_9849秋葉山常夜灯

後ろは遠江三十三観音霊場の第21番の光善寺観音堂。

Img_9856 高札場跡

その先の古宮橋手前が下木戸跡

Img_9857 説明板

Img_9860 説明板

Img_9864 成瀬大域出生の地(三河屋)

明治天皇から楠正成愛用と伝わる硯をもらい、「賜硯堂」と号した書家。

Img_9871 事任(ことのまま)八幡宮 【ルート地図】の⑤

「枕草子」、「十六夜日記」にも出てくるそうだ。何でも願い事が叶うとは文字通り有難い神社だ。

姫石権現、その姫宮、(事任)八幡宮、囲碁、竜神、雄鯨、雌鯨、潮垢離、潮井河原(塩井神社)の登場する面白い『雄鯨山雌鯨山』の伝説がある。

Img_9874 由緒

Img_9882 塩井神社 《地図

『雄鯨山雌鯨山』伝説の潮井河原の地。逆川を渡る参道の橋は崩れてそのまま放置されているかと思いきや、祭礼の時だけ仮橋が架けられるそうだ。境内への道は他にあるのだろうか? 

Img_9889 嵐牛美術館

伊藤嵐牛は寛政から明治にかけての国学者、俳人か。

Img_9890 案内板

TVの「お宝探偵団」のような書画、骨董はないとさ。

Img_9891 伊達方一里塚跡(57)

右に説明板と石柱

Img_9893 説明板

Img_9913「大頭龍大権現・福天大権現」道標

菊川市加茂の大頭龍神社と、菊川市西方の福天大権現(洞谷山龍雲寺)への道標

Img_9911 説明板

Img_9916 馬喰橋手前 《地図

そろそろ腹が減ってきたが、我慢我慢もう少し。

Img_9918 葛川一里塚跡(58)

馬喰橋を渡ったすぐ先

Img_9925東伝寺の手前で左に曲がり、「七曲り」を通って掛川宿の中心部へ入っていく。《地図

Img_9928 東番所跡

Img_9930 説明板

Img_9932 掛川宿の通りの菓子屋「桂花園」 

「丁葛」15本入り1500円也

Img_9935呉服「桝忠」

寛政2年(1790)創業

Img_9936 掛川座

昭和の初期に建てられた映画館、演劇場らしい。今は総合福祉施設として開館している。

Img_9941 この掛川市役所出張所の向い側が本陣沢野家跡

Img_9942 本陣沢野家跡 《地図

今は駐車場。この先の中町に浅羽本陣跡、問屋場跡があったのだが説明板などは見つからなかった。もう5時近い。掛川城へは明日登城しよう。

Img_9944 掛川駅(北口)

いいねえ、この駅舎は。新幹線停車駅で唯一の木造駅舎だそうだ。ただし北口だけ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年3月 7日 (日)

東海道(丸子宿→岡部宿→藤枝宿)

2010年2月28日(日)

Img_9273 安倍川駅(東海道線)・・・県道208号・丸子一里塚跡(46)・丸子宿(江戸方見付跡・水神社・本陣跡・お七里役所跡・丁子屋・高札場跡・京方見付跡)・丸子橋(丸子川)・・・長源寺・起樹天満宮・国道1号・・・道の駅宇津ノ谷・(蔦の細道分岐)・・・慶龍寺・御羽織屋・・・(明治のトンネル)・・・お弘法さん・・・雁山の墓・・・峠の地蔵堂跡・・・宇津ノ谷峠・・・鬚題目碑・・・蘿径記碑跡・・・鼻取地蔵堂(坂下地蔵堂)・蘿径記碑・・・岡部一里塚跡あたり(48)・十石坂観音堂・・・笠懸の松・西住の墓・・・三星寺・・・岡部橋(岡部川)・・・専称寺(西行坐像)・・・岡部宿(旅籠柏屋・本陣跡・小野小町姿見の橋・佐護神社・高札場跡・正応院・西宮神社・五智如来像)・・・(国道1号)・慈眼寺(代官地蔵・抱地蔵)・(郷蔵跡・横内陣屋跡)・横内橋(朝比奈川)・川除地蔵・・・田中領傍示石・・・(鬼島一里塚跡(49))・・・八幡橋(葉梨川)・・・鬼島の建場(立場)跡・・・須賀神社・・・鐙ケ淵跡・蛇柳観音堂・・藤枝宿(東木戸跡・左車神社・成田不動・田中城址・六間川橋・田中城下屋敷跡・長楽寺・茶木稲荷・蓮生寺・大慶寺(久遠の松)・神明社・下本陣跡・上本陣跡・正定寺(本願の松)・問屋場跡・西木戸跡)・・・勝草橋(瀬戸川)・志太一里塚跡(50)・・為善館跡・・・藤枝駅(東海道線)

 丸子宿は昨日、今日と宿場祭りだがあいにくの雨で人影もまばらだ。雨に煙った静かで、時間が止まったような宇津ノ谷の集落(上の写真は峠への途中から)を抜けて、宇津ノ谷峠へと上って行く。普段の日曜ならハイカー達も通るのだろうが、この天気が幸いしてか誰にも逢わずにゆったりした気分で峠を越えた。下界の岡部宿ではテレビでチリ地震の津波警戒放送がやかましい。東海道線も一部の区間で運転を見合わせたようだ。海から離れた東海道歩きは、そんなこととは無縁の別世界だった。

  【ルート地図

東海道(府中宿→丸子宿)』からの続き。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_9202 丸子宿江戸方見付跡 《地図

番所の役人が街道を行く旅人を取り調べている? いや宿場祭りでこの先は車は進入禁止なのだ。

丸子宿はここから丁子屋の先の京方見付までの630mほどの小さな宿。

Img_9203 丸子宿案内板①

Img_9206 宿場模式図

Img_9208 案内板②

Img_9212 本陣横田家跡

Img_9213 お七里役所跡

幕府の動向、江戸の情報をいち早く得るための紀州藩専用の飛脚の連絡役所跡。

Img_9219 丁子屋

慶長元年(1596)創業の東海道名物の「とろろ汁」

広重の丸子宿』にも描かれている名物茶屋。

弥次喜多は店の夫婦喧嘩に巻き込まれとろろ汁を食べそこなった。

Img_9215 芭蕉句碑(丁子屋前・文化11年(1814)建立)

「梅わかな 丸子の宿の とろろ汁」

Img_9223 高札場跡

Img_9228 起樹天満宮

手前に長源寺がある。

Img_9229 由緒

Img_9238 道の駅宇津ノ谷の先で、古東海道の「蔦の細道」が分岐して上っている。

『伊勢物語』の在原業平の歌、「駿河なる うつの山辺の うつつにも 夢にも人に 逢わぬなりけり」

Img_9261 説明板

Img_9240 道の駅から歩道橋を渡って、宇津ノ谷の集落へ入って行く。

Img_9250 説明板

Img_9252 宇津ノ谷の家並み

Img_9247 慶龍寺 【ルート地図】の①

在原業平の祈願により、地蔵菩薩が人肉の味を覚えて鬼になった梅林寺の小僧を10粒に砕き、飲み込んで退治したという伝説、「十団子」の由来の寺。

森川許六の「十団子も 小粒になりぬ 秋の風」の句碑がある。峠の地蔵堂の延命地蔵もこの寺に移され安置されている。

Img_9248 説明板

「十団子」の由来話

Img_9253 御羽織屋

天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原攻めの時、休息に立ち寄って馬の沓を所望した。主は3脚分しか出さなかったので秀吉が問うと、あとは帰り(戦勝後)に差し上げると答えた。秀吉は帰りに立ち寄って褒美に陣羽織を与え、諸役を免除した。

Img_9258 「明治のトンネル」の入口まで行ってみる。

長さ203mだが、薄暗く歩道が分離してないトンネルでここを抜ける気はしない。

Img_9262 説明板

Img_9268 馬頭観音

右が嘉永5年(1852)、左が大正5年のもの。

Img_9271 お弘法さん

由来が分からず。

Img_9275 雁山の墓(右下)

旅先で死んだと思って弟子たちが建てた墓。当人は82歳まで長生きした。

Img_9274 説明板

Img_9279 峠の地蔵堂跡の石垣

歌舞伎の『蔦紅葉宇都谷峠 』で、十兵衛が百両持っている盲目の文弥を殺す、「文弥殺し」の場がこの延命地蔵堂前。

延命地蔵は慶龍寺に移され祀られている。

Img_9277 説明板①

Img_9281 説明板②

「文弥殺し」の話が載っている。

Img_9287 ここが峠の頂上あたりか。眺望はなく雨で滑りやすいが、行き交う人も無く、静かな道を坂下地蔵堂へと下って行く。

広重の宇津之谷峠

Img_9291 鬚題目碑

この先に「蘿径記碑」があった。今は坂下地蔵堂に移されている。

Img_9290 説明板

Img_9295 坂下地蔵堂へ下る。

左から蔦の細道が合流する。

Img_9298 坂下地蔵堂 【ルート地図】の②

地蔵さんの姿は拝めず。

地蔵が子供に姿を変え、牛の鼻緒を取って田畑仕事の手伝いをしたという伝説が残り、「鼻取地蔵」・「稲刈地蔵」とも呼ばれている。縁日には「十団子」が供えられる。

Img_9302 説明板

Img_9300 蘿径記碑

「蘿径」(らけい)とは、「蔦の細道」のことで、近世東海道の開通で忘れ去られ、荒廃したのを嘆いた駿府代官の羽倉簡堂が文政13年(1830)に建てたもの。

Img_9301 碑文

「在五中将」とは、在原業平のこと。

Img_9303岡部町では室町時代から茶の栽培をしていたそうだ。朝比奈地区は京都の宇治、福岡の八女と並ぶ玉露の三大生産地。

Img_9306 十石坂(ゆるやかに下る県道208号)

江戸時代の扶持米が十石だったという。

Img_9308 十石坂観音堂 《地図

千手観音立像が安置されているそうだ。このあたりに岡部一里塚(48)があったらしい。

Img_9307 説明板

堂内の厨子が貴重なのか? 千手観音像のことは書かれていない。

Img_9328 笠懸の松・西住の墓 【ルート地図】の③

西行と旅をした弟子、西住との悲しい別れの物語。二代目の松が3本か。その下の小さな石塔が西住の墓。

案内板にはここまで約15分と書いてある。上りの15分はけっこうきつい。どうしようかちょっとためらったがただの5分だった。「西行笠懸の松」と呼んでいるが、(西行の)笠を懸けたのは弟子の西住。

Img_9318 由来話

Img_9332 旅籠柏屋

天保7年(1836)に再建された主屋の延べ面積が約100坪、敷地面積約2380坪の大旅籠。

中は歴史資料館となっている。一階には雛人形が飾られていた。

Img_9337 岡部宿本陣跡

南北約1.5kmの江戸から21番目の宿場。

Img_9340 小野小町姿見の橋

小町姉さんが橋の下の水面に映る姿を見て、容色が衰えたことを嘆いたという。今は橋にも昔の面影はなく、案内板がなければ気づかずに通り過ぎてしまうだろう。

この先の佐護神社の先が高札場跡。

Img_9339 由来

Img_9346 正応院

手入れの行き届いた静かな境内で疲れも忘れる。

Img_9351 五智如来像

前後に大小5体の如来像(左に2体ある)。前は明治時代のもの。後ろが宝永2年(1705)の建立で、もとは誓願寺の境内の街道沿いにあった。田中城主の口の不自由な姫のため、誓願寺の阿弥陀如来に願をかけたところ、姫は話せるようになった。感謝のために家来の脇田次郎左衛門が寄進したという。

Img_9350 説明板

Img_9364 案内図

朝比奈川手前の慈眼寺沿いの旧東海道。(岩村藩)傍示杭跡・郷蔵跡・横内陣屋跡などが載っているが、跡形らしきものは見当たらず。

このあたり(横内村)は美濃岩村藩の松平家の飛地領だったそうだ。

Img_9359 代官地蔵(慈眼寺)

美濃国岩村藩、横内陣屋代官田中清太夫を祀る地蔵。

Img_9360 説明板

本堂には「抱地蔵」もあり、駿河一国百地蔵の第10番札所。

Img_9368 朝比奈川には 川会所もあったようだ。木柱は無惨にも抜かれて民家の塀の中に放置されている。

Img_9371横内橋(朝比奈川)から潮山の朝日山城方向 《地図

Img_9374 橋向地蔵(川除地蔵・子授地蔵)

横内橋を渡った右側

Img_9376 田中領傍示石

田中領と岩村領との境。

Img_9377 説明板

この先に鬼島一里塚跡(49)の木柱があるはずだが見つからず。

Img_9384 鬼島の建場(立場)跡

Img_9392 須賀神社

樹齢500年の神木の大クス

Img_9394 鐙ケ淵跡・蛇柳観音堂 【ルート地図】の④

ここはもとは葉梨川の淵で鐙の形に似ていたという。淵のそばに柳の大木があってこれに触ると自殺したくなり、多くの人が淵に身を投げたという。高僧がこの「人取り柳」を切り取り、観音像を彫り観音堂の本尊にしたとか。弥次喜多道中でも、「ここはもと 鞍が鐙の 渕ならば 踏んまたがりて 通られもせず」と詠んでいる。

Img_9393 説明板

Img_9465 藤枝宿案内図①

Img_9466 藤枝宿案内図②

Img_9398 東木戸跡(天理教会前)

Img_9402 成田不動(新護寺)

左車神社は左奥裏を抜けるとある。

建長年間(1249~55)、京から六代将軍となるため鎌倉へ向う宗尊親王の御所車の左輪が折れ、ここにあった照光院で休息した。そこで寺名を左車山休息寺に改め、破損した左輪などを埋めて、そこに宮を建てて左車神社と名づけたという、アホ臭い由来話。

Img_9399 由来

Img_9414 田中城址本丸跡(西益津小学校) 《地図

同心円上の縄張りを持った城だった。

元和2年(1616)鷹狩でこの地を訪れた家康は、この城で食べた鯛の天ぷらにあたって死んだという。

Img_9416 武士道弘法地蔵

昭和32年造立の2代目の地蔵さんか?

Img_9420 田中城下屋敷跡

田中城主の別荘地に田中城の本丸櫓(写真左側)を移築して小公園になっている。郷蔵、仲間部屋、茶室、「家康公お手植えの蜜柑」なんてのもある。

Img_9421 説明板

Img_9424 本丸櫓説明板

Img_9436 藤枝宿の通りだが、昔の家並みは残っていない。この手前の小川眼科前に「白子町由来碑」が立っているようだ。

本能寺の変の後、伊賀越えで駿府へ戻る家康一行を野武士の集団が襲った。この時、伊勢白子の住人小川孫三が家康の危急を救い、天正14年(1586年)に朱印を賜ってこの地に移り住み、白子町と称した。
広重の藤枝宿

Img_9438 長楽寺

もとは粉川長楽斎という長者の屋敷だった。青島池の竜が若者に姿を変え、一人娘を池に引きずり込んでしまった。嘆き悲しんだ長者は、娘の供養のため屋敷を寺にしたという。長楽斎が計略で見事、竜を退治したという結末の筋書きもあるようだ。

今でも竜に引き込まれないように山門は閉まっている。(開けようとしなかったので分からず。他から境内へ入れるかも)

Img_9439 茶木稲荷

Img_9441 蓮生寺

もとは福井長者の屋敷だった。熊谷直実が出家して「蓮生」と名乗り立ち寄ったことから念仏道場にしたのが始まりという。山門は文化8年(1811)城主の本多正意の寄進。

Img_9444 大慶寺

日蓮の手植えという「久遠の松」

Img_9445 由来

Img_9448 説明板

Img_9450 神明社

この先の右側が下本陣、上本陣跡

Img_9451 由緒

Img_9455 正定寺

田中藩主土岐丹後守が寄進したクロマツの「本願の松」

Img_9461 志太の一里塚跡(50) 【ルート地図】の⑤

勝草橋を渡った右側で、右に常夜灯と説明板。

Img_9459 説明板

| | コメント (4) | トラックバック (0)

« 2010年2月 | トップページ | 2010年4月 »