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2010年3月31日 (水)

東海道(新居宿→白須賀宿→二川宿→吉田宿)

2010年3月19日

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  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_0642 山頭火句碑(右) 新居駅から新居関所への遊歩道。

「木のまんなかの道がまっすぐ」 昭和14年の遠州路の旅で、浜名街道を詠んだ句。『草木塔』に所載。

Img_0653 新居関所跡 【ルート地図】の①

「新居関所資料館」があるが、9時開館で早過ぎた。

Img_0654 説明板

Img_0657 無人島漂流者顕彰碑

無人島の鳥島に漂着し、なんと21年後に生還。

奇跡の生還 鳥島物語

Img_0658 説明板

Img_0660 旅籠紀伊国屋

紀州藩の御用宿だった。今は資料館になっている。

Img_0662 金松酒店

Img_0663 疋田弥五助本陣跡(疋田医院)

正面が飯田武兵衛本陣跡

Img_0666 飯田本陣

左隣の空き地が疋田八郎兵衛本陣跡

平岩弓枝の『水鳥の関』の主人公お美也の生家のモデル地という。

屋根にはなぜか「浜名湖競艇」への道案内が乗っている。

Img_0672 飯田本陣説明板

Img_0673 疋田八郎兵衛本陣説明板

Img_0670 新福寺

百観音が両側に並ぶ。

Img_0669 説明板

Img_0675 寄馬(所)跡

Img_0676 説明板

Img_0684 池田神社

天正12年(1584)の小牧・長久手の戦で、大垣城主池田恒興を討取った家康の家臣、長田伝八郎が恒興の首塚を築いた所。享保20年(1735)に神社となった。伝八郎は手柄により、永井直勝と名を改め、常陸の笠間藩主、下総の古河藩主となった。

Img_0686新居の一里塚跡(69)

左側の説明板の下に小さな「一里塚」の石柱が立つ。

Img_0685 説明板

Img_0688 西棒鼻跡

新居宿への西の入口の「西木戸」跡

Img_0689 説明板

Img_0692 教恩寺

山門前の「見返りの松」は昭和53年に松喰虫の被害で伐採された。

Img_0694 風炉の井(教恩寺の向い側)

源頼朝が上洛の折に、この井戸水を茶の湯に用いたという伝え。明応の大地震で今切口が出来るまでは舞坂と陸続きで、古代には橋本駅、中世には橋本宿があった。江戸時代には新居宿の加宿の橋本宿となった。

Img_0695 由来

Img_0700 松並木(旧浜名街道) 《地図

山頭火が歩いた頃には両側に松並木が続いていたのだろう。

Img_0701 紅葉寺跡

ここも頼朝と縁がある寺跡。石段上には石仏の祠、歌碑の石柱などある。

Img_0702 説明板

Img_0709 藤原為家・阿佛尼歌碑

「風わたる 濱名の橋の 夕しほに さされてのぼる あまの釣舟」 前大納言為家

「わがためや 浪もたかしの浜ならん 袖の湊の 浪はやすまで」 阿佛尼『十六夜日記』

古東海道は「濱名の橋」を渡っていたのだ。

Img_0707 説明板

Img_0711 立場跡

新居宿と白須賀宿の間の休憩所で加藤家が勤めていた。

Img_0710 説明板

面白い戯れ歌を詠む殿様もいるもんだ。

Img_0721 火鎮(ほずめ)神社 《地図

「火之迦具土神」を祀っても火災に遭うとはこれ如何にか。鎮火は早かったかも。

Img_0722 由緒

Img_0731 白須賀元町の家並み

もとはここが白須賀宿だった。宝永4年(1707)に津波の被害を受け宿場は全滅し、翌年に潮見坂の坂上へと移った。

Img_0737 白須賀元町の一里塚跡(70)・高札場跡

一里塚の説明板ははずされている。邪魔なのだろう。自動車の前の小さな石柱が「一里山旧址」の石柱。

Img_0735 説明板

Img_0739 長屋門の旧家

Img_0740 蔵法(ぞうぼう)寺

本尊の観音像は、宝永4年に白須賀宿に泊まった池田輝政に大津波の襲来を告げたという「潮見観音」で、遠州灘を通る船は帆を下げ、観音の名を念じることとされていたので、「帆下げ観音」とも呼ばれていた。

Img_0741 縁起

Img_0746 潮見坂 【ルート地図】の②

緩やかに上って、途中から急坂になる。

Img_0761 説明板

Img_0763 今でも海は見えるが、昔は富士も見えたのだろうか?

元禄4年(1691)オランダ商館長に随行したドイツ人医師ケンベルの『江戸参府旅行日記』には、「ここより初めて(中略)富士山を仰ぎ得たり」とあるそうだが。

Img_0767 おんやど白須賀 《地図

旅館ではなく、資料館兼休憩所

Img_0775 潮見坂公園跡から遠州灘

徳川家康がここに茶室をつくり、武田勝頼を破り尾張に帰る織田信長をもてなしたという。今は公園は白須賀中学校になっている。

Img_0771 説明板

Img_0782 袈裟切り地蔵への道

案内板などはなく、ここは分かりにくいよ。

Img_0780 袈裟切り地蔵 【ルート地図】の③

残りの六地蔵は無残にも割れて倒れている。

Img_0770 由来話

Img_0787 白須賀宿の家並み

Img_0793 曲尺手(かねんて)

昔は枡形と同じ直角に曲がっていたのだろう。

Img_0792 説明板

Img_0794 大村庄左衛門本陣跡(白須賀美容院前)

伊能忠敬の測量隊も泊まったそうだ。

Img_0795 説明板

Img_0801 脇本陣跡

「桐屋」と称した三浦惣次郎脇本陣だった。

左下に「脇本陣跡」の小石柱が立つ。

Img_0803 夏目甕麿(みかまろ)邸跡(左)

本居宣長門下の国学者。

Img_0805 説明板

Img_0808 火防樹の槙(民家内)

高台に移って津波の被害はなくなったが、西風の火事が多かった。「火除け地」を設け、火に強い槙を植えた。

Img_0809 説明板

Img_0813 庚申堂 《地図

この地方では一番大きな庚申堂で、天保12年(1841)の再築。狛犬の代わりに三猿の狛猿。

Img_0818 境橋

遠江(静岡県)と三河(愛知県)の境

Img_0827 一里山(細谷)の一里塚跡(71)

国道1号の一里山交差点の先の右側。

Img_0823 説明板

Img_0833 三ツ坂(坂下方向) 《地図

国道1号の三ツ坂交差点を北西に下る坂。

Img_0838 源吾坂

三ツ坂から続いて下る坂。源吾坂バス停がある。

二川村を開いた後藤源吾の名をつけた坂。二川宿はもとはこのあたりにあった。

Img_0868 二川新町開山の碑(二川宿の十王院境内)

「一翁善徳」は源吾の戒名

Img_0867 説明板

Img_0858 般若坂 北方向に上る坂。(東海道の坂ではない)《地図

東町から大脇へ行く途中の坂。かつては急坂で、坂を上る顔が般若のような形相になったことから名づけられたという。

Img_0852 二川の一里塚跡(72) 《地図

二川宿案内所(川口屋)の右前に「一里塚跡」の石柱。

Img_0863 妙泉寺

「ほうろく灸」でも有名な寺。

Img_0864 説明板

Img_0866 紫陽花塚

寛政10年(1798)建立の芭蕉句碑

Img_0865 説明板

Img_0872 二川八幡宮

Img_0871 説明板

Img_0878_2 駒屋(左)は文化11年(1814)建築の現存する豊橋市内最古の商家

東駒屋(右)は醤油・味噌の店だが、廃業しているようだ。

Img_0881 枡形の跡だろう。

Img_0887 脇本陣松坂家跡

Img_0888 説明板

Img_0889 本陣馬場家跡

本陣は後藤家→紅林家→馬場家へと移っている。

Img_0856 大正7年には今にも倒れそうなみじめな状態だったが、上のように立派になった。豊橋市は随分と金をかけたことだろう。

この頃は味噌・醤油の醸造業をしていたようだ。

Img_0892 説明板

Img_0896二川宿本陣資料館(本陣の後ろにある) 《地図

有料一般400円

Img_0902 本陣内では雛人形の展示会で、中年のご婦人たちで賑やか。すごすご退散。

Img_0906 旅籠「清明屋」

本陣に隣接して、文化14年(1817)に建てられた。

ここから奥に、主屋・繋ぎの間・奥座敷と続いている。

Img_0894 西駒屋

明治末創業の手作り味噌・醤油の製造販売。「味噌溜」の看板が掛かっている。外からだと営業しているようには見えないが。

Img_0911 高札場跡石柱・二川町道路元標(右下)

中原屋はお菓子の老舗

Img_0921 大岩神明宮

Img_0924 由緒

Img_0932 火打坂 【ルート地図】の④

岩屋山から採石された火打石による坂名。吉田宿には火打石から火花を移し取る「火口(ほくち)」を売る「火口屋嘉右衛門」もあったそうだ。

坂上から岩屋観音像が見えるというのだが、見えなかった。近所のおばあさんに聞いても見えないという答え。

Img_0944 クロマツ跡(バス停岩屋緑地北の先)

ここは松並木だった。

Img_0945 一本残っていたクロマツも松くい虫の被害にあい、平成19年2月28日に伐採された。

Img_0940 昭和33年頃の様子

変われば変わるものだ。

Img_0955 飯村の一里塚跡(73) 《地図

殿田橋を渡り、国道1号との合流点。分かりにくい所にあり、かなり先まで行って引き返す。

Img_0960 寿泉禅寺

山門も三重塔も平成になってからの築造。

Img_0964 瓦町不動院

山門に「吉田藩主の祈願所」

Img_0963 由来記

Img_0968 吉田宿東惣門跡 《地図

古くはこの地は今橋といったが、「忌まわしい」に通ずるとし、「吉」の吉田にしたという。

Img_0969 説明板

Img_0973 談合神社

境内の談合集会所で業者の”談合”が行われる?ここは談合町で、談合橋もある。

Img_0988 吉田城址 【ルート地図】の⑤

正面奥は鉄櫓(くろがねやぐら)

Img_0983 説明板

Img_0990 吉田城址の下を大きく蛇行する豊川。

潮流の関係で上流へと逆流しているようだ。

Img_1002 吉田宿問屋場跡 《地図

札木交差点のNTTの前

Img_1003 市電の札木停留所

札木町には65軒もの旅籠が集まり、飯盛女の多い宿でも有名で、「吉田通れば二階から招くしかも鹿の子の振り袖が」と歌われた。

Img_1005 本陣清須屋・江戸屋跡 《地図

現在は鰻の「丸よ」

Img_1006 説明板

Img_1008 脇本陣跡

鈴木庄七郎の「枡屋」跡

Img_1011 「菜飯田楽」の「きく宗」  《地図

一つ手前の交差点で田原街道が南に分岐する。芭蕉が愛弟子の杜国を訪ねて歩いた道でもある。

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 私の勤務しているコミュニティーセンターのある場所は札木というのですが、なぜ札木というのかずっと思っていました。でも今調べてみたら豊橋市に札木町というところがあることが分りました。東海道吉田宿の中心だったようです。もしかしたら歴史的つながりがあるのでしょうか? http://blogs.yahoo.co.jp/goodlife5152/31935515.html ← 札木駅 http://blog.livedoor.jp/bamboograsswood/archives/104280...... [続きを読む]

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