東海道(新居宿→白須賀宿→二川宿→吉田宿)
2010年3月19日
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【ルート地図】
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「木のまんなかの道がまっすぐ」 昭和14年の遠州路の旅で、浜名街道を詠んだ句。『草木塔』に所載。
「新居関所資料館」があるが、9時開館で早過ぎた。
無人島の鳥島に漂着し、なんと21年後に生還。
『無人島漂流者の話』
紀州藩の御用宿だった。今は資料館になっている。
正面が飯田武兵衛本陣跡
左隣の空き地が疋田八郎兵衛本陣跡
平岩弓枝の『水鳥の関』の主人公お美也の生家のモデル地という。
屋根にはなぜか「浜名湖競艇」への道案内が乗っている。
百観音が両側に並ぶ。
天正12年(1584)の小牧・長久手の戦で、大垣城主池田恒興を討取った家康の家臣、長田伝八郎が恒興の首塚を築いた所。享保20年(1735)に神社となった。伝八郎は手柄により、永井直勝と名を改め、常陸の笠間藩主、下総の古河藩主となった。
左側の説明板の下に小さな「一里塚」の石柱が立つ。
新居宿への西の入口の「西木戸」跡
山門前の「見返りの松」は昭和53年に松喰虫の被害で伐採された。
源頼朝が上洛の折に、この井戸水を茶の湯に用いたという伝え。明応の大地震で今切口が出来るまでは舞坂と陸続きで、古代には橋本駅、中世には橋本宿があった。江戸時代には新居宿の加宿の橋本宿となった。
松並木(旧浜名街道) 《地図》
山頭火が歩いた頃には両側に松並木が続いていたのだろう。
ここも頼朝と縁がある寺跡。石段上には石仏の祠、歌碑の石柱などある。
「風わたる 濱名の橋の 夕しほに さされてのぼる あまの釣舟」 前大納言為家
「わがためや 浪もたかしの浜ならん 袖の湊の 浪はやすまで」 阿佛尼『十六夜日記』
古東海道は「濱名の橋」を渡っていたのだ。
新居宿と白須賀宿の間の休憩所で加藤家が勤めていた。
面白い戯れ歌を詠む殿様もいるもんだ。
火鎮(ほずめ)神社 《地図》
「火之迦具土神」を祀っても火災に遭うとはこれ如何にか。鎮火は早かったかも。
もとはここが白須賀宿だった。宝永4年(1707)に津波の被害を受け宿場は全滅し、翌年に潮見坂の坂上へと移った。
一里塚の説明板ははずされている。邪魔なのだろう。自動車の前の小さな石柱が「一里山旧址」の石柱。
本尊の観音像は、宝永4年に白須賀宿に泊まった池田輝政に大津波の襲来を告げたという「潮見観音」で、遠州灘を通る船は帆を下げ、観音の名を念じることとされていたので、「帆下げ観音」とも呼ばれていた。
緩やかに上って、途中から急坂になる。
元禄4年(1691)オランダ商館長に随行したドイツ人医師ケンベルの『江戸参府旅行日記』には、「ここより初めて(中略)富士山を仰ぎ得たり」とあるそうだが。
おんやど白須賀 《地図》
旅館ではなく、資料館兼休憩所
徳川家康がここに茶室をつくり、武田勝頼を破り尾張に帰る織田信長をもてなしたという。今は公園は白須賀中学校になっている。
案内板などはなく、ここは分かりにくいよ。
残りの六地蔵は無残にも割れて倒れている。
昔は枡形と同じ直角に曲がっていたのだろう。
伊能忠敬の測量隊も泊まったそうだ。
「桐屋」と称した三浦惣次郎脇本陣だった。
左下に「脇本陣跡」の小石柱が立つ。
本居宣長門下の国学者。
高台に移って津波の被害はなくなったが、西風の火事が多かった。「火除け地」を設け、火に強い槙を植えた。
庚申堂 《地図》
この地方では一番大きな庚申堂で、天保12年(1841)の再築。狛犬の代わりに三猿の狛猿。
遠江(静岡県)と三河(愛知県)の境
国道1号の一里山交差点の先の右側。
三ツ坂(坂下方向) 《地図》
国道1号の三ツ坂交差点を北西に下る坂。
三ツ坂から続いて下る坂。源吾坂バス停がある。
二川村を開いた後藤源吾の名をつけた坂。二川宿はもとはこのあたりにあった。
「一翁善徳」は源吾の戒名
般若坂 北方向に上る坂。(東海道の坂ではない)《地図》
東町から大脇へ行く途中の坂。かつては急坂で、坂を上る顔が般若のような形相になったことから名づけられたという。
二川の一里塚跡(72) 《地図》
二川宿案内所(川口屋)の右前に「一里塚跡」の石柱。
「ほうろく灸」でも有名な寺。
寛政10年(1798)建立の芭蕉句碑
駒屋(左)は文化11年(1814)建築の現存する豊橋市内最古の商家
東駒屋(右)は醤油・味噌の店だが、廃業しているようだ。
本陣は後藤家→紅林家→馬場家へと移っている。
大正7年には今にも倒れそうなみじめな状態だったが、上のように立派になった。豊橋市は随分と金をかけたことだろう。
この頃は味噌・醤油の醸造業をしていたようだ。
有料一般400円
本陣内では雛人形の展示会で、中年のご婦人たちで賑やか。すごすご退散。
本陣に隣接して、文化14年(1817)に建てられた。
ここから奥に、主屋・繋ぎの間・奥座敷と続いている。
明治末創業の手作り味噌・醤油の製造販売。「味噌溜」の看板が掛かっている。外からだと営業しているようには見えないが。
中原屋はお菓子の老舗
岩屋山から採石された火打石による坂名。吉田宿には火打石から火花を移し取る「火口(ほくち)」を売る「火口屋嘉右衛門」もあったそうだ。
坂上から岩屋観音像が見えるというのだが、見えなかった。近所のおばあさんに聞いても見えないという答え。
ここは松並木だった。
一本残っていたクロマツも松くい虫の被害にあい、平成19年2月28日に伐採された。
変われば変わるものだ。
飯村の一里塚跡(73) 《地図》
殿田橋を渡り、国道1号との合流点。分かりにくい所にあり、かなり先まで行って引き返す。
山門も三重塔も平成になってからの築造。
山門に「吉田藩主の祈願所」
吉田宿東惣門跡 《地図》
古くはこの地は今橋といったが、「忌まわしい」に通ずるとし、「吉」の吉田にしたという。
境内の談合集会所で業者の”談合”が行われる?ここは談合町で、談合橋もある。
吉田城址 【ルート地図】の21
正面奥は鉄櫓(くろがねやぐら)
潮流の関係で上流へと逆流しているようだ。
吉田宿問屋場跡 《地図》
札木交差点のNTTの前
札木町には65軒もの旅籠が集まり、飯盛女の多い宿でも有名で、「吉田通れば二階から招くしかも鹿の子の振り袖が」と歌われた。
本陣清須屋・江戸屋跡 《地図》
現在は鰻の「丸よ」
鈴木庄七郎の「枡屋」跡
「菜飯田楽」の「きく宗」 《地図》
一つ手前の交差点で田原街道が南に分岐する。芭蕉が愛弟子の杜国を訪ねて歩いた道でもある。
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