東海道(藤枝宿→島田宿→金谷宿→日坂宿→掛川宿)
2010年3月1日
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今日は今回の東海道歩きのハイライト。島田宿から「越すに越されぬ」大井川を渡り、小箱根の金谷坂、菊川坂から箭置坂を上り(上の写真は途中からの眺め)、歌枕の「小夜の中山」を越え、往時の宿場の面影の残る日坂宿を通り、山内一豊の掛川宿まで。かなりの距離だが足は大丈夫だろうが、頭の中がパンクしなければよいが。
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
鏡ケ池に棲む神龍(悪龍)を鬼岩寺二世静照上人が退治したところ、池の中から六地蔵が出現した。智証大師の作の金色の木像という30cmの地蔵は33年に一度の開帳だそうだ。六体の像でなく、一面か六面に六体が彫られたものか。ここの西方の水神社の前が鏡ケ池(跡)。まあ池の中から引上げられたのだから金色に輝いていることはあるまい。
渡辺崋山の名も出てくる。
無縁寺は寛永4年(1627)の大井川洪水の犠牲者の供養の寺だった。国道1号敷設、ゴルフ場建設などのために瀬戸山は古墳群とともに崩されて消滅してしまった。供養塔を建てたからといって被葬者は浮かばれないだろうよ。瀬戸地蔵堂ももとは瀬戸山にあった。
寛永12年(1635)に大井川の洪水から守るために築かれた堤防跡。
古東海道の時代から尾根の茶店で売られていた、旅人用のくちなしで染めた強飯弁当。染飯は今でも藤枝駅前の「喜久屋」で製造販売しているようだが、昨日の買うのを忘れた。
【ル-ト地図】の97
すぐ先に一里塚の石柱が立っている。
この先あまり見るべきものはないが、所々に古い建物が残っている。
栃山橋を渡って島田宿へと入る。《地図》
島田宿本陣跡 《地図》
後方に陣屋(代官所)跡、御陣屋稲荷、快林寺と続く。
【ル-ト地図】の98
風刺人形、川柳が作られるようになり、別名を「悪口稲荷」
全国から投稿があるようだ。なかなか辛らつで手きびしい。「愛」はあるのだろうか?
左前に「島田宿中心地之碑」。梅花観音霊場第96番、秩父駿河観音霊場第9番。いろんな札所があるよ、まったく。
三柱の祭神は女神で、安産、女性、子どもの守り神。さすがに女性の参詣者が目立った。左は島田の帯祭りの大奴像。
大善寺 《地図》
時の鐘は戦時中に供出され2代目のもの。
八百屋お七の恋人、吉三郎はお七が処刑された後に僧となり諸国遍歴のすえ、島田宿で没しここに葬られたという。また後年、たまたまこの寺に立ち寄った吉三郎の子の修行中の僧が納めたという「吉三地蔵」が安置されているという。ちょっとでき過ぎた話だが。吉三地蔵は本堂にあるというが、後ろの地蔵ではないのか?
吉三郎は出家して西運と名乗り、諸国行脚の末に目黒の行人坂下の大円寺の隣りの明王院に身を寄せ、お七の菩提を弔ったというのが一般的か。「お七地蔵」・「ほうろく地蔵」・「お七の墓」・「お七観音」・「お七吉三比翼塚」などいろいろあるが、やっぱり主役はお七だ。女は得か?
川越人足の番屋が軒を連ね、川越しの事務所の川会所、人足が川札を金に替えた札場などもある。案内人の方からいろいろと面白い話を聞いて、かなりの時間を費やした。まだ先が長く、ちょっと心配になってきたが。
最近は雛人形を飾る家が少なくなっているそうで、近くの家々のものを飾っているそうだ。一年に一度、明るく華やかな雛壇に並べられ、人形も晴れがましそうに見える。ただ虫干し、風通しをされているとも知らずに。
島田宿、大井川下流の人々の生活を守ってきた堤が途切れ途切れに残っている。
増水時の激流から堤防を守る、「八重枠」から由来する川除けと、川越しで亡くなった人々を供養する神社。
「朝顔日記」の深雪の目が開いて、初めて見えたのがこの松の木(2代目)とか。初代の松は正面左の「あさがほ堂」に木碑となって奉納されている。正面奥の小堂は「朝顔目明観音」と「川除地蔵」。
江尻宿の法岸寺には『朝顔日記』のヒロインの深雪の墓があったっけ。
歩道もしっかりついているが、すごく時間がかかる気がする。ただただ渡るだけだからか。 『広重の大井川』
番屋、川会所などが並んでいるが、島田側のようには残っていない。『広重の大井川(金谷)』
日本左衛門首塚(宅円庵) 【ルート地図】の100
遠州鈴ケ森(見付宿)で晒し首になっていたのを愛人の女が運び去りここに葬ったという。由比正雪の首といい、いつも生首を平気で持ち歩くのは女性だ。「女は強し、そして恐い、そして・・・・」
首塚には岡本天古の「月の出るあたりは弥陀の浄土か な」の句が彫られているそうだ。
辞世の「押取の人の思い羽かさなりて 身に青網のかかる悲しさ」
「かかる悲しさ」なんてセンチなセリフは大泥棒の最後らしくない。石川五右衛門のように、「・・・・世に盗人の種は尽きまじ」ぐらい言わないとかっこ悪いと思うよ。
北向地蔵、六地蔵などがある。無住の寺のようだ。
金谷宿佐塚屋本陣跡 《地図》
本陣はもう1軒、山田屋があった。
金谷一里塚跡(53) 《地図》
左へ東海道線、大井川鉄道のガードをくぐる。
次ぎの(54)・(55)番目の一里塚は欠番。
(2000年2月12日撮影)
観音坂(寸又峡温泉)
芭蕉の「道のべの 木槿(むくげ)は馬に 食われけり」の句碑がある。
金谷宿の西の入口。
新道に入らず、直進して金谷坂を上るのが旧東海道。
由来不明
昔はもっと大きな堂だったのだろう。日本左衛門がここで盗み用の着物にドレスアップして夜盗に向ったとか。
六角堂の中に双体の木造地蔵が立つ。
もちろん金谷坂で「滑らない」ようにだが、今は受験で「すべらない」ようにと受験生が訪れるそうだ。「藁にもすがる」思いか。もっと勉強した方がましよ。
諏訪原城跡の大手郭、武家屋敷あたり。
【ル-ト地図】の102天正元年(1573)に武田勝頼が築いた山城。扇状の形をしているので扇城の別名がある。
平成13年に復元されたばかりで、石の表面が平らでなく歩きにくい。雨の日はきついだろう。
遠江三十三観音第25番松島山岩松寺への道標
欠けた上部を補修している。岩松寺は「歩き観音」で有名だそうだ。
本陣・脇本陣・庄屋・問屋場などが見える。
菊川の名の由来となった菊花紋の石。白菊姫の伝説もあるそうだ。酒造会社のイメキャラのような名で、名前を聞くだけでその美しさに酔ってきそうだ。白菊姫伝説とはどんなものか? 調べても分からず。
中納言藤原宗行卿詩碑(左)・日野俊基歌碑(右)
承久の乱と約100年後の正中の変で鎌倉幕府討幕に加担し、捕まった二人の漢詩と和歌。宗行は鎌倉へ護送中に処刑、俊基は赦免されるが、懲りずに元弘の変に加わり死罪となった。
箭置(やおき)坂(青木坂) 《地図》
菊川宿の西にあり、西坂とも、小夜の中山まで上る長い坂なので、長坂とも呼ばれる。確かに長い。ひと汗かいた。
『広重の小夜の中山』
鎌倉へ向う阿佛尼が「十六夜日記」で詠んだ歌碑
「雲かかる 小夜の中山越えぬとは 都に告げよ 有明の月」
この先、歌枕の「小夜の中山」の多くの歌碑が街道沿いに並んでいる。
「小夜の中山」の地名由来は、蛇身怪鳥を退治した藤原良政と結ばれた月小夜姫が都から戻って、この地に移り住んだことからという。良政と月小夜姫の子が小石姫で、「夜泣き石」の話とつながって行く。
昔ばなし『蛇身鳥物語』
久延寺 《地図》
家康手植えの五葉松の向うに「夜泣き石」
身重で殺されたお石の霊が乗り移って泣いたという石にしては大きく無骨な感じがする。もとの「夜泣き石」は別の場所にあるがそれも大きい。(峠下の茶店の小泉屋《地図》→後述)
音八と母の仇の轟業右衛門は和解して、お石の菩提を弔ったという筋書きもあるようだ。
ここは「子育て飴」伝説で、「小石姫は男児を出産後自害した。遺児の月輪童子は実父から伝えられた製法の飴で育てられた」、「夜泣き石伝説」のお石から生まれた音八もこの飴で育てられたというからややこしい。お石・小石姫・月輪童子・音八・月小夜姫・藤原良政など登場人物も多く、筋書きもあちこち適当にくっつけたりして絡み合い、結末もいくつかに分かれている。
店は閉まっていて飴は買えなかった。各地に残る「幽霊飴」・「子育て飴」伝説の一つだろう。
西行歌碑 「年たけて また越ゆべしと おもひきや いのちなりけり さよの中山」
晩年の69歳で、奥州藤原氏を訪ねる旅で、2回目の小夜の中山越えをしているのだから、やっぱり昔の人にはかなわない。平安時代末期の東海道もまだ整備されていなかった時のことで尚更だ。そしてこの歌が「小夜の中山」の名を一段と高めたのだからただただ平伏あるのみ。
西行は俊乗坊重源の依頼により、東大寺再建の砂金勧進のため藤原秀衡を訪ねるべく伊勢の二見ケ浦から伊良湖岬に渡り奥州へと旅立った。伊良湖岬にも歌碑が立っている。『田原街道④・伊勢街道(表浜街道)①』に記載
右端の「月小夜姫」は小石姫の母親。墓は気づかなかった。
「中先代の乱」の北条時行には、三島宿と沼津宿の間の智方神社でも出会った。
「小夜の中山伝説」で、蛇身怪鳥を退治した藤原良政が乗っていた馬を祀るという。良政と月小夜姫の間に生まれたのが小石姫。
小石姫は身重のまま自害したとしている。
芭蕉がこの松の下で、「命なりわずかの笠の下涼み」と詠んだそうだ。
もとの「夜泣き石」はここにあった。後に久延寺に移され東京の博覧会に出品されたが不評で、久延寺は持ち帰る途中で放棄した。その後、峠下へ移転していた茶店小泉屋が出資して自店の敷地内に移したという顛末。したがって現在、久延寺にある「夜泣き石」は偽物と言ったら怒られるか。
「現在の位置に移る」として、今どこにあるかを書いていない。久延寺に気を使った文面だろうがいただけない。
700mほどの小さな宿だが、古い建物も残っていて宿場風情を感じさせる。
【ル-ト地図】の103
今は日坂幼稚園で平屋のレトロな建物がいい感じだ。
池田屋
「日坂宿 旅人御宿」の暖簾が掛っている。今は割烹旅館「末広亭」として営業。
「藤文」と「かえでや」
食事を出さない木賃宿だった。
日坂宿の西端の旅籠。敷地は国道、バイパス建設で分断されている。
後ろは遠江三十三観音霊場の第21番の光善寺観音堂。
その先の古宮橋手前が下木戸跡
明治天皇から楠正成愛用と伝わる硯をもらい、「賜硯堂」と号した書家。
「枕草子」、「十六夜日記」にも出てくるそうだ。何でも願い事が叶うとは文字通り有難い神社だ。
姫石権現、その姫宮、(事任)八幡宮、囲碁、竜神、雄鯨、雌鯨、潮垢離、潮井河原(塩井神社)の登場する面白い『雄鯨山雌鯨山』の伝説がある。
塩井神社 《地図》
『雄鯨山雌鯨山』伝説の潮井河原の地。逆川を渡る参道の橋は崩れてそのまま放置されているかと思いきや、祭礼の時だけ仮橋が架けられるそうだ。境内への道は他にあるのだろうか?
伊藤嵐牛は寛政から明治にかけての国学者、俳人か。
TVの「お宝探偵団」のような書画、骨董はないとさ。
【ル-ト地図】の105
右に説明板と石柱
菊川市加茂の大頭龍神社と、菊川市西方の福天大権現(洞谷山龍雲寺)への道標
馬喰橋手前 《地図》
そろそろ腹が減ってきたが、我慢我慢もう少し。
【ル-ト地図】の106
馬喰橋を渡ったすぐ先
東伝寺の手前で左に曲がり、「七曲り」を通って掛川宿の中心部へ入っていく。《地図》
「丁葛」15本入り1500円也
寛政2年(1790)創業
昭和の初期に建てられた映画館、演劇場らしい。今は総合福祉施設として開館している。
本陣沢野家跡 《地図》
今は駐車場。この先の中町に浅羽本陣跡、問屋場跡があったのだが説明板などは見つからなかった。もう5時近い。掛川城へは明日登城しよう。
いいねえ、この駅舎は。新幹線停車駅で唯一の木造駅舎だそうだ。ただし北口だけ。
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