東海道(丸子宿→岡部宿→藤枝宿)
2010年2月28日(日)
安倍川駅(東海道線)・・・県道208号・丸子一里塚跡(46)・丸子宿(江戸方見付跡・水神社・本陣跡・お七里役所跡・丁子屋・高札場跡・京方見付跡)・丸子橋(丸子川)・・・長源寺・起樹天満宮・国道1号・・・道の駅宇津ノ谷・(蔦の細道分岐)・・・慶龍寺・御羽織屋・・・(明治のトンネル)・・・お弘法さん・・・雁山の墓・・・峠の地蔵堂跡・・・宇津ノ谷峠・・・鬚題目碑・・・蘿径記碑跡・・・鼻取地蔵堂(坂下地蔵堂)・蘿径記碑・・・岡部一里塚跡あたり(48)・十石坂観音堂・・・笠懸の松・西住の墓・・・三星寺・・・岡部橋(岡部川)・・・専称寺(西行坐像)・・・岡部宿(旅籠柏屋・本陣跡・小野小町姿見の橋・佐護神社・高札場跡・正応院・西宮神社・五智如来像)・・・(国道1号)・慈眼寺(代官地蔵・抱地蔵)・(郷蔵跡・横内陣屋跡)・横内橋(朝比奈川)・川除地蔵・・・田中領傍示石・・・(鬼島一里塚跡(49))・・・八幡橋(葉梨川)・・・鬼島の建場(立場)跡・・・須賀神社・・・鐙ケ淵跡・蛇柳観音堂・・藤枝宿(東木戸跡・左車神社・成田不動・田中城址・六間川橋・田中城下屋敷跡・長楽寺・茶木稲荷・蓮生寺・大慶寺(久遠の松)・神明社・下本陣跡・上本陣跡・正定寺(本願の松)・問屋場跡・西木戸跡)・・・勝草橋(瀬戸川)・志太一里塚跡(50)・・為善館跡・・・藤枝駅(東海道線)
丸子宿は昨日、今日と宿場祭りだがあいにくの雨で人影もまばらだ。雨に煙った静かで、時間が止まったような宇津ノ谷の集落(上の写真は峠への途中から)を抜けて、宇津ノ谷峠へと上って行く。普段の日曜ならハイカー達も通るのだろうが、この天気が幸いしてか誰にも逢わずにゆったりした気分で峠を越えた。下界の岡部宿ではテレビでチリ地震の津波警戒放送がやかましい。東海道線も一部の区間で運転を見合わせたようだ。海から離れた東海道歩きは、そんなこととは無縁の別世界だった。
【ルート地図】
『東海道(府中宿→丸子宿)』からの続き。
写真をクリックすると拡大します。
丸子宿江戸方見付跡 《地図》
番所の役人が街道を行く旅人を取り調べている? いや宿場祭りでこの先は車は進入禁止なのだ。
丸子宿はここから丁子屋の先の京方見付までの630mほどの小さな宿。
幕府の動向、江戸の情報をいち早く得るための紀州藩専用の飛脚の連絡役所跡。
慶長元年(1596)創業の東海道名物の「とろろ汁」
『広重の丸子宿』にも描かれている名物茶屋。
弥次喜多は店の夫婦喧嘩に巻き込まれとろろ汁を食べそこなった。
「梅わかな 丸子の宿の とろろ汁」
手前に長源寺がある。
道の駅宇津ノ谷の先で、古東海道の「蔦の細道」が分岐して上っている。
『伊勢物語』の在原業平の歌、「駿河なる うつの山辺の うつつにも 夢にも人に 逢わぬなりけり」
在原業平の祈願により、地蔵菩薩が人肉の味を覚えて鬼になった梅林寺の小僧を10粒に砕き、飲み込んで退治したという伝説「十団子」の由来の寺。
森川許六の「十団子も 小粒になりぬ 秋の風」の句碑がある。峠の地蔵堂の延命地蔵もこの寺に移され安置されている。
「十団子」の由来話
天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原攻めの時、休息に立ち寄って馬の沓を所望した。主は3脚分しか出さなかったので秀吉が問うと、あとは帰り(戦勝後)に差し上げると答えた。秀吉は帰りに立ち寄って褒美に陣羽織を与え、諸役を免除した。
【ル-ト地図】の89長さ203mだが、薄暗く歩道が分離してないトンネルでここを抜ける気はしない。
右が嘉永5年(1852)、左が大正5年のもの。
由来が分からず。
旅先で死んだと思って弟子たちが建てた墓。当人は82歳まで長生きした。
歌舞伎の『蔦紅葉宇都谷峠 』で、十兵衛が百両持っている盲目の文弥を殺す、「文弥殺し」の場がこの延命地蔵堂前。
延命地蔵は慶龍寺に移され祀られている。
「文弥殺し」の話が載っている。
ここが峠の頂上あたりか。眺望はなく雨で滑りやすいが、行き交う人も無く、静かな道を坂下地蔵堂へと下って行く。
『広重の宇津之谷峠』
この先に「蘿径記碑」があった。今は坂下地蔵堂に移されている。
左から蔦の細道が合流する。
地蔵さんの姿は拝めず。
地蔵が子供に姿を変え、牛の鼻緒を取って田畑仕事の手伝いをしたという伝説が残り、「鼻取地蔵」・「稲刈地蔵」とも呼ばれている。縁日には「十団子」が供えられる。
「蘿径」(らけい)とは、「蔦の細道」のことで、近世東海道の開通で忘れ去られ、荒廃したのを嘆いた駿府代官の羽倉簡堂が文政13年(1830)に建てたもの。
「在五中将」とは、在原業平のこと。
岡部町では室町時代から茶の栽培をしていたそうだ。朝比奈地区は京都の宇治、福岡の八女と並ぶ玉露の三大生産地。
江戸時代の扶持米が十石だったという。
十石坂観音堂 《地図》
千手観音立像が安置されているそうだ。このあたりに岡部一里塚(48)があったらしい。
堂内の厨子が貴重なのか? 千手観音像のことは書かれていない。
西行と旅をした弟子、西住との悲しい別れの物語。二代目の松が3本か。その下の小さな石塔が西住の墓。
案内板にはここまで約15分と書いてある。上りの15分はけっこうきつい。どうしようかちょっとためらったがただの5分だった。「西行笠懸の松」と呼んでいるが、(西行の)笠を懸けたのは弟子の西住。
天保7年(1836)に再建された主屋の延べ面積が約100坪、敷地面積約2380坪の大旅籠。
中は歴史資料館となっている。一階には雛人形が飾られていた。
南北約1.5kmの江戸から21番目の宿場。
【ル-ト地図】の93小町姉さんが橋の下の水面に映る姿を見て、容色が衰えたことを嘆いたという。今は橋にも昔の面影はなく、案内板がなければ気づかずに通り過ぎてしまうだろう。
この先の佐護神社の先が高札場跡。
手入れの行き届いた静かな境内で疲れも忘れる。
前後に大小5体の如来像(左に2体ある)。前は明治時代のもの。後ろが宝永2年(1705)の建立で、もとは誓願寺の境内の街道沿いにあった。田中城主の口の不自由な姫のため、誓願寺の阿弥陀如来に願をかけたところ、姫は話せるようになった。感謝のために家来の脇田次郎左衛門が寄進したという。
朝比奈川手前の慈眼寺沿いの旧東海道。(岩村藩)傍示杭跡・郷蔵跡・横内陣屋跡などが載っているが、跡形らしきものは見当たらず。
このあたり(横内村)は美濃岩村藩の松平家の飛地領だったそうだ。
美濃国岩村藩、横内陣屋代官田中清太夫を祀る地蔵。
本堂には「抱地蔵」もあり、駿河一国百地蔵の第10番札所。
朝比奈川には 川会所もあったようだ。木柱は無惨にも抜かれて民家の塀の中に放置されている。
横内橋を渡った右側
田中領と岩村領との境。
この先に鬼島一里塚跡(49)の木柱があるはずだが見つからず。
樹齢500年の神木の大クス
ここはもとは葉梨川の淵で鐙の形に似ていたという。淵のそばに柳の大木があってこれに触ると自殺したくなり、多くの人が淵に身を投げたという。高僧がこの「人取り柳」を切り取り、観音像を彫り観音堂の本尊にしたとか。弥次喜多道中でも、「ここはもと 鞍が鐙の 渕ならば 踏んまたがりて 通られもせず」と詠んでいる。
左車神社は左奥裏を抜けるとある。
建長年間(1249~55)、京から六代将軍となるため鎌倉へ向う宗尊親王の御所車の左輪が折れ、ここにあった照光院で休息した。そこで寺名を左車山休息寺に改め、破損した左輪などを埋めて、そこに宮を建てて左車神社と名づけたという、アホ臭い由来話。
同心円上の縄張りを持った城だった。
元和2年(1616)鷹狩でこの地を訪れた家康は、この城で食べた鯛の天ぷらにあたって死んだという。
昭和32年造立の2代目の地蔵さんか?
田中城主の別荘地に田中城の本丸櫓(写真左側)を移築して小公園になっている。郷蔵、仲間部屋、茶室、「家康公お手植えの蜜柑」なんてのもある。
藤枝宿の通りだが、昔の家並みは残っていない。この手前の小川眼科前に「白子町由来碑」が立っているようだ。
本能寺の変の後、伊賀越えで駿府へ戻る家康一行を野武士の集団が襲った。この時、伊勢白子の住人小川孫三が家康の危急を救い、天正14年(1586年)に朱印を賜ってこの地に移り住み、白子町と称した。
『広重の藤枝宿』
もとは粉川長楽斎という長者の屋敷だった。青島池の竜が若者に姿を変え、一人娘を池に引きずり込んでしまった。嘆き悲しんだ長者は、娘の供養のため屋敷を寺にしたという。長楽斎が計略で見事、竜を退治したという結末の筋書きもあるようだ。
今でも竜に引き込まれないように山門は閉まっている。(開けようとしなかったので分からず。他から境内へ入れるかも)
もとは福井長者の屋敷だった。熊谷直実が出家して「蓮生」と名乗り立ち寄ったことから念仏道場にしたのが始まりという。山門は文化8年(1811)城主の本多正意の寄進。
日蓮の手植えという「久遠の松」
この先の右側が下本陣、上本陣跡
田中藩主土岐丹後守が寄進したクロマツの「本願の松」
勝草橋を渡った右側で、右に常夜灯と説明板。
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コメント
貴重な情報をありがとうございます。
東海道を歩く楽しみが増えました。
今後もよろしくお願いします。
投稿: 0さんへ(坂道散歩から) | 2010年3月 9日 (火) 11:12
早速返事を頂きありがとうございました。東海道を京都へ上り浜松迄歩かれたようですね
私の故郷は浜松市舞阪町(旧浜名郡舞阪町)、浜名湖の東岸で漁業(シラス、鰹,牡蠣,貝、海苔)の町です
東海道松並木や一里塚、脇本陣、新居宿へ船で浜名湖を渡る雁木跡があります
又旧暦9月14,15日(今年は10月21,22日)には漁師町の大太鼓祭りで賑やかです
四国遍路も又楽しみにしています
投稿: 静岡のOです | 2010年3月 8日 (月) 22:52
Oさんに挨拶もせず藤枝宿を通り過ぎ、今回は浜松宿まで歩きました。
あちこちと歩きたい所が出てきて、四国の続きは少し後になりそうです。
投稿: Oさんへ(坂道散歩から) | 2010年3月 8日 (月) 20:20
こんにちは
四国遍路でお会いした、静岡のOです
藤枝に移り住んで35年に経ちます
藤枝、岡部、蔦の細道、丸子、手越し、府中としっかり歩かれたのですね
藤枝の蓮華寺池公園という、藤枝の花である藤の花祭りが5月連休にかけてあります
その他、花菖蒲や躑躅等がこれから見ごろですよ
又、公園の中には古墳もあります
これから島田、金谷も歩かれると思います
藤枝街道名物「染め飯」島田の川会所、大井神社、金谷ではおお泥棒の墓、石畳、諏訪原城址、菊川の夜泣き石等々
足跡を楽しみにしています
いつまでも元気で歩いて下さい
投稿: 静岡のOです | 2010年3月 8日 (月) 16:15