東海道(掛川宿→袋井宿→見付宿)
2010年3月2日
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午前中は天気が悪そうで出発時間を遅らせたら、何度も道を間違えたり、目標物がなかなか見つからなかったりで苦労した。磐田駅に着く頃には薄暗くなり、気分的にもかなり疲れた。やっぱり早めに行動開始しないとだめだ。
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
江戸時代後期の建物で、現存する城郭御殿としては、京都二条城など全国でも数ヵ所しかない貴重な建築物。
清水銀行掛川支店 《地図》
山内一豊の妻の内助の功の逸話のレリーフ。
掛川城の内堀(蓮池)にあった蕗の門を移築。
十九首塚 【ルート地図】の①
朝廷の使者から打ち捨てるように命じられた平将門らの首を藤原秀郷が葬った首塚。このあたりは「十九所」という地名だったが、いつの頃からか「十九首(じゅうくしゅ)」と呼ばれるようになったそうだ。すぐそばに「十九首公民館」がある。
かすんで見えないだろうな。
大池橋(倉真川) 《地図》
秋葉道との分岐。東海道は左に曲がり、天竜浜名湖鉄道をくぐる。
鳥居は見あたらなかったが。
蓮祐寺の門前
銘酒「曽我鶴」とある。今も営業しているのだろうか?
東海道の真ん中で「仲道寺」、善光寺の阿弥陀如来像は坂上田村麻呂の守り本尊とか。
金西寺(原川薬師)
もとは土中に埋もれ、笠を被せられていて「笠薬師」と呼ばれていた瑠璃光薬師如来を安置。
写真を撮っていたら、近所のおじさんから保険会社の調査員か何かに間違われた。
「可睡斎三尺坊」道標が立っている。可睡斎とは幼い家康を助けた仙麟等膳(せんりんとうぜん)和尚のことで、後年、家康が感謝のために招いた席で居眠りをしたことからこう呼ばれるようになったという。
中遠昔ばなし『可睡和尚』
ここから袋井宿の中心まではかなりの4kmもある。
ここから北方向に1kmもないだろうが、遥拝のみ。
柳生但馬守宗矩が寄進したんだと。
久津部一里塚跡(60) 《地図》
東小学校の校庭。
どうせなら東でなく中にしたらどうか。
ここにも「小夜の中山の怪鳥退治」に向った7人の武士の伝説がある。7人もいてあえなく返り討ちにあったという。(鳥が人に返り討ちとはおかしな話だが) その後に、藤原良政が一人で退治したということか。
久野城跡がきれいに見えるというが、バイパスの高架が邪魔だ。向こう側の2つの山のどちらかなのか。
中本陣・西本陣の3軒あった。
山門は南側にあった川井代官所の門
享保以前からの医院。この建物は昭和9年の建築。今は記念館として開館している。
木原一里塚跡(61) 《地図》
約60m東にあったものを復元。
家康が腰掛たのは「関が原の戦」の戦勝祈願でこの社を訪れた時という。
偵察に来て村人に殺された武田勝頼の家来。木原大念仏は源吾を供養するために始まったという。
享保17年(1732)の造立。遠州一姫・二十九福地蔵の第2番。姫地蔵は1ヵ所で、福地蔵が29ヵ所なのか?
遠州一姫・二十九福地蔵の第3番札所。
三ケ野橋を渡って、この先は「三ケ野坂の七つの道」に分かれる。鎌倉古道・江戸・明治・大正・昭和・平成①・平成②(質屋通いの隠れ道)の7つということらしい。
三ケ野坂(明治の道) 《地図》
この先か手前で、左へ江戸の古道へ入るのが正解のようだ。そうすれば「本多平八郎物見の松跡」がある大日堂にも寄れたのだが。
三ケ野坂上の集落は、雨水を溜めたり、谷に水汲みに行ったりしていたが、弘化4年(1847)に医王寺によって参道の入口のこの場所に、滑車で汲み上げる井戸が掘られ、昭和35年まで使われていたそうだ。
「従是鎌田山薬師道」道標(弘化4年(1847)の建立) 《地図》
南方1.5kmほどの新幹線の南側の鎌田山医王寺への道標。
この先で大きく道を間違える。どこを歩いているか分からなくなり、台地上の新興住宅街、工場群の間をさ迷いながら、ヤマハスタジアムへ下り、善導寺からなんとか東海道へ戻った。右へ曲がるのを直進して、どんどんと南の方へ行ってしまったようだ。
実際の刑場は西の三本松村にあった。江戸で処刑された日本左衛門の首がここで晒された。その首を愛人が持ち去り、金谷宿の宅円庵に首塚を築いた。
東坂を下る。《地図》
けっこうな急坂だ。左前方が愛宕神社
江戸時代の見付天神社の表参道。
見付の由来は、西からの旅人がここで始めて富士を「みつけ」たとか、「うみつけのち」が転訛したとか諸説ある。
国道1号の方に立っている。
西坂町の交差点で姫街道が分岐する。
社殿の後ろの塚が阿多古山一里塚跡。探すのに東坂を行ったり来たり。反対側の民家の間にも石柱が立っているそうだが、気づかなかった。
見付天神社へ上る参道。
人身御供の化け物退治をした、「霊犬悉平太郎伝説」 人身御供の慣わしがなくなったことを喜ぶ踊りが「裸祭り」のルーツと伝わっている。
犬の縁で、悉平太郎がいた光前寺がある駒ヶ根市と磐田市は昭和42年に姉妹都市になった。「縁はいなもの味なもの」、「犬も歩けば縁を結ぶ」か。駒ヶ根市から贈られた(本物の)犬を2代目悉平太郎とし、その子どもの3代目も境内で飼われているとか。(もう4代目も生まれているかも) 会って見たかったなあ。
「裸祭り」は国の無形重要民俗文化財
奥に日本唯一の犬を祀る「霊犬神社」がある。
鳥人浮田幸吉住居跡
日本で初めて飛行?した鳥人だ。「浮田」とはよほど空に浮きたかったのだろう。「風船おじさん」よりはずっとましだ。
「冷酒」は家康がつけたあだ名。武田勢に追われる家康を助けて、朱印を貰ったのだろう。近くに清兵衛と一緒に家康を助けた、安間平治弥邸跡(御証文屋敷)もある。
中遠昔ばなし『冷酒清兵衛』
旧見付小学校 《地図》
明治時代で5階建ての小学校とはすごいね。
この手前の交差点あたりが、問屋場跡、北本陣跡、南本陣跡なのだが、説明板・標示板などは見つからず。
結願寺ということだ。
家康の別荘の中泉御殿の表門を移築。奥は鐘楼門。
遠江四十九薬師霊場の第48番、日限地蔵尊の寺。
西光寺の前
樹齢700年
(2010年5月5日撮影)
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コメント
刮目してHP拝見しました。刮目舎は明治12年の命名とは歴史があるのですね。
投稿: 坂道散歩 | 2018年2月 2日 (金) 07:59
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投稿: 袋井東小学校 | 2018年2月 1日 (木) 22:30