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2010年4月30日 (金)

東海道(水口宿→石部宿)

2010年4月14日

水口石橋駅(近江鉄道)・・水口宿・水口城天王口御門跡・・・水口城跡・・・心光寺・・・水口石・・・百間長屋跡・・・武家屋敷長屋門(真徳寺)・・・五十鈴神社・水口林口の一里塚跡(113)・・・妙沾(みょうてん)寺・・・柏木神社・・・泉福寺・日吉神社・・・舞込橋(泉川)・・・日吉神社御旅所・・・泉の一里塚跡(114)・・・横田の渡し跡(野洲川)・・・泉川原橋・・・横田橋(野洲川)・・・(三雲駅)・・・三雲横田常夜灯・(JR草津線)・・・天保義民の丘・天保義民の碑・・・微妙大師墓所道標・明治天皇聖蹟碑・・・田川不動・妙感寺・立志神社道標・・・(JR草津線)・・・大沙川隧道・弘法杉・西住寺・・・「夏見の里」藤棚跡・・・盛福寺・・・夏見の一里塚跡あたり(115)・・・報恩寺・由良谷川隧道・・・北島酒造・・・家棟川橋・・・高木陣屋跡・・・愍念(みんねん)寺・・・光林寺・・・落合川橋・・・石部宿・東の見附跡・吉姫神社・西福寺・高札場跡・問屋場跡・三大寺本陣跡・いしべ宿駅・小島本陣跡・明清寺・真明寺・田楽茶屋・吉御子神社・石部の一里塚跡(116)・西の見附跡・・・石部駅(JR草津線)

  【ルート地図

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Img_3901 案内図(この先の一里塚跡に設置されているもの)

江戸初期までは東海道は直進していたが、水口城の武家屋敷が出来て、天王口御門を右折し北側を迂回するようになった。

Img_3885 中部コミュニティセンター

商家の蔵をイメージした建物。曳山も展示されている。

Img_3886 水口城天王口御門跡

ここを右折するのが東海道だが、水口城跡に寄る。

Img_3887 説明板

Img_3893 水口城跡  【ルート地図】の①

別名を「碧水城」、もとは家光上洛の際に建てられた「水口御茶屋」。

本丸跡は水口高校の野球グラウンドになっている。東側に櫓を模した「水口城資料館」がある。

Img_3894 説明板

Img_3889 天王口御門跡に戻り、街道を進む。

Img_3890 水口石

Img_3908 百間長屋跡

下級武士たちの棟割長屋で、水口城防御のため東海道に面した北側には出入り口はなかった。

Img_3906 説明板

Img_3904 武家屋敷門(真徳寺)

Img_3905 説明板

Img_3897 五十鈴神社・水口林口の一里塚跡(113) 《地図

Img_3900 説明板

ここを左に曲がり、すぐ先を右に曲がって、北脇縄手に入る。

Img_3916 北脇縄手

江戸時代には両側は土手で松並木だった。

Img_3913 説明板

Img_3917 石仏たち

松並木の代わりか。

Img_3923 泉の家並み

Img_3927 泉福寺 《地図

延命地蔵(国重文)を安置。

Img_3934 泉の一里塚跡(114)

舞込橋(泉川)を渡って右側

Img_3935 説明板

Img_3936 横田の渡し跡 【ルート地図】の②

常夜灯(文政5年(1822)建立)は東海道中で最大級。.正面が野洲川で、3月から9月は船で渡り、10月から2月は仮橋が架けられた。

Img_3937 説明板

Img_3939_2 説明板

Img_3941 明治時代の板橋の写真

Img_3940 説明板

Img_3947 今は大きく北西に迂回して横田橋(正面奥)を渡る。

Img_3958 三雲横田常夜灯(安永8年(1779)の建立) 《地図

かつて東海道は「横田の渡し」からここへ通じていた。

Img_3963 天保義民の丘公園へ

Img_3964 天保義民の碑 【ルート地図】の③

幕府の苛政に抗議し、立ち上って殺された農民たちの慰霊塔、顕彰碑か。

Img_3966 説明板①

Img_3967 説明板②

Img_3968 「微妙大師墓所」とある。三雲駅そばの民家の前のまさに微妙な所にある墓だと思ったら、墓所(妙感寺)への道標だった。

微妙大師は後醍醐天皇の側近で「元弘の乱」に加わった万里小路藤房のこと。「微妙大師」は昭和天皇による謚号。

Img_3969邪魔にならないの?

誇らしいのだろう。

Img_3988 大沙川隧道・弘法の杉 【ルート地図】の④

明治17年築造の滋賀県下最初の道路トンネル。上が天井川の大沙川。

Img_3992 今は水は流れていない。

Img_3985 昔話「弘法杉」

Img_3999 説明板

Img_4005 夏見の一里塚跡あたり(115) 《地図

「愛宕さん」と呼ばれている小祠らしい。

このあたりの街道名物は「さくら川名酒」と「ところてん」で、「ところてん」の茶屋が多かったそうだ。

Img_4008 「愛宕さん」の道路向かいのここに「一里塚」の石柱が立っていたとも。

Img_4012 由良谷川隧道

ここも天井川で水は流れていない。右に報恩寺がある。

Img_4023 北島酒造 《地図

地酒「御代栄」か、店に入ると買いたくなるので通過だ。

Img_4029 ここを左に曲がると国の天然記念物の「うつくし松」自生地

1kmくらいだろうが、パスした。

Img_4045 吉姫神社 《地図

石部宿の西の吉御子神社と対の女神社。5月1日の例祭にはそれぞれの神輿が宿内を巡行するそうだ。

Img_4048 石部宿の家並み

「京たち石部泊まり」というように、京都を出発した旅人が最初に泊まる宿場だった。京から40km近くあるのだからやっぱり昔の人は健脚だ。

Img_4052 高札場跡

ポケットパークになっている。

Img_4055 いしべ宿駅

小島本陣跡地に建てられた「街角サロン」

向い側が三大寺本陣跡

Img_4058 小島本陣跡 【ルート地図】の⑤

石部宿は浄瑠璃の舞台にもなっていて、『桂川連理柵』(かつらがわれんりのしがらみ)の「石部宿屋の段」はその一つ。「お半長右衛門」、「お半長」と呼ばれたこの話をパロディった、上方落語の『胴乱の幸助』もある。

Img_4064 真明寺

芭蕉の「つつじいけて その陰に 干鱈(ひだら)さく女」の句碑があるのだが、用のある者はチャイムを押すようにとある。芭蕉マニアでもないし引き返す。

Img_4066 田楽茶屋 《地図

広重の石部(目川ノ里)』をもとに再現された茶屋。

うどんでも食べようかと思ったが、ちょうど昼時でおばちゃんたちで一杯だったのでここも通過。

Img_4062 吉御子(よしみこ)神社

吉姫神社と対の男神社だが、安産の守護神でもあるそうだ。本殿は京都の上賀茂社の旧本殿を移築したもの。

Img_4069 石部の一里塚跡(116) 《地図

少し先の交差点の西の見附跡、松並木跡から右へ石部駅に向かう。

Img_4074_2石部駅

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2010年4月23日 (金)

東海道(関宿→坂下宿→土山宿→水口宿)

2010年4月13日

関駅(関西本線)・・・関宿・問屋場跡・川北本陣跡・鶴屋脇本陣跡・伊藤本陣跡・高札場跡・福蔵寺・地蔵院・観音院・西の追分・・・国道1号・・・転び石・・・市瀬橋(鈴鹿川)・・・旧道・・・西願寺・・・国道1号・・・弁天橋・弁天(市瀬)の一里塚跡(107)・・・旧道・・・沓掛集落・・・鈴鹿馬子唄会館・・・河原谷橋・・・坂下宿・松屋本陣跡・大竹屋本陣跡・梅屋本陣跡・法安寺・小竹屋脇本陣跡・岩屋観音・荒井谷の一里塚跡あたり(108)・・・片山神社・・・灯篭坂・・・芭蕉句碑・・・馬の水飲み場跡・・・鈴鹿峠・田村神社跡・鏡岩・峠の茶屋跡・・・万人講常夜灯・・・国道1号・・・熊野神社・・・十楽寺・・・山中城址・・・(新名阪自動車道)・・・山中の一里塚跡(109)・・・金毘羅神社・・・旧道・・・蟹坂・・榎島神社・・蟹坂古戦場跡・・高札場跡・海道橋(田村川)・・・田村神社・・・(国道)・道の駅あいの土山・・・土山宿・生里野地蔵・上島鬼貫句碑・一里山地蔵・土山の一里塚跡(110)・来見橋・白川神社・井筒屋跡・平野屋・二階屋本陣跡・問屋場跡・東海道伝馬館・問屋宅跡・土山本陣跡・大黒屋本陣跡・問屋場跡・高札場跡・大黒橋(吉川)・常明寺・・・国道1号・御代参街道道標・見性庵廃寺跡・・・松尾川の渡し場跡あたり・・・(国道1号)・・・歌声橋(野洲川)・・・国道1号・・・垂水斎王頓宮跡・・・国道1号・・・旧道・・・瀧樹神社・天満宮・・・地安寺・・・頓宮御殿跡・・・諏訪神社・・・市場の一里塚跡(111)・・・大日川堀割跡(大日川)・・・反野畷(松並木)・・・長円寺・・・真風軒詩碑・・・三好赤甫旧蹟・大日如来・(国道1号)・若王寺・・・今郷の一里塚跡(112)・浄土寺・・・宝善寺・・・岩神社入口・・・永福寺・・・大師堂・・・水口宿東見附跡・脇本陣跡・本陣跡・問屋場跡・善福寺・大岡寺・日雲宮・蓮華寺・大徳寺・からくり時計・水口石橋駅(近江鉄道)

 昨日は大雨で予定を変更したので、今日の道のりはけっこうな距離がある。まあ江戸時代の旅人から見ればたいしたことはなかろうが。好天を期待したがそうでもなく、関駅を7時前には出発し、まだひっそりとした関宿を抜け、昔の賑わいが嘘みたいな坂下宿から鈴鹿峠を越え、土山宿から水口宿へと進み、思ったより早く4時前には水口石橋駅に着いた。

 鈴鹿馬子唄の「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」の道中は、坂は照らなかったが鈴鹿と土山は曇り時々雨で、馬子唄どおりだったようだ。

  【ルート地図

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Img_3409 関宿の家並み 《地図

まだ7時前で家々の戸は閉ざされ人通りもない。

広重 関(本陣早立)』 もっと早い、まだ薄暗いうちに出立したのだろう。

Img_3414 鶴屋脇本陣跡

「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と謡われた関宿を代表する旅籠。江戸時代の終わり頃には脇本陣も勤めた。千鳥破風が目立つね。

Img_3415 説明板

Img_3416 伊藤本陣跡

手前の川北本陣跡は空き地になっている。

Img_3417 説明板

Img_3419 橋爪家

両替商で江戸にも出店を持つ豪商だった。三角屋根は明治になってからの改造。

Img_3418 説明板

Img_3420 旅籠玉屋(左)・旅籠石垣屋(右)

玉屋は歴史資料館になっている。

Img_3424 高札場跡

関宿のほぼ中心部で、関郵便局も昔風の造り。

Img_3426 正面は地蔵院

ポツリポツリと降り出してきた。今日は勘弁して欲しいよ。

Img_3427 福蔵寺

仇討の孝女、小万の墓がある。裏門が萩屋脇本陣から移築したものだった。これは表門、うっかりした。織田信孝の墓もある。

Img_3433 旅籠会津屋(左)・洋館屋好見家(右)

会津屋はもとは山田屋といい、小万が育った家。

Img_3434 説明板

Img_3430地蔵院の愛染堂

「関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿に取ろ」と謡われた、器量良しで、ふっくら円満な顔立ちの地蔵さん。本堂(右)、鐘楼、愛染堂は国の重文。

Img_3436 観音院

Img_3437 由来

Img_3440 西追分

ここから伊賀を通り、松原(現東大阪市)にいたる道は加太越(かぶとごえ)奈良道(大和街道)と呼ばれる重要な街道だった。

Img_3444 転び石(オークワ流通センター前の駐車場内)

大昔は山の上にあったが、いつしか転がり落ちて夜な夜な不気味な音を立てて人々を恐れさせた。ここを通りかかった弘法大師が石の供養をすると石は静かになったという。車で来た人はなぜこんな大きな石を放置しておくのかと思うだろうが、何度かたづけても街道に転がり出てしまい、鈴鹿川に落ちても自力でここに戻ったという伝説もあるやっかいな石。

Img_3455 これが名勝の筆捨山(289m)か

今は持った筆を捨てたくなるような何の変哲もない景色だが。

広重 坂之下(筆捨嶺)

Img_3454 説明板

Img_3457 弁天(市瀬・沓掛)の一里塚跡(107)

国道1号の弁天橋を渡った左側。橋の手前を左折すると弁天社の小祠があるようだ。

この先で右に旧道へ入り、沓掛の集落へと緩やかに上って行く。

Img_3468 沓掛の集落

Img_3473 坂下宿

かっての宿は鈴鹿峠の真下の片山神社下の谷間にあり「古町」と呼ばれている。慶安3年(1650)の大洪水で埋没し、翌年に宿全体がここに移転した。

Img_3476 説明板

Img_3474 松屋本陣跡 【ルート地図】の①

この先の大竹屋本陣跡・梅屋本陣跡・小竹屋脇本陣跡も石柱のみで遺構は残らず。

Img_3481 法安寺庫裏玄関

松屋本陣から移築したもの。

Img_3484 金蔵院跡の石垣

仁寿年間(851~853)創建で、鈴鹿山護国寺とも呼ばれた古刹。江戸時代初期には将軍家の御殿が設けられ、上洛途中の家康や家光が休息した。参勤交代の大名は山門前で駕籠から降りたという。慶安3年(1650)の洪水後に古町からここに移ったが明治に入り廃寺となり、今は石垣だけが往時をしのばせる。

左は身代地蔵堂

Img_3485 身代地蔵さん

大名行列を横切った子どもの身代わりになったという。今も地元の信仰が篤いようだ。

Img_3490 岩屋観音の清滝と観音の小堂

高さ18mの巨岩に穿たれた岩窟に万治年間(1658~1660)に実参和尚によって道中の安全祈願のために阿弥陀如来・十一面観音・延命地蔵の石仏が安置された。堂の隣のこの清滝と合わせて、「清滝観音」として知られ、葛飾北斎の『諸国滝廻り』にも取り上げられている。毎月3日、18日に堂が開扉されるようだ。

Img_3495 荒井谷の一里塚跡あたり(108)

この先で右に山道に入って片山神社から鈴鹿峠へ向かう。たいした距離ではない。

Img_3501 片山神社へ

Img_3505 片山神社

由来が古代に遡る延喜式内社で、鎌倉時代にはここに鎮座していたという。斎王群行の際に皇女が休泊した「鈴鹿頓宮」の跡ともいう。江戸時代には鈴鹿権現と呼ばれ信仰を集めたが、平成11年に本殿などを焼失し、現在は神楽殿のみが残り、高い石垣にかつての面影をとどめている。

Img_3504 灯篭坂 【ルート地図】の②

灯篭が両側にずらっと並んでいると思ったらここだけ。

鈴鹿流薙刀発祥の地」だそうだ。

Img_3511 芭蕉句碑

「ほっしんの 初にこゆる 鈴鹿山」 『猿蓑』に詠まれた句

Img_3512 すぐ先に左に「馬の飲み水場跡」と鈴鹿峠説明板がある。

ここは「八町二十七曲り」と呼ばれた難所だったそうだが、この先で国道1号をくぐり呆気なく鈴鹿峠に着いてしまう。

Img_3513 説明板

Img_3518 鈴鹿峠(378m) 《地図

松葉屋・鉄屋・伊勢屋・井筒屋・堺屋・山崎屋などの峠の茶屋で賑わっていたという。左に入ると田村神社跡で、その先が鏡岩。

Img_3525 説明板

Img_3522 鏡岩

鈴鹿峠の神体の磐座(いわくら)というより、山賊の「鬼の姿見」の話の方が面白いか。古代から中世には山賊が横行していたようだ。

Img_3523 説明板

Img_3524 確かに鏡のように光っている? 雨に濡れているからそう見えるだけか。

Img_3532 峠に広がる茶屋畑の中を行く。

Img_3533 万人講常夜灯

Img_3534 説明板

Img_3535 国道1号(右)に合流して単調な車道歩きが続く。

Img_3539 小さな双体道祖神が車道歩きを癒してくれる。

この先の十楽寺バス停先が「蟹坂の古戦場」に登場する山中城址で、「山中城址」の石柱が立っている。

Img_3561 山中の一里塚跡(109)・櫟野(いちの)観音道道標 《地図

十一面観音の櫟野寺(らくやじ)への道標

Img_3559 説明板

Img_3575 蟹坂(国道1号)を下る。

Img_3577 右に蟹坂の旧道を下る。【ルート地図】の③

Img_3587 蟹坂の由来

ここのは悪い蟹だが、東京福生市の蟹坂は、娘に助けられた蟹が恩返しをするという、いい蟹の話で、京都木津川市の「蟹満寺」の由来話と同じ。

Img_4075 蟹を退治した恵心僧都源信が厄除けに作るようにと言った蟹の甲羅を模した飴。甘さ控えめで左党でもいけるよ。

蟹を供養する石塔(蟹塚)は国道1号の向い側にある。

Img_3579 案内図

Img_3589 榎島神社(白川神社の末社)

神木の椎の木は樹齢400年以上

Img_3591 蟹坂の集落を下って行く。

Img_3595 蟹坂古戦場跡

甲賀への侵攻を計る伊勢の北畠具教とそれを阻まんとする山中城主の山中秀国の戦い。

Img_3596 説明板

Img_3598 高札場跡・海道橋

土山宿の人々が中心となって架けた田村川木橋。武家と一部の農民以外は有料だった。高札にはそのいきさつが書かれている。

広重の土山(春の雨)』はこの橋を渡り、田村神社の杜の中を土山宿へ向かう大名行列を描いている。

Img_3599 説明板

Img_3610田村神社 《地図

弘仁3年(812)に創建という古社で、もとは鈴鹿峠にあった。坂上田村麻呂が鈴鹿峠から弓を射たら、翌朝に当地で見つかったという伝説がある。それ以来、弓が厄除けになっているという。

甲賀の昔話』に、「坂上田村麻呂の鈴鹿峠の鬼退治」と「蟹坂」の話が載っている。

Img_3611 道の駅「あいの土山」

「火曜日は定休日とはこれ如何に」 駅は年中無休なはずだが。でもトイレだけは開いていた。

街道は隣の「蟹が坂飴」の製造販売の高岡商店の間から右方向へカーブして土山宿へ入って行く。

Img_3616 土山宿へ

左に生里野地蔵尊堂

Img_3617 生里野地蔵尊

化粧が厚過ぎやしないかい。

Img_3620 上島鬼貫句碑

「吹け波(ば)ふけ 櫛を買ひたり 秋乃風」

櫛は「お六櫛」で、昔、伊勢参りを終えた木曽からの旅人が土山宿で急な腹痛に襲われた。通りかかった村人に助けられ何か礼がしたいと言うが、村人の夫婦は何も求めず旅人の髪をやさしく梳(す)いてくれた。櫛職人の旅人はお六櫛の作り方を教えたという。生里野には多い時で十数軒の櫛を売る店が並んでいたという。ここで旅人を看病したのも「お六さん」という名だったという出来すぎた話もあるようだ。

Img_3619 説明板

句もきちんと書かないとなあ。

Img_3621 お六櫛商「三日月屋」

Img_3626土山の一里塚跡(110)

右の民家前に「東海道一里塚跡」の石柱。手前に「一里山の地蔵堂」がある。地元の女性が丁寧に清掃をしていた。

Img_3635 来見(くるみ)橋を渡って宿の中心部へ

Img_3639 白川神社

7月の第3日曜日の土山祇園祭花傘神事で「花奪い行事」が行われる。

Img_3638 説明板

Img_3641 大原製茶所

土山の茶は滋賀県一の生産量で、味・色・香りのすべてが一級品として評価されているそうだ。

Img_3648 井筒屋跡

森鴎外の祖父、白仙は参勤交代の途中にここで没した。宿の西の常明寺に白仙の墓がある。

Img_3647 説明板

Img_3651 平野屋

森鴎外が白仙の墓参の折に泊まった旅籠。その時には井筒屋は廃業していた。

Img_3650 説明板

Img_3654 二階屋本陣跡

Img_3662 問屋場跡(復元)

伝馬館前の街道沿いにあったものを伝馬館の敷地内に復元。

Img_3660 東海道伝馬館

江戸後期の農家の地平家を改造した展示館。2階に盆景、蔵に大名行列の模型などが並び、特産品も販売している。「蟹が坂飴」もある。

Img_3671 問屋宅跡

問屋の宿役人の責任者の居宅跡

Img_3669_2 説明板

Img_3672 土山宿本陣跡 《地図

土山家が勤めた。

Img_3673 説明板

Img_3687大黒屋本陣・問屋場跡・高札場跡

もう一軒の本陣は豪商の大黒屋立岡家が勤めた。

Img_3685 説明板

Img_3688 土山陣屋跡

Img_3689_2 説明板

Img_3694 御代参街道道標(右)《地図

多賀大社への道標。東海道は右斜めに進んで「松尾川の渡し」へ通じていた。左は「高野世継観音」の永源寺への道標で途中までは同じ道筋。

「お伊勢参らばお多賀へおいやれ お伊勢お多賀の子でござる」 祭神は親子でごもっとも。

Img_3696 説明板

Img_3693 昔の東海道の道筋(南北が逆方向だが)

Img_3700 今の道筋案内図

野洲川は江戸時代には松尾川といい、10月から2月までは木橋か土橋で、3月から9月までは渡し舟か徒歩で渡った。

Img_3707 野洲川(歌声橋から) 《地図

Img_3711 垂水斎王頓宮跡 《地図

京から伊勢までの斎王群行は5泊6日かかった。勢多、甲賀、垂水、鈴鹿、一志に頓宮(仮の宮・行宮(あんぐう))が置かれた。

Img_3713 頓宮跡

寂しげな所だ。華やかな都から離れ、伊勢までの長い道中で、斎王となる皇女はどんな心持でこの頓宮へ泊まったのだろうか。

9歳で斎王となり伊勢へ下り、40年後に付き添いとして鈴鹿峠を越えて、この地を訪れた斎宮女御の徽子(きし)女王の歌碑、「世にふれば 又も越えけり 鈴鹿山 昔の今に あるにやあるらん」 

Img_3712 説明板

Img_3718瀧樹(たぎ)神社・天満宮

5月3日の祭礼では「ケンケト踊り」・「花奪神事」が行われる。

Img_3727 地安寺

境内には御水尾法皇の御影堂、山門の手前左には林丘寺宮植栽の茶がある。

Img_3723 説明板

Img_3728 旧頓宮村の家並み

Img_3731 頓宮御殿跡

倭姫巡幸の際の殿舎が設けられ、後には垂水頓宮の関連施設があったともいう。

Img_3730 説明板

Img_3735 市場の一里塚跡(111)

右の民家の植込みの中に説明板と石柱

Img_3736 説明板

Img_3738 大日川堀割跡 《地図

正面の大日川橋の下を大日川が流れる。右に石柱が立つ。橋を渡った先が反野畷

Img_3743 説明板

Img_3741 反野畷

松並木の名残りを抜けて行く。

Img_3766 三浦赤甫旧跡

大日如来の小祠が隣にある。

Img_3767 説明板

Img_3785 今郷(今在家)の一里塚跡(112) 【ルート地図】の④

浄土寺の前

Img_3786 説明板

Img_3806 岩神社入口

Img_3807 説明板

Img_3818 水口岡山城址(前方の古城山(大岡山))

天正13年(1585)に豊臣秀吉が家臣の中村一氏に命じて築かせた城。その頃から水口宿の町割りなども整備されていった。三層天守閣の城は、彦根城に劣らぬ景観だったとか。関が原の戦で落城し、水口は直轄領となった。

Img_3831 水口宿東見附跡 【ルート地図】の⑤

Img_3832 説明板

Img_3838 脇本陣跡(左)

「元脇本陣文右衛門」の貼り紙がしてある。この子らは脇本陣を知っているだろうか。

Img_3840 水口宿説明板

広重 水口(名物干瓢)

Img_3844 本陣鵜飼家跡(左) 《地図

奥に「明治天皇聖蹟」碑が立っている。

Img_3841_2 説明板

Img_3846 宿内は三筋に分岐した道路の形態になっている。

Img_3853 問屋場跡

Img_3852 説明板

Img_3854 善福寺(血天井)

岡山城の古材が使われていて、本堂廊下の天井板には落城の際に自害した武士の血痕が残っているそうだ。

Img_3860 大岡寺(だいこうじ)

十一面千手観音像、恵心僧都源信の作という阿弥陀如来像は国の重文。鴨長明はこの寺に滞在した際に剃髪し出家したそうだ。

Img_3863 由緒

Img_3861 芭蕉句碑

「いのちふたつ 中に活きたる さくらかな」

『野ざらし紀行』の「命二つの 中に生きたる 桜哉」の句で、句碑は「の」が抜けている。

大岡寺の桜は「水口八景」の一つ。この句は芭蕉がよく滞在した蓮華寺で詠んだものという。

Img_3873 大徳寺

家康ゆかりの寺で、山門は三葉葵の紋。

Img_3874 説明板

Img_3879 からくり時計 《地図

水口曳山をデザインしたもので9時・12時・15時・18時に曳山を曳く人形が動き出すそうだ。

Img_3866ポスター

Img_3877 水口宿説明板

Img_3884 近江鉄道(水口石橋駅)

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2010年4月21日 (水)

東海道(亀山宿→関宿)・伊賀上野散歩(寄り道)

2010年4月12日

亀山駅(関西本線)・・・飯沼慾斎生家跡・・・旧舘家住宅(枡屋)・・・亀山宿京口門跡・京口坂・京口橋(竜川)・・・梅厳寺・・・照光寺・・・光明寺・・・慈恩寺・・・野村の一里塚跡(105)・・・大庄屋内田権四郎宅跡・・・観音坂・・・布気神社・能古茶屋跡・昼寝観音・・・清福寺・・・(関西本線)・・・太岡寺畷・・・(東名阪自動車道)・・・(関西本線)・・・国道1号・・・旧道・・・関宿・小万もたれ松・東追分・関の一里塚跡(106)・御馳走場跡・関神社・弘善寺・延命寺・・・関駅

関駅(関西本線)→伊賀上野駅・・・伊賀上野橋(服部川)・・・平井神社・・・旧小田小学校・・・開化寺・・・小六坂・・・(伊賀鉄道)・・・鍵屋の辻・数馬茶屋・伊賀越資料館・河合又五郎首洗地蔵池・矢尼母神社・・・幸福寺駒止延命地蔵堂・安部神社・・・塔西坂・・・金伝寺・浄蓮寺・・・(伊賀鉄道)・・・朝日稲荷神社・・・崇廣堂・・・上野城跡・・・蛇谷堀・・・伊賀上野歴史民俗資料館・・・芭蕉生家・・・広小路駅(伊賀鉄道)

 朝からどしゃぶりで大雨洪水警報が出ているが、とにかく出発する。太岡寺畷あたりでさらに激しい降りになり、関宿の真ん中あたりでその先をあきらめて関駅で考える。
 随分濡れてしまって寒いが関西本線で伊賀上野まで行くことにする。駅前のうどん屋で焼酎のお湯割りをひっかけてから、雨の中を芭蕉の故郷、伊賀忍者の郷、決闘鍵屋の辻、上野城などをゆっくりと散策した。風邪を引かなければよいが。

  【ルート地図A】(亀山宿→関宿)・【ルート地図B】(伊賀上野散歩)

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Img_3205 旧舘家住宅(枡屋)

幕末から大正時代にかけての呉服商。

Img_3212京口門跡から京口坂を下る。【ルート地図A】の①

門と番所があり、その壮麗な姿から、「亀山にすぎたるものの二つあり 伊勢屋蘇鉄に京口御門」と謡われた。

Kameyamasyuku「広重の亀山」

京口坂から京口門を見上げる情景。京口橋ができて、坂も緩やかになってしまった。

Img_3207 説明板

Img_3214 慈恩寺

木造阿弥陀如来立像は国の重文

Img_3215 説明板

Img_3218 野村の一里塚跡(105) 【ルート地図A】の②

Img_3216 説明板

Img_3225 布気神社

延喜式に載る古社

Img_3229 観音坂(坂下から見上げる) 【ルート地図A】の③

途中に昼寝をしていて三十三観音霊場に入れてもらえなかった昼寝観音(落針観音堂)がある。埼玉県の秩父の横瀬町には、同内容の如意輪観音の「寝入り観音」の昔話がある。

Img_3233 太岡寺畷(たいこうじなわて) 【ルート地図A】の④

ものすごい雨になってきた。下半身ずぶ濡れで、靴の中は雨水で『靴が鳴る』の有様だ。

ここは3.5kmにも及ぶ東海道随一の長縄手で、江戸時代には2km近くの松並木だった。説明板には「松並木は枯れて明治に桜を植えたがそれも枯れた」とあるが、まだけっこうな桜並木が続いている。だが今はそれを楽しんでいる状況ではない。このあたりの町名にもなっている太岡寺はどこにあった寺なのか?

芭蕉は「から風の太岡寺縄手ふき通し」と詠んだ。今日は「大雨の太岡寺縄手ふきさらし」だ。

Img_3234 説明板

Img_3238 国道1号を信号のない所で渡って右へ関宿に入って行く。

視界も悪く危ない、危ない。

Img_3243 小万もたれ松

亀山城下で父の仇討を果たした小万が身を隠し、もたれたという松がここにあった。説明板の後ろに小さな松が植えられている。

「関の小万の亀山通い 月に雪駄が二十五足」と鈴鹿馬子唄に謡われた。今日は一足でいいから長靴が欲しいよ。

Img_3244 説明板

Img_3246 東の追分・関の一里塚跡(106) 【ルート地図A】の⑤

東海道と『伊勢別街道』(左へ)の分岐点で、伊勢神宮遥拝の大鳥居が立つ。津で日永の追分から来る『伊勢街道』と合流し、伊勢神宮へ向かっている。

雨で暗いが電柱、電線のない空が広がっている。車がいなければもっといいものを。そう贅沢なことを言うなって。

Img_3250 鳥居の左側の小高い所が「関の一里塚跡」で、「一里塚址」の石柱が立つ。

Img_3251 関宿の家並み

激しい雨で大きな雨粒が写っている。

Img_3256 御馳走場跡

大名行列の一行を、宿役人が送迎した場所。関宿には4ヶ所あった。

後ろは代々「玄庵」を名乗った医者の大井家。

Img_3259 関神社

江戸時代には熊野三所大権現と称していた。

Img_3260 由緒

Img_3267 百五銀行

宿場の家並みに配慮した造りになっている。

Img_3268 延命寺山門

北川本陣の門を移築。

Img_3271 かがり火を炊く店の前を左に曲がって関駅へ向かった。

****************

Img_3274ここからは伊賀上野散歩

伊賀上野駅前のこの店で、熱いうどんと焼酎のお湯割りをひっかけ、身体の中から暖めて再出陣する。でも靴の中までは暖まらないが。

Img_3277 伊賀上野橋(服部川)から上野城

伊賀忍者の頭領の服部半蔵に由来する川の名なのか?

Img_3285旧小田小学校 【ルート地図B】の①

明治14年建造の木造洋風二階建てで、三重県では最も古い小学校校舎。古い教科書、オルガンなど懐かしい物が展示されている。

東海道見付宿の旧見付小学校の五階建ての校舎を思い出した。

Img_3292 開化寺

日本で最小の三重塔とか。小田原宿の手前の法船寺にはミニチュアの五重塔があった。

Img_3299 小六坂(坂上方向) 【ルート地図B】の②

藤堂藩の鉄砲練習場上野城西之丸の高台から小田に下る小径。
「小六」とは人名と思うが、どんな人物か4ヶ所の施設(旧小田小学校・崇廣堂・歴史民俗資料館・芭蕉生家)の係員に聞いても知らない。この先の「塔西坂」の「塔」はどこの塔なのかも同様。情けないね。

Img_3304 案内図

この道は、芭蕉の幼名にちなんだ、「甚七郎の散歩道」の一部。

Img_3305 坂上方向

Img_3316 鍵屋の辻 【ルート地図B】の③

荒木又右衛門の36人斬りでおなじみの所。

伊勢街道と奈良街道の分岐で、「ひだりなら道 みぎいせみち」の道標も立っている。

Img_3317 説明板

日本三大仇討は、曽我兄弟、赤穂浪士と、この鍵屋の辻の仇討。

Img_3321 数馬茶屋

仇討を果たした渡辺数馬にちなむ名。

Img_3323 伊賀越資料館

何かの神社かと思った。仇討だけで資料館にするとはすごいね。

Img_3328 河合又五郎首洗地蔵池(伊賀越資料館の庭)

池の向こうに地蔵さん。

Img_3327 説明板

Img_3333 幸福寺駒止延命地蔵尊

Img_3330 由来

Img_3339 塔西坂(坂上方向) 【ルート地図B】の④

開化寺の三重塔は北だし、どこの塔のことなのか?

Img_3340 坂上方向

金伝寺(左)と浄蓮寺の間に上って行く。

Img_3341 坂標

Img_3353崇廣堂

文政4年(1821)に津の藩校有造館の支校として建てられた。

Img_3362 上野城の高石垣

黒澤明監督の映画「影武者」のロケにも使われたそうだ。

Img_3374 説明板

Img_3373伊賀上野城

別名を白鳳城

Img_3376 俳聖殿(正面奥・上野城から)

芭蕉翁の旅姿をあらわす聖堂。上の丸い屋根は旅笠、下の八角形の廂(ひさし)は袈裟、それを支える柱は行脚する翁の杖だそうだ。ここからだと丸い屋根しか見えないが。全体の写真は『芭蕉翁記念館のHP』にある。

Img_3383 蛇谷堀

Img_3382 由来

Img_3396芭蕉生家 【ルート地図B】の⑤

Img_3389 説明板

Img_3392 釣月軒

生家内の草庵。ここで「貝おほひ」を執筆し、江戸に下った。

Img_3393 説明板

Img_3401 井本薬局

広小路駅近く

Img_3402 塀を乗り越えて駅構内に侵入しようとする黒づくめ怪しい人影・・・。ここは伊賀忍者の郷なのだ。 

忍者屋敷(伊賀流忍者博物館)もあるよ。くの一の実演のあるようだ。見たかったねえ。

Img_3404 伊賀鉄道も忍者号だ。

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2010年4月19日 (月)

東海道(四日市宿→石薬師宿→庄野宿→亀山宿)

2010年4月11日

追分駅(近鉄内部線)・・・観音寺(養蚕観音)・・・小許(古)曽神社・・・願誓寺・・・国道1号・内部橋(内部川)・・旧道・・・金毘羅神社・杖衝坂・血塚・・・国道1号・・・采女の一里塚跡(101)・・・豊富稲荷神社・・・旧道・・・単直庵・延命地蔵堂・・・国道1号・・・旧道・・・石薬師宿・北町の地蔵堂・大木神社・小沢本陣跡・天野記念館・石薬師文庫・佐佐木信綱生家・記念館・・・浄福寺・・・瑠璃光橋(国道1号)・・・石薬師寺・・・御曹司神社・・・蒲桜・・・蒲川橋(蒲川)・・・石薬師の一里塚跡(102)・・・(関西本線)・(国道1号)・・・国道1号・・・旧道・・・庄野宿・善照寺・庄野宿資料館・問屋場跡・本陣沢田家跡・高札場跡・脇本陣跡・川俣神社①・・・神戸領領界石・女人堤防碑・・・中富田の一里塚跡(103)・川俣神社②・亀山領領界石・・・常念寺・・・福万寺・・・川俣神社③・・・和泉橋(安楽川)・・・観音堂・・・地福寺・・・・(関西本線)・・・(井田川駅)・・・旧井田川小学校跡・・・川合歩道橋(国道1号)・・・西信寺・・・川合椋川橋・・・谷口法悦供養塔・・・和田道標・・・福善寺・・・石上寺・・・和田の一里塚跡(104)・・・カメヤマローソク工場・・・亀山宿・能褒野神社二の鳥居・巡見道交差点(本町広場)・江戸口門跡・旧佐川邸跡(車町ふれあい広場)・福泉寺・法恩寺・脇本陣椿屋跡・樋口本陣跡・大手門跡・高札場跡・人形坂でころぼ坂上・遍照寺・誓昌院・加藤家長屋門・池の側松並木(跡)・石坂・石井兄弟仇討碑・亀山城跡・亀山神社・本宋寺・市ケ坂・黒門跡・明倫舎跡・御城米坂跡あたり・・・でころぼ坂・・・能褒野神社一の鳥居・亀山駅(JR関西本線)

 杖衝坂を上り鈴鹿市に入り、小さな石薬師宿、庄野宿から亀山城下の亀山宿まで、見所も多く、まあ予定通りの満足の街道歩きだった。

  【ルート地図

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Img_2854 観音寺 《地図

本尊は養蚕観音とも呼ばれる千手観音像。なぜ「養蚕」なのか?

Img_2865 杖衝坂(つえつきざか)の坂下

正面突き当りに金毘羅神社

Img_2867 坂上方向 【ルート地図】の①

日本武尊(ヤマトタケル)が東征の帰り、疲労のあまり杖をついて上ったという、『古事記』に載る坂。足が三重に折り曲がってしまったことから、「三重」という地名が起こったという伝承もある。

Img_2872 説明板

Img_2873 坂下方向

手前が「弘法の井戸」、奥が「大日の井戸」

Img_2870 芭蕉句碑

「徒歩(かち)ならば杖衝坂を落馬かな」

季語のない句で有名。落馬の痛さのあまり、季語を入れるのを忘れたか? 「猿も木から落ちる」ならぬ、「芭蕉も季語を忘れる」か。

Img_2871 説明板

Img_2876 血塚

日本武尊が足の血を石で拭って止め、その石を埋めたとか。

Img_2880 采女の一里塚跡(101) 《地図

Img_2882 左へ旧道に入ると鈴鹿市

Img_2889 この先の道筋

Img_2892 右に石薬師宿へ入ると、左に北町の地蔵堂。

Img_2901 北町の地蔵尊 《地図

Img_2893 石薬師宿の通りは「信綱かるた道」となっている。

Img_2896 案内図

Img_2904 信綱の代表作?

これしか知らないが、いい歌だ。

Img_2920 小沢本陣跡 【ルート地図】の②

Img_2923 説明板

Img_2924 天野記念館

タイムレコーダーのアマノ(株)の記念館

Img_2929 佐佐木信綱生家・記念館(右)

生家には「信綱産湯の井戸」まである。

Img_2932 説明板

Img_2943 石薬師寺

広重-石薬師(石薬師寺)』の背後の鷹飛山は、明治になって切り崩されて東海道を埋め立てたので、今は江戸時代の道よりはわずかに高くなっているそうだ。

Img_2947 説明板

Img_2946 本尊の薬師石仏

Img_2953 御曹司社 《地図

蒲(がま)冠者源範頼を祀る。鳥居の横は大木は椎の木(スダジイ?)

Img_2952説明板

Img_2954 蒲桜(御曹司社の南側)

これも源範頼ゆかりの桜で、別名を「逆桜」。

Img_2955 説明板

Img_2961 石薬師の一里塚跡(102) 《地図

Img_2962 説明板

Img_2964 関西本線をくぐって線路沿いを進む。

広重-庄野(白雨)

Img_2971 庄野宿入口

Img_2972 説明板

Img_2977 庄野宿の家並み

Img_2980 庄野宿資料館(旧小林家住宅) 【ルート地図】の③

油問屋だった家。高札の実物5枚が展示されていて、詳しい説明をしてもらう。

Img_2983 本陣沢田家跡

左側に高札場跡、その隣が脇本陣楠家跡で、北側には問屋場があった。

Img_2990 川俣神社① 《地図

スダジイの大木

Img_2991 この先の道筋

Img_2995 神戸(かんべ)領領界石・女人堤防碑

鈴鹿川の女人堤防』によれば、女人だけで堤防を築いたというのは作り話のようだが。
萩城下には女人台場と呼ばれた菊ヶ浜土塁がある。『萩往還①』に記載

Img_3003 中富田の一里塚跡(103)・亀山領領界石 《地図

ここは川俣神社②の境内

Img_2998 説明板

一里塚も領界石ももとは、川俣神社の東にあったようだ。

一里塚の先の左側に高札場、その向い側あたりに御馳走場が見える。

Img_3025 正面奥の右に地福寺 《地図

東海道は左に下り、関西本線を渡る。

Img_3028地福寺の毘沙門天像

Img_3027 説明板

Img_3047 谷口法悦供養塔

「川合のやけ地蔵」ともいう。このあたりは刑場跡。法悦さんは供養塔建立マニアだろう。

Img_3048 説明板

Img_3051 和田道標

斜め正面に向かう道が亀山領若松港に向かう道。

Img_3049 説明板

Img_3068 石上寺(せきじょうじ)(左)に沿う坂

Img_3061 石上寺境内 《地図

本尊は子安延命地蔵。伊勢七福神の布袋尊。今日はこの石段上の熊野権現社で何か行事があるようで参詣人が多かった。

Img_3069 和田の一里塚跡(104)

坂上の右側

Img_3070 説明板

Img_3076 能褒野神社二の鳥居 《地図

ここから西が亀山宿で、「これより西亀山宿」の立て札、屋号札の掲示を呼びかける立て札(下の写真)が立っている。この隣が天正11年(1583)にこの付近で行われた合戦の戦死者を弔う露心庵跡。

Img_3075説明板

Img_3089 左側の戸に「どうぐや跡」の屋号札が貼り付けてある。

Img_3082 巡見道説明板(本町広場の所)

鈴鹿山脈の東麓を縦貫して中山道へ抜ける道。

Img_3086 家並み

奥に見えるのは亀山城? いや「衣城 しもむら」という衣料品店だ。

Img_3092 左は屋号「なべや」と「おけや」、右は「やまがたや」

Img_3097 江戸口門跡 《地図

ここで右(正面方向)に曲がり、東町商店街へ入る。

Img_3096 説明板

Img_3100 旧佐川邸跡(車町ふれあい広場)

佐川家は江戸時代は、旅籠佐野屋を営んでいた。

Img_3104 福泉寺山門

隣の法因寺には竪筋が左巻きとなる、樹齢300年以上の「左巻きカヤの木」があるようだ。

Img_3103 説明板

Img_3110 脇本陣椿屋跡(左)

洋品店の「しぼりや」

Img_3113 樋口本陣跡(左)(東町1-2-23) 【ルート地図】の④

「SHARP Document Solution Spot」の所

この先の交番の十字路が大手門跡、高札場跡で広場があり、通過する諸大名の「御馳走場」だった。東海道は十字路を左に曲がる。

Img_3118 人形坂 大手門跡から緩やかに曲がりながら下る。《地図

坂名の由来は何か?

Img_3123 遍照寺

山門(鐘楼門)の下に亀山城二之丸御殿の大書院と式台部分を移築した本堂がある。

鐘楼門をくぐり、石段下に本堂があるため「頭で鐘撞く遍照寺」といわれた。

Img_3124 坂下方向

古い家並みが残る、いい雰囲気の通り。

Img_3128 「あらものや跡」の屋号札がついている。

Img_3130 池の側(外濠)、石坂(左の橋)、石井兄弟敵討跡碑(正面右)、亀山城多聞櫓(奥の右上)

Img_3134 東海道は直進するが今日はここまでとし、右に曲がり亀山城跡へ向かう。

Img_3135 加藤家長屋門 《地図

江戸後期の亀山城主石川家の家老職の屋敷跡。案内の女性の話では、門内の屋敷も復元する予定だそうだ。
南側に亀山城の搦手門の青木門があった。家康がこの門を通る時に、門一帯に茂るアオキを称賛したことからこう呼ばれるようになったという。

Img_3136 見張りの番猫が門の前をうろついている怪しげな男を大きく目を開けて警戒している。

Img_3137 説明板

Img_3145 石坂(坂上方向) 《地図

右は「池の側」(外濠)で、左に池の側の松並木(跡)、正面奥が亀山城の多門櫓

Img_3149 石井兄弟敵討跡碑

元禄版「曽我兄弟の仇討」か。それにしても28年とは長い。この翌年の赤穂浪士の討入りは、浅野長矩切腹からたったの一年後。

Img_3153 説明板

Img_3158 亀山城多聞櫓

かつては粉蝶(ふんちょう)城と称された華麗な城だったそうだ。

丹波亀山城の天守の破却を命じられた堀尾忠晴が間違えて、ここの天守を取り壊したという話も伝わるそうだが、真偽のほどは定かでないらしい。

「亀山城桜まつり」の日曜で花見客で賑わっていた。

Img_3159 説明板

Img_3167 亀山神社

文永2年(1265)の創建という。

Img_3166 大久保神官邸宅門(亀山神社境内)

Img_3177 市ケ坂 《地図

坂上には亀山市歴史博物館があるが、もう5時近くであきらめる。

Img_3174 黒門(市ケ坂門)跡 《地図

今は亀山中学校の敷地内で、東側の藩校の明倫舎も、その隣あたりの御城米坂の跡形もない。

Img_3189 でころぼ坂上

人形坂から南方向に下る坂) 【ルート地図】の⑤

「でころぼ」とはどんな意か? 下記のコメントを頂き、デッコロボー(ろくでなし)という土地の方言と分かりました。また、以前は「幽霊が出る坂」とも言われたそうです。

Img_3194 坂下方向

Img_3197 坂下方向

途中に遍照寺の墓地があり、昔はもっと暗く寂しい坂で、「幽霊の出る」坂だったのだろう。

Img_3200 坂上方向

Img_3407 能褒野神社一の鳥居(亀山駅前)

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2010年4月16日 (金)

東海道(桑名宿→四日市宿)

2010年4月10日

桑名駅(JR関西本線)・・・桑名宿京町見附跡・・・(県道504号)・・・吉津屋見附跡・・・寺町通り・・・七曲見附跡・・・広瀬鋳物工場跡・・・天武天皇社・・・一目連神社・・・中川梵鐘店・・・善西寺・・・矢田立場跡・・・了順寺・・・江場松原跡・・・城南神社・・・晴雲寺・・(国道258号)・・・伊勢両宮常夜灯・町屋橋跡・・・国道1号・町屋橋(員弁川)・・・旧道・・・真光寺・・・縄生の一里塚跡(97)・・・伊勢朝日駅(近鉄名古屋線)・・・橘守部生誕地・・・浄泉坊・・・西光寺・・・朝明橋(朝明川)・・・蓮証寺・・・御厨神明神社・宝性寺・長明寺・・・(関西本線・三岐鉄道三岐線)・・・若宮八幡宮・・・(三岐鉄道三岐線・近鉄名古屋線)・・・富田の一里塚跡(98)・・・八幡神社跡・・・行啓記念道路碑・・・サトウハチロ-詩碑・明治天皇小休所跡・・・北村地蔵堂・善教寺・十四橋(十四川)・・・薬師寺・・・常照寺・・・力石・・・證円寺・・・米洗橋(米洗川)・・・八幡地蔵堂・・・かわらづの松・・・光明寺・・・国道1号・・・延命地蔵堂・・・多度神社・・・三ツ谷の一里塚跡(99)・海蔵橋(海蔵川)・・・旧道・・・法泉寺・・・佛性院・・・三滝橋(三滝川)・・・四日市宿・陣屋跡・帯や脇本陣跡・問屋場跡・黒川本陣跡・道標・国道1号・諏訪神社・崇顕寺・浜田城跡・鵜森神社・・・東漸寺・・・(近鉄名古屋線)・・・浜田の町並み・・・鈴木薬局・・・落合川・・・鹿化橋(鹿化川)・・・大宮神明社・・・大聖院・・・天白橋(天白川)・・・両聖寺・・・日永神社・・・薬師堂・・・実蓮寺・・・西唱寺・・・日永の一里塚跡(100)・・・名残松・・・国道1号・・・日永の追分・・・追分駅(近鉄内部線)

 まだまだ見ごろの桜を楽しみながら、残りの宿場も少なくなってきた東海道を伊勢の国から鈴鹿峠を越えて近江の国へと向かう。

  【ルート地図

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Img_2563 京町見附~吉津屋見附~寺町通りへと進んで行く旧東海道

Img_2571 吉津屋(よつや)見附跡 【ルート地図】の①

ここでコの字に曲がり、寺町通りへと入って行く。

Img_2576 光徳寺

古くは泡州崎念仏道場と称した浄土宗の寺。明治7年には日進小学校の前身の進善学校が置かれた。このあたりは泡州崎といい、手前に泡州崎八幡社がある。

Img_2579 幕府方の桑名藩の責任を一身に負い切腹した森陳明の墓が十念寺の裏の墓所にある。

Img_2585狩野光信の墓(寿量寺)

Img_2584_2 説明板

Img_2593 天武天皇社

「壬申の乱」で桑名郡家に泊まった天武天皇を祀る全国で唯一の神社。桑名郡家には乱の終わるまで、鸕野讚良皇女(後の持統天皇)や皇子たちが2ヵ月間残ったという。

Img_2592 説明板

Img_2597 中川梵鐘店

鋳物は桑名の代表的産業? 今でも埼玉県の川口市より盛んなのだろうか。

Img_2606 矢田立場跡 《地図

Img_2605 説明板

Img_2610 つたや

「若鮎」という焼き立ての甘いお菓子(120円)をほうばりながら進む。

Img_2614 江場松原跡

かつては西に鈴鹿山脈、東に伊勢の海も遠望されたという松並木は、伊勢湾台風(昭和34年)の頃までは残っていたそうだ。

Img_2628旧町屋橋跡へ 《地図

Img_2623伊勢両宮常夜灯説明板

Img_2633 桜の下あたりに板橋の町屋橋が架かっていたのだろう。(現在の国道1号の町屋橋から桑名方向)

橋のたもとの茶店では名物「安永餅」が売られ賑わっていたという。

Img_2640 山口誓子句碑 《地図

「露けさよ 祷りの指を 唇に触れ」だそうだ。

Img_2641 縄生(なお)の一里塚跡(97)

左に「一里塚跡」の石柱

Img_2646「語らい広場」(伊勢朝日駅の踏切を渡った所) 《地図

ここは松並木があり、正面はその中に混じっていた榎。小向の立場があったのもこのあたりか。

Img_2653 橘守部生誕地

Img_2659 浄泉坊の旧本堂の三つ葉葵紋の鬼瓦。

参勤交代の大名は、この寺の前では駕籠から降りて一礼したという。

Img_2658 由来

Img_2671 桜並木を通り、伊勢湾岸道をくぐり、朝明(あさけ)橋へと進む。

ここも昔は松並木だったのか?

Img_2680 長明寺(左)

文治年間(1185~89)に蒔田相模守宋勝が居城した蒔田城跡という。その堀跡が寺を囲む。

この寺の先の左側に聖武天皇にまつわる鏡ケ池の伝説地があるのだが見落とした。

Img_2679 説明板

Img_2693 富田の一里塚跡(98) 【ルート地図】の②

一里塚橋を渡った右側に「富田の一里塚址」の石柱が立つ。

Img_2694 説明板

Img_2700 八幡神社跡

Img_2696 説明板

Img_2719 善教寺

国重文の「阿弥陀如来立像と像内納入文書

Img_2717 北村地蔵堂(善教寺前)

すらっとした痩身で端正な顔立ちの、地蔵らしからぬ容姿の地蔵さん。

Img_2714 十四川の桜まつり

大正12年に植樹が始まった、約800本のソメイヨシノはまだ見ごろだ。

Img_2729 力石・新設用水道碑 《地図

正面の説明板の下に、32貫目(120kg)の力石が置いてある。

Img_2731 説明板

Img_2740 八幡地蔵堂

ここは志氐(しで)神社に合祀されている八幡神社の跡地。

Img_2741 八幡地蔵尊

Img_2744 かわらづの松(京側から)

このあたりは「川原津」いう地名。「変わらず」でなく、変わり果てた松並木に残る一本の松。

Img_2745志氐(しで)神社鳥居

五穀成就常夜灯と隣の民家の間に自然石があり、向かいの民家前の石と対になり、「東海道夫婦石」と呼ばれ、道中安全・縁結び・夫婦円満などを願う旅人、村人が撫でて信仰していたという。

『足を折られた狛犬』:「神様が留守番を言いつけたのに、遊びに出かけてしまい前足を折られてしまったという」 神ともあろう者が、むごい、むご過ぎる話だが、実際は狛犬を運搬中に折ってしまったらしい。それをこんな話に作り変えて、都合のいい伝説にしようとする、人間のずるさにはあきれ返るばかりだ。

Img_2754 三ツ谷の一里塚跡(99)(海蔵川の堤) 【ルート地図】の③

Img_2760ここも「海蔵川桜まつり」の真っ最中

マイカーの家族連れが多い。

Img_2770 嶋小餅店

Img_2772 三滝橋を渡って四日市宿へ

広重-四日市(三重川)』は、この橋を描いたものという。

Img_2774 四日市宿の町並み 【ルート地図】の④

手前は「なが餅」の笹井屋本店、この先の右の近藤建材店が帯や脇本陣跡、福生医院が問屋場跡、黒川農薬商会が黒川本陣跡らしいが何の表示もない。もう一軒の清水家本陣(清水太左衛門家)はどこにあったのか? 左へ入った中部西小学校が陣屋(代官所)跡。四日市市は東海道(を歩く者)に冷淡な市町村の最たる自治体か。

Img_2779 道標 《地図

旧道はここを直進して諏訪神社前へ続いていた。

Img_2781 旧道の道筋

Img_2784 右のスワマエ商店街が旧道

アーケードを抜け、阿瀬知川を渡ると丹羽文雄が生まれた寺の崇顕寺がある。

Img_2790浜田城址 《地図

今は鵜森神社、右は田原稲荷神社で浜田城主の先祖といわれる俵藤太(藤原)秀郷や、初代城主田原忠秀らを祀っている。

Img_2788 説明板

十六間四方白星兜鉢(国重文)は、俵藤太が三上山のムカデを退治した際、褒美として龍神から贈られたもので、祈願すると雨雲を呼ぶとされ、大正のころまで実際に雨乞いが行われていたという。

Img_2794 浜田の家並み

昔は干鰯屋、材木屋、紙屋、餅などを売る水茶屋があって賑わっていたそうだ。

Img_2799 鈴木薬局

江戸時代からの薬商で、この製薬所は嘉永5年(1852)の建築。

Img_2798 説明板

Img_2812 大聖院

定朝の作という源頼義の念持仏の不動明王(国重文)を安置。

Img_2811説明板

Img_2816天白橋へと上って行く。

このあたりは車の往来が多い。

Img_2820 両聖寺

お盆には「つんつく踊り」が披露される。

Img_2819説明板

Img_2823 日永神社

右に明歴(明暦)2年(1656)の古い「日永の追分道標」が移されている。

Img_2824 説明板

Img_2834 日永の一里塚跡(100) 《地図

西唱寺先の右の民家の間に石柱。うっかりすると通り過ぎてしまうだろう。

Img_2836 名残の松

松並木はなく、残るは「かわらづの松」とこの松のみ。

Img_2837 説明板

Img_2838 日永の追分 【ルート地図】の⑤

東海道(右)・伊勢街道(左)

伊勢神宮の遥拝鳥居(安永3年(1774)建立)、道標(嘉永2年(1849)建立)が立つ。このあたりは四日市宿と石薬師宿の間の「間の宿」で、旅籠、茶店が多かった。

鈴鹿山系からの伏流水という湧き水があり、車にポリタンクをいくつも積んで水を運んでいる人たちがいた。こちらもペットボトルに入れて追分駅に向かった。

Img_2843 説明板①

Img_2841 説明板②

Img_2848 追分駅(近鉄内部線)

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2010年4月 9日 (金)

東海道(ふたつやの渡し跡→七里の渡し跡・桑名宿)

2010年3月24日

弥富駅(JR関西本線)・・・(国道1号)・・・ふたつやの渡し跡碑・・・井桁屋・・・尾張大橋(木曽川)・東海道石柱・・・旧道・・・三栄橋・・・蓮生寺(長島城大手門)・・・正敬寺・・・道標・大手橋(長島川)・・・長島城址(長島中部小学校)・・・稲荷神社・・・伊勢大橋(長良川・揖斐川)・・・伊勢大橋西詰・・・六華苑・・・諸戸家住宅・・・住吉神社・・・伊勢神宮一の鳥居・・・七里の渡し跡・蟠龍櫓・・桑名宿大塚本陣跡・脇本陣駿河屋跡・船会所跡・問屋場跡・丹羽本陣跡・町会所跡・脇本陣跡・通り井跡・・・春日神社・・・三之丸堀・南大手橋・桑名城址・・・石取会館・桑名市博物館・・・毘沙門堂・京町見附跡・・・京町公園・・・京橋(寺町堀川)・・・桑名駅(JR関西本線)

 今日も朝から雨で寒いが、もう桑名宿まではたいした距離ではない。荷物を名古屋のホテルに預け、傘、カメラ、地図だけの身軽な格好で出発する。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_2405 ふたつやの渡し跡 【ルート地図】の①

弥富周辺は水郷地帯で、船による水上交通が中心だった。 明治5年に新東海道が制定され、弥富(前ヶ須)が宿場町に指定されると栄えるようになり、水上交通の要衝として桑名や長島への船が行き来した。昭和8年、国道1号線の尾張大橋が竣工し、渡船はその役目を終え廃止となった。『弥富市HP』より

その先の伊勢大橋が完成するのは翌昭和9年、そこにも渡し船があったというが、あいまいな返事だった。(弥富市歴史民俗資料館の話)

Img_2407 裏面に「永禄年間(1558~69)の渡場跡」とある。

東海道が整備される前からこの地方の足として活躍していたのだ。

Img_2419 井桁屋酒店(尾張大橋の手前)

味噌・醤油・麦酒の看板も架かっている。

Img_2420 尾張大橋(木曽川)

現東海道の国道1号、右は近鉄名古屋線とJR関西本線。歩道は狭く、傘をさして自転車とすれ違うのはつらい。

Img_2422 東海道道標(渡った右側)

Img_2428もうここは桑名市なのだ。

Img_2430 蓮生寺山門 《地図

もとは長島城大手門。

Img_2429 説明板

Img_2438 道標(大手橋の所) 【ルート地図】の②

正面に「前ケ須 津島 宮 名古屋 道」、左右側面に「右 くはなみち」・「左 くはなみち」だろう。

「前ケ須」は「ふたつやの渡し」があった弥富のこと。

Img_2449長島城址(長島中部小学校のあたり)

織田信長を苦しめた長島の一向一揆の拠点。

Img_2447 説明板

Img_2451 稲荷社 《地図

桑名の春日神社が有名な「石取祭」が長島でも行われている。

Img_2450 説明板

Img_2457 伊勢大橋の真ん中の「中堤入口交差点」で、文字通り、長良川と揖斐川の中の堤を県道106号が走っている。

Img_2458 県道106号は北へ、近鉄・JR、東名阪自動車道をくぐって岐阜県の木曽三川(木曽・長良・揖斐川)公園へと続く。

Img_2463 伊勢大橋を渡り、揖斐川の堤を南に行く。

正面奥に蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)が見える。そこが桑名側の「七里の渡し場」跡

Img_2465 六華苑(国の重文・名勝) 《地図

旧諸戸家の住宅と庭園。苑内には、J・コンドル設計の洋館がある。

Img_2466 説明板

Img_2473 諸戸家住宅

Img_2475 3連の煉瓦造りの倉庫、土蔵、主屋?、門と並び壮観だ。

Img_2477 3連倉庫

Img_2478 土蔵

Img_2482主屋?と門

Img_2481 どっしり重厚な諸戸家

Img_2487 住吉神社から

Img_2488 由緒

Img_2493 桑名宿案内図

Img_2506 「七里の渡し」碑と向こうに蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)

Img_2501 七里の渡し跡・蟠龍櫓 【ルート地図】の③

桑名城の櫓の一つで、航海安全の守護神としてここに置かれた。蟠龍とは天に昇る前の龍がうずくまった姿だそうだ。

広重 桑名(七里渡口)

Img_2497 説明板

Img_2505 伊勢神宮一の鳥居

船を降りると伊勢の国で、「お伊勢参り」の出発点でもあった。

Img_2492 説明板

Img_2512 大塚本陣跡 【ルート地図】の④

現在は料亭「船津屋」で、泉鏡花の『歌行燈』、久保田万太郎の戯曲『歌行燈』の舞台となった。

Img_2511 本陣・脇本陣説明板

Img_2514 歌行燈句碑

久保田万太郎自筆の句碑。

「かはをそに 火をぬすまれて あけやすき」

Img_2513 説明板

Img_2515脇本陣駿河屋跡

今は料理旅館山月

Img_2520 歌行燈

泉鏡花の『歌行燈』(全文)に出てくる「うどん屋」のモデルになった店だそうだ。

Img_2522 春日神社の青銅の大鳥居(寛文7年(1667)建立)

「勢州桑名に過ぎたるものは銅の鳥居と二朱の女郎」と歌われた。昭和34年の伊勢湾台風の時に打ち上げられた船がぶつかり、その傷がある。毎年8月には「日本一やかましい祭り」という「石取祭」が行われる。

左下は「しるべ石」で、迷子や行方不明者を捜すための掲示板の代わり。左右側面の「たづぬるかた」(尋ねる)・「おしゆるかた」(教える)に紙を貼って使用したそうだ。

Img_2523

平成6年建立の立派な神門

Img_2526 桑名城三之丸堀の石垣 《地図

本多忠政が城主の時、大阪城から救い出された千姫が桑名を通り、忠政の子の忠刻に一目惚れし嫁いできた。その後、元和3年(1617)に本多氏は姫路に移封され、家康の異母弟の久松松平定勝が城主となった。

Img_2525 説明板

Img_2537 京町見附跡 【ルート地図】の⑤

後ろは毘沙門堂

Img_2540説明板

Img_2539 ここを左(南)に曲がって行くのが東海道(正面方向)。

今回はここまでとし、桑名駅へと向かった。

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2010年4月 7日 (水)

東海道脇往還・佐屋街道②(岩塚宿→佐屋宿)

2010年3月23日

烏森駅(近鉄名古屋線)・・・柳街道合流地点・・・岩塚宿・八幡社・本陣跡・・・光明寺・・・七所社(日本武尊腰掛岩・古塚)・・・万場大橋(庄内川・万場の渡し跡)・・・万場宿・覚王院・国玉神社・光円寺・高札場跡・・・(名古屋高速万場線)・・・浅間神社・・・砂子橋(新川)・・・十二所神社鳥居・・・玉泉寺・・・高札場跡・・・自性院・・・十二所神社・・・稲荷社・・・(東名阪自動車道)・・・七所社神社・千音寺の一里塚跡・・・狐海道東交差点・・・秋竹橋(福田川)・・・秋竹西橋(小切戸川)・・・七宝焼道標・・・弓掛橋(蟹江川)・・・神守の一里塚跡・神守宿・憶感神社・吉祥寺・穂歳神社・・・日光橋(日光川)・・日光寺・・・(埋田の追分)・・・津島一里塚跡・清光院・・・日置八幡宮・大聖院・・・(名鉄尾西線)・・・佐屋海道址碑・・・浄法寺・・・須依天神社・・・佐屋宿・道標・佐屋代官所跡・三里之渡址碑・・・巡見街道(県道458号)・・・(国道155号)・・・釈迦堂・・・五之三地蔵尊・・・(東名阪自動車道)・・・弥富駅(JR関西本線)

 雨の佐屋街道を行く。陸路の街道も佐屋宿の「三里の渡し」で水路となった。むろん今は渡しはなく、巡見街道を南下し弥富宿の「ふたつやの渡し」跡から桑名宿を目指すことになる。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_2320佐屋街道概略図

今日は岩塚宿から佐屋宿の先の「ふたつやの渡し」があった弥富までの行程。

Img_2321 説明板

烏森郵便局の所で、右から柳街道が合流する。

Img_2194 岩塚宿 【ルート地図】の①

本陣が1軒、脇本陣なし。旅籠7軒。対岸の万場宿と半月交替で宿役を勤めた。「岩塚の一里塚」はどこにあったのか?

Img_2198 八幡神社 《地図

この向い側あたりが岩塚宿本陣跡。社殿は少し前までは茅葺だったようだ。

Img_2206 七所社 《地図

尾張三代奇祭の「きねこさ祭」が旧正月17日に催行される。

Img_2205 由緒

Img_2204 「きねこさ祭」説明板

Img_2207 日本武尊腰掛岩

数ある「○○の腰掛石」の一つ。

Img_2209 由来

Img_2211 古塚

「岩塚」の地名の由来となった塚(円墳?)。

Img_2210 由来

Img_2218 万場宿の秋葉神社

もとは100mほど南の宿の東端にあり、その下に「万場の渡し」があった。岩塚宿と半月交替で宿役を勤めた。

Img_2219 説明板

Img_2221_3 万場宿の家並み 【ルート地図】の②

本陣1軒、脇本陣なし 旅籠10軒。

Img_2228 国玉神社

神社の南西の曲がり角に高札場があった。

Img_2227 由緒

Img_2232 光円寺

山門は織田信長と斎藤道三が会見した聖徳寺から移築したものという。

Img_2236 浅間神社 《地図

ここから砂子橋を渡り、十二所神社鳥居前を通り、高札場跡へと進む。

Img_2244 高札場跡 《地図

枡形になっていたようだ。民家前に標柱が立つ。そばの犬が「ぎゃんぎゃん」吠える。何時ものことで驚きはしないよ。

Img_2245 右側には屋根が立派な頭でっかちの地蔵堂

Img_2249 自性院

室町時代の作という木造薬師如来像と鰐口がある。

山門の両側は「なまこ塀」になっている。

Img_2251 十二所神社

後ろが神体の山、大岩ならぬ鉄筋コンクリートの大塊か。

Img_2263 千音寺の一里塚跡 【ルート地図】の③

七所社神社の少し先

Img_2265 狐海道東交差点

昔、このあたりの佐屋海道は家もない淋しい所で、よく狐が出て旅人を化かしたとか。今は車の往来が多く、狐の出る幕はなし。

Img_2271 旧家

小切戸川を渡った所。

Img_2273 七宝焼道標 《地図

ここは一昨日(までは海部郡七宝町だったが、昨日(22日)に3町が合併して「あま市」となった。「あま」=「海部」なのだろうが、ひらがなだと分かりにくい。「七宝町」の名は残っている。

Img_2274 説明板

Img_2276 上部にはローマ字が刻まれている。

この先の「弓掛橋」を渡った民家の庭に「義経の弓掛松の碑」があるというが探しても分からず。

Img_2291 神守の一里塚跡 【ルート地図】の④

佐屋街道の5つの一里塚、「五女子」・「岩塚」・「千音寺」・「神守」・「埋田」の中で、唯一現存する塚。

Img_2293 神守宿の家並み

本陣1軒、脇本陣なし、旅籠12軒。万場宿と佐屋宿の間が3里18町と長いため、正保4年(1647)、南神守村と北神守村が2村で宿役を担うことにより、一番遅く開設された宿場。

Img_2302 吉祥寺六角地蔵堂

宝暦8年(1758)に延命地蔵を祀られ、文政3年(1820)に六角地蔵堂が建立された。

Img_2301 縁起

Img_2307 憶感(おっかん)神社・吉祥寺 《地図

9世紀頃の創建という延喜式内社で、祭神は雨水を司る龍神の高龗(たかおかみ)神。

Img_2314 穂歳(ほうとし)神社

「天竺ルイビン国龍帝龍王の御子」を祀るそうだ。

毎年10月の「津島秋祭り」に、神守の山車3台が憶感神社と穂歳神社へ奉納される。

Img_2317 日光橋(日光川)

Img_2324 説明板

Img_2329 日光橋を渡った所に旧親柱、基礎杭が展示してある。

Img_2323 説明板

Img_2330 日光寺 《地図

今は名のような晴れ晴れしさはない。なぜか堂に時計がついていて、時刻は正確だった。

この先、佐屋街道は埋田交差点の先で左に入り南下して行くが、直進して街道から外れて置田交差点の先で合流する道筋をとる。

Img_2335 津島一里塚跡 《地図

佐屋街道から外れた清光院の境内に建っている。津島神社への津島街道の一里塚ということか?
佐屋街道の一里塚は通り過ぎた「埋田の追分」あたりにあったようだが。

Img_2344 日置八幡宮(左)・大聖院(右) 《地図

八幡宮は養和元年(1181)に源頼朝の創建とか。

Img_2348 明通寺

尾張藩祖の徳川義直が鷹狩りの途中で立ち寄ったという。屋根が見事だ。「明通寺フェスタ」をやっている(いた)らしい。

Img_2353 佐屋海道址碑(佐屋変電所の裏あたり) 《地図

Img_2354 説明板

Img_2362 佐屋宿の家並み 《地図

本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠31軒。桑名に向かう、「三里の渡し」の渡船場があり宿泊客も多く、4宿中最も大きな宿場だった。佐屋宿は単独の村ではなく、外佐屋村内佐屋地区、依田村、須賀村の3村共立の宿場だった。

Img_2363 「くひな塚」(水鶏塚)道標

元禄7年(1694)佐屋宿に一泊した芭蕉が詠んだ句碑(享保20年(1735)建立)への道標。ここを左に入ると、「水鶏啼くと 人の云えばや 佐屋泊」の句碑が立っているようだ。

この先の交差点の北側が代官所跡、南側に道標、道路向うの小公園に「佐屋三里之渡址碑」がある。 

Img_2374 道標・「きこくの生垣」(左側の民家の塀内)

「左 さや舟場道」

きこく(枳穀)=「からたち」で、旅籠「近江屋」があった。

Img_2369 説明板

Img_2375 代官所跡

このあたりには佐屋湊佐屋御殿、舟番所があった。

Img_2379 佐屋三里之渡址碑 【ルート地図】の⑤

ここは佐屋川の堤防の内側だった。佐屋川は江戸時代中期より土砂の堆積が進み、度々下流に渡船場を移し延命を図るが、明治6年オランダより招かれた技師ヨハネス・デ・レーケの木曽川改修計画(明治17年)により佐屋川の締切が提案され、明治33年工事完了と共に廃川となった。西側の海部幹線水路が佐屋川の名残か。

Photo 佐屋街道~三里の渡し~桑名のルート

佐屋街道は明治5年に廃され、佐屋川は明治33年に消滅した。佐屋川は今は陸路(巡見街道)を行くことになる。

Img_2386 巡見街道沿いの旧家

江戸幕府の巡見使が通った道ということか。見所もないただの県道458号だが。

Img_2393 五之三地蔵尊

このあたりは「五之三町」で名鉄尾西線の「五ノ三駅」もある。

昨日は「五女子町」、「二女子町」とやけに数字が絡む所だ。

Img_2395 地蔵さん

このあたりの地蔵さんは皆、着飾っている。

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2010年4月 4日 (日)

東海道(知立宿→鳴海宿→宮宿→佐屋街道①)

2010年3月22日

富士松駅(名鉄名古屋線)・・・境橋(三河・尾張)・・・国道1号・・・正戸橋・・・旧道・・・阿野一里塚跡(86)・・・西雲寺・・・(名鉄名古屋線)・・・桶狭間古戦場跡・・高徳院・・・松野根橋(手越川)・・・間の宿有松・井桁屋(服部家)・有松鳴海絞会館・祇園寺・・・(名古屋環状2号線(建設中))・有松の一里塚跡(87)・(名鉄名古屋線)・・鎌研橋(手越川)・・・鳴海宿平部町常夜灯・・中島橋(扇川)・・中島城址あたり・・瑞泉寺・・高札場跡・・常滑街道分岐地点・・庚申坂・・鳴海城址(天神社)・・鳴海城跡公園・・道寺・・誓願寺(芭蕉供養塔)・・本陣跡・・如意寺(蛤地蔵尊堂)・・丹下町常夜灯・・・千句塚公園・千鳥塚・緒畑稲荷神社・・三王山交差点・・・天白橋(天白川)・・・知多街道分岐地点・・・笠寺の一里塚跡(88)・・・笠寺観音(笠覆寺)・・・笠寺観音商店街・(名鉄名古屋線)・・塩付街道交差地点・・・清水稲荷・・・誓願寺・・・(鎌倉街道)・地蔵院(湯浴地蔵)・・・熊野三社・・・山崎の長坂・・・山崎橋(山崎川)・平針街道分岐地点・・・国道1号・・・(東海道線)・旧道・・・熱田橋(新堀川)・・・神明社・・・(名鉄常滑線)・伝馬町の一里塚跡(89)・・・裁断橋跡・姥堂・・・徳川家康幼時幽居地・・・追分道標・ほうろく地蔵・・・宮の渡し歩道橋・・・宮宿赤本陣跡・宝勝寺・西浜御殿跡・丹羽家・熱田荘・七里の渡し跡(宮の渡し公園)・・・追分道標・佐屋街道・・・熱田神宮・・・源頼朝出生地(誓願寺)・・・法持寺・・・堀川・・・白鳥古墳・・・断夫山古墳・・・青大悲寺(鉄地蔵)・・・雲心寺・・・佐屋街道道標(金山新橋南交差点)・・・尾頭橋(堀川)・・・(東海道新幹線)・・・五女子の一里塚跡(唯然寺)・・・佐屋街道道標(中川福祉会館前)・・・明治天皇小休所跡・・・長良橋(中川運河)・・・萬念寺・・・明治天皇小休所跡・・・烏森(かすもり)駅(近鉄名古屋線)

 間の宿有松の絞問屋の家並みは知立宿と鳴海宿の分まで取り戻してくれる。休日で賑わう熱田神宮近くの宮宿「七里の渡し」跡で東海道の陸路は絶たれる。ここからは北回りの脇往還、佐屋街道を進み桑名宿を目指すことになる。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_1791 阿野の一里塚(86) 《地図

Img_1793 説明板①

Img_1790 説明板②

Img_1795説明板②の名医の三田邸

Img_1803 桶狭間古戦場跡 《地図

七石表・弔古碑・今川義元の墓などがある。

Img_1804 説明板

Img_1820 高徳院

「今川義元公本陣跡」の石柱が立つ。

Img_1816 徳本名号塔(高徳院の前)

桶狭間の戦の戦死者の慰霊塔。徳本は諸国行脚した念仏僧で、とくに関東地方のあちこちで「徳本念仏塔」を見かける。

Img_1817 説明板

Img_1825 お化け地蔵

嘉永6年(1853)尾張藩の武士が建立。このあたりに桶狭間の戦の戦死者の亡霊が現れるという噂があったが、この地蔵が建ってからは現れなくなったという。

Img_1840 間の宿有松の家並み 《地図

知立宿と鳴海宿の間。

Img_1870 説明板

Img_1848 茶店

Img_1851 有松・鳴海絞会館

Img_1852 服部家住宅

屋号「井桁屋」の絞問屋

Img_1853 説明板

Img_1854 塗籠造、海鼠壁、土蔵の商家の家並みが続き、ふた時代くらい遡ったような感じだ。

Img_1864 中濱商店

有松絞の店

Img_1866有松の家並み

Img_1877 竹田屋

屋号を「笹加」という絞問屋。

Img_1874 説明板

Img_1881 電柱と電線がなければ、なお結構なのだが。

Img_1884 岡家住宅(絞問屋)

Img_1886 説明板

Img_1889 小塚家住宅

屋号「山形屋」の絞問屋

Img_1888 説明板

Img_1893 東海道五十三次二代目松

ここに一本残っていた名残の松は、昭和55年に枯れた。その種子から育った二代目。昔は松が多く「有松」になったという説もある。

Img_1903 有松の一里塚跡(87) 【ルート地図】の①

塚を復元するそうだ。環状2号線の道路が完成してからか。

Img_1904 説明板

Img_1908 平部町常夜灯

鳴海宿の東の入口

Img_1909 説明板

Img_1911 古い家並みも少しは残るが、有松を見た後だけに物足りない。

Img_1916「上州草津温泉」がこんな所に。

Img_1919 中島城址あたり(扇川と手越川の間)

永禄2年(1559)織田信長が今川義元の侵攻に備えて築いた砦。翌年の桶狭間合戦で梶川平左衛門尉が守将となり今川勢と戦った。民家の庭に「中島城址」の石碑が立っているのを後日知った。

Img_1923 瑞泉寺山門 《地図

宇治の黄檗宗万福寺総門を模した中国風の山門

Img_1922 説明板

Img_1927 千代倉

蕎麦屋だったようだが、今は営業していないのか? 千代倉はもとは造り酒屋で、江戸後期には本陣を勤めた下郷家の本家の屋号。屋敷は別にあるようだ。

Img_1928 枡形(曲尺手)の先が鳴海宿の中心部。

本町交差点(庚申坂下)で南(左)に常滑街道が分岐する。

Img_1933 庚申坂 鳴海宿の高札場があった本町交差点から北東へ、誓願寺、圓道寺、鳴海城址の方へ上る坂。《地図

坂沿い左側の庚申山圓道寺の本尊が青面金剛明王で、昔は猿堂寺、庚申堂と称していたことによる坂名。

Img_1945 圓道寺の塀

Img_1942 鳴海城址 (庚申坂の坂上右の天神社)

桶狭間の合戦では今川義元の部将岡部元信が籠もり、織田信長軍と戦う。そして義元の首を取り返し駿河に戻った。「根古屋城」ともいう。天正18年(1590)に廃城となった。道路の向い側は城跡公園となっているが、子どもの遊び場で遺構は残っていない。

Img_1941 鳴海城跡の石柱

Img_1950 芭蕉最古の供養塔(誓願寺境内の芭蕉堂の左脇)

正面に「芭蕉翁」、芭蕉が没した翌月の忌日に建てられたもの。

Img_1946 説明板

Img_1955 鳴海宿本陣跡 《地図

Img_1954 説明板

Img_1959 蛤地蔵尊堂(如意寺)

飢饉の時に、村人の夢のお告げにより地蔵尊の足元を掘った所、たくさんの蛤が掘り出され、村が救われたという言い伝えからこう呼ばれるようになった。「尾張国六地蔵第4番」

Img_1958 由緒

Img_1966 丹下町常夜灯

鳴海宿の西の出口

Img_1965 説明板

Img_1973 千鳥塚 【ルート地図】の②

文字は芭蕉の真筆で、芭蕉存命中に建てられた唯一の句塚だそうだ。

Img_1972 説明板

天白橋(天白川)を渡って行く。しばらく進むと南(左)に知多街道が分岐する。

Img_1981 笠寺の一里塚跡(88) 《地図

東塚のみ現存

Img_1983 説明板

Img_1988 笠寺観音(笠覆寺(りゅうふくじ))

尾張四観音の一つの十一面観音を安置。
四観音道もある。

Img_2004 説明板

Img_1990 本堂

「おもかる地蔵(抱き地蔵)」があるようだが見逃した。

Img_1995 玉照堂

ずぶ濡れの観音さんに笠を被せた器量良しの、いじめにあっていた村娘が、イケメン貴公子に見初められ、玉の輿に乗ったという、お目出度い「シンデレラ物語」の、ちと胡散臭い仏教説話。

Img_1992 由来話

Img_1991 水かけ地蔵

水を掛ければ満願成就? お賽銭を入れなければだめだとさ。

Img_2005 名鉄線を渡り、東海道はその先の交差点で右折する。交差点の先が戸部城址。少し進むと富部神社前から来る塩付街道と交差する。

Img_2014 地蔵院

湯浴地蔵

Img_2017 湯浴地蔵(鉄地蔵)

温泉好きの地蔵さん? いや人々がお湯を掛けで祈願したそうだ。皮膚病にご利益のあり。高さ約2.3メートルの坐像。戦災と伊勢湾台風の被害で、仏頭と両掌だけが旧形をとどめているそうだ。「尾張六地蔵の第3番」

水や湯を掛けられたり、抱き上げられたり、汗をかかされたり、強欲な人類はいろんなことを考えるからお地蔵さんも大変だ。そのうえ、戦災と台風の被害を受けては、いくら鉄の体とはいえガタガタになるのは当然だよ。

Img_2020 宿駅制度400年記念碑

Img_2019 山崎の長坂 北東へ山崎橋(山崎川)へと下る坂。《地図

昔はもっと急な坂だったそうだ。名鉄線の東側が山崎城址。現在は安泰寺の境内。

Img_2028 坂標

坂下の山崎橋(山崎川)で右に平針街道が分岐する。

Img_2026 坂下方向

Img_2048 伝馬町の一里塚跡(89)

名鉄常滑線のガードをくぐったすぐ先の右側。

Img_2058 裁断橋(復元)・姥堂

姥堂に祀ってあるのは、①奪衣婆、②日本武尊の母、③宮簀媛命か。

Img_2053 裁断橋説明板①

擬宝珠の銘文」は小学校の教科書にも載ったそうだ。

「裁断」の由来は書かれていない。罪を犯した熱田神宮の社人がここで裁断されたことによるという。

Img_2056 説明板②

大正初期の裁断橋と姥堂の写真が載る。

Img_2055_2 説明板

Img_2059 家康幼時幽居地 《地図

今も加藤家

Img_2060 説明板

Img_2063 伝馬町の商店街を抜けて行く。

Img_2065 ほうろく地蔵堂(正面)

追分道標の向い側

Img_2066 由来話

天秤棒の片方の重しにされ運ばれたのは、浜松宿成子坂の「泣き子地蔵」と同じだ。

Img_2068 ほうろく地蔵

随分と福福しい、精悍そうな顔立ちの石地蔵に見える。

Img_2069 追分道標 【ルート地図】の③

東海道は「南 京いせ 七里の渡し」だが今は渡しはなく、「北 さやつしま道」(佐屋津島道)を行くことになる。

Img_2070 説明板

Img_2101 宝暦8年の古い道標

手前の民家の玄関先にあって分かりづらい。

Img_2073 「宮の渡し歩道橋」を渡り、正面へ直進すると「七里の渡し」跡。

Img_2078 案内図

Img_2098 宮宿赤本陣跡 【ルート地図】の④

南部新五左衛門が勤めた、宮宿にはもう一軒の白本陣があった。

Img_2097 説明板

Img_2079 丹羽家住宅

破風付玄関の脇本陣格の旅籠屋

Img_2080 説明板

Img_2081 熱田荘

明治29年に建てられた「魚半」という料亭だった。今は高齢者福祉施設の「グループホーム熱田荘」

Img_2082 説明板

Img_2077 時の鐘(復元・宮の渡し公園内)

今でも日に3回、時を告げているようだ。

Img_2089 七里の渡し跡 《地図

新堀川と堀川の合流点で、昔は「神戸の浜」といった。古くは壬申の乱で、大海人皇子(天武天皇)が桑名から熱田に渡る時、その時間が長く、「間遠」といったことから「間遠(まどう)の渡し」と呼ばれていた。
伊勢参りの二人連れ、講釈師、鮫の登場する落語の『桑名舟』もある。

Img_2094 常夜灯

渡し船は、「明け七つ」(午前4時)から「暮れ七つ」(午後4時)までで、それ以降に着いた旅人は宮宿に泊まることになった。桑名までは所要時間はまちまちで2時間~7時間くらいかかったらしい。もちろん気象条件によっては欠航の日もあった。そんな時は佐屋街道回りで桑名宿に向かう旅人もいた。

Img_2093 説明板

Img_2087 土日に定期船も出ているが、むろん桑名までは行かないよ。

Img_2320 ここからさっきの追分道標まで戻り、佐屋街道をたどって桑名宿まで歩く。佐屋街道は長い海路を嫌う人、欠航の時などに利用された東海道の脇往還。

「万場の渡し」は万場大橋、「三里の渡し」は尾張大橋、伊勢大橋と渡って行く。♪「若者?はまた~ 歩き続ける~」♪のだ。

Img_2176_2 佐屋街道説明板

Img_2108 熱田神宮

日本武尊の「草薙の剣」を神体とする神社。

Img_2107 今日は友引で神前結婚のグループが目立つ。

Img_2115 源頼朝出生地(誓願寺) 《地図

由良御前がここ熱田の実家の別邸で生んだそうだ。京都という説もあるようだ。頼朝が生まれたのはなんとなく鎌倉と思っていたようで(情けない)、ちょっと驚いた。

Img_2114 説明板

Img_2128 白鳥古墳 《地図

白鳥御陵となっているが、陵墓には比定されていないようだ。6世紀初め頃の築造で、日本武尊(ヤマトタケル)とはまったく時代が違う。

日本武尊の墓は、三重県鈴鹿市の加佐登の「白鳥塚古墳」ともいわれたが、現在は三重県亀山市の「能褒野(のぼの)御陵」(前方後円墳の丁字塚古墳(王塚古墳))に比定されている。比定といっても明治時代の内務省の役人がそこにすると決めただけなので、証拠などは何もない。そもそも日本武尊そのものが架空の人物なのだから。さらに大阪府羽曳野市の「軽里大塚古墳」、奈良県御所市の「琴引原白鳥陵」も陵墓に比定されているから、そのいい加減さが分かる。(墓がいくつもあるのは日本武尊に限ったことではないが) また陵墓に比定されてしまえば発掘調査などの考古学調査ができなくなる。邪馬台国や卑弥呼も永遠の謎のままかも。

Img_2129 説明板

Img_2141 断夫山古墳(前方部の正面から) 《地図

6世紀初め築造の東海地方最大の前方後円墳

日本武尊の妃・宮簀姫(ミヤズヒメ)の墓との伝承もあった。旦那の墓より大きいはずはなかろうに。

Img_2138 説明板

Img_2140 こんな感じの前方後円墳

Img_2144 鉄地蔵(青大悲寺)

室町時代の作という。

Img_2142 説明板

名古屋弁のお経を聞いてみたいね、少しだけ。

Img_2151 佐屋街道道標(金山新橋南交差点)【ルート地図】の⑤

ここで左に曲がり、「さや海道 津しま道」を行く。
直進は、「なこや 木曽 海道」の『美濃路

Img_2154 道標

Img_2152 説明板

Img_2159 尾頭橋

堀川七橋の一つ。もとは新橋といった。バス停「新橋通」にその名が残る。

Img_2160_3説明板

Img_2167 五女子の一里塚跡(唯然寺) 《地図

佐屋街道には「五女子」・「岩塚」・「千音寺」・「神守」・「埋田」の5つの一里塚があった。

Img_2171 昔、ある尾張の豪族が七人の娘を、七つの村に嫁に出し、そこを領地としたことから村の名が変えられたという。かつては一女子から七女子まで村名揃っていたというが、現在、この「女子(にょうし)」という地名はこの二女子、五女子と中川運河の対岸にある四女子のみとなった。

五女子町は「ごにょしちょう」・二女子町は「ににょしちょう」で「う」は入らないようだ。

Img_2174 佐屋街道道標・案内板(中川福祉会館前) 《地図

Img_2176 説明板

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2010年4月 3日 (土)

東海道(藤川宿→岡崎宿→知立宿)

2010年3月21日

美合駅(名鉄名古屋線)・・・高橋(山綱川)・・・(国道1号)・・・薬師寺・・・西大平陣屋跡・・・大平一里塚跡(80)・・・国道1号・・・筋違橋(東沙川)・旧道・・・法光寺・・・冠木門・岡崎二十七曲り碑・・・根石原観音堂・・・岡崎宿東本陣跡・西本陣跡・岡崎信用金庫資料館・御馳走屋敷跡・籠田公園・岡崎城対面所跡・岡崎藩校允分館跡・柿田橋(伊賀川)・白山神社・浄瑠璃姫の塚・岡崎城公園・・・八帖橋・・・(愛知環状鉄道線)・・・八丁味噌の郷・・・矢作橋(矢作川)・・・勝蓮寺・矢作の一里塚跡あたり(82)・・・弥五騰神社・・・誓願寺(浄瑠璃姫の墓)・・・竊樹神社・・・国道1号・・・薬王寺・・・岡崎街道分岐地点(宇頭町交差点)・・・尾崎東交差点・旧道・・・熊野神社・尾崎の一里塚跡(83)・・・明治天皇小休所跡・・・永安寺(雲竜の松)・・・明治川神社・・・青麻神社・・・石田橋・・・猿渡川橋・・・御鍬神社・・・元禄の道標・・・来迎寺の一里塚跡(84)・・・源心寺・・・来迎寺・・・日吉神社・無量寿寺・かきつばた園・・・浄教寺・・・鎌倉街道・・・在原寺・・・根上りの松・・・(名鉄三河線)・・・在原業平供養塔・・・五輪橋(逢妻男川)・・・落田中の一本松(カキツ姫公園)・・・田中忠左衛門夫妻の墓(泉蔵寺)・・・知立の松並木・馬市歌碑・万葉歌碑・(御林交差点)・・・(名鉄三河線)・・・知立(池鯉鮒)宿問屋場跡・脇本陣跡・本陣跡・宝蔵寺・知立城址・了運寺・旧総持寺跡・・・(国道155号)・・・知立花菖蒲園・土御前社・知立神社・・・総持寺(流汗不動)・・・逢妻橋(逢妻川)・・・国道1号・・・一里山歩道橋・刈谷一里山の一里塚跡(85)・・旧道・・・洞隣寺・・・乗願寺・・・乗蓮寺・・・お富士松・藤松駅(名鉄名古屋線)

 北西の風が強く、黄砂も飛んでくるようで歩いていてもあまり気分のいいものではない。岡崎宿は宿場の名残りは少なく、曲りの多さで疲れる。東海道から離れ、鎌倉街道沿いの在原業平ゆかりの「八橋伝説地」を歩き知立宿に入る。ここも宿場風情は皆無という町並みだ。

 今日は知立宿までの予定だったが、2つ先の富士松駅まで歩く。ところが有松駅での人身事故でダイヤは大幅に乱れ、来るのは特急ばかりで富士松駅は素通り。待っているうちにだんだん寒くなってきた。知立駅で止めておけば良かったか。でも少しでも先に進んだのだから明日からの行程が楽になるだろう。

  【ルート地図

 写真をクリックすると拡大します。

Img_1428 西大平陣屋跡 【ルート地図】の①

あの大岡越前は最後の3年間は大名だったが、ここで暮らしたことはなかった。

Img_1430 説明板

Img_1437 大平の一里塚跡(80) 《地図

Img_1438 説明板

Img_1452 冠木門・岡崎二十七曲り碑 《地図

ここが岡崎宿の東の入口。城下の道は、外敵には城までの距離を伸ばし、間道を利用して防衛することができる屈折の多い道が常で、岡崎の二十七曲りはその典型。しかし江戸幕府が安定すると、この曲りも意味のないものになってしまった。

Img_1455 説明板

こんな感じで曲がって行く。

Img_1461 「二十七曲」標柱

ここは、「岡崎城東入口」、江戸時代にはあんかけ豆腐の「淡雪茶屋」が並んでいた。

Img_1487 案内図

Img_1466 根石原観音堂

本尊は行基作という聖観音像。家康の嫡子、信康が初陣の折に、この観音像に祈願して手柄をあげたとか。

Img_1465 由来碑

Img_1471 常夜灯

岡崎で最古の寛政2年(1790)の常夜灯。仏式だそうだ。

Img_1470_2 由緒

Img_1476 東本陣跡(伝馬通りの「花一生花店」の所)

服部伝左衛門本陣跡

Img_1481 「糸惣」跡(手前)と永田屋精肉問屋

糸惣は平成16年に閉店。永田屋の建物はもとは遊郭だったそうだ。

Img_1488 西本陣跡(コンビニ「ミニストップ」)

中根本陣跡

Img_1498 岡崎信用金庫資料館 《地図

向い側に「御馳走屋敷」があった。

Img_1492 説明板

Img_1486 説明板

宿場から恐れられ、沿道の民からは嫌われていた、悪名高き「お茶壷道中」の一行もここでもてなした。

Img_1477 説明板

Img_1517 白山神社 《地図

Img_1515 卍紋のある白山神社の鬼瓦

神仏一体だった証。

Img_1513 説明板

Img_1523 浄瑠璃姫の塚 【ルート地図】の②

岡崎城本丸北のこの地は、浄瑠璃姫が幽閉されていた所とも、死体の上がった所ともいう。蒲原宿の手前にも墓がある。『東海道(蒲原宿→油井宿)

この先の矢作川を渡った誓願寺にも墓がある。

Img_1521 説明板

Img_1528 岡崎城址 (岡崎城公園)

徳川家康は天正11年(1542)この城で生まれた。

Img_1533 八丁味噌の郷(矢作橋手前)

Img_1535 矢作川(矢作橋から)

強い北西風と一緒に黄砂も飛んで来るのか、景色が黄ばんでいる?

Img_1537 日吉丸と蜂須賀小六出会いの像(矢作橋を渡った右)

有名な逸話だが、この頃には矢作川に橋は架かっていなかった。現在は矢作橋の架け替えで像は一時移転。黄砂を被らずよかったかも。

Img_1539 矢作橋から旧道へ入り坂を下る。

Img_1542 勝蓮寺

家康の嫡子、信康ゆかりの品が残る。門前あたりが矢作の一里塚跡(82)

宿内(岡崎)の一里塚(81)はどこにあったか不明のようだ。

Img_1551 誓願寺(浄瑠璃姫の墓) 《地図

保育園があるせいか扉は閉まっている。本堂には義経と浄瑠璃姫ゆかりの品々があるというが。

三河矢作の浄瑠璃姫伝説

Img_1550 「浄瑠璃姫菩提所」の石柱

Img_1552 竊樹(ひそこ)神社

読めないよこれは。加茂社と称していたのを、矢作村盗人木(ぬすとぎ)の竊樹神社と合祀したそうだ。祭神の御気津神は食物の神。竊は「ぬすむ」、「密かに」という意があり、鼠が密かに穀物を盗み出す様をいうそうだ。盗人木=竊樹(ぬすとぎ)か。

国道1号に出る。宇頭町交差点で右(北方向)に、名古屋城下への近道の岡崎街道が分岐する。《地図

尾崎東交差点で右に旧道に入る。

Img_1568 熊野神社 

手前に「予科練の碑」、鳥居の先に鎌倉街道説明板と(尾崎の)一里塚跡碑が立つ。

Img_1569 鎌倉街道説明板

「不乗の森」から来た鎌倉街道は「踏分の森」(熊野神社)の前から南東へと続いていたという。

Img_1570 尾崎の一里塚跡(83) 【ルート地図】の③

Img_1575_2明治天皇小休所跡

バス停は「宇頭茶屋説教所」で、立場茶屋があったのだろうか。バス停前に阿弥陀如来像を本尊とする「説教所」がある。

Img_1580 「雲竜の松」(永安寺)

義民の大浜茶屋村庄屋、柴田助太夫の霊を祀る寺。

Img_1577 説明板

Img_1579 横に枝が伸びる雲竜の松

Img_1586 明治川神社

明治用水の開鑿に尽くした、都築弥厚、伊予田与八を祀る。用水は今は暗渠になっている。

Img_1593 青麻神社

「横綱濱碇」像と碑が建っている。

JR安城駅近くには「濱碇地蔵」もあるそうだ。自分で建てたようだが。

Img_1603 元禄の道標

「来迎寺町交差点」右に無量寺への道標が立つ。

Img_1604 説明板

Img_1609 来迎寺の一里塚跡(84) 《地図

Img_1606 説明板

Img_1610 北塚

ここから東海道を離れ、在原業平ゆかり「八橋伝説地」を歩く。

Img_1640

案内図

Img_1621 無量寿寺(右)・日吉神社(左)

Img_1623芭蕉句碑

Img_1622 説明板

Img_1629 かきつばた園

在原業平の『伊勢物語』の「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」にちなむ庭園。

Img_1620 説明板

Img_1633 浄教寺鐘楼門

Img_1632 説明板

Img_1636 門前の鎌倉街道を在原寺へ向かう。

Img_1637 在原寺 《地図

Img_1638 説明板

Img_1651 根上りの松へ緩やかに下って行く。

Img_1652 根上りの松

Img_1654 説明板

Img_1662 在原業平の墓(供養塔) 【ルート地図】の④

Img_1659 説明板①

Img_1660 説明板②

Img_1675 逢妻男川

この川は逢妻女川と合流し逢妻川となる。業平と「からころもきつつなれにし妻」に由来する川の名だろう。

Img_1670 落田中の一本松(カキツ姫公園) 《地図

Img_1671 説明板

この先に業平池があったようだ。ここから東海道に戻る。

Img_1679 赤穂義士田中忠左衛門夫妻の墓(泉蔵寺) 

討入り後、切腹した夫の形見の歯と、妻りんが合装されているそうだ。

Img_1678 説明板

Img_1686 いちご餅、かしわ餅の店のようだが営業していないようだ。

Img_1694 知立の松並木 《地図

Img_1698 馬市歌碑(右)・万葉歌碑(左)

広重 池鯉鮒(首夏馬市)』(首夏とは夏の初め、初夏のこと)

Img_1699 説明板

Img_1710 池鯉鮒(知立)宿問屋場跡

古くは「知立」で、江戸時代には御手洗池(慈眼寺裏)の鯉と鮒から「池鯉鮒」と書かれ、明治になって再び「知立」に戻った。

Img_1712 都築屋菓子店 《地図

ここは旅籠柳屋の跡で、向いの本町公園が脇本陣跡。脇本陣の屋根が知立駅そばの小松寺に移されているというので行ってみたが寺は見当たらず、くたびれ儲け。

Img_1718 追腹塚(宝蔵寺)

宝蔵寺には竹中半兵衛が今川義元の軍勢を見物したという、「物見の松」があったそうだ。

Img_1717 説明板

Img_1719 本陣永田家跡 【ルート地図】の⑤

Img_1720 説明板

Img_1731 知立城址

桶狭間の戦の敗戦を聞くや、この城にいた今川軍の武将達は、城を捨て一目散に駿河に逃げ帰ったという。

Img_1729 説明板

Img_1732 了運寺の門前で左折する。

Img_1744 知立神社石橋

Img_1743 説明板

Img_1748 宝塔(国重文)

Img_1745 説明板

Img_1749 流汗(るかん)不動の総持寺 《地図

本尊は弘法大師の作という不動明王像で、信徒の願いをかなえるために、日夜汗を流していることから流汗不動と呼ばれている。不動らしからぬ有り難味のない、面白味のない由来話だ。日光街道宇都宮宿の一向寺には、世に異変が起こる前には汗をかくという「汗かき阿弥陀」が、三重県大王町には吉兆の時には白い汗、災厄の時には黒い汗を流すという「汗かき地蔵」がある。

この地は家康の側室のお万の方(結城秀康の母)の出生地という。

Img_1752 逢妻橋(逢妻川)

逢妻男川と女川が合流して逢妻川となる。「逢妻」とは在原業平を追って京から来た杜若(かきつばた)姫が業平と再会したことに由来するとも、親に反対され離れ離れになって死んだ、相思相愛の裕福の家の娘と小作人の涙が交わり逢ったという昔話もあるそうだ。

Img_1758 刈谷一里山の一里塚跡(85) 《地図

歩道橋の下に隠れるように、忘れられたようにポツンと碑が立っている。

Img_1756 説明板

Img_1762 洞隣寺 《地図

Img_1761 説明板

「めったいくやしいの墓」の伝説:「昔、洞隣寺の下働きの娘が、あるとき高津波村の医王寺へ移った。そしてこの寺の青年僧に一目惚れしたが、彼は仏法修行の身であり娘には見向きもしなかった。娘は片想いのため食も進まずついには憤死してしまった。洞隣寺の和尚は亡骸を引き取り葬むったが、墓石から青い火玉が浮かび上がり、「めったいくやしい」と声を発して火玉は医王寺の方へ飛んで行ったとさ」

「中津藩士の墓」の伝説:「寛保2年(1742)に東海道を旅していた豊前中津藩士の渡辺友五郎と牟礼清五郎は、途中の知立宿の遊女のことで喧嘩となった。洞隣寺付近で渡辺が牟礼を斬りつけて、結局2人とも死んで同寺に埋葬された。2人の墓は生前の恨みからか、互いを避けるようにして傾き、何度直してもまた傾いてしまう」 やはり墓から飛び出てくる女の怨念の方が強烈のようだ。

Img_1767 街道沿いの旧家

Img_1768旧家

Img_1775 乗蓮寺

樹齢850年以上のシイ(椎)。

Img_1774 説明板

Img_1776 旧家

Img_1779 お富士松

駅前の盆栽風のただの松かと思ったらちゃんといわれのある松(新しい松だが)だった。

Img_1778 由来碑

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2010年4月 2日 (金)

東海道(吉田宿→御油宿→赤坂宿→藤川宿)

2010年3月20日

豊橋駅(東海道線)・・・吉田宿西惣門跡・・・湊町公園・築嶋弁天社・神明社・・・豊橋(豊川)・・・聖眼寺(松葉塚)・・・下地の一里塚跡(74)・・・瓜郷遺跡・・・鹿菅橋・・・豊橋魚市場・・・高橋(豊川放水路)・・善光寺川・・子だか橋碑・・・莬足神社・・・小坂井踏切(JR飯田線)・・・明光寺・・・茶屋本陣跡・・・迦具土神社・・・伊奈の一里塚跡(75)・・・速須佐之男神社・・・佐奈橋(佐奈川)・・・冷泉為村歌碑・若宮白鳥神社遥拝所・・・白川・・・西古瀬川・・・国道1号・・白鳥跨線橋(名鉄名古屋線)・・・旧道・・・秋葉山常夜灯・・・薬師堂・・・大社神社・・・御油の一里塚跡(75)・・・追分(姫街道)・・・御油橋(音羽川)・・・若宮八幡神社・・・ベルツ博士夫人花ゆかりの地・御油宿高札場跡・問屋場跡・御油の松並木資料館・本陣跡・東林寺・十王堂・・御油の松並木・・・赤坂宿見附跡・関川神社・長福寺・尾崎屋・浄泉寺・旅籠大橋屋・正法寺・高札場跡・休憩所「よらまいかん」・赤坂陣屋跡・杉森八幡神社・・・十王堂跡・・・八王子橋(音羽川)・・(三河湾オレンジロード)・・・長沢の一里塚跡(76)・・・長沢城跡・・・誓林寺・・・磯丸「みほとけ」歌碑・・・国道1号・・・新箱根入口交差点・旧道・・・間の宿本宿・来迎橋(鉢地川)・法蔵寺・本宿陣屋跡(代官屋敷)・十王堂跡・本宿の一里塚跡(77)・長屋門(宇都野龍碩邸跡)・・・国道1号・・・旧道・・・相馬稲荷神社・・・舞木橋(山綱川)・・・(国道1号)・・・山中八幡宮・・・国道1号・・・藤川宿東棒鼻跡・津島神社常夜灯・明星院・徳性寺(藤川稲荷)・高札場跡・称名寺・問屋場跡・本陣跡・脇本陣跡・西棒鼻跡・十王堂・藤川の一里塚跡(78)・・・吉良道道標・(名鉄名古屋線)・藤川の松並木・・・国道1号・・・阿弥陀寺・・・旧道・・・坂下橋(竜泉寺川)・・・美合新町交差点・・・美合駅(名鉄名古屋線)

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_1019 吉田宿西惣門跡 【ルート地図】の①

惣門の左側に上、下の番所があった。

Img_1023_2旅寝塚句碑(湊町公園の築嶋弁天社の右前) 《地図

「寒けれど二人旅ねぞたのもしき」 貞享4年(1687)、芭蕉が芳野紀行の途中で越人を伴い、保美に杜国を訪ねるべく吉田宿に泊まった時の句。芭蕉は昨日の吉田宿の東海道との分岐地点から田原街道に入り保美に向かった。

Img_1021 湊神明社(湊町公園内)

吉田湊の湊町、船町の鎮守

Img_1030 豊橋(とよばし)から豊川

この地方の物資流通の大動脈。船で伊勢参りに向かう旅人も多かった。

Img_1034 松葉塚(聖眼寺境内)

「松葉(ご)を焚て 手拭あふる 寒さ哉」(芭蕉・古碑松葉塚)

山門前にも「寺内に芭蕉塚有」(宝暦4年(1754))の石柱が立つ。

Img_1032 説明板

Img_1037下地の一里塚跡(74) 《地図

下地交差点の手前

Img_1040 旧山本商店(現ヤマサン)

元禄16年(1703)創業の菜種油、米穀、両替商。現在は食用油脂、大豆、飼料販売などの「ヤマサン」

Img_1041 瓜郷遺跡 《地図

弥生中期から古墳時代前期の集落跡。弥生中期の竪穴住居の復元。

Img_1042 説明板

Img_1046 鹿菅(しかすが)橋(江川)

古代にはこの付近の豊川は川幅が広く、「志香須賀の渡し」で渡った。中州に島々が浮かぶ景勝地で、村上天皇や赤染衛門など多くの歌人に詠まれ、歌枕として知られていた。『枕草子』の17段にも、「渡はしかすがの渡 みつはしの渡 こりずまの渡」とトップに挙げている。今は歌枕風情は皆無。

Img_1055 子だか橋碑 【ルート地図】の②

いくら神の威光とはいえ、わが子を生贄に差し出すとは。子どもを虐待する親は古今東西、絶えることなしか。

Img_1054 由来話

Img_1065 莬足(うたり)神社 《地図

祭神は莬上足尼命。大江定基、弁慶、徐福の伝説が残る神社。

鳥居左手前に、弁慶が大雨で「しかすがの渡し」を渡れずにここに滞在した時の「弁慶手植えの松」の?代目かの幼い松が植わっている。また、神社所蔵の大般若経600巻は、この時に弁慶が書いたものとも伝える。神社にお経というのもおかしいが。

境内には縄文早期の莬足神社貝塚もある。

Img_1056 説明板

Img_1063 徐福伝説

大江定基と猪生贄神事の話も載っている。

Img_1074 伊奈村立場(茶屋本陣)跡・芭蕉句碑(右)・鳥巣句碑(左)

吉田宿と御油宿の中間で加藤家の茶屋があった。加藤家の「良香散」という腹薬は茶屋の地名より有名だったという。

Img_1073 説明板

Img_1079 伊奈の一里塚跡(75)

山本太鼓店の左側に石柱が立つ。

Img_1087佐奈川沿いの菜の花 《地図

Img_1089 古い家並み

Img_1091 冷泉為村歌碑・若宮白鳥神社遥拝所

「散る残る 花もやあると さくら村 青葉の木かげ 立ちぞやすらふ」 為村が9代将軍家重の祝賀の一行に加わり、江戸に下った時に詠んだ歌。このあたりは桜町で昔は桜村といった。若宮白鳥神社は国道1号の向こう側にある。

Img_1119薬師堂 《地図

Img_1113縁起

行基が二人の娘のために刻んだ薬師像ということだろう。

Img_1117 薬師如来像

Img_1121 御油宿の家並み

Img_1124 大社神社 《地図

大江定基が三河国司の時に、出雲大社から勧請したという。石垣は田沼陣屋(田沼意次)のものを移築した。

Img_1127 御油の一里塚跡(76)

大社神社の先の蒲郡信金の植込みの中。

Img_1128 姫街道追分  【ルート地図】の③

見付宿から浜松宿、浜名湖の北を通り、ここで東海道に合流する約62kmの東海道の脇往還。右が姫街道で、直進が東海道。常夜灯、「秋葉三尺坊大権現」・「砥鹿神社」への道標、木製の姫街道の道標もある。

Img_1142 ベルツ夫人花ゆかりの地 《地図

父親の熊吉の生家で戸田屋という旅籠跡。花夫人は東京生まれ。

向かいの御油保育園が高札場跡

Img_1143 説明板

Img_1147 みそ・しょうゆ「いがや」

Img_1157御油宿鈴木半左衛門本陣跡

Img_1158御油宿の家並み

Img_1159 東林寺

本尊は浄瑠璃姫の念持仏という。御油宿の旅籠大津屋が建てた心中した飯盛女の墓がある。

Img_1161 説明板

Img_1168十王堂(左)で、閻魔大王ら十王と三十三観音が安置されているらしい。ここが御油宿の西境。

Img_1169 御油の松並木 《地図

Img_1177 赤坂宿見附跡あたり

御油宿から赤坂宿までは2kmもない。両宿とも歓楽宿で、「御油や赤坂 吉田がなけりゃ 親に勘当うけやせぬ」、「御油や赤坂 吉田がなけりゃ なんのよしみで江戸通い」と歌われた。

Img_1174 説明板

Img_1178 関川神社

樹齢800年以上という大楠がそびえる。幕末の赤坂宿の火災で火の粉が降りかかり、根元が焼かれえぐれている。

Img_1181 芭蕉句碑(関川神社境内)

「夏の月御油より出でて赤坂や」 この句にも御油と赤坂の距離の短さが出ている。宝暦元年(1751)に建てられたものを、明治25年に再建した。

Img_1183 レトロな建物は何か?

病院だったそうです。廃業してからかなり経つようです。「けろ」さんから下記のコメントをいただきました。(2014年5月17日追記)

Img_1185 長福寺 《地図

ここにも大江定基の逸話が残る。定基が都へ帰るのを悲しみ自害した愛人、力寿姫を7日間も抱いていたという。生々しい、異臭の漂う話だ。猪の生贄神事は嫌ったが、腐っていく女の死体を抱き続ける定基は、後に唐に渡って名僧になったという。迷僧だろう。境内には力寿姫の墓と伝う「上臈石」がある。

Img_1186 説明板

Img_1190問屋場跡

Img_1189 説明板

Img_1193 松平彦十郎本陣跡

Img_1191 説明板

Img_1203 尾崎屋

「曲輪・民芸品製造卸問屋」

桧、杉の薄い板を円形に曲げて作った容器や盆など。

Img_1208 赤坂薬師(浄泉寺)

Img_1210 旅籠大橋屋

「御宿所」の提灯が吊るされている。今でも営業しているのだろうか?

Img_1212 説明板

Img_1217 御休処「よらまいかん」

「寄らないかい」でなく、「寄らないといかん」と叱られるのか?←違います。

これも「けろ」さんからのコメントで、『方言で「~しよう」を「~しまい」と言う(行こう→行こまい(行かまい)、やろう→やろまい等)ので、「寄ろう→寄らまい」+「館」ということ』だそうで、納得です。(2014年5月17日追記)

少し手前に高札場の木柱が立っている。

Img_1221 杉森八幡

樹齢千年という根元がくっついた夫婦楠。

Img_1222説明板

Img_1225 十王堂跡あたりから、少しくねった道を進み赤坂宿を抜ける。

Img_1236 長沢の一里塚跡(76)

三河湾オレンジロードをくぐった先の左側。

Img_1238 長沢城跡 《地図

右の長沢小学校の北西一帯。

Img_1244磯丸「みほとけ」歌碑

馬頭観音の後ろに歌碑がある。ここは観音堂跡で、歌碑は弘化3年(1846)に観音堂の妙香尼が死んだ旅人の供養のために(糟谷)磯丸に歌を依頼して建てたもの。
磯丸は漁師の生まれで、「無筆の歌詠み」と呼ばれ、後に読み書きを覚え多くの歌を残した。歌碑は「おふげ人 衆生さいどに たちたまう このみほとけの かかるみかげを 八十二翁 磯丸」だそうだ。
伊良湖岬には磯丸の歌碑が並ぶ「祈りの磯道」の遊歩道がある。『田原街道④』に記載

Img_1252 三連休で国道1号、東名高速の下りはすごい渋滞。こんな日は歩きが一番。

Img_1254 本宿説明板(岡崎市に入ってすぐ)

このあたりに立場茶屋があった。

Img_1262 本宿の家並み

赤坂宿と藤川宿の間の宿。

Img_1265 家康草紙掛松(法蔵寺門前) 《地図

もう4代目の松。家康も松喰い虫にはかなわないようだ。

Img_1264_2 説明板

Img_1272 法蔵寺

Img_1276 近藤勇の墓

板橋の刑場で斬られた首は京都で晒された。それを同志が盗み出し、ここに埋めたという。死んでからもあちこちと首をもてあそばれ、新撰組隊長も可哀想な男よ。東京三鷹市の龍源寺(人見街道)、中山道板橋宿にも墓がある。(『川越街道』の最後に記載)

Img_1266_2 説明板

Img_1284 代官屋敷(本宿陣屋跡) 【ルート地図】の④

冨田医院の敷地内

Img_1280 説明板

Img_1287 本宿の一里塚跡(77)

代官屋敷跡の先の右側に「東海道一里塚」の石柱が立つ。(写真中央右)

Img_1291 長屋門

蘭方医の宇都野龍碩邸跡

Img_1290 説明板

Img_1293 名鉄に沿って行く。

名電山中駅近く

Img_1309 山中八幡宮 《地図

Img_1316 鳩ケ窟(八幡宮境内)

永禄6年(1563)三河の一向一揆に追われた家康が隠れたという岩穴。

Img_1311 説明板

Img_1312 御田植神事「デンデンガッサリ」説明板

神事は太鼓を取り囲み「デンデンガッサリ・・・」と歌われることから始まるそうだ。

Img_1327 藤川宿東棒鼻跡 【ルート地図】の⑤

Img_1330 説明板

Img_1336 案内図

Img_1337 明星院(片目不動尊)

永禄5年(1562)、扇子山の戦で家康は危ういところ見知らぬ武士に助けられた。ところがその武士は敵の矢で目を射られ、姿を消してしまった。後にここを通った家康は堂内の不動尊の片目がつぶれているのを見た。助けてくれた武士は不動の化身と知った家康は深く感謝したという。

Img_1342 藤川稲荷(徳性寺境内)

正徳元年(1711)、宿場の旅籠の屋根を白狐が飛び回って火事が起こるのを知らせたという。しかし宿の人間は何で飛び回っているか分からずに火事は防げなかったが。以後、白狐を稲荷として祀ったという。屋根の上で悪ふざけをしていただけなのに、稲荷様に祀り上げられて、人間はちょろい、化かすのも簡単とお狐さんは笑っていたとか。

Img_1349 粟生(あおう)人形店

城の櫓のような店だ。

Img_1351 問屋場跡

Img_1352 説明板

Img_1354 銭屋(商家)

Img_1364 旅籠つるや跡

Img_1357 本陣跡

家康の家臣の森川家が勤めていた。

Img_1356 説明板

Img_1358 脇本陣大西家門

Img_1367 説明板

Img_1378 むらさき麦畑

芭蕉の句にも詠まれている。

Img_1377 説明板

Img_1379 西棒鼻跡

Img_1382 歌川豊広の歌碑

棒鼻と蛸の足が出てくるユニークな歌。豊広は歌川(安藤)広重の師匠。

Img_1381説明板

Img_1390 十王堂 《地図

堂内中央に地蔵、脇に十王が居並んでいる。

Img_1383 説明板

Img_1389 芭蕉句碑(十王堂の隣)

「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」

Img_1388 芭蕉句碑

Img_1391 藤川の一里塚跡(78)

十王堂の先の左側

Img_1394 吉良道道標(正面の分岐点) 《地図》 右が東海道

茶壷道中の行列がここを通ると雨が降るという「茶壷の涙雨」の話も伝わるという。「お茶壷道中」は沿道の民からは大名行列よりも恐れられ、嫌われ者だった。「童歌」の「ずいずいずっころばしごまみそずい ちゃつぼ(茶壷)にお(追)われてと(戸)っぴんしゃん」は、茶壷道中が来たら戸をぴったし閉めて閉じこもるという意。道中が通り過ぎたら、「ぬ(抜)けたら どんどこしょ」 ヤレヤレドンドコショだよまったく。庶民の気持ちがよく分かる。

Img_1396 説明板

Img_1401 藤川の松並木を抜け、国道1号に出る。

Img_1412 坂下橋を渡り、美合の松並木跡から美合新町交差点を左に曲がって美合駅に向かう。

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