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2010年4月 3日 (土)

東海道(藤川宿→岡崎宿→知立宿)

2010年3月21日

美合駅(名鉄名古屋線)・・・高橋(山綱川)・・・(国道1号)・・・薬師寺・・・西大平陣屋跡・・・大平一里塚跡(80)・・・国道1号・・・筋違橋(東沙川)・旧道・・・法光寺・・・冠木門・岡崎二十七曲り碑・・・根石原観音堂・・・岡崎宿東本陣跡・西本陣跡・岡崎信用金庫資料館・御馳走屋敷跡・籠田公園・岡崎城対面所跡・岡崎藩校允分館跡・柿田橋(伊賀川)・白山神社・浄瑠璃姫の塚・岡崎城公園・・・八帖橋・・・(愛知環状鉄道線)・・・八丁味噌の郷・・・矢作橋(矢作川)・・・勝蓮寺・矢作の一里塚跡あたり(82)・・・弥五騰神社・・・誓願寺(浄瑠璃姫の墓)・・・竊樹神社・・・国道1号・・・薬王寺・・・岡崎街道分岐地点(宇頭町交差点)・・・尾崎東交差点・旧道・・・熊野神社・尾崎の一里塚跡(83)・・・明治天皇小休所跡・・・永安寺(雲竜の松)・・・明治川神社・・・青麻神社・・・石田橋・・・猿渡川橋・・・御鍬神社・・・元禄の道標・・・来迎寺の一里塚跡(84)・・・源心寺・・・来迎寺・・・日吉神社・無量寿寺・かきつばた園・・・浄教寺・・・鎌倉街道・・・在原寺・・・根上りの松・・・(名鉄三河線)・・・在原業平供養塔・・・五輪橋(逢妻男川)・・・落田中の一本松(カキツ姫公園)・・・田中忠左衛門夫妻の墓(泉蔵寺)・・・知立の松並木・馬市歌碑・万葉歌碑・(御林交差点)・・・(名鉄三河線)・・・知立(池鯉鮒)宿問屋場跡・脇本陣跡・本陣跡・宝蔵寺・知立城址・了運寺・旧総持寺跡・・・(国道155号)・・・知立花菖蒲園・土御前社・知立神社・・・総持寺(流汗不動)・・・逢妻橋(逢妻川)・・・国道1号・・・一里山歩道橋・刈谷一里山の一里塚跡(85)・・旧道・・・洞隣寺・・・乗願寺・・・乗蓮寺・・・お富士松・藤松駅(名鉄名古屋線)

 北西の風が強く、黄砂も飛んでくるようで歩いていてもあまり気分のいいものではない。岡崎宿は宿場の名残りは少なく、曲りの多さで疲れる。東海道から離れ、鎌倉街道沿いの在原業平ゆかりの「八橋伝説地」を歩き知立宿に入る。ここも宿場風情は皆無という町並みだ。

 今日は知立宿までの予定だったが、2つ先の富士松駅まで歩く。ところが有松駅での人身事故でダイヤは大幅に乱れ、来るのは特急ばかりで富士松駅は素通り。待っているうちにだんだん寒くなってきた。知立駅で止めておけば良かったか。でも少しでも先に進んだのだから明日からの行程が楽になるだろう。

  【ルート地図

 写真をクリックすると拡大します。

Img_1428 西大平陣屋跡 【ルート地図】の①

あの大岡越前は最後の3年間は大名だったが、ここで暮らしたことはなかった。

Img_1430 説明板

Img_1437 大平の一里塚跡(80) 《地図

Img_1438 説明板

Img_1452 冠木門・岡崎二十七曲り碑 《地図

ここが岡崎宿の東の入口。城下の道は、外敵には城までの距離を伸ばし、間道を利用して防衛することができる屈折の多い道が常で、岡崎の二十七曲りはその典型。しかし江戸幕府が安定すると、この曲りも意味のないものになってしまった。

Img_1455 説明板

こんな感じで曲がって行く。

Img_1461 「二十七曲」標柱

ここは、「岡崎城東入口」、江戸時代にはあんかけ豆腐の「淡雪茶屋」が並んでいた。

Img_1487 案内図

Img_1466 根石原観音堂

本尊は行基作という聖観音像。家康の嫡子、信康が初陣の折に、この観音像に祈願して手柄をあげたとか。

Img_1465 由来碑

Img_1471 常夜灯

岡崎で最古の寛政2年(1790)の常夜灯。仏式だそうだ。

Img_1470_2 由緒

Img_1476 東本陣跡(伝馬通りの「花一生花店」の所)

服部伝左衛門本陣跡

Img_1481 「糸惣」跡(手前)と永田屋精肉問屋

糸惣は平成16年に閉店。永田屋の建物はもとは遊郭だったそうだ。

Img_1488 西本陣跡(コンビニ「ミニストップ」)

中根本陣跡

Img_1498 岡崎信用金庫資料館 《地図

向い側に「御馳走屋敷」があった。

Img_1492 説明板

Img_1486 説明板

宿場から恐れられ、沿道の民からは嫌われていた、悪名高き「お茶壷道中」の一行もここでもてなした。

Img_1477 説明板

Img_1517 白山神社 《地図

Img_1515 卍紋のある白山神社の鬼瓦

神仏一体だった証。

Img_1513 説明板

Img_1523 浄瑠璃姫の塚 【ルート地図】の②

岡崎城本丸北のこの地は、浄瑠璃姫が幽閉されていた所とも、死体の上がった所ともいう。蒲原宿の手前にも墓がある。『東海道(蒲原宿→油井宿)

この先の矢作川を渡った誓願寺にも墓がある。

Img_1521 説明板

Img_1528 岡崎城址 (岡崎城公園)

徳川家康は天正11年(1542)この城で生まれた。

Img_1533 八丁味噌の郷(矢作橋手前)

Img_1535 矢作川(矢作橋から)

強い北西風と一緒に黄砂も飛んで来るのか、景色が黄ばんでいる?

Img_1537 日吉丸と蜂須賀小六出会いの像(矢作橋を渡った右)

有名な逸話だが、この頃には矢作川に橋は架かっていなかった。現在は矢作橋の架け替えで像は一時移転。黄砂を被らずよかったかも。

Img_1539 矢作橋から旧道へ入り坂を下る。

Img_1542 勝蓮寺

家康の嫡子、信康ゆかりの品が残る。門前あたりが矢作の一里塚跡(82)

宿内(岡崎)の一里塚(81)はどこにあったか不明のようだ。

Img_1551 誓願寺(浄瑠璃姫の墓) 《地図

保育園があるせいか扉は閉まっている。本堂には義経と浄瑠璃姫ゆかりの品々があるというが。

三河矢作の浄瑠璃姫伝説

Img_1550 「浄瑠璃姫菩提所」の石柱

Img_1552 竊樹(ひそこ)神社

読めないよこれは。加茂社と称していたのを、矢作村盗人木(ぬすとぎ)の竊樹神社と合祀したそうだ。祭神の御気津神は食物の神。竊は「ぬすむ」、「密かに」という意があり、鼠が密かに穀物を盗み出す様をいうそうだ。盗人木=竊樹(ぬすとぎ)か。

国道1号に出る。宇頭町交差点で右(北方向)に、名古屋城下への近道の岡崎街道が分岐する。《地図

尾崎東交差点で右に旧道に入る。

Img_1568 熊野神社 

手前に「予科練の碑」、鳥居の先に鎌倉街道説明板と(尾崎の)一里塚跡碑が立つ。

Img_1569 鎌倉街道説明板

「不乗の森」から来た鎌倉街道は「踏分の森」(熊野神社)の前から南東へと続いていたという。

Img_1570 尾崎の一里塚跡(83) 【ルート地図】の③

Img_1575_2明治天皇小休所跡

バス停は「宇頭茶屋説教所」で、立場茶屋があったのだろうか。バス停前に阿弥陀如来像を本尊とする「説教所」がある。

Img_1580 「雲竜の松」(永安寺)

義民の大浜茶屋村庄屋、柴田助太夫の霊を祀る寺。

Img_1577 説明板

Img_1579 横に枝が伸びる雲竜の松

Img_1586 明治川神社

明治用水の開鑿に尽くした、都築弥厚、伊予田与八を祀る。用水は今は暗渠になっている。

Img_1593 青麻神社

横綱濱碇」像と碑が建っている。

JR安城駅近くには「濱碇地蔵」もあるそうだ。自分で建てたようだが。

Img_1603 元禄の道標

「来迎寺町交差点」右に無量寺への道標が立つ。

Img_1604 説明板

Img_1609 来迎寺の一里塚跡(84) 《地図

Img_1606 説明板

Img_1610 北塚

ここから東海道を離れ、在原業平ゆかり「八橋伝説地」を歩く。

Img_1640

案内図

Img_1621 無量寿寺(右)・日吉神社(左)

Img_1623芭蕉句碑

Img_1622 説明板

Img_1629 かきつばた園

在原業平の『伊勢物語』の「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」にちなむ庭園。

Img_1620 説明板

Img_1633 浄教寺鐘楼門

Img_1632 説明板

Img_1636 門前の鎌倉街道を在原寺へ向かう。

Img_1637 在原寺 《地図

Img_1638 説明板

Img_1651 根上りの松へ緩やかに下って行く。

Img_1652 根上りの松

Img_1654 説明板

Img_1662 在原業平の墓(供養塔) 【ルート地図】の④

Img_1659 説明板①

Img_1660 説明板②

Img_1675 逢妻男川

この川は逢妻女川と合流し逢妻川となる。業平と「からころもきつつなれにし妻」に由来する川の名だろう。

Img_1670 落田中の一本松(カキツ姫公園) 《地図

Img_1671 説明板

この先に業平池があったようだ。ここから東海道に戻る。

Img_1679 赤穂義士田中忠左衛門夫妻の墓(泉蔵寺) 

討入り後、切腹した夫の形見の歯と、妻りんが合装されているそうだ。

Img_1678 説明板

Img_1686 いちご餅、かしわ餅の店のようだが営業していないようだ。

Img_1694 知立の松並木 《地図

Img_1698 馬市歌碑(右)・万葉歌碑(左)

広重 池鯉鮒(首夏馬市)』(首夏とは夏の初め、初夏のこと)

Img_1699 説明板

Img_1710 池鯉鮒(知立)宿問屋場跡

古くは「知立」で、江戸時代には御手洗池(慈眼寺裏)の鯉と鮒から「池鯉鮒」と書かれ、明治になって再び「知立」に戻った。

Img_1712 都築屋菓子店 《地図

ここは旅籠柳屋の跡で、向いの本町公園が脇本陣跡。脇本陣の屋根が知立駅そばの小松寺に移されているというので行ってみたが寺は見当たらず、くたびれ儲け。

Img_1718 追腹塚(宝蔵寺)

宝蔵寺には竹中半兵衛が今川義元の軍勢を見物したという、「物見の松」があったそうだ。

Img_1717 説明板

Img_1719 本陣永田家跡 【ルート地図】の⑤

Img_1720 説明板

Img_1731 知立城址

桶狭間の戦の敗戦を聞くや、この城にいた今川軍の武将達は、城を捨て一目散に駿河に逃げ帰ったという。

Img_1729 説明板

Img_1732 了運寺の門前で左折する。

Img_1744 知立神社石橋

Img_1743 説明板

Img_1748 宝塔(国重文)

Img_1745 説明板

Img_1749 流汗(るかん)不動の総持寺 《地図

本尊は弘法大師の作という不動明王像で、信徒の願いをかなえるために、日夜汗を流していることから流汗不動と呼ばれている。不動らしからぬ有り難味のない、面白味のない由来話だ。日光街道宇都宮宿の一向寺には、世に異変が起こる前には汗をかくという「汗かき阿弥陀」が、三重県大王町には吉兆の時には白い汗、災厄の時には黒い汗を流すという「汗かき地蔵」がある。

この地は家康の側室のお万の方(結城秀康の母)の出生地という。

Img_1752 逢妻橋(逢妻川)

逢妻男川と女川が合流して逢妻川となる。「逢妻」とは在原業平を追って京から来た杜若(かきつばた)姫が業平と再会したことに由来するとも、親に反対され離れ離れになって死んだ、相思相愛の裕福の家の娘と小作人の涙が交わり逢ったという昔話もあるそうだ。

Img_1758 刈谷一里山の一里塚跡(85) 《地図

歩道橋の下に隠れるように、忘れられたようにポツンと碑が立っている。

Img_1756 説明板

Img_1762 洞隣寺 《地図

Img_1761 説明板

「めったいくやしいの墓」の伝説:「昔、洞隣寺の下働きの娘が、あるとき高津波村の医王寺へ移った。そしてこの寺の青年僧に一目惚れしたが、彼は仏法修行の身であり娘には見向きもしなかった。娘は片想いのため食も進まずついには憤死してしまった。洞隣寺の和尚は亡骸を引き取り葬むったが、墓石から青い火玉が浮かび上がり、「めったいくやしい」と声を発して火玉は医王寺の方へ飛んで行ったとさ」

「中津藩士の墓」の伝説:「寛保2年(1742)に東海道を旅していた豊前中津藩士の渡辺友五郎と牟礼清五郎は、途中の知立宿の遊女のことで喧嘩となった。洞隣寺付近で渡辺が牟礼を斬りつけて、結局2人とも死んで同寺に埋葬された。2人の墓は生前の恨みからか、互いを避けるようにして傾き、何度直してもまた傾いてしまう」 やはり墓から飛び出てくる女の怨念の方が強烈のようだ。

Img_1767 街道沿いの旧家

Img_1768旧家

Img_1775 乗蓮寺

樹齢850年以上のシイ(椎)。

Img_1774 説明板

Img_1776 旧家

Img_1779 お富士松

駅前の盆栽風のただの松かと思ったらちゃんといわれのある松(新しい松だが)だった。

Img_1778 由来碑

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