東海道(藤川宿→岡崎宿→知立宿)
2010年3月21日
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北西の風が強く、黄砂も飛んでくるようで歩いていてもあまり気分のいいものではない。岡崎宿は宿場の名残りは少なく、曲りの多さで疲れる。東海道から離れ、鎌倉街道沿いの在原業平ゆかりの「八橋伝説地」を歩き知立宿に入る。ここも宿場風情は皆無という町並みだ。
今日は知立宿までの予定だったが、2つ先の富士松駅まで歩く。ところが有松駅での人身事故でダイヤは大幅に乱れ、来るのは特急ばかりで富士松駅は素通り。待っているうちにだんだん寒くなってきた。知立駅で止めておけば良かったか。でも少しでも先に進んだのだから明日からの行程が楽になるだろう。
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
あの大岡越前は最後の3年間は大名だったが、ここで暮らしたことはなかった。
大平の一里塚跡(80) 《地図》
冠木門・岡崎二十七曲り碑 《地図》
ここが岡崎宿の東の入口。城下の道は、外敵には城までの距離を伸ばし、間道を利用して防衛することができる屈折の多い道が常で、岡崎の二十七曲りはその典型。しかし江戸幕府が安定すると、この曲りも意味のないものになってしまった。
こんな感じで曲がって行く。
ここは、「岡崎城東入口」、江戸時代にはあんかけ豆腐の「淡雪茶屋」が並んでいた。
本尊は行基作という聖観音像。家康の嫡子、信康が初陣の折に、この観音像に祈願して手柄をあげたとか。
岡崎で最古の寛政2年(1790)の常夜灯。仏式だそうだ。
服部伝左衛門本陣跡
糸惣は平成16年に閉店。永田屋の建物はもとは遊郭だったそうだ。
中根本陣跡
岡崎信用金庫資料館 《地図》
向い側に「御馳走屋敷」があった。
宿場から恐れられ、沿道の民からは嫌われていた、悪名高き「お茶壷道中」の一行もここでもてなした。
白山神社 《地図》
神仏一体だった証。
浄瑠璃姫の塚 【ルート地図】の29
岡崎城本丸北のこの地は、浄瑠璃姫が幽閉されていた所とも、死体の上がった所ともいう。蒲原宿の手前にも墓がある。『東海道(蒲原宿→油井宿)』
この先の矢作川を渡った誓願寺にも墓がある。
岡崎城址 (岡崎城公園)
徳川家康は天正11年(1542)この城で生まれた。
八丁味噌の郷(矢作橋手前)
強い北西風と一緒に黄砂も飛んで来るのか、景色が黄ばんでいる?
有名な逸話だが、この頃には矢作川に橋は架かっていなかった。現在は矢作橋の架け替えで像は一時移転。黄砂を被らずよかったかも。
家康の嫡子、信康ゆかりの品が残る。門前あたりが矢作の一里塚跡(82)
宿内(岡崎)の一里塚(81)はどこにあったか不明のようだ。
誓願寺(浄瑠璃姫の墓) 《地図》
保育園があるせいか扉は閉まっている。本堂には義経と浄瑠璃姫ゆかりの品々があるというが。
読めないよこれは。加茂社と称していたのを、矢作村盗人木(ぬすとぎ)の竊樹神社と合祀したそうだ。祭神の御気津神は食物の神。竊は「ぬすむ」、「密かに」という意があり、鼠が密かに穀物を盗み出す様をいうそうだ。盗人木=竊樹(ぬすとぎ)か。
国道1号に出る。宇頭町交差点で右(北方向)に、名古屋城下への近道の岡崎街道が分岐する。《地図》
尾崎東交差点で右に旧道に入る。
手前に「予科練の碑」、鳥居の先に鎌倉街道説明板と(尾崎の)一里塚跡碑が立つ。
「不乗の森」から来た鎌倉街道は「踏分の森」(熊野神社)の前から南東へと続いていたという。
バス停は「宇頭茶屋説教所」で、立場茶屋があったのだろうか。バス停前に阿弥陀如来像を本尊とする「説教所」がある。
義民の大浜茶屋村庄屋、柴田助太夫の霊を祀る寺。
明治用水の開鑿に尽くした、都築弥厚、伊予田与八を祀る。用水は今は暗渠になっている。
「横綱濱碇」像と碑が建っている。
JR安城駅近くには「濱碇地蔵」もあるそうだ。自分で建てたようだが。
「来迎寺町交差点」右に無量寺への道標が立つ。
来迎寺の一里塚跡(84) 《地図》
ここから東海道を離れ、在原業平ゆかり「八橋伝説地」を歩く。
案内図
在原業平の『伊勢物語』の「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」にちなむ庭園。
在原寺 《地図》
この川は逢妻女川と合流し逢妻川となる。業平と「からころもきつつなれにし妻」に由来する川の名だろう。
落田中の一本松(カキツ姫公園) 《地図》
この先に業平池があったようだ。ここから東海道に戻る。
討入り後、切腹した夫の形見の歯と、妻りんが合装されているそうだ。
知立の松並木 《地図》
『広重 池鯉鮒(首夏馬市)』(首夏とは夏の初め、初夏のこと)
古くは「知立」で、江戸時代には御手洗池(慈眼寺裏)の鯉と鮒から「池鯉鮒」と書かれ、明治になって再び「知立」に戻った。
都築屋菓子店 《地図》
ここは旅籠柳屋の跡で、向いの本町公園が脇本陣跡。脇本陣の屋根が知立駅そばの小松寺に移されているというので行ってみたが寺は見当たらず、くたびれ儲け。
宝蔵寺には竹中半兵衛が今川義元の軍勢を見物したという、「物見の松」があったそうだ。
桶狭間の戦の敗戦を聞くや、この城にいた今川軍の武将達は、城を捨て一目散に駿河に逃げ帰ったという。
流汗(るかん)不動の総持寺 《地図》
本尊は弘法大師の作という不動明王像で、信徒の願いをかなえるために、日夜汗を流していることから流汗不動と呼ばれている。不動らしからぬ有り難味のない、面白味のない由来話だ。日光街道宇都宮宿の一向寺には、世に異変が起こる前には汗をかくという「汗かき阿弥陀」が、三重県大王町には吉兆の時には白い汗、災厄の時には黒い汗を流すという「汗かき地蔵」がある。
この地は家康の側室のお万の方(結城秀康の母)の出生地という。
逢妻男川と女川が合流して逢妻川となる。「逢妻」とは在原業平を追って京から来た杜若(かきつばた)姫が業平と再会したことに由来するとも、親に反対され離れ離れになって死んだ、相思相愛の裕福の家の娘と小作人の涙が交わり逢ったという昔話もあるそうだ。
刈谷一里山の一里塚跡(85) 《地図》
歩道橋の下に隠れるように、忘れられたようにポツンと碑が立っている。
洞隣寺 《地図》
「めったいくやしいの墓」の伝説:「昔、洞隣寺の下働きの娘が、あるとき高津波村の医王寺へ移った。そしてこの寺の青年僧に一目惚れしたが、彼は仏法修行の身であり娘には見向きもしなかった。娘は片想いのため食も進まずついには憤死してしまった。洞隣寺の和尚は亡骸を引き取り葬むったが、墓石から青い火玉が浮かび上がり、「めったいくやしい」と声を発して火玉は医王寺の方へ飛んで行ったとさ」
「中津藩士の墓」の伝説:「寛保2年(1742)に東海道を旅していた豊前中津藩士の渡辺友五郎と牟礼清五郎は、途中の知立宿の遊女のことで喧嘩となった。洞隣寺付近で渡辺が牟礼を斬りつけて、結局2人とも死んで同寺に埋葬された。2人の墓は生前の恨みからか、互いを避けるようにして傾き、何度直してもまた傾いてしまう」 やはり墓から飛び出てくる女の怨念の方が強烈のようだ。
樹齢850年以上のシイ(椎)。
駅前の盆栽風のただの松かと思ったらちゃんといわれのある松(新しい松だが)だった。
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