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2010年4月 4日 (日)

東海道(知立宿→鳴海宿→宮宿→佐屋街道①)

2010年3月22日

富士松駅(名鉄名古屋線)・・・境橋(三河・尾張)・・・国道1号・・・正戸橋・・・旧道・・・阿野一里塚跡(86)・・・西雲寺・・・(名鉄名古屋線)・・・桶狭間古戦場跡・・高徳院・・・松野根橋(手越川)・・・間の宿有松・井桁屋(服部家)・有松鳴海絞会館・祇園寺・・・(名古屋環状2号線(建設中))・有松の一里塚跡(87)・(名鉄名古屋線)・・鎌研橋(手越川)・・・鳴海宿平部町常夜灯・・中島橋(扇川)・・中島城址あたり・・瑞泉寺・・高札場跡・・常滑街道分岐地点・・庚申坂・・鳴海城址(天神社)・・鳴海城跡公園・・道寺・・誓願寺(芭蕉供養塔)・・本陣跡・・如意寺(蛤地蔵尊堂)・・丹下町常夜灯・・・千句塚公園・千鳥塚・緒畑稲荷神社・・三王山交差点・・・天白橋(天白川)・・・知多街道分岐地点・・・笠寺の一里塚跡(88)・・・笠寺観音(笠覆寺)・・・笠寺観音商店街・(名鉄名古屋線)・・塩付街道交差地点・・・清水稲荷・・・誓願寺・・・(鎌倉街道)・地蔵院(湯浴地蔵)・・・熊野三社・・・山崎の長坂・・・山崎橋(山崎川)・平針街道分岐地点・・・国道1号・・・(東海道線)・旧道・・・熱田橋(新堀川)・・・神明社・・・(名鉄常滑線)・伝馬町の一里塚跡(89)・・・裁断橋跡・姥堂・・・徳川家康幼時幽居地・・・追分道標・ほうろく地蔵・・・宮の渡し歩道橋・・・宮宿赤本陣跡・宝勝寺・西浜御殿跡・丹羽家・熱田荘・七里の渡し跡(宮の渡し公園)・・・追分道標・佐屋街道・・・熱田神宮・・・源頼朝出生地(誓願寺)・・・法持寺・・・堀川・・・白鳥古墳・・・断夫山古墳・・・青大悲寺(鉄地蔵)・・・雲心寺・・・佐屋街道道標(金山新橋南交差点)・・・尾頭橋(堀川)・・・(東海道新幹線)・・・五女子の一里塚跡(唯然寺)・・・佐屋街道道標(中川福祉会館前)・・・明治天皇小休所跡・・・長良橋(中川運河)・・・萬念寺・・・明治天皇小休所跡・・・烏森(かすもり)駅(近鉄名古屋線)

 間の宿有松の絞問屋の家並みは知立宿と鳴海宿の分まで取り戻してくれる。休日で賑わう熱田神宮近くの宮宿「七里の渡し」跡で東海道の陸路は絶たれる。ここからは北回りの脇往還、佐屋街道を進み桑名宿を目指すことになる。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_1791 阿野の一里塚(86) 《地図

Img_1793 説明板①

Img_1790 説明板②

Img_1795説明板②の名医の三田邸

Img_1803 桶狭間古戦場跡 《地図

七石表・弔古碑・今川義元の墓などがある。

Img_1804 説明板

Img_1820 高徳院

「今川義元公本陣跡」の石柱が立つ。

Img_1816 徳本名号塔(高徳院の前)

桶狭間の戦の戦死者の慰霊塔。徳本は諸国行脚した念仏僧で、とくに関東地方のあちこちで「徳本念仏塔」を見かける。

Img_1817 説明板

Img_1825 お化け地蔵

嘉永6年(1853)尾張藩の武士が建立。このあたりに桶狭間の戦の戦死者の亡霊が現れるという噂があったが、この地蔵が建ってからは現れなくなったという。

Img_1840 間の宿有松の家並み 《地図

知立宿と鳴海宿の間。

Img_1870 説明板

Img_1848 茶店

Img_1851 有松・鳴海絞会館

Img_1852 服部家住宅

屋号「井桁屋」の絞問屋

Img_1853 説明板

Img_1854 塗籠造、海鼠壁、土蔵の商家の家並みが続き、ふた時代くらい遡ったような感じだ。

Img_1864 中濱商店

有松絞の店

Img_1866有松の家並み

Img_1877 竹田屋

屋号を「笹加」という絞問屋。

Img_1874 説明板

Img_1881 電柱と電線がなければ、なお結構なのだが。

Img_1884 岡家住宅(絞問屋)

Img_1886 説明板

Img_1889 小塚家住宅

屋号「山形屋」の絞問屋

Img_1888 説明板

Img_1893 東海道五十三次二代目松

ここに一本残っていた名残の松は、昭和55年に枯れた。その種子から育った二代目。昔は松が多く「有松」になったという説もある。

Img_1903 有松の一里塚跡(87) 【ルート地図】の①

塚を復元するそうだ。環状2号線の道路が完成してからか。

Img_1904 説明板

Img_1908 平部町常夜灯

鳴海宿の東の入口

Img_1909 説明板

Img_1911 古い家並みも少しは残るが、有松を見た後だけに物足りない。

Img_1916「上州草津温泉」がこんな所に。

Img_1919 中島城址あたり(扇川と手越川の間)

永禄2年(1559)織田信長が今川義元の侵攻に備えて築いた砦。翌年の桶狭間合戦で梶川平左衛門尉が守将となり今川勢と戦った。民家の庭に「中島城址」の石碑が立っているのを後日知った。

Img_1923 瑞泉寺山門 《地図

宇治の黄檗宗万福寺総門を模した中国風の山門

Img_1922 説明板

Img_1927 千代倉

蕎麦屋だったようだが、今は営業していないのか? 千代倉はもとは造り酒屋で、江戸後期には本陣を勤めた下郷家の本家の屋号。屋敷は別にあるようだ。

Img_1928 枡形(曲尺手)の先が鳴海宿の中心部。

本町交差点(庚申坂下)で南(左)に常滑街道が分岐する。

Img_1933 庚申坂 鳴海宿の高札場があった本町交差点から北東へ、誓願寺、圓道寺、鳴海城址の方へ上る坂。《地図

坂沿い左側の庚申山圓道寺の本尊が青面金剛明王で、昔は猿堂寺、庚申堂と称していたことによる坂名。

Img_1945 圓道寺の塀

Img_1942 鳴海城址 (庚申坂の坂上右の天神社)

桶狭間の合戦では今川義元の部将岡部元信が籠もり、織田信長軍と戦う。そして義元の首を取り返し駿河に戻った。「根古屋城」ともいう。天正18年(1590)に廃城となった。道路の向い側は城跡公園となっているが、子どもの遊び場で遺構は残っていない。

Img_1941 鳴海城跡の石柱

Img_1950 芭蕉最古の供養塔(誓願寺境内の芭蕉堂の左脇)

正面に「芭蕉翁」、芭蕉が没した翌月の忌日に建てられたもの。

Img_1946 説明板

Img_1955 鳴海宿本陣跡 《地図

Img_1954 説明板

Img_1959 蛤地蔵尊堂(如意寺)

飢饉の時に、村人の夢のお告げにより地蔵尊の足元を掘った所、たくさんの蛤が掘り出され、村が救われたという言い伝えからこう呼ばれるようになった。「尾張国六地蔵第4番」

Img_1958 由緒

Img_1966 丹下町常夜灯

鳴海宿の西の出口

Img_1965 説明板

Img_1973 千鳥塚 【ルート地図】の②

文字は芭蕉の真筆で、芭蕉存命中に建てられた唯一の句塚だそうだ。

Img_1972 説明板

天白橋(天白川)を渡って行く。しばらく進むと南(左)に知多街道が分岐する。

Img_1981 笠寺の一里塚跡(88) 《地図

東塚のみ現存

Img_1983 説明板

Img_1988 笠寺観音(笠覆寺(りゅうふくじ))

尾張四観音の一つの十一面観音を安置。

Img_2004 説明板

Img_1990 本堂

「おもかる地蔵(抱き地蔵)」があるようだが見逃した。

Img_1995 玉照堂

ずぶ濡れの観音さんに笠を被せた器量良しの、いじめにあっていた村娘が、イケメン貴公子に見初められ、玉の輿に乗ったという、お目出度い「シンデレラ物語」の、ちと胡散臭い仏教説話。

Img_1992 由来話

Img_1991 水かけ地蔵

水を掛ければ満願成就? お賽銭を入れなければだめだとさ。

Img_2005 名鉄線を渡り、東海道はその先の交差点で右折する。交差点の先が戸部城址。少し進むと富部神社前から来る塩付街道と交差する。

Img_2014 地蔵院

湯浴地蔵

Img_2017 湯浴地蔵(鉄地蔵)

温泉好きの地蔵さん? いや人々がお湯を掛けで祈願したそうだ。皮膚病にご利益のあり。高さ約2.3メートルの坐像。戦災と伊勢湾台風の被害で、仏頭と両掌だけが旧形をとどめているそうだ。「尾張六地蔵の第3番」

水や湯を掛けられたり、抱き上げられたり、汗をかかされたり、強欲な人類はいろんなことを考えるからお地蔵さんも大変だ。そのうえ、戦災と台風の被害を受けては、いくら鉄の体とはいえガタガタになるのは当然だよ。

Img_2020 宿駅制度400年記念碑

Img_2019 山崎の長坂 北東へ山崎橋(山崎川)へと下る坂。《地図

昔はもっと急な坂だったそうだ。名鉄線の東側が山崎城址。現在は安泰寺の境内。

Img_2028 坂標

坂下の山崎橋(山崎川)で右に平針街道が分岐する。

Img_2026 坂下方向

Img_2048 伝馬町の一里塚跡(89)

名鉄常滑線のガードをくぐったすぐ先の右側。

Img_2058 裁断橋(復元)・姥堂

姥堂に祀ってあるのは、①奪衣婆、②日本武尊の母、③宮簀媛命か。

Img_2053 裁断橋説明板①

擬宝珠の銘文」は小学校の教科書にも載ったそうだ。

「裁断」の由来は書かれていない。罪を犯した熱田神宮の社人がここで裁断されたことによるという。

Img_2056 説明板②

大正初期の裁断橋と姥堂の写真が載る。

Img_2055_2 説明板

Img_2059 家康幼時幽居地 《地図

今も加藤家

Img_2060 説明板

Img_2063 伝馬町の商店街を抜けて行く。

Img_2065 ほうろく地蔵堂(正面)

追分道標の向い側

Img_2066 由来話

天秤棒の片方の重しにされ運ばれたのは、浜松宿成子坂の「泣き子地蔵」と同じだ。

Img_2068 ほうろく地蔵

随分と福福しい、精悍そうな顔立ちの石地蔵に見える。

Img_2069 追分道標 【ルート地図】の③

東海道は「南 京いせ 七里の渡し」だが今は渡しはなく、「北 さやつしま道」(佐屋津島道)を行くことになる。

Img_2070 説明板

Img_2101 宝暦8年の古い道標

手前の民家の玄関先にあって分かりづらい。

Img_2073 「宮の渡し歩道橋」を渡り、正面へ直進すると「七里の渡し」跡。

Img_2078 案内図

Img_2098 宮宿赤本陣跡 【ルート地図】の④

南部新五左衛門が勤めた、宮宿にはもう一軒の白本陣があった。

Img_2097 説明板

Img_2079 丹羽家住宅

破風付玄関の脇本陣格の旅籠屋

Img_2080 説明板

Img_2081 熱田荘

明治29年に建てられた「魚半」という料亭だった。今は高齢者福祉施設の「グループホーム熱田荘」

Img_2082 説明板

Img_2077 時の鐘(復元・宮の渡し公園内)

今でも日に3回、時を告げているようだ。

Img_2089 七里の渡し跡 《地図

新堀川と堀川の合流点で、昔は「神戸の浜」といった。古くは壬申の乱で、大海人皇子(天武天皇)が桑名から熱田に渡る時、その時間が長く、「間遠」といったことから「間遠(まどう)の渡し」と呼ばれていた。
伊勢参りの二人連れ、講釈師、鮫の登場する落語の『桑名舟』もある。

Img_2094 常夜灯

渡し船は、「明け七つ」(午前4時)から「暮れ七つ」(午後4時)までで、それ以降に着いた旅人は宮宿に泊まることになった。桑名までは所要時間はまちまちで2時間~7時間くらいかかったらしい。もちろん気象条件によっては欠航の日もあった。そんな時は佐屋街道回りで桑名宿に向かう旅人もいた。

Img_2093 説明板

Img_2087 土日に定期船も出ているが、むろん桑名までは行かないよ。

Img_2320 ここからさっきの追分道標まで戻り、佐屋街道をたどって桑名宿まで歩く。佐屋街道は長い海路を嫌う人、欠航の時などに利用された東海道の脇往還。

「万場の渡し」は万場大橋、「三里の渡し」は尾張大橋、伊勢大橋と渡って行く。♪「若者?はまた~ 歩き続ける~」♪のだ。

Img_2176_2 佐屋街道説明板

Img_2108 熱田神宮

日本武尊の「草薙の剣」を神体とする神社。

Img_2107 今日は友引で神前結婚のグループが目立つ。

Img_2115 源頼朝出生地(誓願寺) 《地図

由良御前がここ熱田の実家の別邸で生んだそうだ。京都という説もあるようだ。頼朝が生まれたのはなんとなく鎌倉と思っていたようで(情けない)、ちょっと驚いた。

Img_2114 説明板

Img_2128 白鳥古墳 《地図

白鳥御陵となっているが、陵墓には比定されていないようだ。6世紀初め頃の築造で、日本武尊(ヤマトタケル)とはまったく時代が違う。

日本武尊の墓は、三重県鈴鹿市の加佐登の「白鳥塚古墳」ともいわれたが、現在は三重県亀山市の「能褒野(のぼの)御陵」(前方後円墳の丁字塚古墳(王塚古墳))に比定されている。比定といっても明治時代の内務省の役人がそこにすると決めただけなので、証拠などは何もない。そもそも日本武尊そのものが架空の人物なのだから。さらに大阪府羽曳野市の「軽里大塚古墳」、奈良県御所市の「琴引原白鳥陵」も陵墓に比定されているから、そのいい加減さが分かる。(墓がいくつもあるのは日本武尊に限ったことではないが) また陵墓に比定されてしまえば発掘調査などの考古学調査ができなくなる。邪馬台国や卑弥呼も永遠の謎のままかも。

Img_2129 説明板

Img_2141 断夫山古墳(前方部の正面から) 《地図

6世紀初め築造の東海地方最大の前方後円墳

日本武尊の妃・宮簀姫(ミヤズヒメ)の墓との伝承もあった。旦那の墓より大きいはずはなかろうに。

Img_2138 説明板

Img_2140 こんな感じの前方後円墳

Img_2144 鉄地蔵(青大悲寺)

室町時代の作という。

Img_2142 説明板

名古屋弁のお経を聞いてみたいね、少しだけ。

Img_2151 佐屋街道道標(金山新橋南交差点)【ルート地図】の⑤

ここで左に曲がり、「さや海道 津しま道」を行く。
直進は、「なこや 木曽 海道」の『美濃路

Img_2154 道標

Img_2152 説明板

Img_2159 尾頭橋

堀川七橋の一つ。もとは新橋といった。バス停「新橋通」にその名が残る。

Img_2160_3説明板

Img_2167 五女子の一里塚跡(唯然寺) 《地図

佐屋街道には「五女子」・「岩塚」・「千音寺」・「神守」・「埋田」の5つの一里塚があった。

Img_2171 昔、ある尾張の豪族が七人の娘を、七つの村に嫁に出し、そこを領地としたことから村の名が変えられたという。かつては一女子から七女子まで村名揃っていたというが、現在、この「女子(にょうし)」という地名はこの二女子、五女子と中川運河の対岸にある四女子のみとなった。

五女子町は「ごにょしちょう」・二女子町は「ににょしちょう」で「う」は入らないようだ。

Img_2174 佐屋街道道標・案内板(中川福祉会館前) 《地図

Img_2176 説明板

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