東海道(知立宿→鳴海宿→宮宿→佐屋街道①)
2010年3月22日
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間の宿有松の絞問屋の家並みは知立宿と鳴海宿の分まで取り戻してくれる。休日で賑わう熱田神宮近くの宮宿「七里の渡し」跡で東海道の陸路は絶たれる。ここからは北回りの脇往還、佐屋街道を進み桑名宿を目指すことになる。
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
阿野の一里塚(86) 《地図》
桶狭間古戦場跡 《地図》
七石表・弔古碑・今川義元の墓などがある。
「今川義元公本陣跡」の石柱が立つ。
桶狭間の戦の戦死者の慰霊塔。徳本は諸国行脚した念仏僧で、とくに関東地方のあちこちで「徳本念仏塔」を見かける。
嘉永6年(1853)尾張藩の武士が建立。このあたりに桶狭間の戦の戦死者の亡霊が現れるという噂があったが、この地蔵が建ってからは現れなくなったという。
間の宿有松の家並み 《地図》
知立宿と鳴海宿の間。
屋号「井桁屋」の絞問屋
塗籠造、海鼠壁、土蔵の商家の家並みが続き、ふた時代くらい遡ったような感じだ。
有松絞の店
屋号を「笹加」という絞問屋。
屋号「山形屋」の絞問屋
ここに一本残っていた名残の松は、昭和55年に枯れた。その種子から育った二代目。昔は松が多く「有松」になったという説もある。
塚を復元するそうだ。環状2号線の道路が完成してからか。
鳴海宿の東の入口
中島城址あたり(扇川と手越川の間)
永禄2年(1559)織田信長が今川義元の侵攻に備えて築いた砦。翌年の桶狭間合戦で梶川平左衛門尉が守将となり今川勢と戦った。民家の庭に「中島城址」の石碑が立っているのを後日知った。
瑞泉寺山門 《地図》
宇治の黄檗宗万福寺総門を模した中国風の山門
蕎麦屋だったようだが、今は営業していないのか? 千代倉はもとは造り酒屋で、江戸後期には本陣を勤めた下郷家の本家の屋号。屋敷は別にあるようだ。
本町交差点(庚申坂下)で南(左)に常滑街道が分岐する。
【ル-ト地図】の35庚申坂 鳴海宿の高札場があった本町交差点から北東へ、誓願寺、圓道寺、鳴海城址の方へ上る坂。《地図》
坂沿い左側の庚申山圓道寺の本尊が青面金剛明王で、昔は猿堂寺、庚申堂と称していたことによる坂名。
鳴海城址 (庚申坂の坂上右の天神社)
桶狭間の合戦では今川義元の部将岡部元信が籠もり、織田信長軍と戦う。そして義元の首を取り返し駿河に戻った。「根古屋城」ともいう。天正18年(1590)に廃城となった。道路の向い側は城跡公園となっているが、子どもの遊び場で遺構は残っていない。
正面に「芭蕉翁」、芭蕉が没した翌月の忌日に建てられたもの。
鳴海宿本陣跡 《地図》
飢饉の時に、村人の夢のお告げにより地蔵尊の足元を掘った所、たくさんの蛤が掘り出され、村が救われたという言い伝えからこう呼ばれるようになった。「尾張国六地蔵第4番」
鳴海宿の西の出口
文字は芭蕉の真筆で、芭蕉存命中に建てられた唯一の句塚だそうだ。
天白橋(天白川)を渡って行く。しばらく進むと南(左)に知多街道が分岐する。
【ル-ト地図】の37笠寺の一里塚跡(88) 《地図》
東塚のみ現存
笠寺観音(笠覆寺(りゅうふくじ))
「おもかる地蔵(抱き地蔵)」があるようだが見逃した。
ずぶ濡れの観音さんに笠を被せた器量良しの、いじめにあっていた村娘が、イケメン貴公子に見初められ、玉の輿に乗ったという、お目出度い「シンデレラ物語」の、ちと胡散臭い仏教説話。
水を掛ければ満願成就? お賽銭を入れなければだめだとさ。
名鉄線を渡り、東海道はその先の交差点で右折する。交差点の先が戸部城址。少し進むと富部神社前から来る塩付街道と合流して少し進む。
【ル-ト地図】の38湯浴地蔵
温泉好きの地蔵さん? いや人々がお湯を掛けで祈願したそうだ。皮膚病にご利益のあり。高さ約2.3メートルの坐像。戦災と伊勢湾台風の被害で、仏頭と両掌だけが旧形をとどめているそうだ。「尾張六地蔵の第3番」
水や湯を掛けられたり、抱き上げられたり、汗をかかされたり、強欲な人類はいろんなことを考えるからお地蔵さんも大変だ。そのうえ、戦災と台風の被害を受けては、いくら鉄の体とはいえガタガタになるのは当然だよ。
山崎の長坂 北東へ山崎橋(山崎川)へと下る坂。《地図》
昔はもっと急な坂だったそうだ。名鉄線の東側が山崎城址。現在は安泰寺の境内。
坂下の山崎橋(山崎川)で右に平針街道が分岐する。
【ル-ト地図】の39名鉄常滑線のガードをくぐったすぐ先の右側。
姥堂に祀ってあるのは、①奪衣婆、②日本武尊の母、③宮簀媛命か。
「擬宝珠の銘文」は小学校の教科書にも載ったそうだ。
「裁断」の由来は書かれていない。罪を犯した熱田神宮の社人がここで裁断されたことによるという。
大正初期の裁断橋と姥堂の写真が載る。
家康幼時幽居地 《地図》
今も加藤家
追分道標の向い側
天秤棒の片方の重しにされ運ばれたのは、浜松宿成子坂の「泣き子地蔵」と同じだ。
随分と福福しい、精悍そうな顔立ちの石地蔵に見える。
東海道は「南 京いせ 七里の渡し」だが今は渡しはなく、「北 さやつしま道」(佐屋津島道)を行くことになる。
手前の民家の玄関先にあって分かりづらい。
「宮の渡し歩道橋」を渡り、正面へ直進すると「七里の渡し」跡。
南部新五左衛門が勤めた、宮宿にはもう一軒の白本陣があった。
破風付玄関の脇本陣格の旅籠屋
明治29年に建てられた「魚半」という料亭だった。今は高齢者福祉施設の「グループホーム熱田荘」
今でも日に3回、時を告げているようだ。
七里の渡し跡 《地図》
新堀川と堀川の合流点で、昔は「神戸の浜」といった。古くは壬申の乱で、大海人皇子(天武天皇)が桑名から熱田に渡る時、その時間が長く、「間遠」といったことから「間遠(まどう)の渡し」と呼ばれていた。
伊勢参りの二人連れ、講釈師、鮫の登場する落語の『桑名舟』もある。
渡し船は、「明け七つ」(午前4時)から「暮れ七つ」(午後4時)までで、それ以降に着いた旅人は宮宿に泊まることになった。桑名までは所要時間はまちまちで2時間~7時間くらいかかったらしい。もちろん気象条件によっては欠航の日もあった。そんな時は佐屋街道回りで桑名宿に向かう旅人もいた。
ここからさっきの追分道標まで戻り、佐屋街道をたどって桑名宿まで歩く。佐屋街道は長い海路を嫌う人、欠航の時などに利用された東海道の脇往還。
「万場の渡し」は万場大橋、「三里の渡し」は尾張大橋、伊勢大橋と渡って行く。♪「若者?はまた~ 歩き続ける~」♪のだ。
日本武尊の「草薙の剣」を神体とする神社。
源頼朝出生地(誓願寺) 《地図》
由良御前がここ熱田の実家の別邸で生んだそうだ。京都という説もあるようだ。頼朝が生まれたのはなんとなく鎌倉と思っていたようで(情けない)、ちょっと驚いた。
白鳥古墳 《地図》
白鳥御陵となっているが、陵墓には比定されていないようだ。6世紀初め頃の築造で、日本武尊(ヤマトタケル)とはまったく時代が違う。
日本武尊の墓は、三重県鈴鹿市の加佐登の「白鳥塚古墳」ともいわれたが、現在は三重県亀山市の「能褒野(のぼの)御陵」(前方後円墳の丁字塚古墳(王塚古墳))に比定されている。比定といっても明治時代の内務省の役人がそこにすると決めただけなので、証拠などは何もない。そもそも日本武尊そのものが架空の人物なのだから。さらに大阪府羽曳野市の「軽里大塚古墳」、奈良県御所市の「琴引原白鳥陵」も陵墓に比定されているから、そのいい加減さが分かる。(墓がいくつもあるのは日本武尊に限ったことではないが) また陵墓に比定されてしまえば発掘調査などの考古学調査ができなくなる。邪馬台国や卑弥呼も永遠の謎のままかも。
6世紀初め築造の東海地方最大の前方後円墳
日本武尊の妃・宮簀姫(ミヤズヒメ)の墓との伝承もあった。旦那の墓より大きいはずはなかろうに。
室町時代の作という。
名古屋弁のお経を聞いてみたいね、少しだけ。
ここで左に曲がり、「さや海道 津しま道」を行く。
直進は、「なこや 木曽 海道」の『美濃路』
堀川七橋の一つ。もとは新橋といった。バス停「新橋通」にその名が残る。
五女子の一里塚跡(唯然寺) 《地図》
佐屋街道には「五女子」・「岩塚」・「千音寺」・「神守」・「埋田」の5つの一里塚があった。
昔、ある尾張の豪族が七人の娘を、七つの村に嫁に出し、そこを領地としたことから村の名が変えられたという。かつては一女子から七女子まで村名揃っていたというが、現在、この「女子(にょうし)」という地名はこの二女子、五女子と中川運河の対岸にある四女子のみとなった。
五女子町は「ごにょしちょう」・二女子町は「ににょしちょう」で「う」は入らないようだ。
佐屋街道道標・案内板(中川福祉会館前) 《地図》
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