東海道(四日市宿→石薬師宿→庄野宿→亀山宿)
2010年4月11日
追分駅(近鉄内部線)・・・観音寺(養蚕観音)・・・小許(古)曽神社・・・願誓寺・・・国道1号・内部橋(内部川)・・旧道・・・金毘羅神社・杖衝坂・血塚・・・国道1号・・・采女の一里塚跡(101)・・・豊富稲荷神社・・・旧道・・・単直庵・延命地蔵堂・・・国道1号・・・旧道・・・石薬師宿・北町の地蔵堂・大木神社・小沢本陣跡・天野記念館・石薬師文庫・佐佐木信綱生家・記念館・・・浄福寺・・・瑠璃光橋(国道1号)・・・石薬師寺・・・御曹司神社・・・蒲桜・・・蒲川橋(蒲川)・・・石薬師の一里塚跡(102)・・・(関西本線)・(国道1号)・・・国道1号・・・旧道・・・庄野宿・善照寺・庄野宿資料館・問屋場跡・本陣沢田家跡・高札場跡・脇本陣跡・川俣神社①・・・神戸領領界石・女人堤防碑・・・中富田の一里塚跡(103)・川俣神社②・亀山領領界石・・・常念寺・・・福万寺・・・川俣神社③・・・和泉橋(安楽川)・・・観音堂・・・地福寺・・・・(関西本線)・・・(井田川駅)・・・旧井田川小学校跡・・・川合歩道橋(国道1号)・・・西信寺・・・川合椋川橋・・・谷口法悦供養塔・・・和田道標・・・福善寺・・・石上寺・・・和田の一里塚跡(104)・・・カメヤマローソク工場・・・亀山宿・能褒野神社二の鳥居・巡見道交差点(本町広場)・江戸口門跡・旧佐川邸跡(車町ふれあい広場)・福泉寺・法恩寺・脇本陣椿屋跡・樋口本陣跡・大手門跡・高札場跡・人形坂・でころぼ坂上・遍照寺・誓昌院・加藤家長屋門・池の側松並木(跡)・石坂・石井兄弟仇討碑・亀山城跡・亀山神社・本宋寺・市ケ坂・黒門跡・明倫舎跡・御城米坂跡あたり・・・でころぼ坂・・・能褒野神社一の鳥居・亀山駅(JR関西本線)
杖衝坂を上り鈴鹿市に入り、小さな石薬師宿、庄野宿から亀山城下の亀山宿まで、見所も多く、まあ予定通りの満足の街道歩きだった。
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
観音寺 《地図》
本尊は養蚕観音とも呼ばれる千手観音像。なぜ「養蚕」なのか?
正面突き当りに金毘羅神社
日本武尊(ヤマトタケル)が東征の帰り、疲労のあまり杖をついて上ったという、『古事記』に載る坂。足が三重に折り曲がってしまったことから、「三重」という地名が起こったという伝承もある。
手前が「弘法の井戸」、奥が「大日の井戸」
「徒歩(かち)ならば杖衝坂を落馬かな」
季語のない句で有名。落馬の痛さのあまり、季語を入れるのを忘れたか? 「猿も木から落ちる」ならぬ、「芭蕉も季語を忘れる」か。
日本武尊が足の血を石で拭って止め、その石を埋めたとか。
采女の一里塚跡(101) 《地図》
北町の地蔵尊 《地図》
これしか知らないが、いい歌だ。
タイムレコーダーのアマノ(株)の記念館
佐佐木信綱生家・記念館(右)
生家には「信綱産湯の井戸」まである。
『広重-石薬師(石薬師寺)』の背後の鷹飛山は、明治になって切り崩されて東海道を埋め立てたので、今は江戸時代の道よりはわずかに高くなっているそうだ。
御曹司社 《地図》
蒲(がま)冠者源範頼を祀る。鳥居の横は大木は椎の木(スダジイ?)
これも源範頼ゆかりの桜で、別名を「逆桜」。
石薬師の一里塚跡(102) 《地図》
油問屋だった家。高札の実物5枚が展示されていて、詳しい説明をしてもらう。
左側に高札場跡、その隣が脇本陣楠家跡で、北側には問屋場があった。
川俣神社① 《地図》
スダジイの大木
『鈴鹿川の女人堤防』によれば、女人だけで堤防を築いたというのは作り話のようだが。
萩城下には女人台場と呼ばれた菊ヶ浜土塁がある。『萩往還①』に記載
中富田の一里塚跡(103)・亀山領領界石 《地図》
ここは川俣神社②の境内
一里塚も領界石ももとは、川俣神社の東にあったようだ。
一里塚の先の左側に高札場、その向い側あたりに御馳走場が見える。
正面奥の右に地福寺 《地図》
東海道は左に下り、関西本線を渡る。
「川合のやけ地蔵」ともいう。このあたりは刑場跡。法悦さんは供養塔建立マニアだろう。
斜め正面に向かう道が亀山領若松港に向かう道。
石上寺(せきじょうじ)(左)に沿う坂
石上寺境内 《地図》
本尊は子安延命地蔵。伊勢七福神の布袋尊。今日はこの石段上の熊野権現社で何か行事があるようで参詣人が多かった。
坂上の右側
ここから西が亀山宿で、「これより西亀山宿」の立て札、屋号札の掲示を呼びかける立て札(下の写真)が立っている。この隣が天正11年(1583)にこの付近で行われた合戦の戦死者を弔う露心庵跡。
鈴鹿山脈の東麓を縦貫して中山道へ抜ける道。
奥に見えるのは亀山城? いや「衣城 しもむら」という衣料品店だ。
江戸口門跡 《地図》
ここで右(正面方向)に曲がり、東町商店街へ入る。
佐川家は江戸時代は、旅籠佐野屋を営んでいた。
隣の法因寺には竪筋が左巻きとなる、樹齢300年以上の「左巻きカヤの木」があるようだ。
洋品店の「しぼりや」
「SHARP Document Solution Spot」の所
この先の交番の十字路が大手門跡、高札場跡で広場があり、通過する諸大名の「御馳走場」だった。東海道は十字路を左に曲がる。
人形坂 大手門跡から緩やかに曲がりながら下る。《地図》
坂名の由来は何か?
山門(鐘楼門)の下に亀山城二之丸御殿の大書院と式台部分を移築した本堂がある。
鐘楼門をくぐり、石段下に本堂があるため「頭で鐘撞く遍照寺」といわれた。
古い家並みが残る、いい雰囲気の通り。
池の側(外濠)、石坂(左の橋)、石井兄弟敵討跡碑(正面右)、亀山城多聞櫓(奥の右上)
東海道は直進するが今日はここまでとし、右に曲がり亀山城跡へ向かう。
江戸後期の亀山城主石川家の家老職の屋敷跡。案内の女性の話では、門内の屋敷も復元する予定だそうだ。
南側に亀山城の搦手門の青木門があった。家康がこの門を通る時に、門一帯に茂るアオキを称賛したことからこう呼ばれるようになったという。
見張りの番猫が門の前をうろついている怪しげな男を大きく目を開けて警戒している。
石坂(坂上方向) 《地図》
右は「池の側」(外濠)で、左に池の側の松並木(跡)、正面奥が亀山城の多門櫓
元禄版「曽我兄弟の仇討」か。それにしても28年とは長い。この翌年の赤穂浪士の討入りは、浅野長矩切腹からたったの一年後。
*参考『江戸時代の敵討ち制度を考える』(「団塊世代の我楽多帳」より)かつては粉蝶(ふんちょう)城と称された華麗な城だったそうだ。
丹波亀山城の天守の破却を命じられた堀尾忠晴が間違えて、ここの天守を取り壊したという話も伝わるそうだが、真偽のほどは定かでないらしい。
「亀山城桜まつり」の日曜で花見客で賑わっていた。
文永2年(1265)の創建という。
市ケ坂 《地図》
坂上には亀山市歴史博物館があるが、もう5時近くであきらめる。
黒門(市ケ坂門)跡 《地図》
今は亀山中学校の敷地内で、東側の藩校の明倫舎も、その隣あたりの御城米坂の跡形もない。
人形坂から南方向に下る坂) 【ルート地図】の61
「でころぼ」とはどんな意か? *下記のコメントを頂き、デッコロボー(ろくでなし)という土地の方言と分かりました。また、以前は「幽霊が出る坂」とも言われたそうです。
途中に遍照寺の墓地があり、昔はもっと暗く寂しい坂で、「幽霊の出る」坂だったのだろう。
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コメント
なるほど、「デッコロボー(ろくでなし)」ですか。
坂の途中に遍照寺の墓地があり、昔はもっと暗く寂しい坂で「幽霊が出る」、というのも納得です。
ありがとうございました。
投稿: でころぼ坂(坂道散歩) | 2012年9月21日 (金) 07:28
>「でころぼ」とはどんな意か?
土地の方言でデッコロボー(ろくでなし)という言葉があるのでそこから来ているのだと思いますが、どうしてそんな名前になったんでしょうね。子どもの頃、「でころぼ坂には幽霊が出る」と言われたものです。
投稿: | 2012年9月20日 (木) 21:23