東海道脇往還・佐屋街道②(岩塚宿→佐屋宿)
2010年3月23日
烏森駅(近鉄名古屋線)・・・柳街道合流地点・・・岩塚宿・八幡社・本陣跡・・・光明寺・・・七所社(日本武尊腰掛岩・古塚)・・・万場大橋(庄内川・万場の渡し跡)・・・万場宿・覚王院・国玉神社・光円寺・高札場跡・・・(名古屋高速万場線)・・・浅間神社・・・砂子橋(新川)・・・十二所神社鳥居・・・玉泉寺・・・高札場跡・・・自性院・・・十二所神社・・・稲荷社・・・(東名阪自動車道)・・・七所社神社・千音寺の一里塚跡・・・狐海道東交差点・・・秋竹橋(福田川)・・・秋竹西橋(小切戸川)・・・七宝焼道標・・・弓掛橋(蟹江川)・・・神守の一里塚跡・神守宿・憶感神社・吉祥寺・穂歳神社・・・日光橋(日光川)・・日光寺・・・(埋田の追分)・・・津島一里塚跡・清光院・・・日置八幡宮・大聖院・・・(名鉄尾西線)・・・佐屋海道址碑・・・浄法寺・・・須依天神社・・・佐屋宿・道標・佐屋代官所跡・三里之渡址碑・・・巡見街道(県道458号)・・・(国道155号)・・・釈迦堂・・・五之三地蔵尊・・・(東名阪自動車道)・・・弥富駅(JR関西本線)
雨の佐屋街道を行く。陸路の街道も佐屋宿の「三里の渡し」で水路となった。むろん今は渡しはなく、巡見街道を南下し弥富宿の「ふたつやの渡し」跡から桑名宿を目指すことになる。
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
今日は岩塚宿から佐屋宿の先の「ふたつやの渡し」があった弥富までの行程。
烏森郵便局の所で、右から柳街道が合流する。
本陣が1軒、脇本陣なし。旅籠7軒。対岸の万場宿と半月交替で宿役を勤めた。「岩塚の一里塚」はどこにあったのか?
八幡神社 《地図》
この向い側あたりが岩塚宿本陣跡。社殿は少し前までは茅葺だったようだ。
尾張三代奇祭の「きねこさ祭」が旧正月17日に催行される。
数ある「○○の腰掛石」の一つ。
「岩塚」の地名の由来となった塚(円墳?)。
もとは100mほど南の宿の東端にあり、その下に「万場の渡し」があった。岩塚宿と半月交替で宿役を勤めた。
本陣1軒、脇本陣なし 旅籠10軒。
神社の南西の曲がり角に高札場があった。
山門は織田信長と斎藤道三が会見した聖徳寺から移築したものという。
浅間神社 《地図》
ここから砂子橋を渡り、十二所神社鳥居前を通り、高札場跡へと進む。
高札場跡 《地図》
枡形になっていたようだ。民家前に標柱が立つ。そばの犬が「ぎゃんぎゃん」吠える。何時ものことで驚きはしないよ。
室町時代の作という木造薬師如来像と鰐口がある。
山門の両側は「なまこ塀」になっている。
後ろが神体の山、大岩ならぬ鉄筋コンクリートの大塊か。
七所社神社の少し先
昔、このあたりの佐屋海道は家もない淋しい所で、よく狐が出て旅人を化かしたとか。今は車の往来が多く、狐の出る幕はなし。
小切戸川を渡った所。
ここは一昨日(までは海部郡七宝町だったが、昨日(22日)に3町が合併して「あま市」となった。「あま」=「海部」なのだろうが、ひらがなだと分かりにくい。「七宝町」の名は残っている。
この先の「弓掛橋」を渡った民家の庭に「義経の弓掛松の碑」があるというが探しても分からず。
佐屋街道の5つの一里塚、「五女子」・「岩塚」・「千音寺」・「神守」・「埋田」の中で、唯一現存する塚。
本陣1軒、脇本陣なし、旅籠12軒。万場宿と佐屋宿の間が3里18町と長いため、正保4年(1647)、南神守村と北神守村が2村で宿役を担うことにより、一番遅く開設された宿場。
宝暦8年(1758)に延命地蔵を祀られ、文政3年(1820)に六角地蔵堂が建立された。
憶感(おっかん)神社・吉祥寺 《地図》
9世紀頃の創建という延喜式内社で、祭神は雨水を司る龍神の高龗(たかおかみ)神。
「天竺ルイビン国龍帝龍王の御子」を祀るそうだ。
毎年10月の「津島秋祭り」に、神守の山車3台が憶感神社と穂歳神社へ奉納される。
日光寺 《地図》
今は名のような晴れ晴れしさはない。なぜか堂に時計がついていて、時刻は正確だった。
この先、佐屋街道は埋田交差点の先で左に入り南下して行くが、直進して街道から外れて置田交差点の先で合流する道筋をとる。
津島一里塚跡 《地図》
佐屋街道から外れた清光院の境内に建っている。津島神社への津島街道の一里塚ということか?
佐屋街道の一里塚は通り過ぎた「埋田の追分」あたりにあったようだが。
日置八幡宮(左)・大聖院(右) 《地図》
八幡宮は養和元年(1181)に源頼朝の創建とか。
尾張藩祖の徳川義直が鷹狩りの途中で立ち寄ったという。屋根が見事だ。「明通寺フェスタ」をやっている(いた)らしい。
佐屋海道址碑(佐屋変電所の裏あたり) 《地図》
佐屋宿の家並み 《地図》
本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠31軒。桑名に向かう、「三里の渡し」の渡船場があり宿泊客も多く、4宿中最も大きな宿場だった。佐屋宿は単独の村ではなく、外佐屋村内佐屋地区、依田村、須賀村の3村共立の宿場だった。
元禄7年(1694)佐屋宿に一泊した芭蕉が詠んだ句碑(享保20年(1735)建立)への道標。ここを左に入ると、「水鶏啼くと 人の云えばや 佐屋泊」の句碑が立っているようだ。
この先の交差点の北側が代官所跡、南側に道標、道路向うの小公園に「佐屋三里之渡址碑」がある。
「左 さや舟場道」
きこく(枳穀)=「からたち」で、旅籠「近江屋」があった。
このあたりには佐屋湊佐屋御殿、舟番所があった。
ここは佐屋川の堤防の内側だった。佐屋川は江戸時代中期より土砂の堆積が進み、度々下流に渡船場を移し延命を図るが、明治6年オランダより招かれた技師ヨハネス・デ・レーケの木曽川改修計画(明治17年)により佐屋川の締切が提案され、明治33年工事完了と共に廃川となった。西側の海部幹線水路が佐屋川の名残か。
佐屋街道は明治5年に廃され、佐屋川は明治33年に消滅した。佐屋川は今は陸路(巡見街道)を行くことになる。
江戸幕府の巡見使が通った道ということか。見所もないただの県道458号だが。
このあたりは「五之三町」で名鉄尾西線の「五ノ三駅」もある。
昨日は「五女子町」、「二女子町」とやけに数字が絡む所だ。
このあたりの地蔵さんは皆、着飾っている。
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