東海道(桑名宿→四日市宿)
2010年4月10日
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まだまだ見ごろの桜を楽しみながら、残りの宿場も少なくなってきた東海道を伊勢の国から鈴鹿峠を越えて近江の国へと向かう。
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
ここでコの字に曲がり、寺町通りへと入って行く。
古くは泡州崎念仏道場と称した浄土宗の寺。明治7年には日進小学校の前身の進善学校が置かれた。このあたりは泡州崎といい、手前に泡州崎八幡社がある。
幕府方の桑名藩の責任を一身に負い切腹した森陳明の墓が十念寺の裏の墓所にある。
狩野光信の墓(寿量寺)
「壬申の乱」で桑名郡家に泊まった天武天皇を祀る全国で唯一の神社。桑名郡家には乱の終わるまで、鸕野讚良皇女(後の持統天皇)や皇子たちが2ヵ月間残ったという。
鋳物は桑名の代表的産業? 今でも埼玉県の川口市より盛んなのだろうか。
矢田立場跡 《地図》
「若鮎」という焼き立ての甘いお菓子(120円)をほうばりながら進む。
かつては西に鈴鹿山脈、東に伊勢の海も遠望されたという松並木は、伊勢湾台風(昭和34年)の頃までは残っていたそうだ。
旧町屋橋跡へ 《地図》
桜の下あたりに板橋の町屋橋が架かっていたのだろう。(現在の国道1号の町屋橋から桑名方向)
橋のたもとの茶店では名物「安永餅」が売られ賑わっていたという。
「露けさよ 祷りの指を 唇に触れ」だそうだ。
左に「一里塚跡」の石柱
「語らい広場」(伊勢朝日駅の踏切を渡った所) 《地図》
ここは松並木があり、正面はその中に混じっていた榎。小向の立場があったのもこのあたりか。
参勤交代の大名は、この寺の前では駕籠から降りて一礼したという。
桜並木を通り、伊勢湾岸道をくぐり、朝明(あさけ)橋へと進む。
ここも昔は松並木だったのか?
文治年間(1185~89)に蒔田相模守宋勝が居城した蒔田城跡という。その堀跡が寺を囲む。
この寺の先の左側に聖武天皇にまつわる鏡ケ池の伝説地があるのだが見落とした。
一里塚橋を渡った右側に「富田の一里塚址」の石柱が立つ。
国重文の「阿弥陀如来立像と像内納入文書」
すらっとした痩身で端正な顔立ちの、地蔵らしからぬ容姿の地蔵さん。
大正12年に植樹が始まった、約800本のソメイヨシノはまだ見ごろだ。
力石・新設用水道碑 《地図》
正面の説明板の下に、32貫目(120kg)の力石が置いてある。
ここは志氐(しで)神社に合祀されている八幡神社の跡地。
このあたりは「川原津」いう地名。「変わらず」でなく、変わり果てた松並木に残る一本の松。
志氐(しで)神社鳥居
五穀成就常夜灯と隣の民家の間に自然石があり、向かいの民家前の石と対になり、「東海道夫婦石」と呼ばれ、道中安全・縁結び・夫婦円満などを願う旅人、村人が撫でて信仰していたという。
『足を折られた狛犬』:「神様が留守番を言いつけたのに、遊びに出かけてしまい前足を折られてしまったという」 神ともあろう者が、むごい、むご過ぎる話だが、実際は狛犬を運搬中に折ってしまったらしい。それをこんな話に作り変えて、都合のいい伝説にしようとする、人間のずるさにはあきれ返るばかりだ。
三ツ谷の一里塚跡(99)(海蔵川の堤) 【ルート地図】の54
マイカーの家族連れが多い。
『広重-四日市(三重川)』は、この橋を描いたものという。
手前は「なが餅」の笹井屋本店、この先の右の近藤建材店が帯や脇本陣跡、福生医院が問屋場跡、黒川農薬商会が黒川本陣跡らしいが何の表示もない。もう一軒の清水家本陣(清水太左衛門家)はどこにあったのか? 左へ入った中部西小学校が陣屋(代官所)跡。四日市市は東海道(を歩く者)に冷淡な市町村の最たる自治体か。
道標 《地図》
旧道はここを直進して諏訪神社前へ続いていた。
アーケードを抜け、阿瀬知川を渡ると丹羽文雄が生まれた寺の崇顕寺がある。
今は鵜森神社、右は田原稲荷神社で浜田城主の先祖といわれる俵藤太(藤原)秀郷や、初代城主田原忠秀らを祀っている。
十六間四方白星兜鉢(国重文)は、俵藤太が三上山のムカデを退治した際、褒美として龍神から贈られたもので、祈願すると雨雲を呼ぶとされ、大正のころまで実際に雨乞いが行われていたという。
昔は干鰯屋、材木屋、紙屋、餅などを売る水茶屋があって賑わっていたそうだ。
江戸時代からの薬商で、この製薬所は嘉永5年(1852)の建築。
定朝の作という源頼義の念持仏の不動明王(国重文)を安置。
このあたりは車の往来が多い。
お盆には「つんつく踊り」が披露される。
右に明歴(明暦)2年(1656)の古い「日永の追分道標」が移されている。
日永の一里塚跡(100) 《地図》
西唱寺先の右の民家の間に石柱。うっかりすると通り過ぎてしまうだろう。
松並木はなく、残るは「かわらづの松」とこの松のみ。
東海道(右)・伊勢街道(左)
伊勢神宮の遥拝鳥居(安永3年(1774)建立)、道標(嘉永2年(1849)建立)が立つ。このあたりは四日市宿と石薬師宿の間の「間の宿」で、旅籠、茶店が多かった。
鈴鹿山系からの伏流水という湧き水があり、車にポリタンクをいくつも積んで水を運んでいる人たちがいた。こちらもペットボトルに入れて追分駅に向かった。
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