東海道(吉田宿→御油宿→赤坂宿→藤川宿)
2010年3月20日
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【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
惣門の左側に上、下の番所があった。
旅寝塚句碑(湊町公園の築嶋弁天社の右前) 《地図》
「寒けれど二人旅ねぞたのもしき」 貞享4年(1687)、芭蕉が芳野紀行の途中で越人を伴い、保美に杜国を訪ねるべく吉田宿に泊まった時の句。芭蕉は昨日の吉田宿の東海道との分岐地点から田原街道に入り保美に向かった。
吉田湊の湊町、船町の鎮守
この地方の物資流通の大動脈。船で伊勢参りに向かう旅人も多かった。
「松葉(ご)を焚て 手拭あふる 寒さ哉」(芭蕉・古碑松葉塚)
山門前にも「寺内に芭蕉塚有」(宝暦4年(1754))の石柱が立つ。
下地の一里塚跡(74) 《地図》
下地交差点の手前
元禄16年(1703)創業の菜種油、米穀、両替商。現在は食用油脂、大豆、飼料販売などの「ヤマサン」
瓜郷遺跡 《地図》
弥生中期から古墳時代前期の集落跡。弥生中期の竪穴住居の復元。
古代にはこの付近の豊川は川幅が広く、「志香須賀の渡し」で渡った。中州に島々が浮かぶ景勝地で、村上天皇や赤染衛門など多くの歌人に詠まれ、歌枕として知られていた。『枕草子』の17段にも、「渡はしかすがの渡 みつはしの渡 こりずまの渡」とトップに挙げている。今は歌枕風情は皆無。
いくら神の威光とはいえ、わが子を生贄に差し出すとは。子どもを虐待する親は古今東西、絶えることなしか。
莬足(うたり)神社 《地図》
祭神は莬上足尼命。大江定基、弁慶、徐福の伝説が残る神社。
鳥居左手前に、弁慶が大雨で「しかすがの渡し」を渡れずにここに滞在した時の「弁慶手植えの松」の?代目かの幼い松が植わっている。また、神社所蔵の大般若経600巻は、この時に弁慶が書いたものとも伝える。神社にお経というのもおかしいが。
境内には縄文早期の莬足神社貝塚もある。
大江定基と猪生贄神事の話も載っている。
吉田宿と御油宿の中間で加藤家の茶屋があった。加藤家の「良香散」という腹薬は茶屋の地名より有名だったという。
山本太鼓店の左側に石柱が立つ。
佐奈川沿いの菜の花 《地図》
冷泉為村歌碑・若宮白鳥神社遥拝所
「散る残る 花もやあると さくら村 青葉の木かげ 立ちぞやすらふ」 為村が9代将軍家重の祝賀の一行に加わり、江戸に下った時に詠んだ歌。このあたりは桜町で昔は桜村といった。若宮白鳥神社は国道1号の向こう側にある。
薬師堂 《地図》
行基が二人の娘のために刻んだ薬師像ということだろう。
大社神社 《地図》
大江定基が三河国司の時に、出雲大社から勧請したという。石垣は田沼陣屋(田沼意次)のものを移築した。
大社神社の先の蒲郡信金の植込みの中。
姫街道追分 【ルート地図】の24
見付宿から浜松宿、浜名湖の北を通り、ここで東海道に合流する約62kmの東海道の脇往還。右が姫街道で、直進が東海道。常夜灯、「秋葉三尺坊大権現」・「砥鹿神社」への道標、木製の姫街道の道標もある。
父親の熊吉の生家で戸田屋という旅籠跡。花夫人は東京生まれ。
向かいの御油保育園が高札場跡
本尊は浄瑠璃姫の念持仏という。御油宿の旅籠大津屋が建てた心中した飯盛女の墓がある。
十王堂(左)で、閻魔大王ら十王と三十三観音が安置されているらしい。ここが御油宿の西境。
御油の松並木 《地図》
御油宿から赤坂宿までは2kmもない。両宿とも歓楽宿で、「御油や赤坂 吉田がなけりゃ 親に勘当うけやせぬ」、「御油や赤坂 吉田がなけりゃ なんのよしみで江戸通い」と歌われた。
樹齢800年以上という大楠がそびえる。幕末の赤坂宿の火災で火の粉が降りかかり、根元が焼かれえぐれている。
「夏の月御油より出でて赤坂や」 この句にも御油と赤坂の距離の短さが出ている。宝暦元年(1751)に建てられたものを、明治25年に再建した。
病院だったそうです。廃業してからかなり経つようです。「けろ」さんから下記のコメントをいただきました。(2014年5月17日追記)
長福寺 《地図》
ここにも大江定基の逸話が残る。定基が都へ帰るのを悲しみ自害した愛人、力寿姫を7日間も抱いていたという。生々しい、異臭の漂う話だ。猪の生贄神事は嫌ったが、腐っていく女の死体を抱き続ける定基は、後に唐に渡って名僧になったという。迷僧だろう。境内には力寿姫の墓と伝う「上臈石」がある。
「曲輪・民芸品製造卸問屋」
桧、杉の薄い板を円形に曲げて作った容器や盆など。
「御宿所」の提灯が吊るされている。今でも営業しているのだろうか?
「寄らないかい」でなく、「寄らないといかん」と叱られるのか?←違います。
これも「けろ」さんからのコメントで、『方言で「~しよう」を「~しまい」と言う(行こう→行こまい(行かまい)、やろう→やろまい等)ので、「寄ろう→寄らまい」+「館」ということ』だそうで、納得です。(2014年5月17日追記)
少し手前に高札場の木柱が立っている。
樹齢千年という根元がくっついた夫婦楠。
三河湾オレンジロードをくぐった先の左側。
右の長沢小学校の北西一帯。
磯丸「みほとけ」歌碑
馬頭観音の後ろに歌碑がある。ここは観音堂跡で、歌碑は弘化3年(1846)に観音堂の妙香尼が死んだ旅人の供養のために(糟谷)磯丸に歌を依頼して建てたもの。
磯丸は漁師の生まれで、「無筆の歌詠み」と呼ばれ、後に読み書きを覚え多くの歌を残した。歌碑は「おふげ人 衆生さいどに たちたまう このみほとけの かかるみかげを 八十二翁 磯丸」だそうだ。
伊良湖岬には磯丸の歌碑が並ぶ「祈りの磯道」の遊歩道がある。『田原街道④』に記載
三連休で国道1号、東名高速の下りはすごい渋滞。こんな日は歩きが一番。
このあたりに立場茶屋があった。
赤坂宿と藤川宿の間の宿。
家康草紙掛松(法蔵寺門前) 《地図》
もう4代目の松。家康も松喰い虫にはかなわないようだ。
板橋の刑場で斬られた首は京都で晒された。それを同志が盗み出し、ここに埋めたという。死んでからもあちこちと首をもてあそばれ、新撰組隊長も可哀想な男よ。東京三鷹市の龍源寺(人見街道)、中山道板橋宿にも墓がある。(『川越街道』の最後に記載)
冨田医院の敷地内
代官屋敷跡の先の右側に「東海道一里塚」の石柱が立つ。(写真中央右)
蘭方医の宇都野龍碩邸跡
名電山中駅近く
山中八幡宮 《地図》
永禄6年(1563)三河の一向一揆に追われた家康が隠れたという岩穴。
御田植神事「デンデンガッサリ」説明板
神事は太鼓を取り囲み「デンデンガッサリ・・・」と歌われることから始まるそうだ。
永禄5年(1562)、扇子山の戦で家康は危ういところ見知らぬ武士に助けられた。ところがその武士は敵の矢で目を射られ、姿を消してしまった。後にここを通った家康は堂内の不動尊の片目がつぶれているのを見た。助けてくれた武士は不動の化身と知った家康は深く感謝したという。
正徳元年(1711)、宿場の旅籠の屋根を白狐が飛び回って火事が起こるのを知らせたという。しかし宿の人間は何で飛び回っているか分からずに火事は防げなかったが。以後、白狐を稲荷として祀ったという。屋根の上で悪ふざけをしていただけなのに、稲荷様に祀り上げられて、人間はちょろい、化かすのも簡単とお狐さんは笑っていたとか。
城の櫓のような店だ。
家康の家臣の森川家が勤めていた。
芭蕉の句にも詠まれている。
棒鼻と蛸の足が出てくるユニークな歌。豊広は歌川(安藤)広重の師匠。
十王堂 《地図》
堂内中央に地蔵、脇に十王が居並んでいる。
「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」
十王堂の先の左側
吉良道道標(正面の分岐点) 《地図》 右が東海道
茶壷道中の行列がここを通ると雨が降るという「茶壷の涙雨」の話も伝わるという。「お茶壷道中」は沿道の民からは大名行列よりも恐れられ、嫌われ者だった。「童歌」の「ずいずいずっころばしごまみそずい ちゃつぼ(茶壷)にお(追)われてと(戸)っぴんしゃん」は、茶壷道中が来たら戸をぴったし閉めて閉じこもるという意。道中が通り過ぎたら、「ぬ(抜)けたら どんどこしょ」 ヤレヤレドンドコショだよまったく。庶民の気持ちがよく分かる。
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コメント
ありがとうございます。記事に追記させてもらいました。
坂道散歩
投稿: けろ様へ | 2014年5月17日 (土) 11:55
はじめまして。古い記事のようなので読まれないかもと思いつつコメントさせていただきます。お返事は不要です。
赤坂宿のレトロな建物は病院でした。廃業してから随分経っていると思います。特別な謂れを聞いたことはありません。
よらまいかんは、方言で「~しよう」を「~しまい」と言う(行こう→行こまい(行かまい)、やろう→やろまい等)ので、「寄ろう→寄らまい」+「館」ということだと思います。
投稿: けろ | 2014年5月16日 (金) 22:51
初めて訪問させてもらいました。
懐かしい地名と名所がありましたので・・・以前豊川市に住んでいたのでとても懐かしく拝見しました。現在は故郷の福岡県に住んでいます。
投稿: やまちゃん | 2010年4月 2日 (金) 17:31