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2010年5月30日 (日)

姫街道③(三方原追分→気賀宿→三ケ日宿)

2010年5月6日

浜松駅バス→追分・県道261号・姫街道橋(東名高速)・・・松並木(跡)・・・三方原神社・・・士族屋敷跡・・・三方原救貧院跡・・・権七店・・・東大山の一里塚跡(67)・・・大谷坂・・・大谷橋(大谷川)・・・曲り松・・・(県道305号)・・・旧道・・・六地蔵・・・山神社・・・秋葉常夜灯・・・千日堂・・・老ケ谷の一里塚跡(68)・中央配水池・長坂・服部小平太最期の地・・・刑部城址・金襴の池伝承地・城下橋(刑部川)・・・落合橋(都田川)・・・気賀宿・宝生地蔵・旧落合橋・(天竜浜名湖鉄道)・気賀四つ角・気賀関所東門跡・本番所跡・要害堀・赤池様公園・近藤陣屋跡・細江神社・練武館跡・犬くぐり道・(歴史民俗資料館)・東林寺・本陣中村家跡・本陣前公園・正明寺・西枡形・獄門畷・姫地蔵・六地蔵・新田喜斉公碑・諏訪神社・呉石学校跡・・・小深田橋・・・二宮神社・・・修理殿松跡・・・山田の一里塚跡(69)・・・ダイダラボッチの足跡(池)・・・山田道祖神・・・清水みのる詩碑・・・小引佐・・・(下村地蔵)・・・薬師堂・・・平石休憩所(姫岩)・・・引佐峠・・・象鳴き坂・・・石投げ岩・・・大谷の一里塚跡(70)・・・和田牧場・・・六部様・・・大谷橋・・・大谷代官屋敷跡・・・慈眼寺・・・(東名高速)・・・(東名高速)・・・わる坂・大里峠・大里橋(東名高速)・・・宇志の茶屋跡・高札場跡・・・三ケ日の一里塚跡(71)・・・三ケ日宿・伝馬問屋跡・・・猪鼻湖・・・三ケ日駅(天竜浜名湖鉄道)

 今日は姫街道のハイライト、追分から三方原台地を抜けて気賀宿へ入り、引佐峠へ上り象鳴き坂を下り、再び大里峠へひと上りして三ケ日宿へと下って行く。天気もよく歩きがい、見ごたえのある街道歩きとなるだろう。

  【ルート地図

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Photo_2 姫街道概略図(細江町・三ケ日町パンフ)

今日は追分から三ケ日宿までの行程。

(地図の右下の「安岡」は「安間」の誤りで、江戸からの里程が64。小池が65)

Img_6146 松並木

姫街道の南側に所々残っている。北側の松は昭和27年の火災で焼失した三方原小学校の校舎再建費用捻出のために伐採されたそうだ。せこいことするよ。

Img_6147 説明板

Img_6150 三方原神社

Img_6155 由緒

Img_6158 扶持米倉庫跡(三方原神社境内)

Img_6159 説明板

Img_6161 士族屋敷跡 《地図

土塁の一部が残っている。

Img_6160 説明板

Img_6165 三方原救貧院跡(葵町交差点北西角)

Img_6167 説明板

Img_6169 権七店

「ごんしち」ではない。今も営業中で、バス停も交差点も「権七」なのだ。 

Img_6170 説明板

Img_6173 東大山の一里塚跡(67)

隣に馬頭観音の祠

Img_6175 説明板

Img_6176 これが馬頭観音?

Img_6184 大谷坂を下って大谷川を渡る。《地図

Img_6189 曲り松(二代目)

わざと曲げられたのか?

Img_6191 説明板

Img_6196 六地蔵

西側の竹薮に刑場があり、刑死者を弔うために建立されたという。

Img_6197 説明板

Img_6199 山神社

Img_6200 秋葉山常夜灯(文化8年(1811)建立)の右を入る。《地図

Img_6202 千日堂

Img_6203 説明板

Img_6207 姫様の絵の配水塔の右の細い長坂を下る。

Img_6209 長坂(坂下方向) 【ル-ト地図】の①

今川義元を討ち取った功により、この地を治めていた服部小平太は、天正15年(1587)に、ここで殺されたという。

Img_6210説明板

今川義元を討取った服部小平太と中保次は別人との説もある。

Img_6214細江町へと下りて行く。

Img_6215 刑部(おさかべ)城址説明板 《地図

Img_6217 金襴の池説明板

家康に滅ぼされた刑部城の姫君の伝承。

Img_6218 今は池は埋め立てられ刑部川が残るだけ。

Img_6221 落合橋から

右が都田川、左が井伊谷川がここで落合うか。

Img_6225 宝生地蔵 《地図

橋を渡った右下

Img_6226 宝生地蔵尊

光背に「右はままつへ三里半 左秋葉道宮口へ二里 二俣へ四里」、もとは対岸の姫街道と秋葉道の分岐あたりにあったようだ。邪魔になってこんな所に移されたが、今も信仰が篤いのだろう、賽銭がこんなに。

Img_6229 気賀関所跡 《地図

交差点右が東門跡、本番所跡、左が向番所跡と望楼跡。

気賀関所(再現)」(細江図書館の南側)《地図

Img_6231 説明板

Img_6237 要害堀

気賀四つ角から西に延びる気賀関所防備のための堀跡。

Img_6240 赤池様公園(要害堀沿い)

明応の大地震(1498)で、(東海道)新居の角避比古(つのさくひこ)神社が流され、神体が赤池の里に流れ着いた。その後、細江神社に移され牛頭天王として祀られた。7月の祇園際には神輿に乗った神体がこの赤池に巡幸するそうだ。

Img_6245 近藤陣屋跡 《地図

Img_6244 説明板

Img_6247 細江神社

Img_6250 説明板

Img_6253 藺草(いぐさ)神社(細江神社境内)

い草をこの地に広めた気賀領主の近藤縫殿助用随(もちゆき)を祀る。

Img_6254 説明板

Img_6258 大蛇と蝙蝠(こうもり)が戦ったという大クスの根元の穴

「御神木指定証」が邪魔くさい。神社庁が指定しようがしまいが神木は神木なのだ。「御神木審査委員会」なんてつまらない所に税金を使うなだ。国と神社の慣れ合い、もたれ合いで「政教分離」の憲法違反、「事業仕分」で廃止すべしか。

Img_6257 「むかし話」

Img_6270 東林寺

本陣の御退場寺(本陣で何か起こった時の避難場所)だった。山門は嘉永7年(1854)に奥山方広寺から移築。

Img_6259 犬くぐり道ルート

姫街道の北側の小高い所を通っている。

Img_6272 犬くぐり道

地元住民が気賀関所を避けるための抜け道。犬が通る道として黙認されていた。

Img_6261 説明板

Img_6273 曲りながら続く

Img_6276 まだ続いているが姫街道へ下る。

Img_6278 気賀宿本陣跡(右) 《地図

中村家が勤めた。少し東に高札場があったという。

Img_6277 説明板

Img_6285 本陣前公園

左に馬頭観音の小堂がある。

Img_6282 長屋門をくぐったら噴水が噴出してきてびっくり。

Img_6281 馬頭観音

代官近藤家→犬くぐり道→本陣前公園に移ってきたようだ。

Img_6279 説明板

Img_6283 正明寺

本陣中村家の菩提寺で、この寺も本陣の御退場寺。

Img_6289 西枡形

Img_6290 説明板

Img_6292 獄門畷 【ル-ト地図】の②

家康軍は堀川城に立て籠もった今川方の男女2千人をなで切りにし、さらに落城後に700余名を処刑して、その首をここに晒したという。

Img_6293 説明板

Img_6297 姫地蔵への上り

Img_6299 姫地蔵 《地図

近藤家の姫が、皮膚病の願掛けをしたら治ったということからこう呼ばれる。後ろの覆い屋に六地蔵。

Img_6308 全得寺

堀川城の城将、竹田高正の創建。

Img_6309 説明板

Img_6310 諏訪神社

Img_6311 呉石(くれいし)学校跡

い草栽培の説明板があるが、学校の説明はない。坐像はい草の栽培を始めた近藤用随ではなく、二宮尊徳らしい。とすればここは小学校跡か?

Img_6316 気賀宿を出て引佐峠へと向かう

Img_6324 二宮神社(左) 《地図

宗良親王の妃といわれる駿河姫(この地の豪族井伊道政の娘)が祭神。京へ上る宗良親王を送って来た駿河姫は急病でこの地で亡くなったという。

Img_6326 二宮神社

Img_6325 説明板

Img_6336 修理殿松跡へ

Img_6337 山村修理(しゅり)の墓

堀川城落城の際にここまで逃れ自刃した。里人が供養のために植えたという「修理殿の松」は枯れて今はない。

Img_6339 説明板

Img_6338 山村修理の子孫からの「お願い」

Img_6340 山田の一里塚跡(69)

Img_6345 ダイダラボッチの足跡

各地に残る巨人伝説のひとつ。

Img_6344 説明板

Img_6346 山田道祖神と馬頭観音

Img_6352清水みのる詩碑

「星の流れに」・「森の水車」・「かえり船」などの作詞家。

Img_6358 小引佐(こいなさ)から浜名湖 【ル-ト地図】の④

引佐細江(浜名湖の入り江)の景勝地。

Img_6367 説明板

Img_6363 車道から分かれ左に入る。

遠足?の小学生も歩いている。右に塞神の小祠。この先の下村地蔵 は見つからなかった。

Img_6372 石畳の道となり、車道に出てまた上る。

Img_6375 薬師堂 《地図

Img_6376 説明板

Img_6377 石畳に入る。

Img_6378 樹林の中を上る。

Img_6379 平石(ひらいわ)休憩所

近藤家の家臣が大名行列などに湯茶の接待をした場所。手前の平石(姫岩)に篤姫も腰掛けて休憩したかも。でも今は見晴らしはきかない。

Img_6380 説明板

「姫様井戸」は近くない。

Img_6386 引佐峠近くから浜名湖

Img_6395 引佐峠(標高200)

たいした高さではないが、アップダウンの多い道で、しかも今日の暑さで少々疲れた。

Img_6396 説明板

Img_6405 象鳴き坂 【ル-ト地図】の⑤

三ケ日方向へ少し下って振り返る。人馬なら泣くほどの傾斜ではないが、象なら泣くだろう。気賀宿では本陣の横に象小屋を作ったそうだ。気賀に泊まったのが5月8日(陰暦)、そろそろ梅雨入りの時期だ。象も護送する役人たちも大変な道中だっただろう。

象のその後:吉宗に拝謁後、中野村(東京中野区)の農民源助に預けられた。源助は象小屋を建て、大事に飼育して人々に見物させたりしたが、やがて死んで頭骨と牙が宝仙寺に納められ供養されたと伝えられる。この骨と牙も昭和20年の戦禍で一部を残し焼失してしまったという。『宝仙寺のHP』より 

Img_6403 説明板

Img_6409 石投げ岩

Img_6414 大谷の一里塚跡(70)

Img_6418 和田牧場

Img_6419 うまそうな牛がくつろいでいる。

口てい疫騒ぎで殺されるなよ。

Img_6427 六部様

このあたりは「黒坂の森」と呼ぶ。

Img_6426 説明板

Img_6430 周辺案内図

Img_6432 大谷代官大野家屋敷跡 《地図

現在も子孫が居住している。

この先の安形伊賀屋敷跡は注意していたが、通り越してしまった。

Img_6437 慈眼寺

青面金剛像を祀る庚申堂で、天井絵が見事らしい。

Img_6434 説明板

Img_6440 東名高速で姫街道は分断される。道路下を2回くぐりながら上って行き、大里(おおり)峠の大里橋で東名高速を越える。

Img_6448 写真の右端で2回目の東名高速道路くぐり、左の大里橋で高速を越え、三ケ日宿へと入る。

「行き止まり」の旧道は、雨天には道が川となって「わる坂」といわれた。

Img_6447 大里峠の大里橋を渡る。下は東名高速。《地図

Img_6451 大里峠から緩やかに下って三ケ日宿へ

Img_6456 宇志の茶屋跡・高札場跡

Img_6457 説明板

Img_6459 説明板

Img_6461三ケ日の一里塚跡(71) 【ル-ト地図】の⑤

火の見の下

Img_6463 一里塚跡址碑

Img_6467 三ケ日宿伝馬問屋跡(石川接骨院前)

この先、姫街道は天竜浜名湖線から離れる。時間は早いが今日はここまでとし、明日、本坂峠を越えて東海道との合流点の御油宿まで歩く。

Img_6470 猪鼻湖

周囲約12kmの浜名湖の支湖で、瀬戸と呼ばれる水道で浜名湖に通じている。この水道に架かるのが真っ赤な新瀬戸橋で、周囲の奇岩とのコントラストが美しいそうだ。

ちょうど天竜浜名湖線は発車したばかり。湖畔で時間をつぶす。ここからはたいした景観ではない。

Img_6473天竜浜名湖鉄道(三ケ日駅)

掛川駅(東海道線)から浜名湖の北を通り、新所原駅(東海道線)まで。

一輌でもこの時間(4時前)はガラガラ。

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2010年5月28日 (金)

姫街道②(見付宿→市野宿→三方原追分)

2010年5月5日

磐田駅バス→加茂川・・・東海道見付宿・姫街道追分・・・河原橋・・・一本松跡碑・・・かぶと塚公園・兜塚古墳・・・京見塚古墳・・・水汲坂・・・一言坂(立場跡・古戦場跡・琴平神社)・・・一言観音・知恩斉・・・彷僧川・・・アミユーズ豊田ポケットパーク・・・妙法寺・・・誓渡院・・・行興寺(熊野の長藤)・・・池田の渡し歴史風景館・・・池田の渡し跡・・・粒見堂?・天白神社・・・新天竜川橋・・・東海道と合流・中野町・・・姫街道追分・・・普伝院(千体堂)・・・秋葉道道標・・・柏木橋(旧松小池川跡)・・・半僧坊道標(里程石)・・・長泉寺・・・八幡神社・・・池田道分岐・・・安間川・・・市野宿・熊野神社・・・八丁とうも・・・長福禅寺・・・小池の一里塚跡(65)・・・大養院・・・江原橋・・・(遠州鉄道)・(二俣街道)・旧秋葉道分岐・・・(国道152号飛龍街道)・・・馬乗場跡・・・旧五枚橋跡・五枚橋(馬込川)・・・宇藤坂・・・俊光将軍社・・・大菩薩坂・・・欠下城址あたり・・・常夜灯・・・道標・県道261号・二重坂・・・一里塚橋交差点・追分の一里塚跡(66)・・・三方原追分(元追分交差点)

 東海道見付宿の追分から、昨日歩いた三方原追分まで快晴の下を行く。ちょうど行興寺の「熊野の長藤祭り」でいいタイミングだった。天竜川を渡り東海道と合流し、中野町を抜け、安間の一里塚跡の手前で、姫街道は北に向かう。市野宿には宿場の名残りは無い。宇藤坂の旧道あたりには昔の面影が少し残っているか。

 昨日、今日の道筋は車の多い市街地の通りで、あまり面白みがある街道歩きとは言えなかった。明日は三方原追分から浜名湖の北の気賀宿、引佐峠、三ケ日宿へと進んで行く。宿場風情も残り起伏もあり、変化に富んだ姫街道となるだろう。

  【ルート地図

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Img_5882 見付宿の東海道との追分 《地図

直進する細い道が姫街道、左に曲がるのが東海道。

Img_5896 兜塚古墳

5世紀頃築造の直径80mの円墳。戦時中に古墳上に塹壕が掘られて墳形は崩れている。ここは中部129部隊跡。

Img_5893 説明板

Img_5914 京見塚古墳

5世紀中頃築造の直径47mの円墳。

病によりこの地に移り住んだ戒成皇子(桓武天皇の第四皇子)が、塚の上から京を偲んだため、「京見塚」と呼ばれるようになったという。周辺には古墳時代後期の群集墳や埴輪焼成窯、弥生時代の方形周溝墓がある。

Img_5908 説明板

Img_5918 水汲坂 南東に上る坂。《地図

台地から下の低地へ水を汲みに行く坂だったのか。

Img_5920 坂上方向

Img_5928 一言坂(坂下方向) 東方向に上る坂。【ル-ト地図】の①

Img_5937 坂下方向

Img_5926 一言坂の戦跡碑(国道沿い)

徳川家康と武田信玄の戦場跡。この後、家康は三方原の合戦で大敗を喫する。

Img_5936_2 一言坂の戦い・姫街道説明板

Img_5927 国道1号の(新)一言坂

Img_5944 一言観音堂(左)・知恩斉(右) 《地図

もとは一言坂にあった。

Img_5947 一言観音

これも家康にゆかりの観音。家康が「戦勝」の一言を祈願したとか。中遠昔話『一言観音』 

左は一言地蔵か?

Img_5951 豊田ポケットパーク

熊野(ゆや)御前の物語』の第5場

Img_5949物語

Img_5954 ポケットパークに置かれている物語の石柱。

第3場は東海道を歩いている時に寄った若宮八幡神社にある。

Img_5972 行興寺 【ル-ト地図】の② 

熊野御前ゆかりの寺で、「熊野の長藤」は国と県の天然記念物。今日は「熊野の長藤祭り」、「熊野御前例祭」で参拝客、見学客が多く出店も並んでいる。

Img_5970 由緒

Img_5964 熊野(ゆや)の長藤

Img_5969 説明板

Img_5960 行興寺は鎌倉時代創建の西法寺跡

Img_5977 池田の渡し歴史風景館

Img_5975 池田の渡し説明板

Img_5982 池田の渡し跡

今は渡し船を待つ旅人ではなく、熊野の長藤を見に来た人たちの車で一杯。

Img_5983 杉田屋

昔は「どじょう汁」が名物だったようだ。

Img_5990 天竜川渡船場跡碑

Img_5993 新天竜川橋 《地図

Img_5998 明治から昭和にかけては木橋で渡っていた。

Img_5996 中野町の道筋①

Img_5997

中野町を抜け、東海道安間の一里塚跡(64)の手前から右(北方向)に姫街道は分岐する。

この間は『東海道(見付宿→浜松宿)』に記載。

Img_6018 ここで東海道と分かれ北進する。(安間の一里塚跡(64)の手前)《地図

Img_6017 説明板

Img_6020 普伝院

天竜川沿いの戦の死者の供養のために、村人が彫った千体の木彫仏を安置して姫街道沿いに建立した千体堂が、この寺に移されている。

Img_6024 秋葉道道標(嘉永元年(1848))

右の民家の植込みの中。

Img_6032 常夜灯 《地図

左奥に馬頭観音を安置する長泉庵。

この先の八幡神社の少し先が、「池田の近道」分岐だが、天竜川との間は浜松インターチェンジ周辺の倉庫群により旧道の道筋は失われている。

Img_6044奥山半僧坊(方広寺)道標(里程石・五里十四町)

明治14年の山林大火の際に焼けなかったことから、方広寺の鎮守の半僧坊の信仰が全国に広まった。姫街道沿いには多くの半僧坊道標がある。 

Img_6046 市野宿の家並み 《地図

斉藤本陣は現存せず、旅籠や問屋場などは不明という。江戸時代の後期には浜松宿起点の道筋が姫街道の主流となり、宿場の機能は失われていった。

Img_6054 熊野神社

Img_6060 八丁とうも

「とうも」は、水の張られた田面のこと。田んぼの間を直線の八丁縄手道だったのだろう。

Img_6069 小池の一里塚跡(65) 【ル-ト地図】の③

左の看板の下

Img_6066 石碑と説明板

Img_6070 大養院

Img_6090 馬乗場跡

この先に馬込川がある。

Img_6093 旧五枚橋跡

現在の五枚橋の下流50mほどにあった。

Img_6097 今は五枚橋を渡り、(新)宇藤坂となる。

Img_6100 宇藤坂(坂上方向) 【ル-ト地図】の④

旧五枚橋からここへ通じていた。このあたりの地名による坂名。昔は有刀ともいわれたようだ。ここも各地にある「うとう坂」と同じで、馬込川まで延びた「善知鳥(うとう)」の嘴のような地形で、この地名となったのでは。『うとう坂表

Img_6103 県道(新宇藤坂)で分断されているが、石段を上りさらに上る。

Img_6108 坂上方向

Img_6111 旧俊光(としみつ)将軍社 《地図

坂上田村麻呂の子の俊光を祀るのか? 明治40年に有玉神社に合祀され、小祠のみが残る。ラブホテルの隣で肩身が狭まそうだ。

この付近で縄文の土器片、石器類が出土し、奈良・平安時代の掘立柱建築物跡も8棟見つかった。古代の役所跡とも推定されるそうだ。

Img_6117 大菩薩坂(坂下方向) 南西に上る坂 《地図

元亀3年(1572)三方原の合戦の際に、武田信玄が欠下(かけした)城南側の大菩薩坂を上り、大菩薩山に陣を構えたとの記録があるそうだ。

Img_6118 坂下方向

Img_6123 坂下

正面の東名高速のあたりが、欠下城跡。

Img_6126 坂上方向

右に坂標

Img_6134 道標(天保3年(1832))

「右きが かなさし 左庄内道」と刻むそうだ。浜松市の姫街道沿いに残る道標では最古のもの。

Img_6136 二重(ふたえ)坂 《地図

北西に三方原台地へ上る県道261号。坂名の由来不明。

Img_6139 追分の一里塚跡(66) 【ル-ト地図】の⑤

Img_6141 説明板

Img_6143国道257号との交差点が昨日歩いた浜松宿から来る姫街道との追分(元追分交差点)。ここで合流し、姫街道は細江、三ケ日へと向かう県道261号。

右へ曲がれば、金指、奥山半僧坊、鳳来寺へといたる道筋(金指街道)。

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2010年5月26日 (水)

姫街道①(浜松宿→三方原追分)

2010年5月4日

浜松駅(東海道線)・・・東海道・浜松宿・姫街道分岐(連尺交差点)・国道257号・曳馬坂・蓮華寺・心造寺・五社神社・・・侍屋敷跡あたり・・・名残番所跡あたり(鹿谷緑地)・・・真向坂・・・三社神社・・・犀ケ崖古戦場跡・宗円堂・・・静岡大学・・・大正坂・・・銭取バス停・・・段子川橋・・・小豆餅銭取本舗・・・権現様跡・・・三方原追分(元追分交差点)

 篤姫も象も通った姫街道を歩く。姫街道は東海道の脇往還の一つで、見付宿(または浜松宿)から東海道と分かれ、天竜川右岸の市野宿、浜名湖の北の気賀宿、三ケ日宿、嵩山(すせ)宿を通り、御油宿で東海道と合流した。見付宿からは約62kmの距離で、江戸時代中期以降は浜松宿を起点とする方がよく通られるようになったという。

 姫街道は江戸時代後期から呼ばれた俗称で、公的には本坂通という。姫街道と呼ばれた理由は大きく分けて2説ある。『姫街道の由来 』(細江町観光案内)
 引佐(いなさ)峠、本坂峠(328m)を越す起伏の多い道で気賀関所もあり、姫様のチャラチャラしたイメージとは違う道だ。

 今日は浜松宿から、見付宿起点の姫街道との合流点の追分(三方原追分・元追分交差点)までを途中の街道沿いの坂道に寄りながら歩く。

  【ルート地図

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Photo 姫街道概略図 細江町・三ケ日町観光パンフ)

地図の右下の「安岡」は「安間」の誤りで、江戸からの里程が64。小池が65。地図の池田から市野宿への「池田の近道」は中世以前の主要ルートだったが、浜松インターチェンジ付近の倉庫群によって道は失われている。池田→安間→市野宿と進むことになる。

Img_5809 曳馬(ひくま)坂(坂上方向) 東海道との追分の連尺交差点から北西に上る姫街道。【ル-ト地図】の①

曳馬野(三方原方面)へ通じる馬車が出ていたので、こう呼ばれるようになった。昔は石畳の情緒ある坂だった。

Img_5811 坂下方向

Img_5806 心造寺

天正7年(1579)、浜松城で秀忠を生んだ家康の側室の西郷局昌子(お愛の方)の開基。

Img_5804 五社神社

徳川二代将軍秀忠の産土神として篤く崇敬され、子守り、子育ての神として信仰を集める。諏訪神社が合祀されている。

Img_5814 名残番所跡あたり《地図

名残は地名、少し手前が侍屋敷跡あたりだが跡形も、何の表示もない。

Img_5819 真向坂(坂下方向) 【ル-ト地図】の②

①真向かいに上る急坂、②坂の途中の地蔵堂が信仰を集め、香華が絶えなかったことから抹香坂だったとも。

Img_5827 坂標

Img_5825 坂上方向

Img_5829 三社神社

Img_5831 由緒

Img_5842 犀ケ崖古戦場跡 【ル-ト地図】の③

三方原の合戦で大敗した家康軍がここで武田軍に一泡吹かせた古戦場跡。

Img_5844 説明板

Img_5847_2 武田軍が転落したという深い崖。昔は長さ2km、深さ40m、幅50mの断崖だったと伝える。

Img_5837 宗円堂

Img_5836 説明板

Img_5845 ねずみ小僧の墓があるようだ。

墓は両国の回向院にあるが、さすが大盗賊、墓もあちこちに神出鬼没ということか。

Img_5846 大島寥太句碑

「岩角に 兜くだけて 椿かな」

Img_5848犀ケ崖バス停

①「夏目次郎左衛門吉信旌忠碑」(昭和10年建立) 

②「奥山半僧坊」への道標

Img_5851①三方原の戦で敗走中の家康の身代わりとなり、自らを家康と称し、武田軍に突進、奮戦、討ち死にした人物。

旌忠碑(せいちゅうひ)とは忠を誉める碑。『裏面の碑文

Img_5849 ②「奥山半僧坊大権現 五里」の道標

明治14年の山林大火の際に焼けなかったことから、方広寺の鎮守の半僧坊の信仰が全国に広まった。姫街道沿いには多くの半僧坊道標がある。

Img_5862 大正坂 段子川の大昭橋から姫街道に上る坂。【ル-ト地図】の④

大正時代に坂の北側の山をけずり道幅を広げたことから名づけられた。橋は大正橋でなく大昭橋。

Img_5861 坂標

Img_5864 坂上方向

Img_5869 小豆餅 銭取本舗 《地図

店の左上に「葵の紋」、その下には婆さんに追いかけられる家康が・・・「小豆餅」も「銭取」も家康にまつわる逸話がある。「三方原の合戦で大敗した家康は浜松城に逃げ帰る途中、腹ペコになり道端の茶屋で小豆餅をほおばった。そこへ武田軍が追ってきたので家康はあわてて銭を払わず逃げ、何も知らない茶屋の老婆は「食い逃げ、許さん」と追いかけて来た。

この店の東側が小豆餅という地名で、南に茶屋の老婆が家康から小豆餅代をしっかりとせしめた「銭取」バス停がある。ここから1.5kmはあるか、マラソン婆さんの脚力には家康も参ったか。もちろんただの逸話、作り話よ。

この店には「小豆餅」・「銭取」・「三方原」・「出世葵」などの菓子がある。まさに家康様様だ。「姫街道」もあるようだ。

Img_5871 権現様跡(元追分交差点の手前)

Img_5875 元追分交差点 【ル-ト地図】の⑤

左からの道が今日歩いた浜松宿からの姫街道(国道257号)、手前の広い道が磐田宿からの姫街道(県道261号)。ここで合流して気賀宿(直進)へ向かう。

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2010年5月24日 (月)

出雲街道⑨(勝山宿→美甘宿→新庄宿)

2010年5月3日

中国勝山駅(JR姫新線)・・・勝山宿・・神橋(旭川)・高瀬舟船着場跡・・・鈴神社・・・美保神社・・・県道321号・・・杉が乢・・・国道181号・神代集落・四季桜・・・鬼の穴・・・八反バス停・・・(猿飛橋)・旧道・・・美甘小学校田口分校跡・・・太井の坂・・・真橋・・・滝見橋・・・寄水滝・・・首切坂・首切峠・・・国道181号・・・旧道・美甘(みかも)宿・美甘神社・・・国道181号・・・旧道・薬師堂・・・国道181号・・・旧道・・・丸山石造物群・・・今井河原刑場跡・・・新庄宿・がいせん桜通り・本陣跡・脇本陣跡・念仏寺・御幸橋・新庄村役場

 勝山宿から神橋を渡り、杉が乢へ上り神代集落に下りてから、「美甘三里は五里ござる」といわれた難所だったという美甘宿、新庄宿への長い上りが始まる。鬼の穴、首切峠、今井河原刑場跡など暗いイメージが沸くが、晴れているせいもあり、明るい坂道散歩を楽しむ。旧道が一部に残っているが荒れている所もあり国道、旧道、生活道を選びながら進んだ。

 首切峠は落石で通行止になっていたが、無事(無理)に通過する。期待した美甘宿は宿場の面影は薄かった。その分、新庄宿は「がいせん通り」の桜は散ったものの宿場風情が残り、なかなか見ごたえがあった。このあたりは標高500mくらいか、この先、出雲街道は難所の標高770mの嵐ケ乢から四十曲峠を越えて伯耆国(鳥取県)の板井原宿に下ることになる。腰が四重に曲がらないうちに越したいものだ。

 *『出雲街道⑩(新庄宿→根雨宿)』に続く。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_5496 高瀬船船着場「雁木」跡(神橋から)《地図

室町時代に開かれた旭川の水運。高瀬舟は米、木炭、材木、葛、みつまた等を下流に運び、上りは塩や干物などを積んで往来していた。

Img_5494 御前酒蔵元

文化元年(1804)の創業

Img_5491 鈴神社の急な石段

天正11年(1583)の創建という村社。先も長いし、ここから遥拝のみ。

Img_5487 美保神社

Img_5479 杉が乢への上り 【ル-ト地図】の①

Img_5472 峠から杉林を下る。

Img_5471 神代の集落へ入る。

Img_5464 四季桜

1年に4回咲くという、後醍醐天皇ゆかりの桜の何代目。

Img_5462 説明板

Img_5459 馬頭観音と大日如来碑

Img_5457 鬼の穴 【ル-ト地図】の②

鍾乳洞で50mくらいは入れるそうだが、10mほどで止めとく。

Img_5456 説明板

Img_5449 龍宮岩はこれではなく、下の新庄川の川床の奇岩だった。

Img_5441 緩やかに上って行く。

Img_5437 猿飛橋手前を右に入る。

Img_5434 旧道の道標が立つが、荒れている道もある。

Img_5430 新庄川に沿って上る。

Img_5427 美甘小学校田口分校跡(右)

昭和41年に廃校となった。

Img_5417馬頭観音と左は?

Img_5415 きつい上りでもなく気分のいい道だ。.

Img_5412 太井の坂 《地図

この先に「太井の坂」バス停がある。

Img_5406 宝篋印塔

14世紀の建立という。

Img_5391 寄水滝(首切トンネルの手前)

地蔵 の後ろを細い滝が流れている。

Img_5387 首切トンネル

桜の名所か。やっぱり「『桜の樹の下には』死体が埋まっている」(梶井基次郎)のだろう。

旧道は右に上って行く。

Img_5382 首切峠 【ル-ト地図】の③

落石で通行止めだが、右に行けば迂回できるのかも分からず強行突破だ。(それほど大げさなことでもないが)

このあたりは戦国時代に幾度も激戦があった古戦場で、とくに天文17年(1548)尼子晴久が麓城に攻め寄せ三浦忠近が敗れて自害している。峠付近で多くの首が切られたことから、こう呼ばれるようになったという。また享保11年(1726)の山中一揆でも、首謀者たちの首がここに晒されたという。

付近には腹切岩、殿様墓、女中墓などの地名も残る。

Img_5381 落ちている石と、落ちてきそうな石でやっかいな所を通過する。前に落石が重なっていて通りにくい。

Img_5376 国道に出て、左に美甘宿に入る。

Img_5372 美甘宿の家並み 【ル-ト地図】の④

Img_5366 旅館老松は今もやっているのか?

Img_5365 美甘神社

鴨の神、味鋤高彦根命を主祭神とする旧村社。この先で国道に合流する。

Img_5363 麓城跡あたり

標高513mの山城で、築城年代は不明。戦国時代には三浦忠近が城主で、尼子氏と戦い敗れた。

Img_5355 旧家

Img_5345 旧道を行く。

Img_5335 六地蔵

旧道から国道に出た所

Img_5332 田植えは近い。新庄宿も近い。

Img_5326 丸山石造物群

明治44年の疫病の死者の供養のためのもの。

Img_5324 説明板

Img_5321 今井河原刑場跡 【ル-ト地図】の⑤

こんなのどかな村にも刑場の哀しい歴史があったのだ。

Img_5320 説明板

Img_5318 六十六部供養塔(享保13年(1728)建立)

Img_5314 出雲街道説明板

確かに山陽と山陰を結ぶ「陰陽の道」

Img_5301 新庄宿説明板

Img_5309 がいせん桜通り

日露戦争の戦勝記念で植えられた桜並木。両側の水路にはきれいな水が流れ鯉が泳いでいる。

Img_5313 説明板

Img_5304 かつては旅人に振舞われたという。

Img_5308 雲州侯本陣跡

松江藩の休憩所の「御茶屋」から本陣になった。

Img_5307 説明板

Img_5311 脇本陣木代邸跡

Img_5310 説明板

Img_5297 御幸橋から念仏寺方向

百日紅(さるすべり)の古木が見える。

Img_5298 説明板

Img_5295 新庄村役場

Img_5293 出雲街道は四十曲峠へと続いて行く。

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2010年5月23日 (日)

出雲街道⑧(坪井宿→久世宿→勝山宿)

2010年5月2日

院庄駅(JR姫新線)・・・清眼寺・・・八幡宮・・・作楽神社道標・・・錦橋(吉井川)・中須賀の船着場跡・・・八幡神社・・・久米橋・国道181号・旧道・・・茶屋の一里塚跡・・・国道181号・・・弘法大師塔・・・西千代橋・・・旧道・・・二つ柳跡・・・三ケ村の界(栗)石柱・・・上川原橋(久米川)・・・(坪井駅)・・・大渡橋(坪井川)・・・坪井の一里塚跡・坪井宿・・・(国道181号)・・・鶴坂①・・・(中国自動車道)・・・鶴坂峠・鶴亀神社・・・鶴坂神社・・・鶴坂②・・・(姫新線)・・・国道181号・・・塞の神・六十六部塔・・・追分の一里塚跡・・・かしく茶屋跡・・・追分道標・・・旧道・稲荷橋(河内川)・上河内集落・・・国道181号・・・目木乢・・・旧道・・・米来神社・・・目木橋・・・薬王寺・・・(姫新線)・・・久世宿・旧遷喬尋常小学校・久世橋・金刀比羅神社・重願寺・早川代官像・・・国道181号・・・黒尾川・・・湯原第二発電所・・・(姫新線)・・・高田神社・・・勝山宿・化生寺・玉雲宮・妙円寺・安養寺・三浦坂・大雲寺・明徳寺・武家屋敷跡・旦の坂跡あたり・侍屋敷跡・・・中国勝山駅(JR姫新線)→津山駅

 坪井宿から小さな鶴坂峠を越え、追分から目木乢を越えて久世宿に下る。両方の宿とも昔の宿場風情は薄い。旭川沿いの車道を進み姫新線をくぐり、高田神社前から勝山宿に入る。ここは宿場の町並みが保存されていて、連休中のこともあり賑やかだった。暑さの中、起伏がある街道をけっこうな距離歩いてかなり疲れた。

  【ルート地図

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Img_5523 清眼寺(ぼたん寺)

美作国七福神霊場「七福神」

右は天保10年(1839)建立の六十六部供養塔で、脇願主信州佐久郡藤吉郎の名を刻む。

Img_5526作楽(さくら)神社への道標  【ルート地図】の①

「備後三郎旧跡江之道」で、隠岐へ配流される後醍醐天皇の行在所跡で、どじな忠臣児島高徳ゆかりの地。鎌倉から室町時代にかけての美作守護の居館跡で国指定史跡。

写真を撮ろうとしたら辻の民家の犬が一斉に吠え出した。まさに忠犬で、児島高徳とは比べ物にならないか。

Img_5531 中須賀の船着場跡 《地図

吉井川の高瀬舟の水運、出雲街道の宿場として栄えた地。

Img_5533 石灯籠

街道沿いと吉井川沿いに建てられた。河川改修でここに集められた。

Img_5534 説明板

Img_5536 中須賀の家並み

宿場風情はあまり残らず。

Img_5537 宮尾の街道

右に地蔵、六十六部供養塔、地神などが並ぶ。

Img_5540 八幡神社の鳥居

この先の国道と中国自動車道の間に7世紀創建という、久米廃寺跡があるようだ。

Img_5545茶屋の一里塚跡

右の榎の下に「茶屋一里塚」の石柱。このあたりは茶屋があった所。

Img_5552 西千代(せんだい)橋を渡った所の「宝暦屋」はリサイクルショップに変わってしまった。

Img_5556 二ツ柳跡

雲州からの観音信仰の諸国巡拝者が、ここの柳の枝を箸にして食事をした。そしてこれを地に挿しておいたところ、後日枝葉が出て巨木になったという。今は柳は2本ともなし。

Img_5564右に「三ケ村の界(栗)」の石柱が立つが何のことか分からず。

Img_5573 大渡橋を渡って坪井宿へ

Img_5576 坪井の一里塚跡 【ルート地図】の②

脇に工事用のトイレ(右)が置かれていて、分かりにくい。

Img_5577 説明板

領家は茶屋の一里塚のこと。

Img_5581 坪井宿の旧家

Img_5586 坪井宿説明板

Img_5589 昔は中央に水路が流れ、梅、桜、柳の並木になっていた。水路の北側は出雲街道で旅籠などが並び、南側の道は生活道として使われていた。町並みのつくりが麦粒の形に似ていることから、「麦飯町」とも呼ばれていた。森家廃絶後は代官所、陣屋も置かれた。(前の説明板の北側あたり)

今は水路はなく路上駐車ばかりで、坪井は町並みの景観などには無関心のようだ。

Img_5593 車道を横切り鶴坂①の上りとなる。 【ルート地図】の③

坂(峠)上の老松に2羽の鶴が舞い降りたことによる坂名。

Img_5602 説明板

Img_5597 坂の途中の南無妙法蓮華経塔、六地蔵などの石造物、上は墓場。

この右側に説明板の力士の塚がある。

Img_5603 坂下方向

「久世を夜出て目木乢越えて坪井鶴坂歌で越す」はこの方向を謡ったもの。

Img_5605 鶴亀神社(中国自動車道を越えた所)

妹の仇討を果たせず、無念にも返り討ちのあった弟と妹の供養塔か。仇討を果たせば評判になり、もてはやされるが、実際には稀で、途中で諦めたり返討ちに合うことの方が多かったのでは。

Img_5606 由来

Img_5609 鶴坂神社

後醍醐天皇が配流の途中で休息した地に勧請したという。

Img_5610 鶴亀神社から下るのも鶴坂

このあたりが小さな峠上になっている。

Img_5611 坂標

Img_5614 坂下方向

のどかな風景だが暑い。この下で姫新線を渡る。

Img_5628 岩屋城跡入口の案内板が立つ。

背後の岩屋山(483m)の上に山名教清が築いた山城がある。

Img_5632 六十六部供養塔・塞の神

塞の神の小祠は崩れかかり、祠内は花立だけ。

Img_5639 追分の一里塚跡

Img_5640 かしく茶屋跡

追分交差点の手前左の追分茶屋の所。ここから真庭市に入る。

Img_5644 追分の大小2つの道標 《地図

小は「右備中道」(元禄2年(1689))

大は「伊勢大神宮江八十五里」、「伯州大仙江拾七里」、「出雲大社江三十七里」などで、文久3年(1863)の建立。「木山宮」は真庭市落合の牛馬の守護神の木山神社。「口てい疫」騒ぎで参拝者が多いだろうか?

Img_5657 右へ上河内(かみごうち)の宿の集落へ入って行く。

Img_5662 集落入口の地蔵、地神(奥)

正面の大乗妙典供養石の地蔵(享和2年(1802))建立)はもとは街道沿いにあったもので、邪魔になってここに移されたのだろう。

Img_5667 「宿」の名が残るが、古い家並みは残らず。

Img_5669 集落出口の地蔵(享保18年(1733)の建立)

この先で国道に合流し、目木乢への上りとなる。

Img_5675 目木乢 【ルート地図】の④

今は何の風情もない国道181号。乢(たわ)は峠のこと。

Img_5681 長い下りとなる。

Img_5693 米来神社

米来=目木

Img_5689 目木橋から

Img_5700 目木砥石の製造所

本来の出雲街道はここを左に曲がり、大きく南方向を迂回して久世宿に入ったようだが、見所も少ないようで県道を直進する。

Img_5709 薬王寺 《地図

参勤交代の出雲の殿様も休憩したという寺。

Img_5719 旧遷喬尋常小学校

屋根に高瀬舟をデザインした「久世」の字が織り込まれた校章。

Img_5717 説明板

Img_5722 久世宿

旭川の高瀬舟、七里飛脚も置かれた水陸の要衝地で、代官所のある陣屋町、宿場町だったが、宿場の家並み、面影は残らず。

Img_5732 重願寺

天領の久世の代官所の門を移築。

Img_5729 時雨塚(芭蕉句碑・寛政5年(1793)建立・本堂前)

「はつ時雨猿も小蓑をほしげなり」

Img_5727 代官の早川八郎左衛門正紀像 《地図

善政をしいたそうだ。久世は享保11年(1726)の山中一揆の余波で、翌年幕府領となり代官が置かれた。

Img_5728 説明板

Img_5734 透明人間がうどんを食べている。箸とうどんが上下に動いているのだから、そうに決まっている??

Img_5743 旭川と姫新線の間の国道を進む。車がスピードを上げて追い越して行く。歩道がなくて歩きづらい道が続くが、勝山宿まではもう少しだ。《地図

Img_5747 姫新線をくぐって国道の北側の道に入る。

古道は原方の集落を通り、旦の坂を越えて高田神社前から勝山宿へ入った。旦の坂が侍屋敷となり、道筋も姫新線沿いあたりを西に向い中国勝山駅を過ぎて北に勝山宿へ入ったようだ。

Img_5750 やっとほっとする風景になる。ここは原方集落で古道に近い道筋だろう。

Img_5752 勝山宿の案内図

Img_5756 高田神社

久寿2年(1155)紀州熊野より勧請し、熊野大権現と呼ばれていた。明治の神仏分離で旧地名の高田神社と改められた。

Img_5760 化生(かせい)寺 《地図

開山は「那須の殺生石」でおなじみの玄翁和尚。

Img_5761 説明板

Img_5764 殺生石塚

那須原で玄翁和尚に砕かれて、三方の高田に飛来した殺生石の一つという。ただし殺生石はこの下に埋められていて、これはその上に置いた標本石だと。まあ、すべて伝説のこと、笑ってこらえてか。

Img_5762 由来

Img_5769 玉雲宮(たまもりぐう)

九尾の狐が化身した「玉藻の前」を祀るのか?

Img_5773 妙円寺

日蓮宗では珍しい重層の建物で、方三間層入母屋造。

Img_5775 安養寺

勝山城主、三浦家の菩提寺。

Img_5779 三浦坂 【ルート地図】の⑤

安養寺へ上る石段。東京台東区谷中の三浦家下屋敷跡にも「三浦坂」がある。『台東区の坂-3』に記載。

Img_5781 坂下から

Img_5782 勝山宿の家並み

Img_5497_2 神橋の手前

左は「御前酒」の蔵元

Img_5499 道標

Img_5500 出雲街道は神橋を渡って行くが、今日はここまでで、勝山宿を散策し、中国勝山駅の方へ向かう。

Img_5792 明徳寺

Img_5798 説明板

Img_5794 白菊塚

Img_5793 説明板

Img_5790 武家屋敷渡辺邸

Img_5787 説明板

Img_5506 侍屋敷跡

旦の坂はこのあたりにあった。

Img_5507 説明板

Img_5801 中国勝山駅

****************

Img_5509 津山の今津屋橋(吉井川)から(18時31分)

Img_5512

18時41分

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2010年5月20日 (木)

出雲街道⑦(勝間田宿→津山宿)

2010年5月1

勝間田駅(JR姫新線)・・・勝間田宿脇本陣跡(郷土美術館)・本陣跡・・・勝間田大橋(滝川)・勝間田神社・・・国道179号・・・(泣き清水跡)・・・旧道・かしこ坂・・・黒坂五厘田の一里塚跡あたり・(姫新線)・・・八坂神社・・・八幡神社・・・光伯地蔵堂・・・夜鳴地蔵・・・大渡橋(広戸川)・・・芭蕉句碑・・・国道179号・・・旧道・河辺上之町枡形・・・御旅所・・・枡形・・・松風庵・・・(姫新線)・・・(国道53号)・・・兼田橋(加茂川)・・・JR因美線・・・八幡神社鳥居・・・玉淋三叉路(因幡道分岐)・・・高砂橋・・・津山宿・旧洋学資料館・荒神曲り・城東むかし町家・洋学資料館・箕作阮甫旧宅・作州城東屋敷・小入道坂・津田真道生誕地・大橋(宮川)・東大番所跡・京橋御門跡・金刀比羅宮・田町武家屋敷跡・徳守神社・西大番所跡・翁橋・作州民芸館・西寺町・筋違橋(紫竹川)・・・御茶屋跡・・・芭蕉句碑・・・(姫新線)・・・(国道53号)・・・御茶屋跡・・・宇那堤の森・庄屋家・高野神社・・・伯耆街道分岐・・・首なし地蔵・・・滑川橋・・・院庄駅

 去年の6月以来の出雲街道だ。勝間田宿から鳥取県境の新庄宿まで3日間で歩く予定。幸い天気も良さそうで絶好の街道歩き、坂道散歩日和となるだろう。ちょっと暑いのと紫外線が気になるが。

 *『出雲街道⑤』からの続き。津山宿は『出雲街道⑥』にも記載。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_5184 勝間田宿の家並み

Img_5182 熊にまたがる金太郎

勝央町は坂田金時の終焉の地とされ、中国自動車道の北側にある栗柄神社は金時を祀り、勝央町では毎月8月には金時祭がある。生誕地とされる静岡県小山町とは姉妹都市。

Img_5173 郷土美術館(脇本陣跡) 【ルート地図】の①

明治45年に勝田郡役所として建築した擬洋風建物、元勝央町役場庁舎。

この前の木村裁縫所跡が、雲州(松江)侯、勝山侯の木村本陣跡。津山藩主の宿だった下山本陣はどこにあったのか?

Img_5166 勝間田大橋(滝川)から振り返る。

昔、冬は土橋で、夏は歩いて渡ったという。ホタルは今でも生息しているのだろうか?

Img_5165 勝間田神社 《地図

天満宮、稲荷社、荒神社、恵比寿神社などが同居している。

Img_5158 かしこ坂 【ルート地図】の②

国道から分かれ右へ下る坂。坂の右は「SGモータース㈱」の敷地。

この手前に「泣き清水」碑、六地蔵の小公園があるのだが見逃した。

Img_5156 坂下

右に「大峯役行者大菩薩供養塔」の小祠がある。

Img_5153 大峯役行者大菩薩供養塔

Img_5152 姫新線を越える。《地図

このあたりが黒坂五厘田の一里塚跡か。『出雲往来(岡山県歴史の道調査報告書)』ではもっと手前としている。

Img_5146 高取八幡神社

貞観2年(860)に宇佐八幡神社を勧請。旧名は弓矢八幡宮、遊屋八幡宮ともいった。

Img_5138 勝南大師霊場第24番(跡)?

Img_5136 隣は地蔵さんか?

両方ともよく分からず。

Img_5127 光伯地蔵堂(広戸川の手前左)

Img_5129 光伯地蔵尊

足腰に霊験あらたかという。しっかりお参りしたかなあ?

Img_5124 夜啼地蔵(広戸川の手前右下)

『作陽誌』に、「夜啼松として二股の大松有り、子供の夜啼きに立願してしるしあり」とあるそうだ。二股の大松は今はない。

Img_5122 広戸川に大渡橋がない。《地図

左に国道へと迂回するしかない。

Img_5118 古い家並みも少しは残る。

Img_5116 芭蕉句碑 《地図

国道179号との合流点

Img_5115芭蕉句碑

Img_5113 この句が「座右之銘」とは・・・・。「ものいえば・・・・」で止めとく。

Img_5112 この先で右へ旧道へ入り、「ホテルOZ」の手前で左に曲がる。

Img_5111 「南無妙法蓮華経」?の石柱、その先の「ホテルインココ」(左)の先で左に曲がって西に上る。

Img_5107 河辺上之町の町並みに残る枡形 【ルート地図】の③

ここは津山藩主森家の命で、農地拡張のため平地の農民を強制的に移住(山あがり)させて作った集落で、中央に幅広い道路を通し、街道の両端に枡形を設置した。

Img_5105 道標

長尾山道二里、左八幡道

Img_5102 庄屋土居家?

Img_5099 美作国分寺跡への道標(安永4年(1775)建立)

「国分寺道(五丁余)」

Img_5098 枡形跡(西側)

ここから姫新線の方へ下って行く。

Img_5097 説明板

Img_5093 松風庵

火伏十一面観音像は33年に一度の開帳。次は2021年らしい。

Img_5096 姫新線の線路を渡る。《地図

踏切はない。この先で国道53号を横切り加茂川に出る。

Img_5086 兼田橋(加茂川) 《地図

Img_5083 橋の手前の道標「右国分寺道」(安永10年(1781)建立)と地蔵塔(文政10年(1827)建立)

道路改修などでここへ移されたものらしい。

Img_5075 兼田橋を渡った所にもびっしりと文字が刻まれた道標

「信州善光寺百五十五里」には恐れ入る。

さらに、「もろ人に此よの道ハをしふれど さきの世まではわからざりけり」と洒落た、お節介な歌まで彫られている。

Img_5074 因美線を渡り津山宿へと進む。

Img_5067 旧洋学資料館

もとは大正9年に建築の妹尾銀行。

Img_5068 説明板

Img_5065 津山宿「荒神曲り」 《地図

ここに門と木戸があり夜は閉められた。荒神社があり、こう呼ばれるようになった。

Img_5062 「荒神曲 出雲街道」石柱

Img_5064 東新町の家並み

Img_5063 説明板

Img_5059 忠兵衛鎌製作所

強さで知られた作州鎌の製造所。今は2軒だが、昔は20数軒が軒を連ねて技を競っていたそうだ。

Img_5057 電線のない空は広く明るい。

ただしこの区間だけ。

Img_5056 城東むかし町家(梶村家)

Img_5054 津山洋学資料館 《地図

今年の3月にオープンしたばかりだが、洋学なんて、柄でもない遠慮する。そんなに卑屈になることもないだろうが。

Img_5051 箕作阮甫旧宅

幕末の洋学者が少年時代を過ごした家。

Img_5048西新町から中之町への「大曲り」

藺田小路の前で道が大きく鈎型に曲がっている。
津山城の防衛のためで、東の「荒神曲がり」までの直線の道は、大名行列がちょうどおさまる長さだと伝えられている。

Img_5042作州城東屋敷

「男はつらいよ」48作「紅の花」で、寅さんが「津山まつり」で露天を出した所。

Img_5039 説明板

Img_5043 だんじり展示館

10月の津山まつりで市街を練り歩く。20台の内の4台を展示。

Img_5031国信小路

Img_5028 西美濃屋小路

苅田酒造脇の小路を見逃した。

Img_5025 京御門(菓子店)

Img_5019 小入道坂 【ルート地図】の④

街道から離れ、前回見逃したこの坂を上る。

宮川沿いの道から右に入り直角に右に折れて上って行く坂。この坂の北側に大入道坂がある。大入道坂には坂名の由来があるが、この坂は対の坂の意で「小」入道坂としたのだろう。

Img_5017 坂標

Img_5018 坂上方向

坂上の左側に幕末の洋学者の津田真道の生誕地がある。

Img_5021 津田真道生誕地説明板

Img_5016 大橋(宮川)を渡る。《地図

渡った所が東大番所跡。西大番所は翁橋の所にあった。

Img_5015 説明板

Img_5012 材木町の家並み

津山城築城の際の用材置場があった所で、材木商などが並んでいたという。

Img_5009 京橋御門跡 《地図

津山城の外堀の一郭で、岡山県立津山高等女学校跡でもある。

Img_5010 金刀比羅宮

津山城内から移したもので、瓦に葵の紋章が入っている。

Img_5004 京町説明板

Img_5190 京町から鶴山通りを渡り、ソシオ商店街を抜けて、元魚町へと進む。あまり繁盛しているようには見えない。

Img_5193 津山藩家老大熊家屋敷跡 《地図

このあたりは田町武家屋敷跡だが、この一軒しか残らずか。

Img_5194 説明板

Img_5197 このあたり(坪井町)が本陣跡か?《地図

Img_5200 少し先を左に曲がると、右は徳守神社の鳥居、左に旧家が並ぶ。

Img_5199 ここは宮脇町

Img_5203徳守神社

日本三大神輿の300貫目の大神輿がある。土・日・祝日は公開しているのだが見損なった。あとの2つの神輿はどこの神社のものなのか?

Img_5202 説明板

Img_5209 翁橋・西大番所跡

大橋の大番所からここまでが、城下の内町だった。

Img_5217 作州民芸館

もとは大正9年に建築の土居銀行。

Img_5220 西今町の旧家

Img_5221 説明板

Img_5218 本源禅寺

「津山三大寺」の一つで、津山藩主森家の菩提寺

Img_5224 寿光寺の赤門

Img_5232 西寺町

右に愛染寺、大円寺と並ぶ。

Img_5233 愛染寺の仁王堂付き鐘楼門

Img_5235 説明板

隣の大円寺には婦人病によく効く、「うらみ石」なる物があるそうで、山門をくぐってちょっと探したが見当たらず。まあ関係ないし、聞くのも変なのですぐ引き返す。

Img_5239 池上製綿(株)の看板だが、今は営業していないようだが?

Img_5243 筋違橋を渡ると真っ直ぐな縄手道となる。二宮松原街道と呼ばれた松並木は昭和20年頃までは残っていたそうだ。《地図

Img_5247 御茶屋跡説明板

この先の津山信用金庫あたりにも茶屋があった。

Img_5248 芭蕉句碑

「雪折折ひとを休める 月みかな」(文化12年(1815))に津山の俳人4人が建立。

Img_5257 宇那提の森 【ルート地図】の⑤

昔はうっそうとした水辺の森林で、万葉集や多くの歌集に詠まれ、歌枕でも知られたが戦国時代に伐採され、今はこの一本の椋(むく)の木とは情けない。北側を姫新線が走り、周囲も明るく開けて、ここが森だったとは全く想像できない。

Img_5256 説明板

Img_5268 立石家の長屋門

門前を姫新線が通る。線路を渡って門をくぐることになる。まあ、他にも入口はあるのだろう。

Img_5272 2つの店が営業しているようだ。

Img_5277 高野神社 《地図

Img_5276 由緒

Img_5279 平賀元義歌碑(幕末の万葉歌人)

「ひとりのみ 見ればさぶしも 美作や うなでのもりの 山ざくら花」

Img_5284 首なし地蔵(高野神社から下った街道沿いの右側)

享保11年(1726)山中(さんちゅう)一揆で処刑された6名の供養のために村人が建てたもの。1体は遺族が持ち帰ったという。左端は地蔵回国供養塔。右端は力士の墓。

山中一揆』では、6名が処刑されたのは享保12年3月としている。

この先、美甘宿へ向かう途中の首切峠にも一揆で処刑された者の首がさらされたという。

Img_5283 説明板

Img_5288 院庄駅前の洋服屋

Img_5287 院庄駅

無人駅

Img_5290 一輌の姫新線

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2010年5月17日 (月)

竹内街道

2010年4月29日

堺駅(南海本線)・・・大小路・・・(大道筋・紀州街道)・・・(南海高野線堺東駅)・・・新町交差点・・・地蔵堂・(南海高野線)・・・西高野街道分岐・・・県道2号・・・(JR阪和線)・・・富田林街道分岐・向陵中町交差点・旧道・・・黒土西地蔵尊・・・(県道28号)・・・金岡j神社頓宮(楠塚公園)・・・金岡神社・・・(県道192号)・・・(県道2号)・・・県道31号・・・大池・・・(下高野街道)・・・西除橋(西除川)・・・(国道309号)・・・弘法大師堂・・・中高野街道交差地点・・・・(阪和自動車道)・旧道・・・新ヶ池・・・新池・樫山池・丹治はやプラザ・・・八王神神社・・・伊勢橋(東除川)・・・五軒家の坂・・・埴生坂・・・野中寺・・・埴生坂本陵(仁賢天皇陵)・・・峯ケ塚古墳・・・(国道170号)・・・芦ケ池・長池・・・軽羽迦神社・・・日本武尊白鳥陵・・・(古市駅)・・・白鳥神社・・・長円寺・・・蓑の辻(東高野街道)・・・西淋寺・・・銀屋跡・ふれあいスポット竹之内・国道166号・・・大乗橋(大乗川)・臥龍橋(石川)・・・川向の道標・・・逢阪橋(飛鳥川)・・・(駒ヶ谷駅)・・・十一面観音堂・智恵地蔵・・・杜本神社・・・西応寺・・・月読橋(飛鳥川)・・・八丁地蔵尊・役行者錫杖水・・・仏号寺・・・飛鳥戸神社・・・(上ノ太子駅)・・・(近鉄南大阪線)・・・(南阪奈道路)・・・旧穴虫街道分岐・松本橋(飛鳥川)・・・赤坂・・・春日西交差点・旧道・・・妙見寺・・・旅籠角屋跡・・・六枚橋・・・しもの地蔵尊①・・・正泉寺・・・旧山本家住宅・・・(竹内街道歴史資料館)・・・風鼻橋東詰交差点・国道166号・・・大日池・・・岩屋越分岐・・・峠うぐいす茶屋・・・石造物群・竹内峠・鶯の関跡・・・旧道・・・上池・・・国道166号・・・岩角地蔵・・・菅原神社・・・綿弓塚・・・しもの地蔵②・・・県道30号・・・長尾街道分岐・・・長尾神社・・・磐城駅(近鉄南大阪線)

 日本最古の官道、古代には大陸から仏教文化を運んだ道、大陸へ渡る遣隋使が通った道、中・近世には大阪、堺と大和を結ぶ経済的、宗教的な幹線道だった竹内(たけのうち)街道を歩く。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_4957 竹内街道説明板

全長約30kmとあるが、あちこち寄ったり、道を間違えたりするとそれ以上となる。2日間かければ、ゆったりの街道歩きとなるだろう。

Img_4612 南蛮橋(堅川)の異国人は誰?

天文19年(1550)に堺を訪れたフランシスコ・ザビエルは、「堺は広大にして、富豪な商人が多数おり、東洋のベニスの如し」と本国に書き送っている。

Img_4626 旧堺灯台

(2010年4月28日撮影)

Img_4643 堺駅から「大小路シンボルロード」を進む。

Img_4649 占辻(晴明辻・大道筋(紀州街道)との交差点) 《地図

この辻は陰陽師の安倍晴明が占い書を埋めた所で、ここで占いをすれば必ず当たったんだと。

はでなチンチン電車(阪堺電軌阪堺線)が通る。「芋虫」かと思ったら、「帝塚山芋忠」という葬儀社だった。この路面電車も存続が危ういようだが。(むろん葬儀社とは無縁の話)

直進が大小路で「竹内街道」

Img_4655 説明板

Img_4660 西高野街道(右)分岐 【ルート地図】の①

正面に「竹内街道」の新しい道標、説明碑、右の地蔵堂脇に「高野山女人堂江十三里」の里程石標が立つ。

Img_4669 黒土西地蔵

右は「福徳大明神・兼平神社」、黒土はここの地名。

Img_4676 黒土町の家並み

「歴史の道 竹内街道」の石柱

Img_4682 金岡神社頓宮西之宮(楠塚公園)

金岡神社の御旅所

Img_4687 金岡神社 《地図

祭神の一人が、平安時代の宮廷絵師の巨勢金岡

Img_4688 説明板

Img_4694 大道の家並み

Img_4698 大池

今もこのあたりは溜め池が多が、北側の尻池は埋め立てられて、金岡中央病院の敷地になっている。

Img_4705 下高野街道と交差(八下北5) 《地図

直進が竹内街道

Img_4714 弘法大師堂

Img_4720中高野街道との交差地点 《地図

左(松原南図書館前)に道標(寛政9年(1797))で、正面に「右 ひらの 大坂 道」

竹内街道は左から右へ直進。

Img_4726 新ケ池を過ぎて野村の集落へ入る。

野村から樫山の間に一里塚があったようだ。

Img_4728 「丹治はやプラザ」の前を通る。《地図

竹内街道は古代には「丹比道(たじひみち)」と呼ばれていた。

Img_4729 「官道第一号」なのだ。

Img_4731 八王神神社

八王神とは?

Img_4734 五軒家の坂 【ルート地図】の②

伊勢橋から南東に羽曳野の台地へ上る坂。20年位前も数軒の家しかなかったそうだ。このあたりは埴生野という。

Img_4739民家前の旧道と道標(文政12年(1829)建立)

道標を建てた神南辺隆光(大道心)は、鋳物師で素行が悪く、嫌われ者だったという。その後、悟って仏門に入り、橋を架けたり道標や地蔵を建立した。河内から大和、紀伊に至るまで道標、社寺の石碑に彼の名が刻まれている。道標の正面は「右大坂さかいミち 左まきの寺さやま」

Img_4742 旧道(左)が現在の五軒家の坂(右)の坂上で合流。

Img_4749 埴生坂 《地図

弟の叛乱から逃がれて大和に向かう履中天皇が上った坂。『日本書紀』に載る伝承の坂だが、このあたりとしておこう。

Img_4751 野中寺南大門跡

左へ曲がると野中寺、かつてはこの辻に久米皇子の石碑があったそうだ。

Img_4756 野中寺(やちゅうじ)

聖徳太子の創建といい、「中の太子」と呼ばれる。「上の太子」は太子町の叡福寺、「下の太子」は八尾市の勝軍寺。法隆寺形式の旧伽藍跡は国の史跡、弥勒菩薩像と地蔵菩薩像は国の重文。

墓地には「お染・久松の墓」もあるようだ。

Img_4757 説明板

Img_4761 ヒチンジョ池西古墳石棺(野中寺境内)

二上山産の凝灰岩で造った7世紀末~8世紀初頭のここから南西約1kmにあった古墳の石棺。

Img_4765 野々上の家並み

Img_4769 伊勢灯篭(明治2年の建立)・道標・地蔵堂

道標(天保7年(1836))の正面は、「右大坂 左さかい 道」

Img_4768 地蔵道標

正面に「右ハはせみち 左ハならみち」とあるそうだが確認できず。

「はせみち」は竹内街道のこと。

Img_4773 埴生坂本陵(ボケ山古墳)

仁賢天皇

Img_4784 峯ケ塚古墳(後円部から) 《地図

5世紀末~6世紀初頭の全長98mの前方後円墳。

Img_4783 説明板

Img_4785 長池

Img_4792 軽里の家並み

「軽里」は日本武尊の「仮墓」が転訛したともいう。

Img_4793 昔風情のある家並みが続く。

Img_4795 白鳥陵古墳(前の山古墳)

5世紀末から6世紀初頭の全長190mの前方後円墳で日本武尊白鳥陵に比定されているが、築造時期から日本武尊の墓でないことは明らか。日本武尊も架空の人物だが。

Img_4794 説明板

Img_4803 白鳥神社 《地図

白鳥古墳の上にあり、スサノオ命と日本武尊を祀る。

Img_4812 長円寺

十一面観音は国の重文。

Img_4811 説明板

Img_4813 蓑の辻(東高野街道交差) 【ルート地図】の③

正面の建物前に道標(嘉永元年(1848))、「左大和路」「右大坂」

Img_4824 この「ふれあいスポット竹之内」の前に江戸時代の両替商の「銀屋」の建物がある(あった)はずだが見当たらず。 《地図

Dsc05200 銀屋

(2001年5月4日撮影) ちょうど9年前に訪れた時は確かにあった。

Dsc05201 説明板もあった。(2001年5月4日撮影)

Dsc05203 この家並みもなくなってしまった。(2001年5月4日撮影)

Img_4816 西淋寺

百済から渡来した王仁(わに)の子孫の西文氏(かわちのふみうじ)の創建という。

Img_4817 説明板

Img_4818 塔心礎

横から見ると鯨、いるか?の顔のように見えてくる?

Img_4820 五輪塔

鎌倉時代の物とは思えないほど、形の崩れもなく、しっかりしている。土中に長い間埋もれていたおかげか。

Img_4819 説明板

Img_4828 臥龍橋(石川)から

Img_4830 川向道標(正面) 《地図

街道は左に曲がって行く。江戸時代には河内木綿の10軒ほどの問屋が繁盛し、遊郭もあったという。

Img_4831大黒寺への道標(右)・②法華寺(河南町)への道標(左)

Img_4835 ①の説明板

神南辺隆光の名がある。

Img_4836 ②の説明板

Img_4839 逢阪橋を渡って正面の細い道に入る。

分岐点に十一面観音像の小堂と智恵地蔵尊

Img_4841 十一面観音

Img_4843 駒ケ谷の家並み

Img_4844 このあたりは立派な家が多い

Img_4849 杜本神社 《地図

Img_4845 説明板①

Img_4847 説明板②

Img_4852 楠正成首塚

Img_4851 由緒と境内

隼人石」が見当たらなかったが、本殿の前にあり、普段は見られないようだ。

Img_4855 藤原永手の墓

やけに寂しい所に、ぽつんとある。

Img_4860 西応寺(左)

Img_4863 月読橋へ

Img_4864 月読橋(飛鳥川)

伊勢灯篭は文政5年(1822)の建立

Img_4868 八丁地蔵尊

「役行者錫杖水碑」は道標にもなっていて、これも神南辺隆光の建立。

後ろは「白玉大明神・白瀧大神・脳天大神」の石柱とお狐さんの石像。「脳天大神」は蔵王権現の化身神で、首から上の病い、頭を使うことすべてにご利益があるようだ。受験生、就活人は祈願すべしか。

Img_4874 飛鳥の集落

Img_4879 飛鳥戸神社 《地図

百済から渡来した飛鳥戸造(あすかべのみやっこ)一族の祖、琨伎王(こんきおう)を祀る。

Img_4878 説明板

Img_4882 気分のいい道を行く。

Img_4884 上ノ太子駅

ちょうど2時で、この先をどうしようとちょっと考えた。少し暑いがそんなに疲れてもなく、あと3時間もあれば竹内峠を越えて、長尾神社へ降りられると思い歩き続ける。

Img_4889 赤坂から徐々に上って行き、春日西交差点から旧道に入る。《地図

Img_4894 春日の家並み

Img_4897 まさに竹内街道だ。

この先にあった旅籠角屋の庭の牡丹の大木は見物人を集め、門前の馬の像は「左甚五郎の作で、街道を通る馬も見惚れて立ち止まった」という民話も残っている。

Img_4907 しもの地蔵堂①

堂の前に「二見岩」という相撲取りの墓碑(安政6年(1859)建立)がある。上方の相撲取りだろうが分からず。

Img_4908 由来

Img_4909 しもの地蔵尊①

脳天大神が「上の病」で、この地蔵は「下の病」に霊験ありだろう。

Img_4914 大道の家並み 《地図

Img_4920 大道旧山本家住宅

Img_4929 車道(国道166号)に出て竹内峠へ

ここはまだ歩道が分離していて歩きやすい。

Img_4933 岩屋峠(左)への分岐

地蔵は道標になっている。「右 津ぼさか 左 い巳やたゑま」→右へ竹内街道を進めば壷阪へ、左は岩屋、当麻への岩屋越えの道。

Img_4935 歩道がなくなり休日で車も多いが、あと少しで竹内峠だ。

Img_4938 竹内峠手前の石造物群

常夜灯・十一面観音像・役行者像・役行者霊水塔・大峯山三十三度供養塔など。

Img_4945 十一面観音

左に「さかい神南辺大道心」とある。右は「はせ寺迄 七リ」だそうだ。

Img_4949 竹内峠 【ルート地図】の④

鶯の関址碑、奈良県境碑などが立っている。

国道は大きく切り下げられている。

Img_4953 「鶯の関址」歌碑(司馬遼太郎の筆による)

「我おもふ こころもつきず 行く春を 越さでもとめよ 鶯の関」 平安時代の康資王母の随筆集『明玉集』に載る歌だそうだ。「鶯の関」が設けられたのは鎌倉時代の徳治2年(1307)ともいう。時代が合わない歌だが?

『河内名所図会』には鶯の関は峠から8町(872m)北にあったと記されているそうだ。

司馬遼太郎は幼少期を母の実家の里の竹内の當麻町で過ごした。

Img_4961 ここを直進してしまいかなり下って引き返し、えらいロスタイム。竹内街道は左にカーブして南阪奈道路を越えて国道166号の南側を下って行く。

下に走る南阪奈道路を国道166号と勘違いした。

Img_4965上池脇を下る。《地図

この先で国道166号に合流する。

Img_4966  岩角地蔵尊(首なし地蔵)

Img_4972 国道から離れ、竹内の集落へ入って行く。

Img_4973 竹内の家並み

Img_4975 植田家

Img_4977 綿弓塚記念館

Img_4979 綿弓塚 【ルート地図】の⑤

芭蕉が「野ざらし紀行」の旅の折に詠んだ「綿弓や琵琶に慰む 竹の奥」の句碑。

Img_4978 説明板

Img_4980 しもの地蔵堂②・大峯詣りの常夜灯・道標(當麻寺、高野山)

Img_4983 しもの地蔵尊②

Img_4988長尾街道分岐

竹内街道石柱と2基の道標。

Img_4989 右へ行くと「本朝二十四孝」の一人と称えられた、孝女伊麻碑があるようだが、親不孝者の行く所ではないか。

元禄元年(1688)に芭蕉は伊麻に会って感激している。伊麻は寛永元年(1624)生まれというから、この時は64才のおばあちゃんになっていた。

Img_4993 長尾神社 《地図

石灯籠の前には狛犬ならぬ、子を背負った狛蛙。

Img_4996 親蛙の上に子蛙

Img_4999 説明板①

Img_4992 説明板②

Img_4997 神々しい夕日が降り注ぐ社殿の前で、今日も無事に歩き終えたことを感謝し、一礼。神仏を信じているわけではないが、そういう気分になる時もある。

この先、竹内街道は横大路から初瀬街道へと続いて行く。

Img_5001 道を間違えロスタイムもあったが、磐城駅に着いたのは、まだまだ明るい4時30分だった。

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2010年5月14日 (金)

東海道(大津宿→三条大橋)

2010年4月28日

唐橋前駅(京阪石山坂本線)・・・蓮如上人休息所跡(旅籠伏見屋跡)・・・長徳寺・・・明治天皇鳥居川小休所跡・・・(国道1号・京阪電車・東海道線)・・・盛越川・粟津の一里塚跡あたり(121)・・・膳所城勢多口総門跡・・・(京阪電鉄)・・・若宮八幡神社・・・妙福寺・・・光源寺・・・篠津神社・・・大養寺・・・膳所神社・・・縁心寺・・・和田神社・・・響忍寺・・・石坐神社・・・桃源寺・・・膳所城北総門跡・・・義仲寺・・・(京阪電鉄)・・・大津の一里塚跡あたり(122)・・・平野神社・・・常盤橋(吾妻川)・・・大津別院・・・露国皇太子遭難之地碑・・・札の辻・大津宿本陣跡・・・国道1号・逢坂・・・(東海道線)・・・関蝉丸神社・・・(京阪電鉄)・・・安養寺・・・蝉丸神社上社・・・弘法大師堂・・・(京阪電鉄)・・・逢坂峠・逢坂の関跡・・・蝉丸神社分社・・・大谷茶屋・・・(京阪電鉄)・国道1号・・・月心寺・大谷の一里塚跡あたり(123)・・・(名神高速道路)・・・旧道・・・追分道標・・・(国道1号)・・・小関越道標・・・山科地蔵堂(徳林庵)・・・諸羽神社・・・安祥寺川・・・当麻寺・・・五条別れ道標・・・三条通り(県道143号)・・・(東海道線)・・・御陵の一里塚跡あたり(124)・旧道・陵ケ岡緑の径・・・亀の水(不動尊)・・・大乗寺・・・三条通り・車石広場・・・日ノ岡峠(九条山交差点)・粟田口刑場あたり?・・・蹴上浄水場・・・合槌稲荷神社・・・粟田神社・鍛冶神社・・・粟田口碑・・・坂本龍馬結婚式場跡・・・白川橋・・・高山彦九郎像・三条大橋

 石山の商店街を抜け、京阪電車の踏切を何度も渡り、北西方向に曲がりながら進み、大津宿の札の辻に出た。ここは路面の京阪電車が通る広い車道で、かつての宿の面影は残っていない。国道1号の長い逢坂を上ると、歌枕の逢坂の関だがここも車の行き交うただの車道で何の風情もない。このまま三条大橋まで下って行くのかと思ったが、平地に出てからまた日ノ岡峠へと上り返すことになる。日ノ岡から蹴上浄水場に沿って下ると、もうこのあたりは観光客が多く、京都に着いた実感がわく。賑やかな三条大橋を少し眺めただけで次の目的地に向かった。

 ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_4328蓮如上人休息所跡(鳥居川交差点の手前)

後ろが旅籠伏見屋跡で、本願寺八世蓮如上人が布教の途中で休憩したという。縁切地蔵もここにあったのか?

Img_4335 粟津(鳥居川)の一里塚跡(121)あたり 【ルート地図】の①

東海道線のガードをくぐった盛越川の手前にあったようだ。

Img_4339 膳所城勢多口総門跡

右の民家前に石柱が立つ。

Img_4372 膳所五社まつり(5月3日)

若宮→篠津→膳所→和田→石坐神社の順で、祭りの前に今日全部に寄ることになる。

Img_4347 若宮八幡神社

表門は膳所城の犬走り門を移築。

Img_4345 説明板

Img_4353 旧家

Img_4356篠津神社

ここの表門も膳所城の城門を移築。

Img_4358 奥村歯科 《地図

ここを左に曲がって行く。

Img_4363 大養寺

武家屋敷の長屋門で、膳所の六門の一つ。

Img_4367膳所神社

表門は膳所城の城門を移築。

Img_4366 由緒

Img_4368 説明板

Img_4371 旧家

Img_4376縁心寺

膳所城主の菩提寺

Img_4377 旧家

Img_4379和田神社

表門は膳所藩校遵義堂(じゅんきどう)の門を移築。境内(右)の神木のいちょうは、関が原合戦に敗れた石田三成が京へ護送される途中、ここで休止の際につながれたという。

Img_4385 旧家

Img_4386_2 響忍寺(こうにんじ) 

膳所の六門の一つ。ここは元は家老屋敷だった。あとの4門は残らず。

Img_4391石坐(いわい)神社 《地図

Img_4389 由緒

Img_4390 説明板

Img_4395 膳所城北総門跡

正面の民家前に石柱

Img_4402 義仲寺(ぎちゅうじ) 《地図

Img_4401 説明板

Img_4403 巴地蔵尊

Img_4409 木曽義仲の墓

Img_4410 芭蕉の墓

Img_4415 「木曽殿と背中合わせの寒さかな」

弟子の又玄が義仲寺に滞在中の芭蕉を訪ねた時に詠んだ句。芭蕉の死後に詠まれた句と思っていた。

境内には、「古池や・・・」を初め多くの句碑がある。

Img_4418 芭蕉真蹟の「行く春をあふミの人とおしみける」

Img_4412 翁堂

Img_4420 大津(石場)の一里塚跡(122)あたり 《地図

京阪電鉄の石場駅を渡ったあたり。

Img_4423 膳所の家並み

Img_4426平野神社

毎年8月9日に蹴鞠が奉納され「けまり神社」とも呼ぶ。鞠(まり)の形の石灯籠があるようだ。

Img_4438 「うな忠」?

国の登録有形文化財

Img_4440 露国皇太子遭難之地(左に石柱) 《地図

巡査が訪日中のロシア皇太子に斬りかかった大津事件の発生地点。大審院長児島惟謙が司法権の独立を守ったともてはやされた事件。

Img_4443 札の辻 《地図

ここを左に曲がる。大津宿には宿場の面影は残っていない。
直進すれば小関越え、西近江路へとつながる。

Img_4446_2 道路の中央を堂々と走る3両の京阪電車だが、むろん赤信号では停車しなければならない。

もう逢坂の上りが始まっている。

Img_4451_2 大津宿大塚本陣跡 【ルート地図】の②

Img_4453_2 説明板

Img_4456_2 逢坂

「武内宿禰、精兵を出して追ふ。たまたま逢坂に遭ひて破りつ。故、其の処を号けて逢坂といふ」『日本書紀』

神功皇后の将軍・武内宿禰がこの地で忍熊王とばったりと出会ったことに由来するという伝承の坂名。

Img_4467_2 坂標

Img_4459_2 関蝉丸神社

歌舞音曲、諸芸事の神、逢坂の関の守り神の蝉丸を祀る。東京北区の王子神社の境内に蝉丸を祀る関神社がある。

Img_4461_2 謡曲「蝉丸」

Img_4463_2 時雨燈篭(蝉丸神社境内)

鎌倉時代の特色をもつ石灯籠で、国の重文だ。

Img_4462_2 説明板

Img_4473_2 逢坂の関は近い

Img_4474_2 逢坂の関跡 【ルート地図】の③

「逢坂山関址」碑、百人一首の「これやこの  行くも帰るも  別れては  知るも知らぬも  逢坂の関」(蝉丸)
「夜をこめて  鳥のそらねは  はかるとも  よに逢坂の  関はゆるさじ(清少納言)
「名にしおはば 逢坂山の さねかずら 人にしられで くるよしもがな」(三条右大臣)の歌碑が立つ。 

Img_4477_2 説明板

Img_4502_2 逢坂の関からの道筋

Img_4493_2 月心寺(左)・大谷(走井)の一里塚跡(123)あたり 《地図

「走井」があり東海道の旅人は、ここで渇きをいやし、茶屋で「走井餅」を味わった。庭の一角に小野小町百歳像を収める小町堂がある。『広重 大津(走井茶店)』
大正・昭和期は画家橋本関雪の別荘地だった。今でも「走井」からは水が湧いている。
落語『走り井餅』もある。
このあたりに大津算盤の始祖、片岡庄兵衛の店があった。

Img_9097 髭茶屋の追分 《地図

直進が東海道、左折が奈良街道(京街道)。
このあたりに「ひげ茶屋九左衛門」の茶屋(料亭)があったのか? 

Img_9099 道標

左の「蓮如上人」石柱は、京街道沿い枚方の出口御坊光善寺の蓮如上人廟への道標。

Img_4506_2小関越道標(三井寺観音道)

逢坂の「大関」に対する小関。さっきの大津宿の札の辻に通じている。

Img_4509_2 昔ながらの商店

Img_4510 山科地蔵堂(徳林庵) 《地図

Img_4511 縁起

Img_4515山科地蔵尊

京の六地蔵」の一つ。小野篁の作だとか。

着飾り化粧して吉祥天のような地蔵らしかなぬ姿でなじめない。化粧直しは100年に一度らしい。始終、所かまわず化粧している女人よりましか。

Img_4513 今でも「六地蔵めぐり」は盛んなようだ。

Img_4526 五条別れ道標(宝永4年(1707)建立・直進が東海道

奴茶屋」のあったのはこのあたりか? 『拾遺都名所図会

Img_4531 旧家

Img_4533 御陵(日ノ岡)の一里塚跡あたり(124) 《地図

東海道最後の一里塚がこのあたりにあったようだが。右へ行けば天智天皇山科陵。

Img_4536 亀の水、日ノ岡峠への上りが始まる。

Img_4541 亀の水不動尊 【ルート地図】の④

日ノ岡峠へ上る旅人の喉を潤した湧き水。

水を受ける石水鉢の本物は東京都内に現存するそうだ。

Img_4540 由来

Img_4547 この先で三条通りの車道に出てまだ上る。

Img_4550 車石広場 《地図

車石の使い方はこうではない。

Img_4551 説明板

Img_4481 車石の溝を牛車の車輪が通ったのだ。(逢坂の関にあるもの)

Img_4480 説明板

Img_4555 日ノ岡峠の九条山交差点

粟田口刑場があったのはこのあたりか。

Img_4552 崖上に「南無阿弥陀仏」碑と「万霊供養塔」が立っている。処刑者の供養のためのものだろうか?

Img_4562 日ノ岡から蹴上浄水場の脇を下る。

Img_4565 琵琶湖疎水とインクライン(傾斜鉄道)

Img_4567 インクライン線路跡

Img_4566 説明板

Img_4570 運輸船

Img_4568 説明板

Img_4575_2 合槌稲荷神社

社は民家の敷地内のようで、ここで遠慮する。

Img_4576 由来

謡曲「小鍛冶」の影響から、鍛冶屋が稲荷を信仰するようになったともいわれるそうだ。

Img_4588粟田神社

古来、東山道、東海道の旅人の旅立ち、道中安全の守り神。

Img_4584 粟田口碑(白川小学校前) 《地図

京都七口の一つ。合槌神社の由来話に登場する刀鍛冶の宗近もこのあたりに住んでいたようだ。

Img_4582 説明板

Img_4598 坂本龍馬結婚式場跡(左) 【ルート地図】の⑤

白川橋の手前、ここは青蓮院の旧境内でその塔頭の金蔵寺跡。

Img_4595 お龍さんの写真を見るのは初めてだ。清楚な日本的な美人か?

Img_4596 説明碑

Img_4600 白川橋から

Img_4605 高山彦九郎像(三条大橋脇)

お龍さんの写真の見たばかりで、この無骨な像に出会うとは。東海道のラストシーンとしては興ざめの一幕だ。

Img_4606 説明板

Img_4608 三条大橋

広重 三条大橋

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2010年5月11日 (火)

東海道(石部宿→草津宿)

2010年4月27日

石部駅(JR草津線)・・・西縄手跡・・・宮川橋(村井川)・・・(名神高速道路)・・・栗太八景漢詩碑(伊勢落晴嵐)・・・長徳寺・膳所領界石・・・地蔵堂(法界寺)・・・浄教寺・・・福正寺・・・和中散本舗大角家・・・梅木立場跡・六地蔵の一里塚跡(117)・・・高念寺・・・光円寺・・・稲荷神社・明治天皇小休所跡・・・すずめの茶屋跡・・・鈎の陣所跡・上鈎池・・・善性寺・・・やせうま坂・(金勝川・目川池)・・・目川地蔵院・・・目川の一里塚跡(118)・・・目川立場・田楽茶屋元伊勢屋跡・膳所領界石・・・田楽茶屋古じま屋跡・・・乗円寺・・・京伊勢屋跡・・・(東海道新幹線)・・・(国道1号)・・・草津川橋・・・高野地蔵堂・・・神宮寺・・・追分道標(中山道)・草津宿高札場跡・本陣跡・脇本陣跡・立木神社・矢倉橋・・・光伝寺・・・瓢泉堂・・・(国道1号)・野路の一里塚跡(119)・・・教善寺・・・願林寺・・・野路の玉川・野路駅跡・・・弁天池・・・狼川・・・月輪寺・・・立場跡・下月輪池・・・一里山橋(長沢川)・月輪池の一里塚跡(120)・・・(西行屋敷跡)・・・近江国庁跡・・・高橋(高橋川)・・・檜山神社・・・健部大社・・・橋守地蔵・秀郷社(勢多橋龍宮社)・雲住寺・瀬田の唐橋・・・唐橋前駅(京阪電鉄)

 石部宿を抜けて1時間も経たないうちに、突風にあおられ折りたたみ傘が、折れた傘に変わってしまった。こうなると歩きも雑になる。目川の町並みを抜けたあたりからどこを歩いているのか分からなくなり、地図を見ても理解不能の状態だ。石部宿の「石部金吉」さんも真っ青の頭の硬さに呆れる。それでも何とか国道1号に出て、上を流れる草津川の土手を見つけてやれやれだ。歩道橋、草津川橋を渡って下り、中山道との合流点から草津宿に入った。

 野路の玉川、月輪池あたりを過ぎる頃には風は少しは弱くなったが雨は降り続け、かなり疲れてきた。それでも琵琶湖も近くなり、近江国庁あたりからは以前に歩いたこともあり気分も楽になる。瀬田の唐橋を渡り、唐橋前駅で今日の終点とした。明日は大津宿から三条大橋まで、東海道歩きのフィナーレだ。天気になればいいのだが。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_4076 西縄手跡 《地図

松並木が続いた所で、ここで西から石部宿内に入る大名行列などが整列したという。街道の南側は石灰岩を産し、灰山と呼ばれていた。石部は古代から銅などの鉱物も産出していて「石部金山」と呼ばれ、頭の堅い融通のきかない人を指す、「石部金吉」の由来ともなった。

ここの東海道(下道・近道・脇道)は野洲川の洪水で通行不能となり、膳所藩主本多康慶はこの先の五軒茶屋橋から左に曲がり、南方を迂回する約1.9kmの上道(本街道)を造って石部宿から5軒の茶屋を移した。しかし遠回りのため利用が少なく、天和2年(1682)には「近道禁止令」が出されたという。庶民のことを考えていないのはいつの世も同じ。

Img_4082 三上山(近江富士・432m)

俵藤太が瀬田の唐橋の上で蛇に化身した龍神から頼まれ、この山に棲む大百足(ムカデ)を弓で退治したという伝説の山。龍神(豊玉姫)と俵藤太のやりとりの艶笑小咄もある。

草津線と国道1号の間には、伊勢落の千本松跡(伊勢斎宮禊所跡)があるのだが、この風雨では行く気なし。

Img_4084 伊勢落(地名)から六地蔵(地名)への家並み

Img_4089 長徳寺薬師如来堂 《地図

左に「従是東膳所領」の石柱

Img_4093 鍵型に左に曲がって行く。

Img_4096 地蔵堂(法界寺) 《地図

「国寶 地蔵尊」の石碑が立つが、地蔵(ここ「六地蔵」の地名の由来ともなった六地蔵のうちの1体)は福正寺に安置されている。あとの5体はどうなったのか?

Img_4095 説明板

Img_4098 六地蔵の家並み

このあたりは石部宿と草津宿の間(あい)の宿として栄えた。

Img_4103和中散本舗大角家(小休本陣・店舗)

野洲郡永原に滞在中の家康が腹痛を起こし、ここの薬を飲んで治り、「和中散」と名づけたという。生薬を粉にしたもので、主に胃腸薬として重宝され旅の必需品だったそうだ。

向い側には大角家隠居所がある。

Img_4112 六地蔵の一里塚跡(117) 【ルート地図】の①

Img_4116 高念寺

変わった造りの山門だ。

Img_4126 里内呉服店(国登録文化財)

Img_4131 手原醤油店「塩屋藤五郎」

Img_4140 猪飼時計店

右に店舗が続き今でも営業中。強風で斜め横に流れる雨筋が写っている。

Img_4141 手原の家並み

左右とも川崎家住宅のようだ。

Img_4144 すずめの茶屋跡

手原の田楽茶屋跡

Img_4147 鈎(まがり)の陣所跡から上鈎池 【ルート地図】の②

長享元年(1487)、室町幕府9代将軍足利義尚が近江守護六角高頼の討伐のために置いた本陣跡。義尚(改名して義煕)はここに長期滞在し、将軍御所として機能していた。そして長享3年に25才の若さで病死した。酒色に溺れての脳溢血だったとも。

Img_4145 歌碑

人の心の鈎(まがり)を治すどころか、自分の心体さえ守れず治せずに若死してしまった哀れな将軍さんだ。

Img_4152 善性寺

Img_4151 説明板

Img_4156 やせうま坂?(金勝川(こんぜがわ)の土手上から) 《地図

道標だと正面の東海道(舗装道路)だが、傾斜はほとんどない。

Img_4155 道標

「東海道 やせうま坂」とある。昔は馬も痩せるほどの急坂だったのだろうか。

Img_4157 やせうま坂?

土手沿いに左(金勝寺方向)に上る緩やかな坂だが、この道は東海道ではない。

Img_4158 目川地蔵院

神仏混交時代の名残の「皇太神宮の碑」がある。

Img_4161 元伊勢屋跡(目川立場)

田楽発祥の地碑・膳所領界石が立つ。

Img_4162 説明板

Img_4164 田楽茶屋「古じま屋」跡

広重 目川ノ里

Img_4165 説明板

Img_4167 田楽茶屋の京伊勢屋跡

Img_4168 説明板

Img_4169 国道1号の歩道橋上から。《地図

左は天井川の草津川。この先で草津川橋を渡って、中山道との合流点から草津宿に入る。

Img_4175 高野地蔵尊(右)・道標、常夜灯の間を下って草津宿へ。《地図

Img_4180 追分(東海道と中山道の合流点) 【ルート地図】の③

右に草津川の下をくぐる草津川トンネルが中山道。かつては川を越える道があった。手前右に道標、向こう側が高札場跡。左に曲がって草津宿の中心部に入る。

Img_4186 道標

Img_4185_2 説明板

Img_4212 説明文中の「草津追分に建てられた県内最古の道標」(立木神社境内に移設)

Img_4211 説明板

Img_4187 草津宿の町並み

Img_4199 案内図(東西が逆になっている)

Img_4190草津宿本陣田中七左衛門家(国指定史跡) 《地図

敷地は4726㎡もの広さ。元禄12年7月4日に浅野内匠頭長矩、同月13日には吉良上野介が泊まっているそうだ。

Img_4193 説明板

Img_4194 脇本陣藤屋与左衛門家(吉川芳樹園店舗)

Img_4195 説明板

Img_4198 脇本陣仙台屋茂八家跡

Img_4202 太田酒造

太田道灌の末裔が起こした酒造。清酒「道灌」

Img_4216立木神社拝殿

獅子、犬、鹿が並びにぎやかだ。神社の西側に草津宿の入口の黒門があった。

Img_4210 神木のウラジロガシ(滋賀県指定自然記念物)だが、枯れてきているようだ。「枯木神社」にならねばよいが。

Img_4224 光伝寺

承平年間(931~37)の創建という。もとは釈迦堂と呼ばれていたが、金勝山狛坂寺の観音像が盗まれ立木神社に捨てられた時、そこから夜毎に釈迦堂に光が射したことから光伝寺と呼ばれるようになった。本尊の阿弥陀如来像は鎌倉時代の作で国指定の重文。

Img_4233 瓢泉堂(ひょうたん細工屋)

ここは街道名物の「うばがもちや」跡。右前に矢橋道標(寛政10年(1798)建立)。ここを右に曲がれば3kmほどで『近江八景-矢橋の帰帆』の琵琶湖に出る。

Kusatujyuku『広重 草津』

「うばがもちや」前

Img_4242 野路の一里塚跡(119) 《地図

Img_4257 願林寺

永正9年(1512)に「西の念仏道場」として開かれた寺。長屋門風の山門

Img_4259野路の玉川

清い泉と一面の萩で歌枕としても有名だった日本六玉川の一つ。小公園になっているがあまり風情はない。

Img_4263 説明板

Img_4250 日本六玉川

井出の玉川は「山背古道-1」で歩いている。調布の玉川は子どもの頃の遊び場の一つだった。

 

Img_4260 説明板

Img_4265 弁天池・弁天島 《地図

琵琶湖の竹生島から勧請した弁財天社を祀る。

Img_4277 月輪寺

近くの溜め池の月輪大池、下月輪池、山ノ神池が月輪池と総称されている。『東海道名所記』に「この池に月落ちたりと申伝ふ。(中略) 池水澄みぬれば、(中略) この池も月の水底にうつり給ふを、落ちたりといひ伝へしや」

Img_4279 立場跡 《地図

下月輪池の所

Img_4286 月輪池の一里塚跡(120) 【ルート地図】の④

Img_4288 西行屋敷跡あたり 《地図

小石仏の上の金網の中(瀬田小学校の敷地内)に「伝西行屋敷跡」の石柱が立っているようだ。

Img_4289 説明板

Img_4293 近江国庁跡 《地図

Img_4294 説明板

Img_4307 建部大社

Img_4311

たにし飴」の辻末製菓

Img_4322 川守地蔵(秀郷社の手前)

Img_4321 説明板

Img_4318 秀郷社(勢多橋龍宮社) 【ルート地図】の⑤

俵藤太(藤原秀郷)を祀る。

Img_4316 瀬田の唐橋

「唐橋を制する者は、天下を制す」といわれた古代からの交通の要衝で、壬申の乱、承久の乱、建武の戦、源平の合戦、応仁の乱などで何度も焼失している。

俵藤太がこの橋を渡る時に、蛇に化けていた瀬田の龍神から仇敵の三上山の百足退治の依頼を受けたという伝説の橋でもある。

Img_4325 唐橋前駅

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