東海道(石部宿→草津宿)
2010年4月27日
石部駅(JR草津線)・・・西縄手跡・・・宮川橋(村井川)・・・(名神高速道路)・・・栗太八景漢詩碑(伊勢落晴嵐)・・・長徳寺・膳所領界石・・・地蔵堂(法界寺)・・・浄教寺・・・福正寺・・・和中散本舗大角家・・・梅木立場跡・六地蔵の一里塚跡(117)・・・高念寺・・・光円寺・・・稲荷神社・明治天皇小休所跡・・・すずめの茶屋跡・・・鈎の陣所跡・上鈎池・・・善性寺・・・やせうま坂・(金勝川・目川池)・・・目川地蔵院・・・目川の一里塚跡(118)・・・目川立場・田楽茶屋元伊勢屋跡・膳所領界石・・・田楽茶屋古じま屋跡・・・乗円寺・・・京伊勢屋跡・・・(東海道新幹線)・・・(国道1号)・・・草津川橋・・・高野地蔵堂・・・神宮寺・・・追分道標(中山道)・草津宿高札場跡・本陣跡・脇本陣跡・立木神社・矢倉橋・・・光伝寺・・・瓢泉堂・・・(国道1号)・野路の一里塚跡(119)・・・教善寺・・・願林寺・・・野路の玉川・野路駅跡・・・弁天池・・・狼川・・・月輪寺・・・立場跡・下月輪池・・・一里山橋(長沢川)・月輪の一里塚跡(120)・・・(西行屋敷跡)・・・近江国庁跡・・・高橋(高橋川)・・・檜山神社・・・健部大社・・・橋守地蔵・秀郷社(勢多橋龍宮社)・雲住寺・瀬田の唐橋・・・唐橋前駅(京阪電鉄)
石部宿を抜けて1時間も経たないうちに、突風にあおられ折りたたみ傘が、折れた傘に変わってしまった。こうなると歩きも雑になる。目川の町並みを抜けたあたりからどこを歩いているのか分からなくなり、地図を見ても理解不能の状態だ。石部宿の「石部金吉」さんも真っ青の頭の硬さに呆れる。それでも何とか国道1号に出て、上を流れる草津川の土手を見つけてやれやれだ。歩道橋、草津川橋を渡って下り、中山道との合流点から草津宿に入った。
野路の玉川、月輪池あたりを過ぎる頃には風は少しは弱くなったが雨は降り続け、かなり疲れてきた。それでも琵琶湖も近くなり、近江国庁あたりからは以前に歩いたこともあり気分も楽になる。瀬田の唐橋を渡り、唐橋前駅で今日の終点とした。明日は大津宿から三条大橋まで、東海道歩きのフィナーレだ。天気になればいいのだが。
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
西縄手跡 《地図》
松並木が続いた所で、ここで西から石部宿内に入る大名行列などが整列したという。街道の南側は石灰岩を産し、灰山と呼ばれていた。石部は古代から銅などの鉱物も産出していて「石部金山」と呼ばれ、頭の堅い融通のきかない人を指す、「石部金吉」の由来ともなった。
ここの東海道(下道・近道・脇道)は野洲川の洪水で通行不能となり、膳所藩主本多康慶はこの先の五軒茶屋橋から左に曲がり、南方を迂回する約1.9kmの上道(本街道)を造って石部宿から5軒の茶屋を移した。しかし遠回りのため利用が少なく、天和2年(1682)には「近道禁止令」が出されたという。庶民のことを考えていないのはいつの世も同じ。
俵藤太が瀬田の唐橋の上で蛇に化身した龍神から頼まれ、この山に棲む大百足(ムカデ)を弓で退治したという伝説の山。龍神(豊玉姫)と俵藤太のやりとりの艶笑小咄もある。
草津線と国道1号の間には、伊勢落の千本松跡(伊勢斎宮禊所跡)があるのだが、この風雨では行く気なし。
長徳寺薬師如来堂 《地図》
左に「従是東膳所領」の石柱
地蔵堂(法界寺) 《地図》
「国寶 地蔵尊」の石碑が立つが、地蔵(ここ「六地蔵」の地名の由来ともなった六地蔵のうちの1体)は福正寺に安置されている。あとの5体はどうなったのか?
このあたりは石部宿と草津宿の間(あい)の宿として栄えた。
野洲郡永原に滞在中の家康が腹痛を起こし、ここの薬を飲んで治り、「和中散」と名づけたという。生薬を粉にしたもので、主に胃腸薬として重宝され旅の必需品だったそうだ。
向い側には大角家隠居所がある。
変わった造りの山門だ。
右に店舗が続き今でも営業中。強風で斜め横に流れる雨筋が写っている。
左右とも川崎家住宅のようだ。
手原の田楽茶屋跡
長享元年(1487)、室町幕府9代将軍足利義尚が近江守護六角高頼の討伐のために置いた本陣跡。義尚(改名して義煕)はここに長期滞在し、将軍御所として機能していた。そして長享3年に25才の若さで病死した。酒色に溺れての脳溢血だったとも。
人の心の鈎(まがり)を治すどころか、自分の心体さえ守れず治せずに若死してしまった哀れな将軍さんだ。
やせうま坂?(金勝川(こんぜがわ)の土手上から) 《地図》
道標だと正面の東海道(舗装道路)だが、傾斜はほとんどない。
「東海道 やせうま坂」とある。昔は馬も痩せるほどの急坂だったのだろうか。
土手沿いに左(金勝寺方向)に上る緩やかな坂だが、この道は東海道ではない。
神仏混交時代の名残の「皇太神宮の碑」がある。
田楽発祥の地碑・膳所領界石が立つ。
『広重 目川ノ里』
国道1号の歩道橋上から。《地図》
左は天井川の草津川。この先で草津川橋を渡って、中山道との合流点から草津宿に入る。
高野地蔵尊(右)・道標、常夜灯の間を下って草津宿へ。《地図》
右に草津川の下をくぐる草津川トンネルが中山道。かつては川を越える道があった。手前右に道標、向こう側が高札場跡。左に曲がって草津宿の中心部に入る。
説明文中の「草津追分に建てられた県内最古の道標」(立木神社境内に移設)
敷地は4726㎡もの広さ。元禄12年7月4日に浅野内匠頭長矩、同月13日には吉良上野介が泊まっているそうだ。
太田道灌の末裔が起こした酒造。清酒「道灌」
立木神社拝殿
獅子、犬、鹿が並びにぎやかだ。神社の西側に草津宿の入口の黒門があった。
神木のウラジロガシ(滋賀県指定自然記念物)だが、枯れてきているようだ。「枯木神社」にならねばよいが。
承平年間(931~37)の創建という。もとは釈迦堂と呼ばれていたが、金勝山狛坂寺の観音像が盗まれ立木神社に捨てられた時、そこから夜毎に釈迦堂に光が射したことから光伝寺と呼ばれるようになった。本尊の阿弥陀如来像は鎌倉時代の作で国指定の重文。
瓢泉堂(ひょうたん細工屋)
ここは街道名物の「うばがもちや」跡。右前に矢橋道標(寛政10年(1798)建立)。ここを右に曲がれば3kmほどで『近江八景-矢橋の帰帆』の琵琶湖に出る。落語『近江八景』
「うばがもちや」前
野路の一里塚跡(119) 《地図》
永正9年(1512)に「西の念仏道場」として開かれた寺。長屋門風の山門
清い泉と一面の萩で歌枕としても有名だった日本六玉川の一つ。小公園になっているがあまり風情はない。
井出の玉川は「山背古道-1」で歩いている。調布の玉川は子どもの頃の遊び場の一つだった。
弁天池・弁天島 《地図》
琵琶湖の竹生島から勧請した弁財天社を祀る。
近くの溜め池の月輪大池、下月輪池、山ノ神池が月輪池と総称されている。『東海道名所記』に「この池に月落ちたりと申伝ふ。(中略) 池水澄みぬれば、(中略) この池も月の水底にうつり給ふを、落ちたりといひ伝へしや」
立場跡 《地図》
下月輪池の所
西行屋敷跡あたり 《地図》
小石仏の上の金網の中(瀬田小学校の敷地内)に「伝西行屋敷跡」の石柱が立っているようだ。
近江国庁跡 《地図》
「たにし飴」の辻末製菓
俵藤太(藤原秀郷)を祀る。
「唐橋を制する者は、天下を制す」といわれた古代からの交通の要衝で、壬申の乱、承久の乱、建武の戦、源平の合戦、応仁の乱などで何度も焼失している。
俵藤太がこの橋を渡る時に、蛇に化けていた瀬田の龍神から仇敵の三上山の百足退治の依頼を受けたという伝説の橋でもある。
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