出雲街道⑦(勝間田宿→津山宿)
2010年5月1日
勝間田駅(JR姫新線)・・・勝間田宿脇本陣跡(郷土美術館)・本陣跡・・・勝間田大橋(滝川)・勝間田神社・・・国道179号・・・(泣き清水跡)・・・旧道・かしこ坂・・・黒坂五厘田の一里塚跡あたり・(姫新線)・・・八坂神社・・・八幡神社・・・光伯地蔵堂・・・夜鳴地蔵・・・大渡橋(広戸川)・・・芭蕉句碑・・・国道179号・・・旧道・河辺上之町枡形・・・御旅所・・・枡形・・・松風庵・・・(姫新線)・・・(国道53号)・・・兼田橋(加茂川)・・・JR因美線・・・八幡神社鳥居・・・玉淋三叉路(因幡道分岐)・・・高砂橋・・・津山宿・旧洋学資料館・荒神曲り・城東むかし町家・洋学資料館・箕作阮甫旧宅・作州城東屋敷・小入道坂・津田真道生誕地・大橋(宮川)・東大番所跡・京橋御門跡・金刀比羅宮・田町武家屋敷跡・徳守神社・西大番所跡・翁橋・作州民芸館・西寺町・筋違橋(紫竹川)・・・御茶屋跡・・・芭蕉句碑・・・(姫新線)・・・(国道53号)・・・御茶屋跡・・・宇那堤の森・庄屋家・高野神社・・・伯耆街道分岐・・・首なし地蔵・・・滑川橋・・・院庄駅
去年の6月以来の出雲街道だ。勝間田宿から鳥取県境の新庄宿まで3日間で歩く予定。幸い天気も良さそうで絶好の街道歩き、坂道散歩日和となるだろう。ちょっと暑いのと紫外線が気になるが。
*『出雲街道⑤』からの続き。津山宿は『出雲街道⑥』にも記載。
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
勝央町は坂田金時の終焉の地とされ、中国自動車道の北側にある栗柄神社は金時を祀り、勝央町では毎月8月には金時祭がある。生誕地とされる静岡県小山町とは姉妹都市。
明治45年に勝田郡役所として建築した擬洋風建物、元勝央町役場庁舎。
この前の木村裁縫所跡が、雲州(松江)侯、勝山侯の木村本陣跡。津山藩主の宿だった下山本陣はどこにあったのか?
昔、冬は土橋で、夏は歩いて渡ったという。ホタルは今でも生息しているのだろうか?
勝間田神社 《地図》
天満宮、稲荷社、荒神社、恵比寿神社などが同居している。
国道から分かれ右へ下る坂。坂の右は「SGモータース㈱」の敷地。
この手前に「泣き清水」碑、六地蔵の小公園があるのだが見逃した。
右に「大峯役行者大菩薩供養塔」の小祠がある。
姫新線を越える。《地図》
このあたりが黒坂五厘田の一里塚跡か。『出雲往来(岡山県歴史の道調査報告書)』ではもっと手前としている。
貞観2年(860)に宇佐八幡神社を勧請。旧名は弓矢八幡宮、遊屋八幡宮ともいった。
両方ともよく分からず。
足腰に霊験あらたかという。しっかりお参りしたかなあ?
『作陽誌』に、「夜啼松として二股の大松有り、子供の夜啼きに立願してしるしあり」とあるそうだ。二股の大松は今はない。
左に国道へと迂回するしかない。
芭蕉句碑 《地図》
国道179号との合流点
この句が「座右之銘」とは・・・・。「ものいえば・・・・」で止めとく。
「南無妙法蓮華経」?の石柱、その先の「ホテルインココ」(左)の先で左に曲がって西に上る。
ここは津山藩主森家の命で、農地拡張のため平地の農民を強制的に移住(山あがり)させて作った集落で、中央に幅広い道路を通し、街道の両端に枡形を設置した。
長尾山道二里、左八幡道
美作国分寺跡への道標(安永4年(1775)建立)
「国分寺道(五丁余)」
ここから姫新線の方へ下って行く。
火伏十一面観音像は33年に一度の開帳。次は2021年らしい。
姫新線の線路を渡る。《地図》
踏切はない。この先で国道53号を横切り加茂川に出る。
兼田橋(加茂川) 《地図》
橋の手前の道標「右国分寺道」(安永10年(1781)建立)と地蔵塔(文政10年(1827)建立)
道路改修などでここへ移されたものらしい。
「信州善光寺百五十五里」には恐れ入る。
さらに、「もろ人に此よの道ハをしふれど さきの世まではわからざりけり」と洒落た、お節介な歌まで彫られている。
もとは大正9年に建築の妹尾銀行。
津山宿「荒神曲り」 《地図》
ここに門と木戸があり夜は閉められた。荒神社があり、こう呼ばれるようになった。
強さで知られた作州鎌の製造所。今は2軒だが、昔は20数軒が軒を連ねて技を競っていたそうだ。
ただしこの区間だけ。
城東むかし町家(梶村家) 【ル-ト地図】の42
今年の3月にオープンしたばかりだが、洋学なんて、柄でもない遠慮する。そんなに卑屈になることもないだろうが。
箕作阮甫旧宅
幕末の洋学者が少年時代を過ごした家。
藺田小路の前で道が大きく鈎型に曲がっている。
津山城の防衛のためで、東の「荒神曲がり」までの直線の道は、大名行列がちょうどおさまる長さだと伝えられている。
作州城東屋敷 【ル-ト地図】の43
「男はつらいよ」48作「紅の花」で、寅さんが「津山まつり」で露天を出した所。
10月の津山まつりで市街を練り歩く。20台の内の4台を展示。
苅田酒造脇の小路を見逃した。
京御門(菓子店)
街道から離れ、前回見逃したこの坂を上る。
宮川沿いの道から右に入り直角に右に折れて上って行く坂。この坂の北側に大入道坂がある。大入道坂には坂名の由来があるが、この坂は対の坂の意で「小」入道坂としたのだろう。
坂上の左側に幕末の洋学者の津田真道の生誕地がある。
大橋(宮川)を渡る。《地図》
渡った所が東大番所跡。【ル-ト地図】の44、西大番所は翁橋の所にあった。
津山城築城の際の用材置場があった所で、材木商などが並んでいたという。
京橋御門跡 《地図》
津山城の外堀の一郭で、岡山県立津山高等女学校跡でもある。
津山城内から移したもので、瓦に葵の紋章が入っている。
京町から鶴山通りを渡り、ソシオ商店街を抜けて、元魚町へと進む。あまり繁盛しているようには見えない。
津山藩家老大熊家屋敷跡 《地図》
このあたりは田町武家屋敷跡だが、この一軒しか残らずか。
このあたり(坪井町)が本陣跡か?《地図》
日本三大神輿の300貫目の大神輿がある。土・日・祝日は公開しているのだが見損なった。あとの2つの神輿はどこの神社のものなのか?
大橋の大番所からここまでが、城下の内町だった。
もとは大正9年に建築の土居銀行。
「津山三大寺」の一つで、津山藩主森家の菩提寺
右に愛染寺、大円寺と並ぶ。
隣の大円寺には婦人病によく効く、「うらみ石」なる物があるそうで、山門をくぐってちょっと探したが見当たらず。まあ関係ないし、聞くのも変なのですぐ引き返す。
筋違橋を渡ると真っ直ぐな縄手道となる。二宮松原街道と呼ばれた松並木は昭和20年頃までは残っていたそうだ。《地図》
この先の津山信用金庫あたりにも茶屋があった。
「雪折折ひとを休める 月みかな」(文化12年(1815))に津山の俳人4人が建立。
昔はうっそうとした水辺の森林で、万葉集や多くの歌集に詠まれ、歌枕でも知られたが戦国時代に伐採され、今はこの一本の椋(むく)の木とは情けない。北側を姫新線が走り、周囲も明るく開けて、ここが森だったとは全く想像できない。
立石家の長屋門
門前を姫新線が通る。線路を渡って門をくぐることになる。まあ、他にも入口はあるのだろう。
「ひとりのみ 見ればさぶしも 美作や うなでのもりの 山ざくら花」
享保11年(1726)山中(さんちゅう)一揆で処刑された6名の供養のために村人が建てたもの。1体は遺族が持ち帰ったという。左端は地蔵回国供養塔。右端は力士の墓。
『山中一揆』では、6名が処刑されたのは享保12年3月としている。
この先、美甘宿へ向かう途中の首切峠にも一揆で処刑された者の首がさらされたという。
無人駅
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投稿: あなたの夢は何ですか? | 2022年10月 5日 (水) 09:13