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2010年5月30日 (日)

姫街道③(三方原追分→気賀宿→三ケ日宿)

2010年5月6日

浜松駅バス→追分・県道261号・姫街道橋(東名高速)・・・松並木(跡)・・・三方原神社・・・士族屋敷跡・・・三方原救貧院跡・・・権七店・・・東大山の一里塚跡(67)・・・大谷坂・・・大谷橋(大谷川)・・・曲り松・・・(県道305号)・・・旧道・・・六地蔵・・・山神社・・・秋葉常夜灯・・・千日堂・・・老ケ谷の一里塚跡(68)・中央配水池・長坂・服部小平太最期の地・・・刑部城址・金襴の池伝承地・城下橋(刑部川)・・・落合橋(都田川)・・・気賀宿・宝生地蔵・旧落合橋・(天竜浜名湖鉄道)・気賀四つ角・気賀関所東門跡・本番所跡・要害堀・赤池様公園・近藤陣屋跡・細江神社・練武館跡・犬くぐり道・(歴史民俗資料館)・東林寺・本陣中村家跡・本陣前公園・正明寺・西枡形・獄門畷・姫地蔵・六地蔵・新田喜斉公碑・諏訪神社・呉石学校跡・・・小深田橋・・・二宮神社・・・修理殿松跡・・・山田の一里塚跡(69)・・・ダイダラボッチの足跡(池)・・・山田道祖神・・・清水みのる詩碑・・・小引佐・・・(下村地蔵)・・・薬師堂・・・平石休憩所(姫岩)・・・引佐峠・・・象鳴き坂・・・石投げ岩・・・大谷の一里塚跡(70)・・・和田牧場・・・六部様・・・大谷橋・・・大谷代官屋敷跡・・・慈眼寺・・・(東名高速)・・・(東名高速)・・・わる坂・大里峠・大里橋(東名高速)・・・宇志の茶屋跡・高札場跡・・・三ケ日の一里塚跡(71)・・・三ケ日宿・伝馬問屋跡・・・猪鼻湖・・・三ケ日駅(天竜浜名湖鉄道)

 今日は姫街道のハイライト、追分から三方原台地を抜けて気賀宿へ入り、引佐峠へ上り象鳴き坂を下り、再び大里峠へひと上りして三ケ日宿へと下って行く。天気もよく歩きがい、見ごたえのある街道歩きとなるだろう。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Photo_2 姫街道概略図(細江町・三ケ日町パンフ)

今日は追分から三ケ日宿までの行程。

(地図の右下の「安岡」は「安間」の誤りで、江戸からの里程が64。小池が65)

 

Img_6146 松並木

姫街道の南側に所々残っている。北側の松は昭和27年の火災で焼失した三方原小学校の校舎再建費用捻出のために伐採されたそうだ。せこいことするよ。

 

Img_6147 説明板

 

Img_6150 三方原神社

 

Img_6155 由緒

 

Img_6158 扶持米倉庫跡(三方原神社境内)

 

Img_6159 説明板

 

Img_6161 士族屋敷跡 《地図

土塁の一部が残っている。

 

Img_6160 説明板

 

Img_6165 三方原救貧院跡(葵町交差点北西角)

 

Img_6167 説明板

 

Img_6169 権七店

「ごんしち」ではない。今も営業中で、バス停も交差点も「権七」なのだ。 

 

Img_6170 説明板

 

Img_6173 東大山の一里塚跡(67)

隣に馬頭観音の祠

 

Img_6175 説明板

 

Img_6176 これが馬頭観音?

 

Img_6184 大谷坂を下って大谷川を渡る。《地図

 

Img_6189 曲り松(二代目)

わざと曲げられたのか?

 

Img_6191 説明板

 

Img_6196 六地蔵

西側の竹薮に刑場があり、刑死者を弔うために建立されたという。

 

Img_6197 説明板

 

Img_6199 山神社 【ル-ト地図】の5

このあたりの【ル-ト地図】の道筋は間違った。

 

Img_6200 秋葉山常夜灯(文化8年(1811)建立)の右を入る。《地図

 

Img_6202 千日堂 【ル-ト地図】の6

 

Img_6203 説明板

 

Img_6207 姫様の絵の配水塔の右の細い長坂を下る。

 

Img_6209 長坂(坂下方向) 

今川義元を討ち取った功により、この地を治めていた服部小平太は、天正15年(1587)に、ここで殺されたという。

 

Img_6210説明板

今川義元を討取った服部小平太と中保次は別人との説もある。

 

Img_6214細江町へと下りて行く。

 

Img_6215 刑部(おさかべ)城址説明板 《地図

 

Img_6217 金襴の池説明板

家康に滅ぼされた刑部城の姫君の伝承。

 

Img_6218 今は池は埋め立てられ刑部川が残るだけ。

 

Img_6221 落合橋から

右が都田川、左が井伊谷川がここで落合うか。

 

Img_6225 宝生地蔵 《地図

橋を渡った右下

 

Img_6226 宝生地蔵尊

光背に「右はままつへ三里半 左秋葉道宮口へ二里 二俣へ四里」、もとは対岸の姫街道と秋葉道の分岐あたりにあったようだ。邪魔になってこんな所に移されたが、今も信仰が篤いのだろう、賽銭がこんなに。

 

Img_6229気賀関所跡 《地図

交差点右が東門跡、本番所跡、左が向番所跡と望楼跡。

気賀関所(再現)」(細江図書館の南側)《地図

 

Img_6231 説明板

 

Img_6237 要害堀

気賀四つ角から西に延びる気賀関所防備のための堀跡。

 

Img_6240 赤池様公園(要害堀沿い)

明応の大地震(1498)で、(東海道)新居の角避比古(つのさくひこ)神社が流され、神体が赤池の里に流れ着いた。その後、細江神社に移され牛頭天王として祀られた。7月の祇園際には神輿に乗った神体がこの赤池に巡幸するそうだ。

 

Img_6245 近藤陣屋跡 《地図

 

Img_6244 説明板

 

Img_6247 細江神社

 

Img_6250 説明板

 

Img_6253 藺草(いぐさ)神社(細江神社境内)

い草をこの地に広めた気賀領主の近藤縫殿助用随(もちゆき)を祀る。

 

Img_6254 説明板

 

Img_6258 大蛇と蝙蝠(こうもり)が戦ったという大クスの根元の穴

「御神木指定証」が邪魔くさい。神社庁が指定しようがしまいが神木は神木なのだ。「御神木審査委員会」なんてつまらない所に税金を使うなだ。国と神社の慣れ合い、もたれ合いで「政教分離」の憲法違反、「事業仕分」で廃止すべしか。

 

Img_6257 「むかし話」

 

Img_6270 東林寺

本陣の御退場寺(本陣で何か起こった時の避難場所)だった。山門は嘉永7年(1854)に奥山方広寺から移築。

 

Img_6259 犬くぐり道ルート

姫街道の北側の小高い所を通っている。

 

Img_6272 犬くぐり道

地元住民が気賀関所を避けるための抜け道。犬が通る道として黙認されていた。

 

Img_6261 説明板

 

Img_6273 曲りながら続く

 

Img_6276 まだ続いているが姫街道へ下る。

 

Img_6278 気賀宿本陣跡(右) 《地図

中村家が勤めた。少し東に高札場があったという。

 

Img_6277 説明板

 

Img_6285 本陣前公園

左に馬頭観音の小堂がある。

 

Img_6282 長屋門をくぐったら噴水が噴出してきてびっくり。

 

Img_6281 馬頭観音

代官近藤家→犬くぐり道→本陣前公園に移ってきたようだ。

 

Img_6279 説明板

 

Img_6283 正明寺

本陣中村家の菩提寺で、この寺も本陣の御退場寺。

 

Img_6289 西枡形

 

Img_6290 説明板

 

Img_6292 獄門畷 

家康軍は堀川城に立て籠もった今川方の男女2千人をなで切りにし、さらに落城後に700余名を処刑して、その首をここに晒したという。

 

Img_6293 説明板

 

Img_6297 姫地蔵への上り

 

Img_6299 姫地蔵 《地図

近藤家の姫が、皮膚病の願掛けをしたら治ったということからこう呼ばれる。後ろの覆い屋に六地蔵。

 

Img_6308 全得寺

堀川城の城将、竹田高正の創建。

 

Img_6309 説明板

 

Img_6310 諏訪神社

 

Img_6311 呉石(くれいし)学校跡

い草栽培の説明板があるが、学校の説明はない。坐像はい草の栽培を始めた近藤用随ではなく、二宮尊徳らしい。とすればここは小学校跡か?

 

Img_6316 気賀宿を出て引佐峠へと向かう

 

Img_6324 二宮神社(左) 《地図

宗良親王の妃といわれる駿河姫(この地の豪族井伊道政の娘)が祭神。京へ上る宗良親王を送って来た駿河姫は急病でこの地で亡くなったという。

 

Img_6326 二宮神社

 

Img_6325 説明板

 

Img_6336 修理殿松跡へ

 

Img_6337 山村修理(しゅり)の墓

堀川城落城の際にここまで逃れ自刃した。里人が供養のために植えたという「修理殿の松」は枯れて今はない。

 

Img_6339 説明板

 

Img_6338 山村修理の子孫からの「お願い」

 

Img_6340 山田の一里塚跡(69)

 

Img_6345 ダイダラボッチの足跡

各地に残る巨人伝説のひとつ。

 

Img_6344 説明板

 

Img_6346 山田道祖神と馬頭観音

 

Img_6352清水みのる詩碑

「星の流れに」・「森の水車」・「かえり船」などの作詞家。

 

Img_6358 小引佐(こいなさ)から浜名湖 

引佐細江(浜名湖の入り江)の景勝地。

 

Img_6367 説明板

 

Img_6363 車道から分かれ左に入る。

遠足?の小学生も歩いている。右に塞神の小祠。この先の下村地蔵 は見つからなかった。

 

Img_6372 石畳の道となり、車道に出てまた上る。

 

Img_6375 薬師堂 《地図

 

Img_6376 説明板

 

Img_6377 石畳に入る。

 

Img_6378 樹林の中を上る。

 

Img_6379 平石(ひらいわ)休憩所

近藤家の家臣が大名行列などに湯茶の接待をした場所。手前の平石(姫岩)に篤姫も腰掛けて休憩したかも。でも今は見晴らしはきかない。

 

Img_6380 説明板

「姫様井戸」は近くない。

 

Img_6386 引佐峠近くから浜名湖

 

Img_6395 引佐峠(標高200)

たいした高さではないが、アップダウンの多い道で、しかも今日の暑さで少々疲れた。

 

Img_6396 説明板

 

Img_6405 象鳴き坂 【ル-ト地図】の7

三ケ日方向へ少し下って振り返る。人馬なら泣くほどの傾斜ではないが、象なら泣くだろう。気賀宿では本陣の横に象小屋を作ったそうだ。気賀に泊まったのが5月8日(陰暦)、そろそろ梅雨入りの時期だ。象も護送する役人たちも大変な道中だっただろう。

象のその後:吉宗に拝謁後、中野村(東京中野区)の農民源助に預けられた。源助は象小屋を建て、大事に飼育して人々に見物させたりしたが、やがて死んで頭骨と牙が宝仙寺に納められ供養されたと伝えられる。この骨と牙も昭和20年の戦禍で一部を残し焼失してしまったという。『宝仙寺のHP』(象と源助さんの話)より 

 

Img_6403 説明板

 

Img_6409 石投げ岩

 

Img_6414 大谷の一里塚跡(70)

 

Img_6418 和田牧場

 

Img_6419 うまそうな牛がくつろいでいる。

口てい疫騒ぎで殺されるなよ。

 

Img_6427 六部様

このあたりは「黒坂の森」と呼ぶ。

 

Img_6426 説明板

 

Img_6430 周辺案内図

 

Img_6432 大谷代官大野家屋敷跡 《地図

現在も子孫が居住している。

この先の安形伊賀屋敷跡は注意していたが、通り越してしまった。

 

Img_6437 慈眼寺

青面金剛像を祀る庚申堂で、天井絵が見事らしい。

 

Img_6434 説明板

 

Img_6440 東名高速で姫街道は分断される。道路下を2回くぐりながら上って行き、大里(おおり)峠の大里橋で東名高速を越える。

 

Img_6448 写真の右端で2回目の東名高速道路くぐり、左の大里橋で高速を越え、三ケ日宿へと入る。

「行き止まり」の旧道は、雨天には道が川となって「わる坂」といわれた。

 

Img_6447 大里峠の大里橋を渡る。下は東名高速。《地図

 

Img_6451 大里峠から緩やかに下って三ケ日宿へ

 

Img_6456 宇志の茶屋跡・高札場跡

 

Img_6457 説明板

 

Img_6459 説明板

 

Img_6461三ケ日の一里塚跡(71) 

火の見の下

 

Img_6463 一里塚跡址碑

 

Img_6467 三ケ日宿伝馬問屋跡(石川接骨院前)

 

この先、姫街道は天竜浜名湖線から離れる。時間は早いが今日はここまでとし、明日、本坂峠を越えて東海道との合流点の御油宿まで歩く。

 

Img_6470 猪鼻湖

周囲約12kmの浜名湖の支湖で、瀬戸と呼ばれる水道で浜名湖に通じている。この水道に架かるのが真っ赤な新瀬戸橋で、周囲の奇岩とのコントラストが美しいそうだ。

ちょうど天竜浜名湖線は発車したばかり。湖畔で時間をつぶす。ここからはたいした景観ではない。

 

Img_6473天竜浜名湖鉄道(三ケ日駅)

掛川駅(東海道線)から浜名湖の北を通り、新所原駅(東海道線)まで。

一輌でもこの時間(4時前)はガラガラ。

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