姫街道③(三方原追分→気賀宿→三ケ日宿)
2010年5月6日
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今日は姫街道のハイライト、追分から三方原台地を抜けて気賀宿へ入り、引佐峠へ上り象鳴き坂を下り、再び大里峠へひと上りして三ケ日宿へと下って行く。天気もよく歩きがい、見ごたえのある街道歩きとなるだろう。
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
今日は追分から三ケ日宿までの行程。
(地図の右下の「安岡」は「安間」の誤りで、江戸からの里程が64。小池が65)
姫街道の南側に所々残っている。北側の松は昭和27年の火災で焼失した三方原小学校の校舎再建費用捻出のために伐採されたそうだ。せこいことするよ。
士族屋敷跡 《地図》
土塁の一部が残っている。
「ごんしち」ではない。今も営業中で、バス停も交差点も「権七」なのだ。
隣に馬頭観音の祠
大谷坂を下って大谷川を渡る。《地図》
わざと曲げられたのか?
西側の竹薮に刑場があり、刑死者を弔うために建立されたという。
このあたりの【ル-ト地図】の道筋は間違った。
秋葉山常夜灯(文化8年(1811)建立)の右を入る。《地図》
今川義元を討ち取った功により、この地を治めていた服部小平太は、天正15年(1587)に、ここで殺されたという。
今川義元を討取った服部小平太と中保次は別人との説もある。
刑部(おさかべ)城址説明板 《地図》
家康に滅ぼされた刑部城の姫君の伝承。
右が都田川、左が井伊谷川がここで落合うか。
宝生地蔵 《地図》
橋を渡った右下
光背に「右はままつへ三里半 左秋葉道宮口へ二里 二俣へ四里」、もとは対岸の姫街道と秋葉道の分岐あたりにあったようだ。邪魔になってこんな所に移されたが、今も信仰が篤いのだろう、賽銭がこんなに。
交差点右が東門跡、本番所跡、左が向番所跡と望楼跡。
気賀四つ角から西に延びる気賀関所防備のための堀跡。
明応の大地震(1498)で、(東海道)新居の角避比古(つのさくひこ)神社が流され、神体が赤池の里に流れ着いた。その後、細江神社に移され牛頭天王として祀られた。7月の祇園際には神輿に乗った神体がこの赤池に巡幸するそうだ。
近藤陣屋跡 《地図》
い草をこの地に広めた気賀領主の近藤縫殿助用随(もちゆき)を祀る。
「御神木指定証」が邪魔くさい。神社庁が指定しようがしまいが神木は神木なのだ。「御神木審査委員会」なんてつまらない所に税金を使うなだ。国と神社の慣れ合い、もたれ合いで「政教分離」の憲法違反、「事業仕分」で廃止すべしか。
本陣の御退場寺(本陣で何か起こった時の避難場所)だった。山門は嘉永7年(1854)に奥山方広寺から移築。
姫街道の北側の小高い所を通っている。
地元住民が気賀関所を避けるための抜け道。犬が通る道として黙認されていた。
気賀宿本陣跡(右) 《地図》
中村家が勤めた。少し東に高札場があったという。
左に馬頭観音の小堂がある。
代官近藤家→犬くぐり道→本陣前公園に移ってきたようだ。
本陣中村家の菩提寺で、この寺も本陣の御退場寺。
家康軍は堀川城に立て籠もった今川方の男女2千人をなで切りにし、さらに落城後に700余名を処刑して、その首をここに晒したという。
姫地蔵 《地図》
近藤家の姫が、皮膚病の願掛けをしたら治ったということからこう呼ばれる。後ろの覆い屋に六地蔵。
堀川城の城将、竹田高正の創建。
い草栽培の説明板があるが、学校の説明はない。坐像はい草の栽培を始めた近藤用随ではなく、二宮尊徳らしい。とすればここは小学校跡か?
二宮神社(左) 《地図》
宗良親王の妃といわれる駿河姫(この地の豪族井伊道政の娘)が祭神。京へ上る宗良親王を送って来た駿河姫は急病でこの地で亡くなったという。
堀川城落城の際にここまで逃れ自刃した。里人が供養のために植えたという「修理殿の松」は枯れて今はない。
各地に残る巨人伝説のひとつ。
「星の流れに」・「森の水車」・「かえり船」などの作詞家。
引佐細江(浜名湖の入り江)の景勝地。
遠足?の小学生も歩いている。右に塞神の小祠。この先の下村地蔵 は見つからなかった。
薬師堂 《地図》
近藤家の家臣が大名行列などに湯茶の接待をした場所。手前の平石(姫岩)に篤姫も腰掛けて休憩したかも。でも今は見晴らしはきかない。
「姫様井戸」は近くない。
たいした高さではないが、アップダウンの多い道で、しかも今日の暑さで少々疲れた。
三ケ日方向へ少し下って振り返る。人馬なら泣くほどの傾斜ではないが、象なら泣くだろう。気賀宿では本陣の横に象小屋を作ったそうだ。気賀に泊まったのが5月8日(陰暦)、そろそろ梅雨入りの時期だ。象も護送する役人たちも大変な道中だっただろう。
象のその後:吉宗に拝謁後、中野村(東京中野区)の農民源助に預けられた。源助は象小屋を建て、大事に飼育して人々に見物させたりしたが、やがて死んで頭骨と牙が宝仙寺に納められ供養されたと伝えられる。この骨と牙も昭和20年の戦禍で一部を残し焼失してしまったという。『宝仙寺のHP』(象と源助さんの話)より
口てい疫騒ぎで殺されるなよ。
このあたりは「黒坂の森」と呼ぶ。
大谷代官大野家屋敷跡 《地図》
現在も子孫が居住している。
この先の安形伊賀屋敷跡は注意していたが、通り越してしまった。
青面金剛像を祀る庚申堂で、天井絵が見事らしい。
東名高速で姫街道は分断される。道路下を2回くぐりながら上って行き、大里(おおり)峠の大里橋で東名高速を越える。
写真の右端で2回目の東名高速道路くぐり、左の大里橋で高速を越え、三ケ日宿へと入る。
「行き止まり」の旧道は、雨天には道が川となって「わる坂」といわれた。
大里峠の大里橋を渡る。下は東名高速。《地図》
火の見の下
この先、姫街道は天竜浜名湖線から離れる。時間は早いが今日はここまでとし、明日、本坂峠を越えて東海道との合流点の御油宿まで歩く。
周囲約12kmの浜名湖の支湖で、瀬戸と呼ばれる水道で浜名湖に通じている。この水道に架かるのが真っ赤な新瀬戸橋で、周囲の奇岩とのコントラストが美しいそうだ。
ちょうど天竜浜名湖線は発車したばかり。湖畔で時間をつぶす。ここからはたいした景観ではない。
天竜浜名湖鉄道(三ケ日駅)
掛川駅(東海道線)から浜名湖の北を通り、新所原駅(東海道線)まで。
一輌でもこの時間(4時前)はガラガラ。
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