姫街道①(浜松宿→三方原追分)
2010年5月4日
浜松駅(東海道線)・・・東海道・浜松宿・姫街道分岐(連尺交差点)・国道257号・曳馬坂・蓮華寺・心造寺・五社神社・・・侍屋敷跡あたり・・・名残番所跡あたり(鹿谷緑地)・・・真向坂・・・三社神社・・・犀ケ崖古戦場跡・宗円堂・・・静岡大学・・・大正坂・・・銭取バス停・・・段子川橋・・・小豆餅銭取本舗・・・権現様跡・・・三方原追分(元追分交差点)
篤姫も象も通った姫街道を歩く。姫街道は東海道の脇往還の一つで、見付宿(または浜松宿)から東海道と分かれ、天竜川右岸の市野宿、浜名湖の北の気賀宿、三ケ日宿、嵩山(すせ)宿を通り、御油宿で東海道と合流した。見付宿からは約62kmの距離で、江戸時代中期以降は浜松宿を起点とする方がよく通られるようになったという。
姫街道は江戸時代後期から呼ばれた俗称で、公的には本坂通という。姫街道と呼ばれた由来には諸説ある
引佐(いなさ)峠、本坂峠(328m)を越す起伏の多い道で気賀関所もあり、姫様のチャラチャラしたイメージとは違う道だ。
今日は浜松宿から、見付宿起点の姫街道との合流点の追分(三方原追分・元追分交差点)までを途中の街道沿いの坂道に寄りながら歩く。
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
地図の右下の「安岡」は「安間」の誤りで、江戸からの里程が64。小池が65。地図の池田から市野宿への「池田の近道」は中世以前の主要ルートだったが、浜松インターチェンジ付近の倉庫群によって道は失われている。池田→安間→市野宿と進むことになる。
曳馬(ひくま)坂(坂上方向) 東海道との追分の連尺交差点から北西に上る姫街道。【ル-ト地図】の2
曳馬野(三方原方面)へ通じる馬車が出ていたので、こう呼ばれるようになった。昔は石畳の情緒ある坂だった。
天正7年(1579)、浜松城で秀忠を生んだ家康の側室の西郷局昌子(お愛の方)の開基。
徳川二代将軍秀忠の産土神として篤く崇敬され、子守り、子育ての神として信仰を集める。諏訪神社が合祀されている。
名残番所跡あたり《地図》
名残は地名、少し手前が侍屋敷跡あたりだが跡形も、何の表示もない。
①真向かいに上る急坂、②坂の途中の地蔵堂が信仰を集め、香華が絶えなかったことから抹香坂だったとも。
三方原の合戦で大敗した家康軍がここで武田軍に一泡吹かせた古戦場跡。
武田軍が転落したという深い崖。昔は長さ2km、深さ40m、幅50mの断崖だったと伝える。
墓は両国の回向院にあるが、さすが大盗賊、墓もあちこちに神出鬼没ということか。
「岩角に 兜くだけて 椿かな」
①「夏目次郎左衛門吉信旌忠碑」(昭和10年建立)
②「奥山半僧坊」への道標
①三方原の戦で敗走中の家康の身代わりとなり、自らを家康と称し、武田軍に突進、奮戦、討ち死にした人物。
旌忠碑(せいちゅうひ)とは忠を誉める碑。『裏面の碑文』
②「奥山半僧坊大権現 五里」の道標
明治14年の山林大火の際に焼けなかったことから、方広寺の鎮守の半僧坊の信仰が全国に広まった。姫街道沿いには多くの半僧坊道標がある。
大正坂 段子川の大昭橋から姫街道に上る坂。【ル-ト地図】の4
大正時代に坂の北側の山をけずり道幅を広げたことから名づけられた。橋は大正橋でなく大昭橋。
小豆餅 銭取本舗 《地図》
店の左上に「葵の紋」、その下には婆さんに追いかけられる家康が・・・「小豆餅」も「銭取」も家康にまつわる逸話がある。「三方原の合戦で大敗した家康は浜松城に逃げ帰る途中、腹ペコになり道端の茶屋で小豆餅をほおばった。そこへ武田軍が追ってきたので家康はあわてて銭を払わず逃げ、何も知らない茶屋の老婆は「食い逃げ、許さん」と追いかけて来た。
この店の東側が小豆餅という地名で、南に茶屋の老婆が家康から小豆餅代をしっかりとせしめた「銭取」バス停がある。ここから1.5kmはあるか、マラソン婆さんの脚力には家康も参ったか。もちろんただの逸話、作り話よ。
『徳川家康三方ヶ原戦役画像』(合戦では負けるし、婆さんには追いかけられるで、疲れて渋い顔をしている。)この店には「小豆餅」・「銭取」・「三方原」・「出世葵」などの菓子がある。まさに家康様様だ。「姫街道」もあるようだ。
元追分交差点(三方原追分) 《地図》
左からの道が今日歩いた浜松宿からの姫街道(国道257号)、手前の広い道が磐田宿からの姫街道(県道261号)。ここで合流して気賀宿(直進)へ向かう。
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