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2010年5月17日 (月)

竹内街道

2010年4月29日

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 日本最古の官道、古代には大陸から仏教文化を運んだ道、大陸へ渡る遣隋使が通った道、中・近世には大阪、堺と大和を結ぶ経済的、宗教的な幹線道だった竹内(たけのうち)街道を歩く。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_4957 竹内街道説明板

全長約30kmとあるが、あちこち寄ったり、道を間違えたりするとそれ以上となる。2日間かければ、ゆったりの街道歩きとなるだろう。

 

Img_4612 南蛮橋(堅川)の異国人は誰?

天文19年(1550)に堺を訪れたフランシスコ・ザビエルは、「堺は広大にして、富豪な商人が多数おり、東洋のベニスの如し」と本国に書き送っている。

 

Img_4626 旧堺灯台

(2010年4月28日撮影)

 

Img_4643 堺駅から「大小路シンボルロード」を進む。

 

Img_4649 占辻(晴明辻・大道筋(紀州街道)との交差点) 【ル-ト地図】の1

この辻は陰陽師の安倍晴明が占い書を埋めた所で、ここで占いをすれば必ず当たったんだと。

はでなチンチン電車(阪堺電軌阪堺線)が通る。「芋虫」かと思ったら、「帝塚山芋忠」という葬儀社だった。この路面電車も存続が危ういようだが。(むろん葬儀社とは無縁の話)

直進が大小路で「竹内街道」

 

Img_4655 説明板

 

Img_4660 西高野街道(右)分岐 【ルート地図】の2

正面に「竹内街道」の新しい道標、説明碑、右の地蔵堂脇に「高野山女人堂江十三里」の里程石標が立つ。

 

Img_4669 黒土西地蔵

右は「福徳大明神・兼平神社」、黒土はここの地名。

 

Img_4676 黒土町の家並み

「歴史の道 竹内街道」の石柱

 

Img_4682 金岡神社頓宮西之宮(楠塚公園)

金岡神社の御旅所

 

Img_4687 金岡神社 《地図

祭神の一人が、平安時代の宮廷絵師の巨勢金岡

 

Img_4688 説明板

 

Img_4694 大道の家並み

 

Img_4698 大池

今もこのあたりは溜め池が多が、北側の尻池は埋め立てられて、金岡中央病院の敷地になっている。

 

Img_4705 下高野街道と交差(八下北5) 《地図

直進が竹内街道

 

Img_4714 弘法大師堂

 

Img_4720中高野街道との交差地点 《地図

左(松原南図書館前)に道標(寛政9年(1797))で、正面に「右 ひらの 大坂 道」

竹内街道は左から右へ直進。

 

Img_4726 新ケ池を過ぎて野村の集落へ入る。

野村から樫山の間に一里塚があったようだ。

 

Img_4728 「丹治はやプラザ」の前を通る。《地図

竹内街道は古代には「丹比道(たじひみち)」と呼ばれていた。

 

Img_4729 「官道第一号」なのだ。

 

Img_4731 八王神神社

八王神とは?

 

Img_4734 五軒家の坂 【ルート地図】の3

伊勢橋から南東に羽曳野の台地へ上る坂。20年位前も数軒の家しかなかったそうだ。このあたりは埴生野という。

 

Img_4739民家前の旧道と道標(文政12年(1829)建立)

道標を建てた神南辺隆光(大道心)は、鋳物師で素行が悪く、嫌われ者だったという。その後、悟って仏門に入り、橋を架けたり道標や地蔵を建立した。河内から大和、紀伊に至るまで道標、社寺の石碑に彼の名が刻まれている。道標の正面は「右大坂さかいミち 左まきの寺さやま」

 

Img_4742 旧道(左)が現在の五軒家の坂(右)の坂上で合流。

 

Img_4749 埴生坂 《地図

弟の叛乱から逃がれて大和に向かう履中天皇が上った坂。『日本書紀』に載る伝承の坂だが、このあたりとしておこう。

 

Img_4751 野中寺南大門跡

左へ曲がると野中寺、かつてはこの辻に久米皇子の石碑があったそうだ。

 

Img_4756 野中寺(やちゅうじ)

聖徳太子の創建といい、「中の太子」と呼ばれる。「上の太子」は太子町の叡福寺、「下の太子」は八尾市の勝軍寺。法隆寺形式の旧伽藍跡は国の史跡、弥勒菩薩像と地蔵菩薩像は国の重文。

墓地には「お染・久松の墓」もあるようだ。

 

Img_4757 説明板

 

Img_4761 ヒチンジョ池西古墳石棺(野中寺境内)

二上山産の凝灰岩で造った7世紀末~8世紀初頭のここから南西約1kmにあった古墳の石棺。

 

Img_4765 野々上の家並み

 

Img_4769 伊勢灯篭(明治2年の建立)・道標・地蔵堂

道標(天保7年(1836))の正面は、「右大坂 左さかい 道」

 

Img_4768 地蔵道標

正面に「右ハはせみち 左ハならみち」とあるそうだが確認できず。

「はせみち」は竹内街道のこと。

 

Img_4773 埴生坂本陵(ボケ山古墳)

仁賢天皇

 

Img_4784 峯ケ塚古墳(後円部から) 《地図

5世紀末~6世紀初頭の全長98mの前方後円墳。

Img_4783 説明板

 

Img_4785 長池

 

Img_4792 軽里の家並み

「軽里」は日本武尊の「仮墓」が転訛したともいう。

 

Img_4793 昔風情のある家並みが続く。

 

Img_4795 白鳥陵古墳(前の山古墳)

5世紀末から6世紀初頭の全長190mの前方後円墳で日本武尊白鳥陵に比定されているが、築造時期から日本武尊の墓でないことは明らか。日本武尊も架空の人物だが。

 

Img_4794 説明板

 

Img_4803 白鳥神社 《地図

白鳥古墳の上にあり、スサノオ命と日本武尊を祀る。

 

Img_4812 長円寺

十一面観音は国の重文。

 

Img_4811 説明板

 

Img_4813 蓑の辻(東高野街道交差) 【ルート地図】の4

正面の建物前に道標(嘉永元年(1848))、「左大和路」「右大坂」

 

Img_4824 この「ふれあいスポット竹之内」の前に江戸時代の両替商の「銀屋」の建物がある(あった)はずだが見当たらず。 《地図

 

Dsc05200 銀屋

(2001年5月4日撮影) ちょうど9年前に訪れた時は確かにあった。

 

Dsc05201 説明板もあった。(2001年5月4日撮影)

 

Dsc05203 この家並みもなくなってしまった。(2001年5月4日撮影)

 

Img_4816 西淋寺

百済から渡来した王仁(わに)の子孫の西文氏(かわちのふみうじ)の創建という。

 

Img_4817 説明板

 

Img_4818 塔心礎

横から見ると鯨、いるか?の顔のように見えてくる?

 

Img_4820 五輪塔

鎌倉時代の物とは思えないほど、形の崩れもなく、しっかりしている。土中に長い間埋もれていたおかげか。

 

Img_4819 説明板

 

Img_4828 臥龍橋(石川)から

 

Img_4830 川向道標(正面) 《地図

街道は左に曲がって行く。江戸時代には河内木綿の10軒ほどの問屋が繁盛し、遊郭もあったという。

 

Img_4831大黒寺への道標(右)・②法華寺(河南町)への道標(左)

 

Img_4835 ①の説明板

神南辺隆光の名がある。

 

Img_4836 ②の説明板

 

Img_4839 逢阪橋を渡って正面の細い道に入る。

分岐点に十一面観音像の小堂と智恵地蔵尊

 

Img_4841 十一面観音

 

Img_4843 駒ケ谷の家並み

 

Img_4844 このあたりは立派な家が多い

 

Img_4849 杜本神社 《地図

 

Img_4845 説明板①

 

Img_4847 説明板②

 

Img_4852 楠正成首塚

 

Img_4851 由緒と境内

隼人石」が見当たらなかったが、本殿の前にあり、普段は見られないようだ。

 

Img_4855 藤原永手の墓

やけに寂しい所に、ぽつんとある。

 

Img_4860 西応寺(左)

 

Img_4863 月読橋へ

 

Img_4864 月読橋(飛鳥川)

伊勢灯篭は文政5年(1822)の建立

 

Img_4868 八丁地蔵尊

「役行者錫杖水碑」は道標にもなっていて、これも神南辺隆光の建立。

後ろは「白玉大明神・白瀧大神・脳天大神」の石柱とお狐さんの石像。「脳天大神」は蔵王権現の化身神で、首から上の病い、頭を使うことすべてにご利益があるようだ。受験生、就活人は祈願すべしか。

 

Img_4874 飛鳥の集落

 

Img_4879 飛鳥戸神社 《地図

百済から渡来した飛鳥戸造(あすかべのみやっこ)一族の祖、琨伎王(こんきおう)を祀る。

 

Img_4878 説明板

 

Img_4882 気分のいい道を行く。

 

Img_4884 上ノ太子駅

ちょうど2時で、この先をどうしようとちょっと考えた。少し暑いがそんなに疲れてもなく、あと3時間もあれば竹内峠を越えて、長尾神社へ降りられると思い歩き続ける。

 

Img_4889 赤坂から徐々に上って行き、春日西交差点から旧道に入る。《地図

 

Img_4894 春日の家並み

 

Img_4897 まさに竹内街道だ。

この先にあった旅籠角屋の庭の牡丹の大木は見物人を集め、門前の馬の像は「左甚五郎の作で、街道を通る馬も見惚れて立ち止まった」という民話も残っている。

 

Img_4907 しもの地蔵堂①

堂の前に「二見岩」という相撲取りの墓碑(安政6年(1859)建立)がある。上方の相撲取りだろうが分からず。

 

Img_4908 由来

 

Img_4909 しもの地蔵尊①

脳天大神が「上の病」で、この地蔵は「下の病」に霊験ありだろう。

 

Img_4914 大道の家並み 《地図

 

Img_4920 大道旧山本家住宅

 

Img_4929 車道(国道166号)に出て竹内峠へ

ここはまだ歩道が分離していて歩きやすい。

 

Img_4933 岩屋峠(左)への分岐

地蔵は道標になっている。「右 津ぼさか 左 い巳やたゑま」→右へ竹内街道を進めば壷阪へ、左は岩屋、当麻への岩屋越えの道。

 

Img_4935 歩道がなくなり休日で車も多いが、あと少しで竹内峠だ。

 

Img_4938 竹内峠手前の石造物群

常夜灯・十一面観音像・役行者像・役行者霊水塔・大峯山三十三度供養塔など。

 

Img_4945 十一面観音

左に「さかい神南辺大道心」とある。右は「はせ寺迄 七リ」だそうだ。

 

Img_4949 竹内峠 【ルート地図】の5

鶯の関址碑、奈良県境碑などが立っている。

国道は大きく切り下げられている。

 

Img_4953 「鶯の関址」歌碑(司馬遼太郎の筆による)

「我おもふ こころもつきず 行く春を 越さでもとめよ 鶯の関」 平安時代の康資王母の随筆集『明玉集』に載る歌だそうだ。「鶯の関」が設けられたのは鎌倉時代の徳治2年(1307)ともいう。時代が合わない歌だが?

『河内名所図会』には鶯の関は峠から8町(872m)北にあったと記されているそうだ。

司馬遼太郎は幼少期を母の実家の里の竹内の當麻町で過ごした。

 

Img_4961 ここを直進してしまいかなり下って引き返し、えらいロスタイム。竹内街道は左にカーブして南阪奈道路を越えて国道166号の南側を下って行く。

下に走る南阪奈道路を国道166号と勘違いした。

 

Img_4965上池脇を下る。《地図

この先で国道166号に合流する。

 

Img_4966  岩角地蔵尊(首なし地蔵)

 

Img_4972 国道から離れ、竹内の集落へ入って行く。

 

Img_4973 竹内の家並み

 

Img_4975 植田家

 

Img_4977 綿弓塚記念館

 

Img_4979 綿弓塚 【ルート地図】の6

芭蕉が「野ざらし紀行」の旅の折に詠んだ「綿弓や琵琶に慰む 竹の奥」の句碑。

 

Img_4978 説明板

 

Img_4980 しもの地蔵堂②・大峯詣りの常夜灯・道標(當麻寺、高野山)

 

Img_4983 しもの地蔵尊②

 

Img_4988長尾街道分岐

竹内街道石柱と2基の道標。

 

Img_4989 右へ行くと「本朝二十四孝」の一人と称えられた、孝女伊麻碑があるようだが、親不孝者の行く所ではないか。

元禄元年(1688)に芭蕉は伊麻に会って感激している。伊麻は寛永元年(1624)生まれというから、この時は64才のおばあちゃんになっていた。

 

Img_4993 長尾神社 《地図

石灯籠の前には狛犬ならぬ、子を背負った狛蛙。

 

Img_4996 親蛙の上に子蛙

 

Img_4999 説明板①

 

Img_4992 説明板②

 

Img_4997 神々しい夕日が降り注ぐ社殿の前で、今日も無事に歩き終えたことを感謝し、一礼。神仏を信じているわけではないが、そういう気分になる時もある。 【ル-ト地図】の7

この先、竹内街道は横大路から初瀬街道へと続いて行く。

 

Img_5001 道を間違えロスタイムもあったが、磐城駅に着いたのは、まだまだ明るい4時30分だった。

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コメント

国も指定するだけじゃなく援助も必要。
銀屋に二回泊まったことがあるが古き良き時代の名残があった。土間があって上がると金屏風があって古銭のが飾っていた。30年以上前の小学生だったのに鮮明に憶えている。とにかく広かった。こんなことになるのなら探検しといたら良かった・・・

投稿: コメント2回目 | 2011年9月19日 (月) 22:36

 貴重な文化財が惜しい気もしますが、住んでいる方などの様々な事情があるのですね。

投稿: 坂道散歩 | 2011年8月18日 (木) 07:48

銀屋に住んでいた人の遠縁ですが住んでいた人も無くなり維持管理が大変で壊した。住人が死んだ後は勝手に入ってとっていったらしい。

投稿: ぽに | 2011年8月17日 (水) 22:53

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