竹内街道
2010年4月29日
堺駅(南海本線)・・・大小路・・・(大道筋・紀州街道)・・・(南海高野線堺東駅)・・・新町交差点・・・地蔵堂・(南海高野線)・・・西高野街道分岐・・・県道2号・・・(JR阪和線)・・・富田林街道分岐・向陵中町交差点・旧道・・・黒土西地蔵尊・・・(県道28号)・・・金岡j神社頓宮(楠塚公園)・・・金岡神社・・・(県道192号)・・・(県道2号)・・・県道31号・・・大池・・・(下高野街道)・・・西除橋(西除川)・・・(国道309号)・・・弘法大師堂・・・中高野街道交差地点・・・・(阪和自動車道)・旧道・・・新ヶ池・・・新池・樫山池・丹治はやプラザ・・・八王神神社・・・伊勢橋(東除川)・・・五軒家の坂・・・埴生坂・・・野中寺・・・埴生坂本陵(仁賢天皇陵)・・・峯ケ塚古墳・・・(国道170号)・・・芦ケ池・長池・・・軽羽迦神社・・・日本武尊白鳥陵・・・(古市駅)・・・白鳥神社・・・長円寺・・・蓑の辻(東高野街道)・・・西淋寺・・・銀屋跡・ふれあいスポット竹之内・国道166号・・・大乗橋(大乗川)・臥龍橋(石川)・・・川向の道標・・・逢阪橋(飛鳥川)・・・(駒ヶ谷駅)・・・十一面観音堂・智恵地蔵・・・杜本神社・・・西応寺・・・月読橋(飛鳥川)・・・八丁地蔵尊・役行者錫杖水・・・仏号寺・・・飛鳥戸神社・・・(上ノ太子駅)・・・(近鉄南大阪線)・・・(南阪奈道路)・・・旧穴虫街道分岐・松本橋(飛鳥川)・・・赤坂・・・春日西交差点・旧道・・・妙見寺・・・旅籠角屋跡・・・六枚橋・・・しもの地蔵尊①・・・正泉寺・・・旧山本家住宅・・・(竹内街道歴史資料館)・・・風鼻橋東詰交差点・国道166号・・・大日池・・・岩屋越分岐・・・峠うぐいす茶屋・・・石造物群・竹内峠・鶯の関跡・・・旧道・・・上池・・・国道166号・・・岩角地蔵・・・菅原神社・・・綿弓塚・・・しもの地蔵②・・・県道30号・・・長尾街道分岐・・・長尾神社・・・磐城駅(近鉄南大阪線)
日本最古の官道、古代には大陸から仏教文化を運んだ道、大陸へ渡る遣隋使が通った道、中・近世には大阪、堺と大和を結ぶ経済的、宗教的な幹線道だった竹内(たけのうち)街道を歩く。
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
全長約30kmとあるが、あちこち寄ったり、道を間違えたりするとそれ以上となる。2日間かければ、ゆったりの街道歩きとなるだろう。
天文19年(1550)に堺を訪れたフランシスコ・ザビエルは、「堺は広大にして、富豪な商人が多数おり、東洋のベニスの如し」と本国に書き送っている。
(2010年4月28日撮影)
占辻(晴明辻・大道筋(紀州街道)との交差点) 【ル-ト地図】の1
この辻は陰陽師の安倍晴明が占い書を埋めた所で、ここで占いをすれば必ず当たったんだと。
はでなチンチン電車(阪堺電軌阪堺線)が通る。「芋虫」かと思ったら、「帝塚山芋忠」という葬儀社だった。この路面電車も存続が危ういようだが。(むろん葬儀社とは無縁の話)
直進が大小路で「竹内街道」
西高野街道(右)分岐 【ルート地図】の2
正面に「竹内街道」の新しい道標、説明碑、右の地蔵堂脇に「高野山女人堂江十三里」の里程石標が立つ。
右は「福徳大明神・兼平神社」、黒土はここの地名。
「歴史の道 竹内街道」の石柱
金岡神社の御旅所
金岡神社 《地図》
祭神の一人が、平安時代の宮廷絵師の巨勢金岡
今もこのあたりは溜め池が多が、北側の尻池は埋め立てられて、金岡中央病院の敷地になっている。
下高野街道と交差(八下北5) 《地図》
直進が竹内街道
左(松原南図書館前)に道標(寛政9年(1797))で、正面に「右 ひらの 大坂 道」
竹内街道は左から右へ直進。
野村から樫山の間に一里塚があったようだ。
「丹治はやプラザ」の前を通る。《地図》
竹内街道は古代には「丹比道(たじひみち)」と呼ばれていた。
八王神とは?
伊勢橋から南東に羽曳野の台地へ上る坂。20年位前も数軒の家しかなかったそうだ。このあたりは埴生野という。
道標を建てた神南辺隆光(大道心)は、鋳物師で素行が悪く、嫌われ者だったという。その後、悟って仏門に入り、橋を架けたり道標や地蔵を建立した。河内から大和、紀伊に至るまで道標、社寺の石碑に彼の名が刻まれている。道標の正面は「右大坂さかいミち 左まきの寺さやま」
埴生坂 《地図》
弟の叛乱から逃がれて大和に向かう履中天皇が上った坂。『日本書紀』に載る伝承の坂だが、このあたりとしておこう。
左へ曲がると野中寺、かつてはこの辻に久米皇子の石碑があったそうだ。
野中寺(やちゅうじ)
聖徳太子の創建といい、「中の太子」と呼ばれる。「上の太子」は太子町の叡福寺、「下の太子」は八尾市の勝軍寺。法隆寺形式の旧伽藍跡は国の史跡、弥勒菩薩像と地蔵菩薩像は国の重文。
墓地には「お染・久松の墓」もあるようだ。
二上山産の凝灰岩で造った7世紀末~8世紀初頭のここから南西約1kmにあった古墳の石棺。
道標(天保7年(1836))の正面は、「右大坂 左さかい 道」
正面に「右ハはせみち 左ハならみち」とあるそうだが確認できず。
「はせみち」は竹内街道のこと。
仁賢天皇陵
峯ケ塚古墳(後円部から) 《地図》
5世紀末~6世紀初頭の全長98mの前方後円墳。
「軽里」は日本武尊の「仮墓」が転訛したともいう。
5世紀末から6世紀初頭の全長190mの前方後円墳で日本武尊白鳥陵に比定されているが、築造時期から日本武尊の墓でないことは明らか。日本武尊も架空の人物だが。
白鳥神社 《地図》
白鳥古墳の上にあり、スサノオ命と日本武尊を祀る。
十一面観音は国の重文。
正面の建物前に道標(嘉永元年(1848))、「左大和路」「右大坂」
この「ふれあいスポット竹之内」の前に江戸時代の両替商の「銀屋」の建物がある(あった)はずだが見当たらず。 《地図》
(2001年5月4日撮影) ちょうど9年前に訪れた時は確かにあった。
百済から渡来した王仁(わに)の子孫の西文氏(かわちのふみうじ)の創建という。
横から見ると鯨、いるか?の顔のように見えてくる?
鎌倉時代の物とは思えないほど、形の崩れもなく、しっかりしている。土中に長い間埋もれていたおかげか。
川向道標(正面) 《地図》
街道は左に曲がって行く。江戸時代には河内木綿の10軒ほどの問屋が繁盛し、遊郭もあったという。
①大黒寺への道標(右)・②法華寺(河南町)への道標(左)
神南辺隆光の名がある。
分岐点に十一面観音像の小堂と智恵地蔵尊
杜本神社 《地図》
「隼人石」が見当たらなかったが、本殿の前にあり、普段は見られないようだ。
藤原永手の墓
やけに寂しい所に、ぽつんとある。
伊勢灯篭は文政5年(1822)の建立
「役行者錫杖水碑」は道標にもなっていて、これも神南辺隆光の建立。
後ろは「白玉大明神・白瀧大神・脳天大神」の石柱とお狐さんの石像。「脳天大神」は蔵王権現の化身神で、首から上の病い、頭を使うことすべてにご利益があるようだ。受験生、就活人は祈願すべしか。
飛鳥戸神社 《地図》
百済から渡来した飛鳥戸造(あすかべのみやっこ)一族の祖、琨伎王(こんきおう)を祀る。
ちょうど2時で、この先をどうしようとちょっと考えた。少し暑いがそんなに疲れてもなく、あと3時間もあれば竹内峠を越えて、長尾神社へ降りられると思い歩き続ける。
赤坂から徐々に上って行き、春日西交差点から旧道に入る。《地図》
この先にあった旅籠角屋の庭の牡丹の大木は見物人を集め、門前の馬の像は「左甚五郎の作で、街道を通る馬も見惚れて立ち止まった」という民話も残っている。
堂の前に「二見岩」という相撲取りの墓碑(安政6年(1859)建立)がある。上方の相撲取りだろうが分からず。
脳天大神が「上の病」で、この地蔵は「下の病」に霊験ありだろう。
大道の家並み 《地図》
大道旧山本家住宅
ここはまだ歩道が分離していて歩きやすい。
地蔵は道標になっている。「右 津ぼさか 左 い巳やたゑま」→右へ竹内街道を進めば壷阪へ、左は岩屋、当麻への岩屋越えの道。
常夜灯・十一面観音像・役行者像・役行者霊水塔・大峯山三十三度供養塔など。
左に「さかい神南辺大道心」とある。右は「はせ寺迄 七リ」だそうだ。
鶯の関址碑、奈良県境碑などが立っている。
国道は大きく切り下げられている。
「我おもふ こころもつきず 行く春を 越さでもとめよ 鶯の関」 平安時代の康資王母の随筆集『明玉集』に載る歌だそうだ。「鶯の関」が設けられたのは鎌倉時代の徳治2年(1307)ともいう。時代が合わない歌だが?
『河内名所図会』には鶯の関は峠から8町(872m)北にあったと記されているそうだ。
司馬遼太郎は幼少期を母の実家の里の竹内の當麻町で過ごした。
ここを直進してしまいかなり下って引き返し、えらいロスタイム。竹内街道は左にカーブして南阪奈道路を越えて国道166号の南側を下って行く。
下に走る南阪奈道路を国道166号と勘違いした。
上池脇を下る。《地図》
この先で国道166号に合流する。
芭蕉が「野ざらし紀行」の旅の折に詠んだ「綿弓や琵琶に慰む 竹の奥」の句碑。
長尾街道分岐
竹内街道石柱と2基の道標。
右へ行くと「本朝二十四孝」の一人と称えられた、孝女伊麻碑があるようだが、親不孝者の行く所ではないか。
元禄元年(1688)に芭蕉は伊麻に会って感激している。伊麻は寛永元年(1624)生まれというから、この時は64才のおばあちゃんになっていた。
長尾神社 《地図》
石灯籠の前には狛犬ならぬ、子を背負った狛蛙。
神々しい夕日が降り注ぐ社殿の前で、今日も無事に歩き終えたことを感謝し、一礼。神仏を信じているわけではないが、そういう気分になる時もある。 【ル-ト地図】の7
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コメント
国も指定するだけじゃなく援助も必要。
銀屋に二回泊まったことがあるが古き良き時代の名残があった。土間があって上がると金屏風があって古銭のが飾っていた。30年以上前の小学生だったのに鮮明に憶えている。とにかく広かった。こんなことになるのなら探検しといたら良かった・・・
投稿: コメント2回目 | 2011年9月19日 (月) 22:36
貴重な文化財が惜しい気もしますが、住んでいる方などの様々な事情があるのですね。
投稿: 坂道散歩 | 2011年8月18日 (木) 07:48
銀屋に住んでいた人の遠縁ですが住んでいた人も無くなり維持管理が大変で壊した。住人が死んだ後は勝手に入ってとっていったらしい。
投稿: ぽに | 2011年8月17日 (水) 22:53