東海道(大津宿→三条大橋)
2010年4月28日
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石山の商店街を抜け、京阪電車の踏切を何度も渡り、北西方向に曲がりながら進み、大津宿の札の辻に出た。ここは路面の京阪電車が通る広い車道で、かつての宿の面影は残っていない。国道1号の長い逢坂を上ると、歌枕の逢坂の関だがここも車の行き交うただの車道で何の風情もない。このまま三条大橋まで下って行くのかと思ったが、平地に出てからまた日ノ岡峠へと上り返すことになる。日ノ岡から蹴上浄水場に沿って下ると、もうこのあたりは観光客が多く、京都に着いた実感がわく。賑やかな三条大橋を少し眺めただけで次の目的地に向かった。
【ルート地図】
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後ろが旅籠伏見屋跡で、本願寺八世蓮如上人が布教の途中で休憩したという。縁切地蔵もここにあったのか?
東海道線のガードをくぐった盛越川の手前にあったようだ。
右の民家前に石柱が立つ。
若宮→篠津→膳所→和田→石坐神社の順で、祭りの前に今日全部に寄ることになる。
表門は膳所城の犬走り門を移築。
ここの表門も膳所城の城門を移築。
奥村歯科 《地図》
ここを左に曲がって行く。
武家屋敷の長屋門で、膳所の六門の一つ。
表門は膳所城の城門を移築。
膳所城主の菩提寺
表門は膳所藩校遵義堂(じゅんきどう)の門を移築。境内(右)の神木のいちょうは、関が原合戦に敗れた石田三成が京へ護送される途中、ここで休止の際につながれたという。
【ル-ト地図】の82膳所の六門の一つ。ここは元は家老屋敷だった。あとの4門は残らず。
正面の民家前に石柱
弟子の又玄が義仲寺に滞在中の芭蕉を訪ねた時に詠んだ句。芭蕉の死後に詠まれた句と思っていた。
境内には、「古池や・・・」を初め多くの句碑がある。
大津(石場)の一里塚跡(122)あたり 《地図》
京阪電鉄の石場駅を渡ったあたり。
毎年8月9日に蹴鞠が奉納され「けまり神社」とも呼ぶ。鞠(まり)の形の石灯籠があるようだ。
国の登録有形文化財
露国皇太子遭難之地(左に石柱) 《地図》
巡査が訪日中のロシア皇太子に斬りかかった大津事件の発生地点。大審院長児島惟謙が司法権の独立を守ったともてはやされた事件。
札の辻 《地図》
ここを左に曲がる。大津宿には宿場の面影は残っていない。
直進すれば小関越え、西近江路へとつながる。
道路の中央を堂々と走る3両の京阪電車だが、むろん赤信号では停車しなければならない。
もう逢坂の上りが始まっている。
「武内宿禰、精兵を出して追ふ。たまたま逢坂に遭ひて破りつ。故、其の処を号けて逢坂といふ」『日本書紀』
神功皇后の将軍・武内宿禰がこの地で忍熊王とばったりと出会ったことに由来するという伝承の坂名。
歌舞音曲、諸芸事の神、逢坂の関の守り神の蝉丸を祀る。東京北区の王子神社の境内に蝉丸を祀る関神社がある。
鎌倉時代の特色をもつ石灯籠で、国の重文だ。
「逢坂山関址」碑、百人一首の「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」(蝉丸)
「夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ(清少納言)
「名にしおはば 逢坂山の さねかずら 人にしられで くるよしもがな」(三条右大臣)の歌碑が立つ。
月心寺(左)・大谷(走井)の一里塚跡(123)あたり 《地図》
「走井」があり東海道の旅人は、ここで渇きをいやし、茶屋で「走井餅」を味わった。庭の一角に小野小町百歳像を収める小町堂がある。『広重 大津(走井茶店)』
大正・昭和期は画家橋本関雪の別荘地だった。今でも「走井」からは水が湧いている。
落語『走り井餅』もある。
このあたりに大津算盤の始祖、片岡庄兵衛の店があった。
髭茶屋の追分 《地図》
直進が東海道、左折が奈良街道(京街道)。
このあたりに「ひげ茶屋九左衛門」の茶屋(料亭)があったのか?
左の「蓮如上人」石柱は、京街道沿い枚方の出口御坊光善寺の蓮如上人廟への道標。
小関越道標(三井寺観音道)
逢坂の「大関」に対する小関。さっきの大津宿の札の辻に通じている。
山科地蔵堂(徳林庵) 《地図》
着飾り化粧して吉祥天のような地蔵らしかなぬ姿でなじめない。化粧直しは100年に一度らしい。始終、所かまわず化粧している女人よりましか。
五条別れ道標(宝永4年(1707)建立・直進が東海道
御陵(日ノ岡)の一里塚跡あたり(124) 《地図》
東海道最後の一里塚がこのあたりにあったようだが。右へ行けば天智天皇山科陵。
日ノ岡峠へ上る旅人の喉を潤した湧き水。
水を受ける石水鉢の本物は東京都内に現存するそうだ。
車石広場 《地図》
車石の使い方はこうではない。
粟田口刑場があったのはこのあたりか。
崖上に「南無阿弥陀仏」碑と「万霊供養塔」が立っている。処刑者の供養のためのものだろうか?
琵琶湖疎水とインクライン(傾斜鉄道)
社は民家の敷地内のようで、ここで遠慮する。
謡曲「小鍛冶」の影響から、鍛冶屋が稲荷を信仰するようになったともいわれるそうだ。
古来、東山道、東海道の旅人の旅立ち、道中安全の守り神。
粟田口碑(白川小学校前) 《地図》
京都七口の一つ。合槌神社の由来話に登場する刀鍛冶の宗近もこのあたりに住んでいたようだ。
坂本龍馬結婚式場跡(左)
白川橋の手前、ここは青蓮院の旧境内でその塔頭の金蔵寺跡。
道標(延宝6年(1678))
高山彦九郎像(三条大橋脇)
お龍さんの写真の見たばかりで、この無骨な像に出会うとは。東海道のラストシーンとしては興ざめの一幕だ。
【ル-ト地図】の88『広重 三条大橋』
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