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2010年6月24日 (木)

奥州街道(宇都宮宿→白沢宿→氏家宿)

2010年6月20日

東武宇都宮駅・・・朝日坂・・・オリオン通・・・幸橋(田川)・県道10号・・・篠原家住宅・・・八坂神社・県道125号(白沢街道)・・・(東北新幹線)・・・竹林町交差点・長屋門(岩淵家)・・・根来塚跡(白山神社)・・・処刑場跡・・・(国道119号)・・・海道町・・・(県道157号)・・・稚児ケ坂・・・白沢地蔵堂・薬研坂・・・白沢宿交差点・本陣宇加地家・明星院・薬師堂・九郷半橋(九郷半川)・・・西鬼怒川橋(西鬼怒川)・・・白沢の一里塚跡・間田之碑・・・鬼怒川土手・・・鬼怒川の渡し跡・・・阿久津大橋(鬼怒川)・阿久津河岸跡・・・船玉神社・・・浮島地蔵・・・与作稲荷神社・・・大日堂・高尾神社・・・将軍地蔵(そうめん地蔵)・・・さくら市ミュージアム・勝山城址・・・(ベイシア)・・・(国道4号)・・・お伊勢の森・・・旧奥州街道踏切(JR東北本線)・・・追分道標・氏家宿南木戸番所跡・氏家交差点・本陣跡・西導寺・蔦地蔵(定家地蔵)・・・氏家駅(JR東北本線)

  *『日光街道(小金井宿→宇都宮宿)』の続きです。

  【ル-ト地図

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Img_7309 幸橋から田川(下流方向)

田川は古来、洪水の被害を数多く発生させた「暴れ川」だった。昭和30年頃までは夏になると水神様に対する信仰と感謝から、人々が梵天をかつぎ川へ入り、もみ渡る光景が見られたそうだ。

上河原の市は奥州大名の参勤交代の邪魔になるため、寛永11年(1634)からは年1回の初市のみが催されるようになった。年に一度だけにするとはひどい話よ。

Img_7316 旧篠原家住宅 《地図

江戸時代から奥州街道口の現在の場所で、醤油醸造業や肥料商を営んでいた。現在の建物は明治28年(1895)に建てられたもの。

内部を公開しているがまだ開館前。

Img_7317 説明板

この先の今泉町交差点を左に入ると江戸時代の三大仇討の一つ、「浄瑠璃坂の仇討」の発端の刃傷事件があった興禅寺がある。浄瑠璃坂は新宿区市谷にある坂。

Img_7319 八坂神社

康平6年(1063)に宇都宮城の鬼門除けとして、粟田口(藤原)宗円(宇都宮氏)が創始したと伝える、方位、厄除けの守護神。

Img_7323 長屋門(岩淵家)

竹林交差点の先の左側

Img_7331 根来塚跡・白山神社 【ル-ト地図】の①

「徳川秀忠(江戸幕府二代将軍)と宇都宮城主本多正純にまつわる伝承-①」 元和7年(1621)、宇都宮城改築に際して、秀忠が派遣した根来組同心百人衆を本多正純が処刑した。ここに胴塚、首塚、馬塚が築かれたという。

左側に少し雑草に覆われた土の高まりが残り石の小祠もあるが、説明板などはない。

Img_7332 名残りの一本松か

栃木銀行前

Img_7333 宇都宮藩処刑場跡(栃木銀行の裏) 《地図

「徳川秀忠と宇都宮城主本多正純にまつわる伝承-②」 元和8年(1622)、秀忠が日光社参に先立って差し向けた江戸城守備の鉄砲組が根来組同心百人衆で、ここで処刑された。亡霊となって現れた根来衆を供養して建てたのが「首切り地蔵」だという。

これらの伝承が、「宇都宮城釣天井事件」の物語の背景ともなっているのだろう。

Img_7334 処刑者の供養のための地蔵か。

地蔵堂将棋クラブ内に「首切り地蔵」があるというが見つからず。ここは民家の敷地内。 

Img_7339 街道沿いの旧家

大谷石の蔵

Img_7344 海道町に残る並木

杉ほか種々の樹木が混じるようだ。「海道新田の一里塚」はどこにあったのか?

Img_7351 稚児ケ坂(坂上方向) 【ル-ト地図】の②

建久元年(1190)、源頼朝から陸奥留守職(奥州総奉行)に補された伊沢家景(留守氏の祖)が家族らと任地に向かう途中、この地で子供が病死したという。

この坂の由来伝承はこの先の白沢地蔵とも関わりがある。

Img_7352 坂上近く

今は切り下げられて緩やかな坂だが、歩道の部分は一段高くなっている。昔はもっと急な坂だったのだろう。

Img_7357樹林が残っている。この先の白沢歩道橋で県道125号は左へカーブし、奥州街道は直進する。

Img_7359 街道沿いの洋館

Img_7364 薬研坂(坂下方向) 【ル-ト地図】の③

左に「勝善神」(牛馬の守護神)の石塔、少し先の右側に白沢地蔵堂がある。

Img_7375説明板

Img_7378 坂下方向

「く」の字にカーブする形が薬研に似ているからという。

東京港区赤坂の「薬研坂」は下って上る坂で、中央がくぼみ両側の高い形が薬研に似ているため。『港区の坂-6』に記載。

Img_7367 白沢地蔵堂 《地図

稚児ケ坂の坂名の由来となった旅の途中で死んだ稚児を供養する地蔵を祀っている。

白沢宿七福神」の寿老人

Img_7369 伝説

Img_7371 白沢地蔵尊

Img_7387 白沢宿の町並み 《地図

各家には「屋号札」をつけ、掘割に水車を回し、柵もガードレールも作らず街道筋の景観に配慮しているのがいいね。

Img_7394 白沢宿説明板

Img_7391 白髭神社(白沢宿七福神の大黒天)の鳥居と「住吉屋」

Img_7393 本陣宇加地家(左側)

白沢郵便局長を勤めてきたので門前にポストか。

Img_7397 明星院

白沢宿七福神の布袋尊

Img_7399 薬師堂

白沢七福神宿の毘沙門天

井上清吉商店(酒造)の前で右折し、九郷半橋、西鬼怒川橋を渡って鬼怒川の土手まで直進する。

Img_7413 白沢の一里塚跡・間田之碑(白沢河原バス停の所)

一里塚はもとは鬼怒川土手(三本杉のあたりか)にあったようだ。説明板には江戸から30番目とある。

白沢宿七福神」の福禄寿。寺でも神社でもない所にあるのは珍しいか?

Img_7422 鬼怒川土手

このあたりが三本杉跡あたりで一里塚、三本杉稲荷があった所か?

少し先を右へ川側に下りて進む。

Img_7426 鬼怒川の渡し跡

春から秋までは舟渡しで、冬の渇水期には仮橋で渡った。増水時には川幅が800m以上にも及んで、しばしば川留めになり、旅人は南の白沢宿か北の氏家宿に泊まることになったという。

Img_7431 阿久津河岸跡(上阿久津大橋から) 《地図》(河岸の裏側に船玉神社、浮島地蔵がある)

勝山城が廃城となった慶長2年(1597)から間もなくの頃に開設された鬼怒川の舟運の一大拠点で、会津地方を含む奥州と江戸を結ぶ水陸の交通運輸の要衝として栄えた。人馬の往来の増加で荷物の運搬に停滞が起こるようになり、白河藩、会津藩などは新たに輸送専用道路の原方街道、脇街道の会津中街道・会津西街道を開き、氏家で扇の要のように集中させ阿久津河岸と結んだ。

Img_7484 説明板

Img_7487 氏家に集中する道路

東から関街道、奥州街道、原方街道、会津中街道、会津西街道。

Img_7435 奥州道中氏家宿の標識

阿久津大橋の上で宇都宮市から「さくら市」(2005年に氏家町と喜連川町が合併)に入る。つまらない市名をつけたものだ。

Img_7436 船玉神社

鬼怒川水運の船頭たちの守り神。船の形を模した境内で、舳(へさき)の位置に神殿が建てられた。

Img_7437 説明板

Img_7438 社殿前の常夜灯道標

台座に「右 奥州道」・「左 江戸道」、嘉永2年(1849)に定飛脚たちが献納したものという。

Img_7440 浮島地蔵堂

どんな洪水にも流されず、浮いてその地にとどまり救済する霊力があるという。子授け、安産、子育てと女人の信仰も篤い地蔵尊

Img_7441 説明板

Img_7442 浮島地蔵尊

Img_7443 堂の脇には女人たちの信仰が篤い、大小の十九夜塔が並んでいる。

Img_7446 与作稲荷神社 《地図

勝山城から洪水で流され、対岸の三本杉に祀られた後にこの地に祀られたという。一時は大人気を集め門前には稲荷町ができ、参詣者で賑わったそうだ。

Img_7447 説明板

「与作」とは人名だろうが誰なのか? 名前の由来が書かれていない。

Img_7451 塩釜地蔵(与作稲荷神社の境内)

これも阿久津河岸と縁のある地蔵さんなのか?

Img_7455 高尾神社

鬼怒川と関係の深い水神(龍神)の高尾神は、高龗(たかおかみ)のことだろう。

Img_7456 説明板

Img_7459 将軍地蔵(そうめん地蔵) 《地図

①八幡太郎義家を大蛇から救い、②山伏から無理やりに素麺(そうめん)を食べさせられた坊さんの仕返しに、日光中のそうめんを食い尽くしたという、変わった遍歴のある地蔵。

②は日光の強飯式の起源とも説明板には書かれているが、その起源はもっと古いようだ。

Img_7460 説明板

Img_7463 勝山城跡付近 【ル-ト地図】の④

移築された長屋門など3棟が中央上にある。

Img_7474 長屋門(旧森家)

喜連川町(現さくら市)鹿子畑から移築。天保年間の建築。

手前は勝山城の空堀跡

Img_7466 旧大島家住宅

江戸中期の村役人の住居。矢板市塩田から移築。

Img_7472 旧手塚家板倉

明治10年の建造の二階建ての倉で、大正時代に氏家町の伝馬町に移築されたものをここに移築。

Img_7493 勝山城の空堀跡から大手門橋を渡り本丸跡へ

Img_7495 勝山城大手口から本丸跡

氏家氏は始め御前城(氏家小学校の所)に居住したが、鎌倉時代末からの戦乱で、鬼怒川の崖を要害とするこの地に築城した。その後、宇都宮氏の北辺を守る最前線として那須勢との攻防を繰り返し両城とも存続したが、戦国時代末の慶長2年(1597)に宇都宮氏の改易に伴い廃城となった。

Img_7503 説明板

Img_7502 城域図

二の丸東郭跡に「さくら市ミュージアム」が建築された。

Img_7513 搦手口から鬼怒川

下に願(含)満ケ淵(釜ケ淵)があり、伝承・伝説が残る。①奥州征討の時に源義家がここに陣を張り、戦勝を祈願した。満願の日に淵に「願満」の梵字が浮かび、その日に奥州を平定することができた。爾来、この淵を願満ヶ淵と呼ぶようになった。

②「竜宮城の貸し椀」:釜ケ淵は昔は竜宮城とつながっていた。竜宮城の乙姫さまは気立てがよく、村人が頼むと何でも貸してくれた。ある時、茶椀を100膳借りた村人が、あまりきれいなので最後の1膳を返さなかった。怒った乙姫さまは竜宮城との通路をふさいでしまった。それからは村人が願い事をしても叶わなくなったとさ。

③「雪姫と紅葉姫」:勝山城に色白で「雪姫」、赤いほっぺで「紅葉姫」と呼ばれた器量良しで仲良しの姉妹がいた。勝山城が戦さで攻められ落城した時、二人の姫は逃げずに高い崖から一緒に釜ケ淵に身を投げた。それからだいぶ年月が経った頃、この淵を通る船乗りたちは仲良く泳ぐ、白と赤の鯉をよく見かけるようになったとさ。この話には続きもあるが省略。搦手口(上の写真を撮った所)近くに伝説②③の石碑がある。

Img_7478 さくら市ミュージアム

Img_7482 光明寺の青銅不動明王坐像の木造の原型(ミュージアム内)

高さ3m80cmで木造坐像としては関東最大。

Img_7552 光明寺の青銅不動明王坐像

(2010年6月27日撮影)

Img_7480 説明板

ベイシアの北側から国道4号を渡り(信号なし)直進する。

Img_7523 お伊勢の森(左)

あたり一面は森だったそうだ。今は田んぼが広がっている。

Img_7521 説明板

旧奥州街道踏切(JR東北本線)を渡り、追分道標の立つ突き当たりを左折すると氏家宿。

Img_7527 追分道標(享保以前の建立) 《地図

奥州街道(左折)と大谷街道(右折)との分岐で、「右 江戸海道 左 水戸かさま 下だて 下づま」と彫られているそうだが、かなり磨り減っていて判読困難。馬頭観音は天保9年(1838)の建立。

左折した所が氏家宿の南木戸番所跡。

Img_7532 氏家宿の家並み(氏家交差点の先)

左の平石歯科が本陣跡だが、宿場当時の面影はない。

Img_7536 つた(蔦)地蔵堂 【ル-ト地図】の⑤

氏家公頼が藤原定家の七周忌に定家の面影を写した石仏を建立したと伝えられ、「定家地蔵」とも呼ばれている。 鎌倉時代には宇都宮氏を中心とした宇都宮歌壇が形成されていた。 氏家公頼は藤原北家筋の宇都宮朝綱の子で、定家も北家の流れ。裏の西導寺は公頼の開創。

蔦地蔵の由来は?

Img_7539 説明板

蔦地蔵の由来が書かれていない。

Img_7540 蔦地蔵(定家地蔵) 

台座と一体で彫られてた丸彫りの中世期の地蔵。どこに運んでも一晩で戻って来るという。藤原定家と似ている?

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2010年6月13日 (日)

中山道(安中宿→松井田宿)

2010年6月7日

安中駅(JR信越線)・・・国道18号・・・久芳橋(碓氷川)・・・県道125号・・・正龍寺(千手観音)・・・熊野神社・・・安中宿本陣跡・大手坂・大名小路・旧碓氷郡役所・安中教会・安中城址碑・安政遠足之碑・日本マラソン発祥の地碑・安中藩郡奉行役宅・武家長屋跡・稲荷神社・谷津坂・便覧舎跡・大木戸跡・・・新島襄旧宅・・・(国道18号)・県道48号・・・原市の杉並木・原市村戸長役場跡・・・原市高札場跡・茶屋本陣跡・・・真光寺・・・(国道18号)・・・旧碓氷社本社跡・・・簗瀬城址・城山神社・・・県道125号・216号・・・八本木立場跡・八本木地蔵堂・・・日枝神社・自性寺・・・国道18号・妙義道常夜灯・・・県道33号・・・松井田宿下木戸跡・徳右衛門脇本陣跡・崇徳寺・金井本陣跡・外郎店屋敷跡・松本本陣跡・不動寺・安兵衛脇本陣跡・高札場跡・上木戸跡・松井田八幡宮・・・補陀寺・・・旧道・・・新堀の一里塚跡(30)・・・松ノ木坂・・・第十中仙道踏切(信越線)・・・(国道18号)・(上信越自動車道)・・・五料村高札場跡・五料の茶屋本陣跡・・・榎踏切(信越線)・・・丸山坂・・・茶釜石・夜泣き地蔵  ・・・碓氷神社・高墓踏切(信越線)・・・百合若大臣の足痕石・・・下横川交差点・県道222号・第十五中仙道踏切・・・峠の釜飯おぎの屋・横川駅(信越線)

  【ル-ト地図

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Img_7051 熊野神社

安中城の鬼門除け、城下の総鎮守。

Img_7054 熊野神社の大欅(けやき)

推定樹齢千年。落雷で三分の二ほどが崩れ落ち、北東の傾いた残りの部分を鉄柱が支えている。この木に祈願すると、疣(いぼ)取りに霊験があるとか。

Img_7057 安中宿の家並み 《地図

この先の左側の安中郵便局が本陣跡。

その先の伝馬町交差点を右に曲がり大手坂を上る。

Img_7065 大手坂 【ル-ト地図】の①

坂上の旧碓氷郡役所跡前から坂下方向。安中城の大手門へと上る坂だったのだろう。ここから大名小路へ入る。

Img_7067 旧碓氷郡役所

Img_7071 安中教会

明治11年に新島襄などにより創立された、群馬県初のキリスト教会。

Img_7075安中城址(安中小学校)

左に「安中城址」の石碑。弘治2年(1556)武田信玄に敗れた上杉方の安中忠政が、武田軍の侵攻に備え築城。後ろ(北側)の文化センターあたりが本丸跡。 

Img_7085 安中藩郡奉行役宅(旧猪狩家)

Img_7082 安中藩安政遠足(とおあし)之碑・日本マラソン発祥の地碑(中央体育館前、ここも安中城址内)

毎年5月に碓氷峠の熊野権現まで「安中遠足侍マラソン」が開催される。

Img_7089 安中藩武家長屋 《地図

江戸末期の4軒長屋の復元。この東に5軒長屋が続いていたそうだ。

Img_7094 谷津坂を上る。《地図

Img_7096 サカウエ薬局

文字通り谷津坂の坂上。正面には「中仙道 清水商会」の看板が掛かっている。

Img_7103 大木戸跡

上野尻郵便局の敷地に「史蹟 安中大木戸趾」の石柱が立つ。

Img_7107 新島襄旧宅 《地図

旧宅といっても両親の家で、ここで過ごしたのは3週間ほど。江戸の神田生まれで、ここ中山道安中宿にも縁があり、東海道大磯宿で死んだ純日本的な?キリスト教の布教者、同志社大学の創立者か。

Img_7119 安中遠足の絵(並木配水池の貯水塔)

姫街道の気賀宿入口の貯水塔にも姫様道中の絵が描かれている。

Img_7123 原市の杉並木 【ル-ト地図】の②

数本しか残っていないと思っていたが、これならまだ杉並木と呼べそうだ。天保15年(1844)には732本もあったという。

Img_7128 原市村戸長役場跡

この旧家の隣

Img_7133 茶屋本陣(五十貝家)・原市高札場跡

明治天皇の北陸東海巡幸の小休止所跡でもある。

Img_7140 真光寺の時の鐘 《地図

真光寺の鐘は、板鼻の称名寺の鐘(昨日見学)、下秋間の桂昌寺の鐘とともに、戦時中に安中市で供出を免れた3鐘の一つ。原市の仁井与惣衛門が真光寺に寄付した梵鐘を、安中藩主板倉勝暁から「時の鐘」として打ち鳴らす許可がおりた機会に鋳直し、天明元年(1781)に撞き始めを行ったという。 鐘楼はもとは中山道に面していた。左奥は原市教会

中山道から離れ、南に国道18号を渡り旧碓氷社本社事務所、簗瀬城址(城山神社)へ向かう。

Img_7144 旧碓氷社本社事務所 《地図

明治11年に設立された組合製糸の事務所。富岡製糸場に代表される器械製糸は、器械を使って各地から購入した繭から生糸を生産するのに対して、碓氷社などの組合製糸は、組合員(養蚕農家)が座繰りにより自家製の繭を繰糸したものを持ち寄って出荷するという形態だった。組合製糸は西毛に多く、碓氷社、甘楽社、下仁田社は「南三社」と呼ばれ、その生糸の品質は海外でも絶大な信用を誇ったそうだ。

Img_7148簗瀬城址へ向かう坂(県道48号)

坂下(碓氷川)までは行かず、すぐ右に曲がってしまうのだが。

Img_7153簗瀬城址の空堀と土塁跡(旧碓氷社の南)

戦国時代に安中氏によって築かれた安中城と松井田城の繋ぎの城か。

Img_7151 城山神社

土塁内の本丸跡

Img_7160 八本木地蔵堂 《地図

日本三地蔵(新発田、八本木、壬生)の、田舎造りの素朴で頭頂が扁平という延命地蔵は百年に一度の開帳だと。有難くもないよ。

日本三地蔵は日本三体地蔵とは違うのだろう。 日光西街道(壬生通)には日本三体地蔵の縄解地蔵 がある。後の2体は京都市と三重県名張市だったが。

Img_7159 縁起

地蔵堂の前が八本木立場(山田卯兵衛茶屋)跡

Img_7172 自性寺(じしょうじ) 《地図

応永3年(1396)と嘉吉3年(1443)の相輪、笠、塔身、基礎からなる関東形式の宝篋印塔がある。

山門前には双体道祖神

Img_7176 双体道祖神

肩を組んで徳利を持って、昼間から「一杯やっか」 これで神さんかよ。

Img_7186 妙義道常夜灯 《地図

もとは東へ50mの中山道から妙義道への入口にあったが、昭和60年にここに移転された。

Img_7189 説明版

Img_7192 妙義山

Img_7199 松井田宿下木戸跡 【ル-ト地図】の③

上木戸までは6丁6間(677m)で、木戸内には両側に掘割があった。ここの「ももんが堀」(現在は暗渠)は掘割の用水を集め碓氷川に放流していた。

Img_7203 徳右衛門脇本陣跡 《地図

この先の県信用組合(左)あたりが金井本陣跡、山城屋酒店(右)が陳道斎の外郎(ういろう)店屋敷(虎屋)跡(東海道小田原宿の外郎店の支店)、仲町交差点の先に松本本陣跡(右)、オーツカ肉店が安兵衛脇本陣跡(左)。ただし遺構らしき物は見当たらず。

Img_7212 崇徳寺山門

足利尊氏の開基という臨済宗の寺。山門には双龍の彫られている。西上州14番札所。

Img_7207 畑中医院(跡)

右下に「松井田町道路元標」が立つ。

Img_7205 辻中薬局(伊勢屋)

Img_7214 東屋洋品店跡?

Img_7222 不動寺仁王門

寛元元年(1243)に慈猛上人が開山したと伝えられる。戦国時代は武田信玄の帰依を受けて寺領の寄進をされ、武田家の祈願所として栄える。江戸幕府からも庇護され三代将軍徳川家光から朱印地89石6斗を賜わる。末寺は17ヵ寺に及ぶ大寺だったという。西上州13番札所。

Img_7221 石塔婆

南北朝時代の異形板碑。板碑というよりは大きな石の塊の感じだ。

Img_7218 説明版

Img_7231 上木戸跡を流れる「立が堀」 《地図

昔は生活用水に使われていた。手前に高札場があった。

Img_7233 松井田八幡宮

建久8年(1197)に源頼朝が参拝に訪れたとの記録がある古社。境内の建築物の配置は仏教的で、神仏混交を示す八角円堂(写真左)があり、拝殿も護摩壇と称されている。

境内の階段を下りて来る途中で、役場の放送が聞こえた。「昨日、五料○○で熊が出没した」という。2度繰り返したが○○は聞き取れず。今でもちゃんと熊ちゃんは出るのだ。この先で五料の地域を通るのだが、ご対面は遠慮申し上げる。

Img_7236 松井田商工会

昭和13年の建築

Img_7243 補陀寺

「関左法窟」(関東一の道場)の扁額の山門。北の御殿山が松井田城址で、この寺も城郭の一角で、補陀寺郭と称されていた。

Img_7259 五料の茶屋本陣(お東) 【ル-ト地図】の④

Img_7263 説明版

Img_7261 お西

Img_7264_2 お東?

休館日で入れず。

Img_7272 丸山坂を上る。【ル-ト地図】の⑤

右に馬頭観音、青面金剛塔、その先の左側に茶釜石と夜泣き地蔵がある。

Img_7276 ①茶釜石(手前)・②夜泣き地蔵(右端)

①は叩くと空の茶釜のような音がするのでその名がある。小石で叩いたら確かに金属音がした。

「五科(五両)では あんまり高い茶釜石 音打(値うち)をきいて通る旅人」(太田蜀山人)

②昔、ここを通った馬方が荷のバランスをとるために脇に落ちていた地蔵の首を乗せて深谷まで行き、首をそこに捨ててしまった。その後、夜な夜な「五料恋しや」と泣く声が聞こえるので、深谷の人が哀れに思い、この首を拾い五料まで運んで、胴に乗せてやったという。

東海道浜松宿の成子坂の「泣き子地蔵」、宮宿の追分に立つ「ほうろく地蔵」にも同じような由来話がある。

Img_7278 馬頭観音が立つのどかな道。

熊が出るような雰囲気はまったく感じないが、その油断が災いを招くか。

Img_7288 碓氷神社

碓氷峠の熊野神社の分社。

神社前で高墓踏切を渡る。

Img_7295 百合若大臣の足痕石

うっかりすると見落としてしまう、凹みがあるが何てことはない石。ダイダラボッチ伝説のミニチュア版みたいな話。

Img_7294 説明版

Img_7299 碓氷川と妙義山方向

Img_7304峠の釜めし」おぎのや・横川駅

ビールと釜飯で今回の打ち上げ。やっぱりここの釜飯は旨い。

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2010年6月10日 (木)

中山道(高崎宿→板鼻宿)

2010年6月6日

高崎駅(JR高崎線)・・・連雀町交差点・・・本町3交差点・・・山田家・・・恵徳寺・高崎神社・・・赤坂・・・長松寺・・・岡醤油店・山田文庫・・・国道354号・君が代橋(烏川)・・・万日堂・・・国道406号・・・石神社・・・草津道道標①②・・・若宮八幡宮・・・常安寺・・・茶屋本陣跡(飯野家)・・・金崎不動尊・・・国道18号・・・藤塚の一里塚跡(28)・・・鼻高橋(碓氷川)・・・達磨寺・・・鼻高橋・・・国道18号・・・八幡八幡宮一の鳥居・・・板鼻下町交差点・・・県道137号・・・(信越線)・・・榛名道道標・長伝寺・板鼻宿本陣跡・本陣書院跡(和宮資料館)・板鼻堰・・・鷹之巣橋東交差点・県道171号・・・称名寺・・・聞名寺・・・南窓寺・・・大乗院・・・鷹巣城址あたり・・・鷹巣神社(跡)・・・碓氷の渡し跡・鷹之巣橋(碓氷川)・・・諏訪神社・旧道・一里塚あたり(29)・安中中宿・庚申塔道標・・・蠶養神碑・道祖神・・・寒念仏供養塔・・・国道18号・・・安中駅(JR信越線)

  【ル-ト地図

 『中山道新町宿→高崎宿』の続きです。

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Img_6863 山田家(旧山源漆器店) 《地図

明治15年頃に建てられた重厚な店蔵。

Img_6870_2 高崎神社

社宝の鰐口(非公開)がある。

Img_6873 赤坂を下る。【ル-ト地図】の①

昔は赤土のむきだした坂が烏川へと下っていたのだろう。

坂上の恵徳寺の開山大光普照禅師は、初代の高崎城主井伊直政から、「和田の名称を松崎と変えたいが」 の問いに 「松は枯れるが、高さには限りがない、その意をとって高崎はいかが」 と進言し、「高崎」の地名が生まれたという。

Img_6874 長松寺

狩野探雲(たんうん)の署名のある、『天井絵、涅槃画』がある。狩野探幽ではないよ。

Img_6879 岡醤油 《地図

「日本一醤油」、いい名だ。天明7年(1787)創業の河内屋が、明治30年にここに「岡醤油醸造」を開業。

Img_6882 山田文庫

明治から昭和と産業界で活躍した山田昌吉、大正末期のドイツ滞在を経て京大教授、高崎倉庫社長となり、1974年に山田文庫を創設した山田勝次郎の居宅跡。

明治以前の建物と思われる屋敷蔵、土蔵2棟、明治16年移築の茶室、九蔵町の茂木銀行から移築したと伝えられるレンガ塀がある。現在は図書館として公開されている。

Img_6887 君が代橋親柱が保存されている。

明治11年に明治天皇が北陸・東海行幸の時に、馬車で木橋を渡ったことを記念して命名された。

木橋→鋼橋→三層のインターチェンジ(昭和62年)

Img_6891 君が代橋から「みかえり阿弥陀」の万日堂(正面左) 【ル-ト地図】の②

全国に5体しかないという阿弥陀像は拝めず。
京都の禅林寺のみかえり阿弥陀像は真横を向いている。

Img_6894みかえり阿弥陀伝説

Img_6901 草津道道標① 《地図

正面分岐に、「右はるなみち くさつみち」の自然石の道標。直進の国道406号が信州街道、左にカーブするのが中山道。

Img_6906 草津道道標②

カーブして少し先の八坂神社の小祠の所。ここがもとの分岐点だった。

正面に「榛名山 草津温泉」と刻む。①の所へ移され、またもとの所へ戻された。

Img_6903 説明版

Img_6909 若宮八幡宮

奥州の安倍氏鎮圧に向う、源頼義・義家父子が建立したいう。

「義家の腰掛石」は見当たらず。茶屋本陣の先の右側に「八幡太郎の笛吹き石」なるものがあるそうだが、それが腰掛石なのだろうか?

Img_6926 上豊岡の茶屋本陣跡(飯野家) 《地図

高崎宿と板鼻宿の間の大名、上級武士、公卿などの休憩所。

Img_6922 説明版

Img_6924 銀箔の襖絵

今は銀色には光っていない。

Img_6931 金岡不動尊

Img_6929 不動明王

木彫りの像のようだ。

Img_6934 藤塚の一里塚跡(28) 《地図

群馬県で唯一残る一里塚。塚上に榎が2本。

Img_6943 達磨寺総門

ここからけっこうな石段を上り、鐘楼門をくぐる。

Img_6946 達磨寺霊府堂(本堂)

納められた達磨たちが両脇に重なっている。境内には日本全国の達磨を集めた達磨堂、ブルーノ・タウトが暮らした洗心邸などがある。

Img_6948 達磨堂

西洋人形も達磨か?

Img_6954 観音堂

創建当時の姿をとどめる達磨寺最古の茅葺の堂。

Img_6958八幡八幡宮の一の鳥居

この先で国道18号から分かれ県道137号に入る。信越線をくぐって板鼻宿へと入って行く。右側にやはたみち(八幡八幡宮)、榛名道の道標が立っている。

Img_6980 板鼻宿本陣(木島家)跡 【ル-ト地図】の③

手前左側の福田脇本陣跡碑は見当たらず。

後ろ(北側)を板鼻堰用水路が流れている。

Img_6993 本陣書院跡(皇女和宮資料館)

文久元年(1861)11月10日和宮が泊まった所。

Img_6981 てうちん屋跡(本陣跡の左隣)

店前に「花屋」の看板が立っている。花を売っているようには見えないが。昔は焼餅も売っていたそうだ。

Img_6971 板鼻堰用水路 《地図》(表示は板鼻川)

鷹巣山麓の堰口から碓氷、九十九両川の水を取り入れ、安中市板鼻、高崎市八幡町、剣崎町、藤塚町、上豊岡町、中豊岡町、下豊岡町を経て、烏川に落水する延長15km、灌漑面積150ヘクタールの、今から400年ほど前の慶長年間中期から後期に開鑿されたという用水路。

Itahana「英泉の板鼻」

板鼻堰用水路が描かれている。

Img_6990 称名寺

梵鐘は郷土鋳物師、金井兵部重久が宝永5年(1708)に鋳造したもので、戦時中の供出から免れた。

Img_6997 聞名寺

一遍上人の笈」がある。

少し西の南窓寺の北側の鷹ノ巣山の台地(古城住宅団地の東側)が鷹巣城跡《地図》で上ってみたが、遺構、案内板などは見つからず。

Img_7009 鷹巣神社(跡) 《地図

荒れ果てて、神門の先は草茫々で行くことができない。とても「営業中」の現役の神社とは思えないが。

Img_7017 鷹ノ巣茶屋跡(現在の茶屋伊勢路)

この前が「碓氷の渡し」跡 【ル-ト地図】の④

Img_6966 説明版

Img_7019 碓氷の渡し跡から妙義山   

夏は川越人足、冬は仮橋で渡ったようだ。

今は鷹之巣橋を渡って、諏訪神社前から安中中宿の旧道へ入る。 江戸から29番目の一里塚跡の標柱が立っているようだが見逃した。

Img_7029 庚申塔道標(享和2年(1802)建立)

左側面に「従是一宮 大日街道」とある。一宮とは富岡市の貫前(ぬきさき)神社

Img_7034 養神・道祖神(左の木の下)

養蚕の神だろう。

Img_7039 寒念仏供養塔 【ル-ト地図】の⑤

彫られているのは何の像か?

旧道はここを直進して碓氷川を渡ったが、今は国道18号の久芳橋を渡る。

Img_7041 東邦亜鉛工場(安中駅から)

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2010年6月 8日 (火)

厚木市の坂-8

2010年6月2日

本厚木駅(小田急線)バス→旗谷入口・・・旗谷坂・・・恩曽川・・・三島神社・・・小谷坂・・・龍栖神社・・・小谷戸坂・・・上古沢交差点・・・野竹沢橋(恩曽川)・・・順礼坂①・・・七沢森林公園・・・順礼峠・・順礼坂②・・・坂下橋(上谷戸沢)・・・県道64号・・・日向川橋・・・小野橋(玉川)・県道603号・・・山王坂・山王社・・・学校坂・・・南毛利入口交差点・・・屁っぴり坂・・・観音坂・・・長谷寺・・・観音坂バス停→本厚木駅

 2年ぶりの厚木市の坂道散歩です。

  【ル-ト地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_6744 旗谷坂(坂下方向) 下古沢入口交差点から南西から北西に下る坂。 【ル-ト地図】の①

このあたりの地名による坂名。小谷坂、小谷戸坂へと続く道。

Img_6749 坂上方向

右側に道祖神、馬頭観音

Img_6750 坂下方向

Img_6755 小谷(おだに)坂(坂上方向) 《地図

坂沿いに小谷という人が住んでいたことによる坂名。

Img_6756 龍栖(りゅうせい)寺

Img_6759 小谷戸坂(坂上方向) 小谷坂から続く坂。

電柱の左側に石柱の坂標が立つ。

「昭和40年代前半、農免道路が開通するまでの長期間、上古沢とを結ぶ重要な道路(坂道)だった。」(坂標)

Img_6763 坂下方向

Img_6769 順礼坂① 順礼峠へ南西方向に上る坂【ル-ト地図】の②

Img_6771 熊注意の貼り紙

いつ頃のものか? 周囲は開発が進んで、熊の出るような雰囲気はない。

Img_6774山道っぽくなるが、すぐこの先で新しい住宅街の舗装道路へ出る。

Img_6782 七沢森林公園内の石畳を少し上れば順礼峠

Img_6784 順礼峠 《地図

坂東三十三ヵ所観音霊場の5番の勝福寺の飯泉観音(小田原)から6番の長谷寺の飯山観音(厚木)に向かう道。相模国三十三ヵ所では、18番の飯山観音から座間市の19番の星谷観音(ほしのやかんのん)へ行く道です。標高は200mもないか。

Img_6787 地蔵 

この峠で盗賊に殺された巡礼の娘と老人の霊を弔うために村人が建立したという。

Img_6790 ここは猿に注意

Img_6797 順礼坂②を七沢方面へ下る。

Img_6798 鹿よけの有刺鉄線の張られた扉を開けて通る。

Img_6803 上り口

馬頭観音などの石造物が並ぶ。

Img_6814 山王坂(坂上方向) 【ル-ト地図】の③

坂上に山王社がある。

Img_6817 山王社

鳥居がなければこれが神社とは分からないだろう。

Img_6816 坂下方向

Img_6826 学校坂(坂下方向) 《地図

温水の低地から南方向に長谷へ抜ける道で、坂上を行くと南毛利小学校がある。

Img_6829 坂下方向

Img_6830 坂上方向

Img_6835 屁っぴり坂(右・坂下方向) 【ル-ト地図】の④

昔は急坂で荷車を引く時など力が入り、思わず屁が出たという。今は小さな坂で、昔の急坂の面影はまったくない。

Img_6836 坂上方向

Img_6837 双体道祖神(屁っぴり坂から観音坂への途中)

このあたりの道祖神は双体のものが多い。

Img_6839 観音坂(坂下から) 北東に上る坂。 【ル-ト地図】の⑤

厚木村から長谷村を通り大山に至る旧道で、小高い丘に長谷観音が祀られていた。長谷寺は坂の西側にある。

坂下には延命地蔵堂、その脇にセエノカミサンと呼ばれる2体の双体道祖神、馬頭観音などがある。

Img_6841 延命地蔵尊

Img_6848 坂下方向

Img_6853蓬莱山長谷寺(ちょうこくじ) 

Img_6849観音像は運慶が鎌倉の長谷寺の観音と同じ木で彫ったもので、北条時頼の奥方の信仰が厚かったという。

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2010年6月 1日 (火)

姫街道④(三ケ日宿→本坂峠→嵩山宿→御油宿)

2010年5月8日

三ケ日駅(天竜浜名湖鉄道)・・・三ケ日宿・本陣跡・・・釣橋川橋・宇利山川橋・・・三ケ日高校・・・華蔵寺・・・西小学校分校跡・・・板築駅跡・・・本坂の一里塚跡(72)・・・橘神社・橘逸勢の墓・本坂の関跡・高札場跡・・・鏡岩・・・椿の原生林・・・本坂峠(328m)・・・弘法水・・・嵩山(すせ)の七曲り・・・茶屋跡・・・座禅岩・・・腰掛岩・・・嵩山の一里塚跡(73)・・・堂の坂・・・挟石川(重王橋)・・・嵩山宿本陣跡・市場城址あたり・高札場跡・天神川・・・国道362号・・・長楽寺・・・長楽の一里塚跡(74)・・・弁慶首塚松跡・馬頭観音・(高井城址)・小倉橋(牟呂用水)・・・旧道・・・当古の渡し跡・当古橋(豊川)・・・当古橋公園(旧中山家跡)・・・三谷原神社・・・(三橋の一里塚跡(75))・・・寿命院・・・熊野神社・・・三明寺・・・(名鉄線)・・・スサノオ神社・・・金谷橋(佐奈川)・・・諏訪神社・(諏訪の一里塚跡(76))・・・本宮山遥拝所・・・永昌寺・・・三河国分寺跡・・・国府八幡宮・・・三河国分尼寺跡・・・桜地蔵尊・・・三河総社(三河国府跡)・・・船山古墳・・・(名鉄線)・・・追分(東海道合流点)・・・国府(こう)駅(名鉄線)

 昨日は朝から雨で名古屋競馬と名古屋市内で時間をつぶした。うって変わっての好天の中を本坂峠を越え、姫街道の西の終点の東海道との合流点、御油の追分を目指す。本坂峠を越えて嵩山宿へ下るまでの姫街道は気分がいいが、そこからの国道歩きが長く、見所も少なくいい加減疲れてきた。三河国分寺などに寄ったせいもあり、思ったより距離もあった。もう一泊浜松に泊まり、明日ゆっくりと帰るとしよう。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_6482 清水呉服店 《地図

嘉永3年(1850)の創業。東側に石川脇本陣、向かいに本陣小池家があった。

Img_6483 三ケ日宿本陣跡

Img_6491 釣の秋葉常夜灯

鞘堂は明治14年の建造。

Img_6497 華蔵寺の朱塗りの山門

Img_6499 三ケ日町立西小学校日比沢分校跡

昭和25年の建築。校庭に二宮金次郎の石像が立っていた。もとは銅像だったが、戦時中に金属供出されてしまったそうだ。

Img_6503 板築(ほうずき)駅推定地 《地図

承和9年(842)、橘逸勢が謀反を起こし(承和の変)、伊豆へ配流される途中で、板築駅で死去したという。板築駅は東海道の猪鼻駅が廃絶された時期(天長10年(833)~承和10年)に臨時に設置された駅という。所在地については異説もある。

Img_6508 本坂の一里塚跡(72) 【ル-ト地図】の①

Img_6514 馬頭観音

各地から集められたもので、中央は文久3年(1863)の建立。毎年3月午の日に家畜供養祭が行われる。西隣は牛馬の埋葬地だったという。

Img_6517 周辺案内図

Img_6521 橘神社

石段上に橘逸勢の墓と伝える石塔、娘の妙冲尼(みょうちゅうに)の孝行を称えた旌孝(せいこう)碑がある。

Img_6520 説明板

Img_6526 本坂の関推定地

気賀関所が設置により廃止された古関。

Img_6525 説明板

Img_6528 高札場跡・秋葉灯篭《地図

本坂本陣の庄屋梅藤家が左に入った所にあったようだ。

Img_6529 説明板

Img_6533 本坂の集落を振り返る。

国道を横切り、本坂峠への上りとなる。

Img_6535 弘法堂

一体は金銅製というが両方とも石造に見える。

Img_6536 説明板

Img_6540 本坂峠へ

Img_6544 鏡岩

東海道鈴鹿峠の鏡岩は、山賊の物見用とぶっそうだが、ここのは旅する女人の化粧用とは、さすが姫街道らしい。でも今は光っていない。

Img_6543 説明板

Img_6550 椿の原生林の石畳を上る。

ヤブツバキの群生地で樹齢200年以上のものもあり、見頃は1月から3月だそうだ。

Img_6552 本坂峠(326m) 【ル-ト地図】の②

平安時代には流人の橘逸勢が、江戸時代には将軍吉宗の母の浄円院や、将軍に献上される象も通り、嘉永6年(1853)には天璋院篤姫がこの峠を越えた。姫街道は公的には「本坂通」と呼ばれていた。

Img_6554 弘法水

峠のすぐ下に湧く。大師が杖で湧かせた湧き水かと思ったが、大師がこの水で喉を潤したんだと。

Img_6560 通行止めの標識

三ケ日側には設置されていなかったようだったが。今さら「全面通行止」(平成22年4月22日から8月?日)なんて、もう遅いよ。そう言えば伐採の機会音がしていたか。

Img_6564 嵩山の七曲りを下って行く。

Img_6566 茶屋跡

こんな所に茶屋があったのとは。

Img_6568 座禅岩

こんな街道沿いで座禅をする人がいたの? 形だけの話だろう。

Img_6577 嵩山の一里塚跡(73)

まだここは山中だ。

Img_6580 姫街道の案内板

Img_6581 堂の坂を下って嵩山宿へと入って行く。

Img_6591 嵩山宿の家並み 【ル-ト地図】の③

Img_6594 旧家

Img_6597 案内図

この先の市場城址、高札場跡には説明板などはなかった。

市場城址は室町末期の西郷氏の居城で、永禄5年(1562)に今川氏により落城。自由が丘団地の西側に土塁の一部が残るそうだ。

Img_6600 本陣跡

低い塀は本陣夏目家の遺構か?

Img_6609 長楽寺

吉田への分岐点にあったと思われる地蔵道標が境内の石仏群の中にあり、「右ごゆ道 左よし田道」と刻まれているそうだ。

Img_6611_2 常夜灯と道標(和田辻東)

道標には「右豊川」「左豊橋」とある。

Img_6615 長楽の一里塚跡(74) 《地図

この先の三橋の一里塚跡(75)(三谷原神社と寿命院の間か)、諏訪の一里塚跡(76)(諏訪神社の西あたりか)は痕跡なしで位置不明。

Img_6619弁慶首塚二本松碑(右)と馬頭観音(左)

小倉橋の手前(右側)

Img_6621 弁慶首塚二本松の碑

「ここに弁慶の首塚が有り、径七尺の二本の松の大木があった。一本は明治26年4月に、もう一本は明治32年9月に倒れてしまった。それを惜しんで地元の有志が明治34年7月に碑を建てた」(要約)

弁慶の首塚の由来は何なのか?

Img_6622 馬頭観音

「水難除」とある。大正12年に三ヶ日、遠州、牛久保、豊橋、豊川、嵩山などの交通運輸関係者が建立したようだ。馬頭だけで観音像は彫られていない。

Img_6626 高井城址(馬頭観音の道路向い側)

南北朝時代、南朝方の忠臣高井主膳正が築いたという。堀跡、土塁跡が残るそうだ。城之内という地名も残っている。

Img_6631国道と分かれ旧道に入り、当古の渡し跡へ

Img_6635 当古の渡し跡あたり(当古橋から) 【ル-ト地図】の④

正面の山は三河国一宮の砥鹿神社の神体山の本宮山(789m)で山上に奥宮がある。

Img_6640 当古橋公園 《地図

当古村の庄屋で、当古の渡しの権利を持っていた中村家の跡地。中村家は市場城主だった西郷家の家系のようだ。

Img_6637 説明板

Img_6647 熊野神社

Img_6648 由緒

Img_6656 三明寺三重塔(国指定重文)

一層、二層が和様で、三層は反りのある禅宗様。なるほど言われて見れば納得。

Img_6653 説明板

Img_6659 三明寺本堂

堂内の宮殿が国の重文。

Img_6658 説明板

Img_6663自動車修理販売店とは見えないだろうな。

Img_6669 変わった造りの塔。

世界神道教だそうだ。

Img_6675 本宮山遥拝所

本宮山(789m)山頂の三河国一宮砥鹿神社奥宮の遥拝所

Img_6676旧家が崩れてしまいそうだ。

Img_6690 三河国分寺跡

正面の本堂がかつての国分寺の金堂跡地。

Img_6692 三河国分寺全体図

Img_6691 説明板

Img_6682 国府八幡宮

Img_6705 三河国分尼寺伽藍配置図

Img_6694 正面は中門と回廊の一部(復元)

Img_6703 説明板

Img_6706 南大門跡から中門、その後ろが金堂跡、講堂跡

Img_6712 桜地蔵尊

由来は?

Img_6716 三河総社 《地図

このあたりが三河国府跡で、東隣の曹源寺が国庁跡

Img_6720船山古墳 《地図

5世紀中頃の築造の全長94mの前方後円墳だが、無残にも前方部も後円部も削り取られている。

Img_6726 名鉄の線路を越え、国道を渡り御油の追分へ

Img_6730 御油の追分(東海道との合流点) 【ル-ト地図】の⑤

右へ曲がれば東海道御油宿、左に曲がれば御油の一里塚跡

Img_6735 御油の一里塚跡(76)

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