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2010年6月24日 (木)

奥州街道(宇都宮宿→白沢宿→氏家宿)

2010年6月20日

東武宇都宮駅・・・朝日坂・・・オリオン通・・・幸橋(田川)・県道10号・・・篠原家住宅・・・八坂神社・県道125号(白沢街道)・・・(東北新幹線)・・・竹林町交差点・長屋門(岩淵家)・・・根来塚跡(白山神社)・・・処刑場跡・・・(国道119号)・・・海道町・・・(県道157号)・・・稚児ケ坂・・・白沢地蔵堂・薬研坂・・・白沢宿交差点・本陣宇加地家・明星院・薬師堂・九郷半橋(九郷半川)・・・西鬼怒川橋(西鬼怒川)・・・白沢の一里塚跡・間田之碑・・・鬼怒川土手・・・鬼怒川の渡し跡・・・阿久津大橋(鬼怒川)・阿久津河岸跡・・・船玉神社・・・浮島地蔵・・・与作稲荷神社・・・大日堂・高尾神社・・・将軍地蔵(そうめん地蔵)・・・さくら市ミュージアム・勝山城址・・・(ベイシア)・・・(国道4号)・・・お伊勢の森・・・旧奥州街道踏切(JR東北本線)・・・追分道標・氏家宿南木戸番所跡・氏家交差点・本陣跡・西導寺・蔦地蔵(定家地蔵)・・・氏家駅(JR東北本線)

  *『日光街道(小金井宿→宇都宮宿)』の続きです。

  【ル-ト地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_7309 幸橋から田川(下流方向)

田川は古来、洪水の被害を数多く発生させた「暴れ川」だった。昭和30年頃までは夏になると水神様に対する信仰と感謝から、人々が梵天をかつぎ川へ入り、もみ渡る光景が見られたそうだ。

上河原の市は奥州大名の参勤交代の邪魔になるため、寛永11年(1634)からは年1回の初市のみが催されるようになった。年に一度だけにするとはひどい話よ。

Img_7316旧篠原家住宅 《地図

江戸時代から奥州街道口の現在の場所で、醤油醸造業や肥料商を営んでいた。現在の建物は明治28年(1895)に建てられたもの。

内部を公開しているがまだ開館前。

Img_7317 説明板

この先の今泉町交差点を左に入ると江戸時代の三大仇討の一つ、「浄瑠璃坂の仇討」の発端の刃傷事件があった興禅寺がある。浄瑠璃坂は新宿区市谷にある坂。

Img_7319 八坂神社

康平6年(1063)に宇都宮城の鬼門除けとして、粟田口(藤原)宗円(宇都宮氏)が創始したと伝える、方位、厄除けの守護神。

Img_7323 長屋門(岩淵家)

竹林交差点の先の左側

Img_7331 根来塚跡・白山神社 【ル-ト地図】の①

「徳川秀忠(江戸幕府二代将軍)と宇都宮城主本多正純にまつわる伝承-①」 元和7年(1621)、宇都宮城改築に際して、秀忠が派遣した根来組同心百人衆を本多正純が処刑した。ここに胴塚、首塚、馬塚が築かれたという。

左側に少し雑草に覆われた土の高まりが残り石の小祠もあるが、説明板などはない。

Img_7332 名残りの一本松か

栃木銀行前

Img_7333 宇都宮藩処刑場跡(栃木銀行の裏) 《地図

「徳川秀忠と宇都宮城主本多正純にまつわる伝承-②」 元和8年(1622)、秀忠が日光社参に先立って差し向けた江戸城守備の鉄砲組が根来組同心百人衆で、ここで処刑された。亡霊となって現れた根来衆を供養して建てたのが「首切り地蔵」だという。

これらの伝承が、「宇都宮城釣天井事件」の物語の背景ともなっているのだろう。

Img_7334 処刑者の供養のための地蔵か。

地蔵堂将棋クラブ内に「首切り地蔵」があるというが見つからず。ここは民家の敷地内。 

Img_7339 街道沿いの旧家

大谷石の蔵

Img_7344 海道町に残る並木

杉ほか種々の樹木が混じるようだ。「海道新田の一里塚」はどこにあったのか?

Img_7351 稚児ケ坂(坂上方向) 【ル-ト地図】の②

建久元年(1190)、源頼朝から陸奥留守職(奥州総奉行)に補された伊沢家景(留守氏の祖)が家族らと任地に向かう途中、この地で子供が病死したという。

この坂の由来伝承はこの先の白沢地蔵とも関わりがある。

Img_7352 坂上近く

今は切り下げられて緩やかな坂だが、歩道の部分は一段高くなっている。昔はもっと急な坂だったのだろう。

Img_7357樹林が残っている。この先の白沢歩道橋で県道125号は左へカーブし、奥州街道は直進する。

Img_7359 街道沿いの洋館

Img_7364 薬研坂(坂下方向) 【ル-ト地図】の③

左に「勝善神」(牛馬の守護神)の石塔、少し先の右側に白沢地蔵堂がある。

Img_7375説明板

Img_7378 坂下方向

「く」の字にカーブする形が薬研に似ているからという。

東京港区赤坂の「薬研坂」は下って上る坂で、中央がくぼみ両側の高い形が薬研に似ているため。『港区の坂-6』に記載。

Img_7367 白沢地蔵堂 《地図

稚児ケ坂の坂名の由来となった旅の途中で死んだ稚児を供養する地蔵を祀っている。

白沢宿七福神」の寿老人

Img_7369 伝説

Img_7371 白沢地蔵尊

Img_7387 白沢宿の町並み 《地図

各家には「屋号札」をつけ、掘割に水車を回し、柵もガードレールも作らず街道筋の景観に配慮しているのがいいね。

Img_7394 白沢宿説明板

Img_7391 白髭神社(白沢宿七福神の大黒天)の鳥居と「住吉屋」

Img_7393 本陣宇加地家(左側)

白沢郵便局長を勤めてきたので門前にポストか。

Img_7397 明星院

白沢宿七福神の布袋尊

Img_7399 薬師堂

白沢七福神宿の毘沙門天

井上清吉商店(酒造)の前で右折し、九郷半橋、西鬼怒川橋を渡って鬼怒川の土手まで直進する。

Img_7413 白沢の一里塚跡・間田之碑(白沢河原バス停の所)

一里塚はもとは鬼怒川土手(三本杉のあたりか)にあったようだ。説明板には江戸から30番目とある。

白沢宿七福神」の福禄寿。寺でも神社でもない所にあるのは珍しいか?

Img_7422 鬼怒川土手

このあたりが三本杉跡あたりで一里塚、三本杉稲荷があった所か?

少し先を右へ川側に下りて進む。

Img_7426 鬼怒川の渡し跡

春から秋までは舟渡しで、冬の渇水期には仮橋で渡った。増水時には川幅が800m以上にも及んで、しばしば川留めになり、旅人は南の白沢宿か北の氏家宿に泊まることになったという。

Img_7431 阿久津河岸跡(上阿久津大橋から) 《地図》(河岸の裏側に船玉神社、浮島地蔵がある)

勝山城が廃城となった慶長2年(1597)から間もなくの頃に開設された鬼怒川の舟運の一大拠点で、会津地方を含む奥州と江戸を結ぶ水陸の交通運輸の要衝として栄えた。人馬の往来の増加で荷物の運搬に停滞が起こるようになり、白河藩、会津藩などは新たに輸送専用道路の原方街道、脇街道の会津中街道・会津西街道を開き、氏家で扇の要のように集中させ阿久津河岸と結んだ。

Img_7484 説明板

Img_7487 氏家に集中する道路

東から関街道、奥州街道、原方街道、会津中街道、会津西街道。

Img_7435 奥州道中氏家宿の標識

阿久津大橋の上で宇都宮市から「さくら市」(2005年に氏家町と喜連川町が合併)に入る。つまらない市名をつけたものだ。

Img_7436 船玉神社

鬼怒川水運の船頭たちの守り神。船の形を模した境内で、舳(へさき)の位置に神殿が建てられた。

Img_7437 説明板

Img_7438 社殿前の常夜灯道標

台座に「右 奥州道」・「左 江戸道」、嘉永2年(1849)に定飛脚たちが献納したものという。

Img_7440 浮島地蔵堂

どんな洪水にも流されず、浮いてその地にとどまり救済する霊力があるという。子授け、安産、子育てと女人の信仰も篤い地蔵尊

Img_7441 説明板

Img_7442 浮島地蔵尊

Img_7443 堂の脇には女人たちの信仰が篤い、大小の十九夜塔が並んでいる。

Img_7446 与作稲荷神社 《地図

勝山城から洪水で流され、対岸の三本杉に祀られた後にこの地に祀られたという。一時は大人気を集め門前には稲荷町ができ、参詣者で賑わったそうだ。

Img_7447 説明板

「与作」とは人名だろうが誰なのか? 名前の由来が書かれていない。

Img_7451 塩釜地蔵(与作稲荷神社の境内)

これも阿久津河岸と縁のある地蔵さんなのか?

Img_7455 高尾神社

鬼怒川と関係の深い水神(龍神)の高尾神は、高龗(たかおかみ)のことだろう。

Img_7456 説明板

Img_7459 将軍地蔵(そうめん地蔵) 《地図

①八幡太郎義家を大蛇から救い、②山伏から無理やりに素麺(そうめん)を食べさせられた坊さんの仕返しに、日光中のそうめんを食い尽くしたという、変わった遍歴のある地蔵。

②は日光の強飯式の起源とも説明板には書かれているが、その起源はもっと古いようだ。

Img_7460 説明板

Img_7463 勝山城跡付近 【ル-ト地図】の④

移築された長屋門など3棟が中央上にある。

Img_7474 長屋門(旧森家)

喜連川町(現さくら市)鹿子畑から移築。天保年間の建築。

手前は勝山城の空堀跡

Img_7466 旧大島家住宅

江戸中期の村役人の住居。矢板市塩田から移築。

Img_7472 旧手塚家板倉

明治10年の建造の二階建ての倉で、大正時代に氏家町の伝馬町に移築されたものをここに移築。

Img_7493 勝山城の空堀跡から大手門橋を渡り本丸跡へ

Img_7495 勝山城大手口から本丸跡

氏家氏は始め御前城(氏家小学校の所)に居住したが、鎌倉時代末からの戦乱で、鬼怒川の崖を要害とするこの地に築城した。その後、宇都宮氏の北辺を守る最前線として那須勢との攻防を繰り返し両城とも存続したが、戦国時代末の慶長2年(1597)に宇都宮氏の改易に伴い廃城となった。

Img_7503 説明板

Img_7502 城域図

二の丸東郭跡に「さくら市ミュージアム」が建築された。

Img_7513 搦手口から鬼怒川

下に願(含)満ケ淵(釜ケ淵)があり、伝承・伝説が残る。①奥州征討の時に源義家がここに陣を張り、戦勝を祈願した。満願の日に淵に「願満」の梵字が浮かび、その日に奥州を平定することができた。爾来、この淵を願満ヶ淵と呼ぶようになった。

②「竜宮城の貸し椀」:釜ケ淵は昔は竜宮城とつながっていた。竜宮城の乙姫さまは気立てがよく、村人が頼むと何でも貸してくれた。ある時、茶椀を100膳借りた村人が、あまりきれいなので最後の1膳を返さなかった。怒った乙姫さまは竜宮城との通路をふさいでしまった。それからは村人が願い事をしても叶わなくなったとさ。

③「雪姫と紅葉姫」:勝山城に色白で「雪姫」、赤いほっぺで「紅葉姫」と呼ばれた器量良しで仲良しの姉妹がいた。勝山城が戦さで攻められ落城した時、二人の姫は逃げずに高い崖から一緒に釜ケ淵に身を投げた。それからだいぶ年月が経った頃、この淵を通る船乗りたちは仲良く泳ぐ、白と赤の鯉をよく見かけるようになったとさ。この話には続きもあるが省略。搦手口(上の写真を撮った所)近くに伝説②③の石碑がある。

Img_7478 さくら市ミュージアム

Img_7482 光明寺の青銅不動明王坐像の木造の原型(ミュージアム内)

高さ3m80cmで木造坐像としては関東最大。

Img_7552 光明寺の青銅不動明王坐像

(2010年6月27日撮影)

Img_7480 説明板

ベイシアの北側から国道4号を渡り(信号なし)直進する。

Img_7523 お伊勢の森(左)

あたり一面は森だったそうだ。今は田んぼが広がっている。

Img_7521 説明板

旧奥州街道踏切(JR東北本線)を渡り、追分道標の立つ突き当たりを左折すると氏家宿。

Img_7527 追分道標(享保以前の建立) 《地図

奥州街道(左折)と大谷街道(右折)との分岐で、「右 江戸海道 左 水戸かさま 下だて 下づま」と彫られているそうだが、かなり磨り減っていて判読困難。馬頭観音は天保9年(1838)の建立。

左折した所が氏家宿の南木戸番所跡。

Img_7532 氏家宿の家並み(氏家交差点の先)

左の平石歯科が本陣跡だが、宿場当時の面影はない。

Img_7536 つた(蔦)地蔵堂 【ル-ト地図】の⑤

氏家公頼が藤原定家の七周忌に定家の面影を写した石仏を建立したと伝えられ、「定家地蔵」とも呼ばれている。 鎌倉時代には宇都宮氏を中心とした宇都宮歌壇が形成されていた。 氏家公頼は藤原北家筋の宇都宮朝綱の子で、定家も北家の流れ。裏の西導寺は公頼の開創。

蔦地蔵の由来は?

Img_7539 説明板

蔦地蔵の由来が書かれていない。

Img_7540 蔦地蔵(定家地蔵) 

台座と一体で彫られてた丸彫りの中世期の地蔵。どこに運んでも一晩で戻って来るという。藤原定家と似ている?

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