中山道(安中宿→松井田宿)
2010年6月7日
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【ル-ト地図】
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安中城の鬼門除け、城下の総鎮守。
推定樹齢千年。落雷で三分の二ほどが崩れ落ち、北東の傾いた残りの部分を鉄柱が支えている。この木に祈願すると、疣(いぼ)取りに霊験があるとか。
安中宿の家並み 《地図》
この先の左側の安中郵便局が本陣跡。
その先の伝馬町交差点を右に曲がり大手坂を上る。
坂上の旧碓氷郡役所跡前から坂下方向。安中城の大手門へと上る坂だったのだろう。ここから大名小路へ入る。
明治11年に新島襄などにより創立された、群馬県初のキリスト教会。
安中城址(安中小学校)
左に「安中城址」の石碑。弘治2年(1556)武田信玄に敗れた上杉方の安中忠政が、武田軍の侵攻に備え築城。後ろ(北側)の文化センターあたりが本丸跡。
安中藩郡奉行役宅(旧猪狩家)
安中藩安政遠足(とおあし)之碑・日本マラソン発祥の地碑(中央体育館前、ここも安中城址内)
毎年5月に碓氷峠の熊野権現まで「安政遠足侍マラソン」が開催される。
江戸末期の4軒長屋の復元。この東に5軒長屋が続いていたそうだ。
谷津坂を上る。《地図》
文字通り谷津坂の坂上。正面には「中仙道 清水商会」の看板が掛かっている。
上野尻郵便局の敷地に「史蹟 安中大木戸趾」の石柱が立つ。
旧宅といっても両親の家で、ここで過ごしたのは3週間ほど。江戸の神田生まれで、ここ中山道安中宿にも縁があり、東海道大磯宿で死んだ純日本的な?キリスト教の布教者、同志社大学の創立者か。
姫街道の気賀宿入口の貯水塔にも姫様道中の絵が描かれている。
数本しか残っていないと思っていたが、これならまだ杉並木と呼べそうだ。天保15年(1844)には732本もあったという。
この旧家の隣
明治天皇の北陸東海巡幸の小休止所跡でもある。
真光寺の時の鐘 《地図》
真光寺の鐘は、板鼻の称名寺の鐘(昨日見学)、下秋間の桂昌寺の鐘とともに、戦時中に安中市で供出を免れた3鐘の一つ。原市の仁井与惣衛門が真光寺に寄付した梵鐘を、安中藩主板倉勝暁から「時の鐘」として打ち鳴らす許可がおりた機会に鋳直し、天明元年(1781)に撞き始めを行ったという。 鐘楼はもとは中山道に面していた。左奥は原市教会。
中山道から離れ、南に国道18号を渡り旧碓氷社本社事務所、簗瀬城址(城山神社)へ向かう。
明治11年に設立された組合製糸の事務所。富岡製糸場に代表される器械製糸は、器械を使って各地から購入した繭から生糸を生産するのに対して、碓氷社などの組合製糸は、組合員(養蚕農家)が座繰りにより自家製の繭を繰糸したものを持ち寄って出荷するという形態だった。組合製糸は西毛に多く、碓氷社、甘楽社、下仁田社は「南三社」と呼ばれ、その生糸の品質は海外でも絶大な信用を誇ったそうだ。
坂下(碓氷川)までは行かず、すぐ右に曲がってしまうのだが。
簗瀬城址の空堀と土塁跡(旧碓氷社の南)
戦国時代に安中氏によって築かれた安中城と松井田城の繋ぎの城か。
土塁内の本丸跡
八本木地蔵堂 《地図》
日本三地蔵(新発田、八本木、壬生)の、田舎造りの素朴で頭頂が扁平という延命地蔵は百年に一度の開帳だと。有難くもないよ。
日本三地蔵は日本三体地蔵とは違うのだろう。 日光西街道(壬生通)には日本三体地蔵の縄解地蔵 がある。後の2体は京都市と三重県名張市だったが。
地蔵堂の前が八本木立場(山田卯兵衛茶屋)跡
自性寺(じしょうじ) 《地図》
応永3年(1396)と嘉吉3年(1443)の相輪、笠、塔身、基礎からなる関東形式の宝篋印塔がある。
山門前には双体道祖神
肩を組んで徳利を持って、昼間から「一杯やっか」 これで神さんかよ。
妙義道常夜灯 《地図》
もとは東へ50mの中山道から妙義道への入口にあったが、昭和60年にここに移転された。
上木戸までは6丁6間(677m)で、木戸内には両側に掘割があった。ここの「ももんが堀」(現在は暗渠)は掘割の用水を集め碓氷川に放流していた。
徳右衛門脇本陣跡 《地図》
この先の県信用組合(左)あたりが金井本陣跡、山城屋酒店(右)が陳道斎の外郎(ういろう)店屋敷(虎屋)跡(東海道小田原宿の外郎店の支店)、仲町交差点の先に松本本陣跡(右)、オーツカ肉店が安兵衛脇本陣跡(左)。ただし遺構らしき物は見当たらず。
足利尊氏の開基という臨済宗の寺。山門には双龍の彫られている。西上州14番札所。
右下に「松井田町道路元標」が立つ。
不動寺仁王門
寛元元年(1243)に慈猛上人が開山したと伝えられる。戦国時代は武田信玄の帰依を受けて寺領の寄進をされ、武田家の祈願所として栄える。江戸幕府からも庇護され三代将軍徳川家光から朱印地89石6斗を賜わる。末寺は17ヵ寺に及ぶ大寺だったという。西上州13番札所。
南北朝時代の異形板碑。板碑というよりは大きな石の塊の感じだ。
上木戸跡を流れる「立が堀」 《地図》
昔は生活用水に使われていた。手前に高札場があった。
【ル-ト地図】の54建久8年(1197)に源頼朝が参拝に訪れたとの記録がある古社。境内の建築物の配置は仏教的で、神仏混交を示す八角円堂(写真左)があり、拝殿も護摩壇と称されている。
境内の階段を下りて来る途中で、役場の放送が聞こえた。「昨日、五料○○で熊が出没した」という。2度繰り返したが○○は聞き取れず。今でもちゃんと熊ちゃんは出るのだ。この先で五料の地域を通るのだが、ご対面は遠慮申し上げる。
昭和13年の建築
「関左法窟」(関東一の道場)の扁額の山門。北の御殿山が松井田城址で、この寺も城郭の一角で、補陀寺郭と称されていた。
五料の茶屋本陣(お東) 【ル-ト地図】の55
休館日で入れず。
右に馬頭観音、青面金剛塔、その先の左側に茶釜石と夜泣き地蔵がある。
①は叩くと空の茶釜のような音がするのでその名がある。小石で叩いたら確かに金属音がした。
「五科(五両)では あんまり高い茶釜石 音打(値うち)をきいて通る旅人」(太田蜀山人)
②昔、ここを通った馬方が荷のバランスをとるために脇に落ちていた地蔵の首を乗せて深谷まで行き、首をそこに捨ててしまった。その後、夜な夜な「五料恋しや」と泣く声が聞こえるので、深谷の人が哀れに思い、この首を拾い五料まで運んで、胴に乗せてやったという。
東海道浜松宿の成子坂の「泣き子地蔵」、宮宿の追分に立つ「ほうろく地蔵」にも同じような由来話がある。
熊が出るような雰囲気はまったく感じないが、その油断が災いを招くか。
碓氷峠の熊野神社の分社。
神社前で高墓踏切を渡る。
うっかりすると見落としてしまう、凹みがあるが何てことはない石。ダイダラボッチ伝説のミニチュア版みたいな話。
「峠の釜めし」おぎのや・横川駅
ビールと釜飯で今回の打ち上げ。やっぱりここの釜飯は旨い。
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