姫街道④(三ケ日宿→本坂峠→嵩山宿→御油宿)
2010年5月8日
三ケ日駅(天竜浜名湖鉄道)・・・三ケ日宿・本陣跡・・・釣橋川橋・宇利山川橋・・・三ケ日高校・・・華蔵寺・・・西小学校分校跡・・・板築駅跡・・・本坂の一里塚跡(72)・・・橘神社・橘逸勢の墓・本坂の関跡・高札場跡・・・鏡岩・・・椿の原生林・・・本坂峠(328m)・・・弘法水・・・嵩山(すせ)の七曲り・・・茶屋跡・・・座禅岩・・・腰掛岩・・・嵩山の一里塚跡(73)・・・堂の坂・・・挟石川(重王橋)・・・嵩山宿本陣跡・市場城址あたり・高札場跡・天神川・・・国道362号・・・長楽寺・・・長楽の一里塚跡(74)・・・弁慶首塚松跡・馬頭観音・(高井城址)・小倉橋(牟呂用水)・・・旧道・・・当古の渡し跡・当古橋(豊川)・・・当古橋公園(旧中山家跡)・・・三谷原神社・・・(三橋の一里塚跡(75))・・・寿命院・・・熊野神社・・・三明寺・・・(名鉄線)・・・スサノオ神社・・・金谷橋(佐奈川)・・・諏訪神社・(諏訪の一里塚跡(76))・・・本宮山遥拝所・・・永昌寺・・・三河国分寺跡・・・国府八幡宮・・・三河国分尼寺跡・・・桜地蔵尊・・・三河総社(三河国府跡)・・・船山古墳・・・(名鉄線)・・・追分(東海道合流点)・・・国府(こう)駅(名鉄線)
昨日は朝から雨で名古屋競馬と名古屋市内で時間をつぶした。うって変わっての好天の中を本坂峠を越え、姫街道の西の終点の東海道との合流点、御油の追分を目指す。本坂峠を越えて嵩山宿へ下るまでの姫街道は気分がいいが、そこからの国道歩きが長く、見所も少なくいい加減疲れてきた。三河国分寺などに寄ったせいもあり、思ったより距離もあった。もう一泊浜松に泊まり、明日ゆっくりと帰るとしよう。
【ルート地図】
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清水呉服店 《地図》
嘉永3年(1850)の創業。東側に石川脇本陣、向かいに本陣小池家があった。
鞘堂は明治14年の建造。
昭和25年の建築。校庭に二宮金次郎の石像が立っていた。もとは銅像だったが、戦時中に金属供出されてしまったそうだ。
板築(ほうずき)駅推定地 《地図》
承和9年(842)、橘逸勢が謀反を起こし(承和の変)、伊豆へ配流される途中で、板築駅で死去したという。板築駅は東海道の猪鼻駅が廃絶された時期(天長10年(833)~承和10年)に臨時に設置された駅という。所在地については異説もある。
各地から集められたもので、中央は文久3年(1863)の建立。毎年3月午の日に家畜供養祭が行われる。西隣は牛馬の埋葬地だったという。
石段上に橘逸勢の墓と伝える石塔、娘の妙冲尼(みょうちゅうに)の孝行を称えた旌孝(せいこう)碑がある。
気賀関所が設置により廃止された古関。
高札場跡・秋葉灯篭《地図》
本坂本陣の庄屋梅藤家が左に入った所にあったようだ。
国道を横切り、本坂峠への上りとなる。
一体は金銅製というが両方とも石造に見える。
東海道鈴鹿峠の鏡岩は、山賊の物見用とぶっそうだが、ここのは旅する女人の化粧用とは、さすが姫街道らしい。でも今は光っていない。
ヤブツバキの群生地で樹齢200年以上のものもあり、見頃は1月から3月だそうだ。
平安時代には流人の橘逸勢が、江戸時代には将軍吉宗の母の浄円院や、将軍に献上される象も通り、嘉永6年(1853)には天璋院篤姫がこの峠を越えた。姫街道は公的には「本坂通」と呼ばれていた。
峠のすぐ下に湧く。大師が杖で湧かせた湧き水かと思ったが、大師がこの水で喉を潤したんだと。
三ケ日側には設置されていなかったようだったが。今さら「全面通行止」(平成22年4月22日から8月?日)なんて、もう遅いよ。そう言えば伐採の機会音がしていたか。
こんな所に茶屋があったのとは。
こんな街道沿いで座禅をする人がいたの? 形だけの話だろう。
まだここは山中だ。
この先の市場城址、高札場跡には説明板などはなかった。
市場城址は室町末期の西郷氏の居城で、永禄5年(1562)に今川氏により落城。自由が丘団地の西側に土塁の一部が残るそうだ。
低い塀は本陣夏目家の遺構か?
吉田への分岐点にあったと思われる地蔵道標が境内の石仏群の中にあり、「右ごゆ道 左よし田道」と刻まれているそうだ。
道標には「右豊川」「左豊橋」とある。
長楽の一里塚跡(74) 《地図》
この先の三橋の一里塚跡(75)(三谷原神社と寿命院の間か)、諏訪の一里塚跡(76)(諏訪神社の西あたりか)は痕跡なしで位置不明。
小倉橋の手前(右側)
「ここに弁慶の首塚が有り、径七尺の二本の松の大木があった。一本は明治26年4月に、もう一本は明治32年9月に倒れてしまった。それを惜しんで地元の有志が明治34年7月に碑を建てた」(要約)
弁慶の首塚の由来は何なのか?
「水難除」とある。大正12年に三ヶ日、遠州、牛久保、豊橋、豊川、嵩山などの交通運輸関係者が建立したようだ。馬頭だけで観音像は彫られていない。
南北朝時代、南朝方の忠臣高井主膳正が築いたという。堀跡、土塁跡が残るそうだ。城之内という地名も残っている。
正面の山は三河国一宮の砥鹿神社の神体山の本宮山(789m)で山上に奥宮がある。
当古橋公園 《地図》
当古村の庄屋で、当古の渡しの権利を持っていた中村家の跡地。中村家は市場城主だった西郷家の家系のようだ。
一層、二層が和様で、三層は反りのある禅宗様。なるほど言われて見れば納得。
堂内の宮殿が国の重文。
世界神道教だそうだ。
本宮山(789m)山頂の三河国一宮砥鹿神社奥宮の遥拝所
正面の本堂がかつての国分寺の金堂跡地。
由来は?
三河総社 《地図》
このあたりが三河国府跡で、東隣の曹源寺が国庁跡
5世紀中頃の築造の全長94mの前方後円墳だが、無残にも前方部も後円部も削り取られている。
御油の追分(東海道との合流点) 【ル-ト地図】の10
右へ曲がれば東海道御油宿、左に曲がれば御油の一里塚跡
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