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2010年7月31日 (土)

木下(きおろし)街道①

2010年7月25日

行徳駅(地下鉄東西線)・・・県道6号・・・押切稲荷神社・・・押切交差点・・・行徳宿・ぽっくり稲荷(田中翁生誕地)・・枡形・・豊受神社・・枡形・・笹屋うどん跡・・旧江戸川・行徳新河岸跡・常夜灯・・神明宮・・八幡神社・・芭蕉句碑(田中家)・・神明(豊受)神社・・稲荷神社・・正源寺・・胡録神社・春日神社・・行徳橋(江戸川)・・・(稲荷木緑道)・・・雙輪寺・・・稲荷神社・・・一本松跡・延命地蔵・庚申塔道標・(京葉道路)・・・甲大神社・・・(JR総武本線本八幡駅)・・・本八幡交差点・成田街道合流地点・国道14号・・・(京成本線)・・・八幡宿・葛飾八幡宮・・不知森(神社)・・境橋(真間川)・・・鬼越2丁目交差点(成田街道分岐地点)・中村邸・県道59号・・・高石神社・・・深町坂・・・東山魁夷記念館・・・北方(ぼっけ)十字路・中山競馬場・・・白幡神社・・・(船橋法典駅・JR武蔵野線)・・・七面堂・・・法宣庵・・・藤原観音堂・・・私塾安川舎跡・・・神明宮・・・藤原新田高札場跡・・・(東武野田線馬込沢駅)・・・馬込天満宮・・・馬込十字路(県道8号)・・・源兵衛坂・清長庵(地蔵道標)・・・平六坂・・・鎌ヶ谷宿・延命寺・・(鎌ヶ谷大仏駅・新京成電鉄)・・鎌ヶ谷八幡神社・・鎌ヶ谷大仏・・・(県道57号)・・・魚文句碑・・・天神社・・・(中央競馬会競馬学校)・・・国道464号・・・白井駅(北総鉄道)

 江戸からは香取・鹿島・息栖(いきす)の三社詣や、銚子浦への遊覧ルートで、「鹿島道」、「印西道」、「銚子道」とも呼ばれ、木下からは銚子沖で獲れた鮮魚を利根川、江戸川を経由して運ぶ際の両河川をつなぐ陸路で、「鮮魚街道(なま道)」、「行徳道」、「江戸道」とも呼ばれていた「木下(きおろし)街道」を2回で歩く。

  【ル-ト地図

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Img_9413 押切稲荷神社 《地図

十一面観音が尊体(神体?祭神?本地仏?)という変わった神社。神仏習合思想では、稲荷の本地仏は荼枳尼天(だきにてん)で、祭神は宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)などだが。お狐さんもびっくり、とまどいの表情を見せているか。

Img_9412 由緒

押切交差点を右に曲がると行徳宿で「行徳千軒寺百軒」といわれたように寺社が多く、旧家もぼちぼちと見られ、南から伊勢宿、下新宿という地名も残っている。

Img_9415 旧家

Img_9417 行徳の発展に尽くした田中幸之助の胸像、田中稲荷の小祠(通称ぽっくり稲荷)、ぽっくり蛙などが並ぶ一角。平成20年に造られたようだ。街道を歩いていて「ぽっくり」逝ってしまうのは御免蒙りたいので、さっと通り過ぎる。

Img_9419 枡形の跡

Img_9420 旧家

Img_9421 旧家

Img_9425豊受神社(もとは神明社)

3年に一度の10月の本祭りでは行徳独特の神輿の揉み方で練り歩くそうだ。

Img_9428 後藤御輿店

2階の両側に浮き彫りの絵が描かれている。

Img_9431 旧家

Img_9432 笹屋うどん跡

日本橋小網町から行徳船に乗った旅人は行徳河岸で降りると、まずはここのうどんで腹ごしらえをしたといい、古くは源頼朝が安房に逃れる時に寄り、宮本武蔵も立ち寄ったという伝えもあるほどの老舗。下新宿の徳願寺には武蔵の描いた絵があるとか。

Img_9436 行徳新河岸常夜灯(文化9年(1812)の建立) 【ル-ト地図】の①

Img_9443 説明板

Img_9446 旧江戸川(新河岸跡から下流の東京湾方向)

行徳の塩、木下河岸から駄送(馬による陸上運送)された鮮魚は、ここから行徳船で日本橋小網町へ向かった。旧江戸川を下り→右に細い新川に入り→(旧)中川に出る。ここに船改めの中川番所があった→小名木川に入り→隅田川に出る→細い水路を入ると日本橋小網町の行徳河岸→日本橋魚市場という水路。なお旧暦の5月から7月の夏季には関宿まわり(利根川→江戸川)の全航程水路による「活舟」(船底に魚を活ける装置のある船)で送った。

レジャーの船はみな東京湾の方向へ向かっている。川の上はさぞかし涼しいだろう。こん酷暑の日に、汗を拭き拭き街道を歩くのは風雅をわきまえぬ所業なのだ。

Img_9450 旧家

Img_9453 神明宮

日を浴びて一部黄葉しているようにも見える。

Img_9465 田中家

行徳塩田の所有者の「塩場師」(しょばし)で、行徳船で新河岸から日本橋小網町まで塩を運んだ。「ぽっくり稲荷」の田中幸之助氏もここの家系だろう。

左手前に芭蕉句碑がある。「月はやし 梢は雨を 持ちながら」 『鹿島紀行』の鹿島での句。

Img_9469 澤木酒店

Img_9473 平川医院

Img_9479 神明(豊受)神社 《地図

16世紀前半の頃、金海法印という山伏が建立したという。この山伏はが高く、いが正しいので人々から「行徳さま」と崇められ、行徳の地名になったという。

Img_9487正源寺

一度も開帳したことがないという、「盲目弁財天」があるそうだ。見ると目がつぶれるという、「弁天のご開帳」か?? たとえ盲目になるとも、スケベな私としてはぜひとも拝ませてもらいたいものだ。実際は見るとがっかりしてしまう醜女弁財天で、もっともらしい由来話を作って秘仏なんて言っているのが落ちだろうよ。
行徳・浦安三十三観音霊場の第7番札所。

Img_9488 由緒

Img_9495 胡録神社(右)・春日神社(左)

Img_9498 行徳橋(江戸川)

歩道が狭く自転車とすれ違うのに苦労する。日曜で通行が多くなおさらだ。

Img_9500 下流の東京湾方向

正面は新行徳橋(県道6号)

Img_9507雙輪(そうりん)寺

行徳・浦安三十三観音霊場の9番・10番

Img_9509稲荷神社

このあたりは「稲荷木(とうかぎ」という地名。「下総いちかわふれあい七社」の一つ。

Img_9513 一本松跡・延命地蔵・庚申塔道標・馬頭観音 【ル-ト地図】の②

昭和48年に伐採され切り株だけが残る。庚申塔道標(正徳3年(1713))には「これより右やわたミち」、「これより左市川国分寺みち」。延命地蔵(享保13年(1728))も、もとは本八幡交差点(成田街道・国道14号)にあって道標も兼ねていた。

Img_9519 説明板

Img_9525 甲大(かぶと)神社 《地図

将門の兜を祀るとも源義家の兜を祀るともいう。葛飾八幡宮の摂社で「注連下」と称する。古来、武将が社の前で馬に乗り打ちすれば必ず落馬したという。

国道14号の本八幡駅あたりから真間川あたりまでが八幡宿だったようだが、宿場の面影は皆無。旅籠も数軒だけだったようだが。

Img_9533 葛飾八幡宮随神門

もとは仁王像だったが、明治の神仏分離で左右大臣像に変えられ仁王像は徳願寺へ移された。

Img_9530 由緒

Img_9536 社殿の右端に鐘楼

神仏分離までは上野寛永寺の末寺が境内にあり、鐘楼はその名残り。

Img_9539 千本公孫樹

多数の樹幹が束のように集まって一本の木のように見える。

Img_9538 説明板

Img_9545 頼朝駒止石

あちこちにある「・・・石」の一つのただの石。「ひづめの跡」すらはっきりしない。

Img_9544 説明板

Img_9548 不知森(神社) 《地図

入ってはいけない理由は6説もある、訳の分からぬ森。竹薮が多いようだ。黄門さんもこの森に入って祟りにあったという。「この紋どころが目に入らぬか」と印籠を振りかざしてみても、神には通じなかったようだ。

鳥居の右側に常陸から江戸に通じる街道筋に百の石橋を架けた、江戸浅草花川戸の醤油屋、伊勢屋宇兵衛の「不知八幡森」碑が建っている。

Img_9552 説明板

Img_9561 境橋(真間川)を渡る。

Img_9568 中村味噌店(鬼越2丁目交差点・成田街道分岐地点) 《地図

もう営業はしていないようだ。裏手に東葛人車鉄道の中山荷扱所があった。ここで左折し木下街道の主要ルートの県道59号に入る。
成田街道は東進する。

Img_9570 高石神社

石段上左側に神社への道標を兼ねる題目塔がある。他所から移されたものだろう。

Img_9576 深町坂を上る。【ル-ト地図】の③

ここを東葛人車鉄道が走っていた。

Img_9578 坂上近く

坂上右に東山魁夷記念館がある。

Img_9579 東山魁夷記念館

昭和20年から平成11年に亡くなるまで市川に在住したそうだ。

Img_9581 中山競馬場

非開催で場外発売だけだが、この暑さの中を電車、自動車、バス、自転車、オートバイ、徒歩で続々と人参代を持って来てくれる。中央競馬会の連中は、「濡れ手で粟」、「棚ぼた」、「果報は寝て待て」で笑いが止まらずか。そういう自分も随分貢いだが。過去形か?

Img_9582 白幡神社 《地図

右は題目塔道標(享保16年(1731)建立)で、左側面に「従是左中山法華経寺道」 

船橋法典駅の上を過ぎる。「法典」も宮本武蔵と縁の地のようだ。ただし小説上の話だが。『千葉妖怪伝説

Img_9589 七面堂

Img_9591 法宣庵入口の地蔵

頭上に「妙法」とある日蓮宗系のもの。馬込の脱走塚から移されたという、戊辰戦争幕府方脱走兵の鈴木梅之輔の墓もあるという。

Img_9592 藤原観音堂 《地図

山賊に襲われた時に身代わりになったという観音像を安置。手前の石灯篭は堂建立に際し、新田の開墾を請け負った者から元禄3年(1690)に寄進されたもの。宝暦5年(1755)銘の丸彫り石造地蔵の小堂もある。

Img_9593 説明板

Img_9596 この観音像は前仏だろう。

Img_9600 安川家(私塾安川舎跡)

文化8年(1811)の開塾で父子5代にわたって近隣村々の子弟の教育に尽くした。広い雑木林の奥に家があるようだ。「立入り禁止」の表示板があった。

ここは「貝塚道」バス停のそば。街道沿いには「○○道」というバス停が多い。

法典小学校手前の中沢道バス停交差点に「藤原新田高札場」があったようだ。

Img_9612 馬込天満宮 《地図

鳥居の先に冠木門? 境内左に庚申塔が集められている。

Img_9608 庚申塔道標(右から3番目・文化4年(1807)建立)

左側面に「左かねが作ミち」で、もとは県道8号との交差点の北東側にあったもの。「金ケ作」は陣屋のあった松戸市の新八柱駅(JR武蔵野線)の北側。

Img_9619 源兵衛坂を上る。【ル-ト地図】の④

坂の途中の清長庵に地蔵道標がある。

Img_9624 地蔵道標(正徳5年(1715)建立)

鎌ヶ谷市内最古の道標で、地蔵道標は市内で唯一。街道沿いのどこにあったのかは不明だそうだ。

Img_9623 説明板

「じんほう」とは船橋のことのようだ。

Img_9633 平六坂 《地図

下って上る坂か?

Img_9635 延命寺(中山法華経寺の末寺)

このあたりから大仏十字路までが鎌ヶ谷宿で、問屋が1軒、旅籠が6軒(船橋屋・鹿島屋・銚子屋・柴崎屋・江戸屋・丸屋)あった。鹿島屋で文政8年(1825)渡辺崋山が昼食をとったそうだ。

Img_9636旅籠丸屋

天保9年(1838)に大原幽学が宿泊している。

Img_9642 鎌ヶ谷八幡神社

左に百庚申が並ぶ。社殿の右には庚申塔道標がある。

Img_9639 由緒

Img_9644_2 百庚申説明板

Img_9647庚申塔道標(中央・寛政7年(1795)建立)

台座の右側面に「東 さくら道」、左側面に「西 こがね道」、もとは大仏十字路付近にあったという一里塚の上にあったもの。

Img_9646 説明板

Img_9658 鎌ヶ谷大仏(安永5年(1776)建立) 【ル-ト地図】の⑤

開眼供養の席には江戸の八百善の料理300人分が運ばれたという。

Img_9656 説明板

Img_9664 魚文(ぎょぶん)句碑道標(明和元年(1764)建立) 《地図

「ひとつ家へ 人を吹込む 枯野かな」

芭蕉の高弟の直系の高弟? 芭蕉の威光は大したものだ。右側面に「右 きおろし道」、左側面に「左 中木戸道」

Img_9666 説明板

この先で白井市に入ると、関牧場、白井開拓などのバス停がある。あたり一帯は幕府直轄の広大な馬牧だった。明治になって牧が廃止され、旧下級武士の失業対策の開墾事業が始まった。開墾された新しい土地には数字のつく縁起のいい名がつけられた。「初富・二和・三咲・豊四季・五香・六実・七栄・八街・九美上・十倉・十余一・十余二・十余三」と9市にもまたがるのだから、その広さが分かる。

Img_9673 大きな農家

Img_9676 天満宮

お囃子が聞こえるが人はわずか。祭りのリハーサル中か?

Img_9677日本中央競馬会競馬学校 《地図

天才武豊はただのおじさんジョッキーになってしまったし、一年目で大天狗になった三浦皇成は、勝ち鞍が半減以下になってしまった。世界に通用する人馬は俺の生きている間は出現の望み無しか。

Img_9681 白井駅(北総鉄道)

もとは北総開発鉄道といった。開発が終了したのか、開発が破壊を伴うという意味合い持つのを避けたのか開発の文字がなくなったが、運賃が高いことは相変わらずだ。白井駅から東松戸駅まで約10kmで480円とは。

 

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2010年7月24日 (土)

中原街道④

2010年7月16日

寒川駅(JR相模線)・・・車地蔵堂・・・一之宮小学校入口交差点・梶原景時館跡(天満宮)・・・県道47号・四之宮の渡し跡・田村の渡し跡分岐・・・西寒川駅跡(八角広場)・・・四之宮の渡し跡あたり(寒川側)・・・分岐点・・・大山道道標・河原不動堂・・・河原l橋(目久尻川)・・・神川橋(相模川)・・・田村の渡し跡碑・・・八坂神社・・・田村十王堂跡・大山道道標(旧田村十字路)・・・貞性寺・・・田村駒返橋跡・・妙楽寺・・・一里塚跡碑(鹿見堂橋バス停)・・・国道129号・・・四之宮交番前交差点・・・旧道・・・諏訪神社・・・供養塔道標(四之宮道合流点)・・・(国道129号)・・・前鳥神社・・・四之宮の渡し跡(平塚側)・・・合流点・・・真土神社・古道中原街道碑・・・日枝神社・・・高札場跡・・・中原御殿跡(中原小学校)・・・善徳寺・・・道祖神・諏訪部神社・・・要法寺(平塚の碑)・・・東海道平塚宿問屋場跡・・・(東海道)・・・平塚駅(JR東海道線)

  【ル-ト地図

 梅雨明けかと思わせるような、ぎんぎらぎん照りの下を相模川を越え、中原御殿跡から東海道平塚宿まで歩く。

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Img_9260 車地蔵堂 《地図

小田原城主大森実朝の孫で、田端の生往寺開基の菊地泰次が慶長2年(1597)に建立し、安産子育地蔵を祀ったと伝えられる。車に乗った地蔵をお祈りする人には自分の子や孫の時代に幸せが車に乗ってやって来るという、「三界ハ輪廻ノ如シ」という仏教の教えに従ったものだそうだ。霊験あらたかな子育地蔵として江戸時代には講を組織し、参詣する人も多かったという。暗い堂内の写真を撮ってみると、地蔵の上半身は写っていたが、足元の方は写ってなく車に乗っているかどうかは見えなかった(この地蔵は前仏かも)。 一般的な車地蔵は、柱に取り付けられた後生車(地蔵車)を回すと六道の苦難から救われ、後生安楽に成仏できるというもの。『鶴見区の坂-6』に記載。

Img_9261 梶原景時館跡(天満宮) 《地図

ここは広大な館の物見の場所で、後に里人が文武両道に秀でた景時を讃え天満宮を建てたともいう。

Img_9262 説明板

Img_9263 館跡図

Img_9267 田村の渡し跡(右へ)・四之宮の渡し跡(左へ)分岐点 《地図

Img_9273 西寒川駅跡(八角広場)

線路の一部が残る。ここは相模海軍工廠跡で2002年に化学兵器(毒薬)が発掘されて話題となった。

Img_9281四之宮の渡し跡あたり(寒川側) 《地図

正面は下流の湘南銀河大橋、その下流に東海道の馬入橋が架かる。

古くは奥州道、中原街道の渡しで、家康が中原御殿から江戸城へ帰る時の「四之宮の逆船」(「郷土の名所旧跡の2-7」)の説話も残る。実際の船着場は流れの変動に応じて目久尻川の合流点付近や前鳥神社のすぐ東付近の間でたびたび移動した。その後、東海道の整備と大山詣の流行などで渡しの主流は下流の「馬入の渡し」(東海道)と上流の「田村の渡し」(中原街道・大山道)の方に移った。街道筋の渡しとしての役割は薄れたが、主に左岸(寒川側)にある四之宮の飛び地での農耕作業のための渡船場として昭和26年までは盛んに利用されていたが、昭和30年頃に姿を消した。四之宮とは平塚側の渡し場近くの前鳥(さきとり)神社のこと。

分岐点に戻り、田村の渡し跡に向かう。

Img_9295 河原不動尊・大山道道標 《地図

道標天明6年(1786)に江戸浅草黒船町の大黒屋が建立したもので、正面に「右大山道」・左側面に「左江戸道」とある。街道沿いのどこからかここに移されたもの。ここは大山道と重なる道筋で大山への参詣人、中原街道から東海道や八王子道へ抜ける旅人などの往来で賑やかだったのだろう。

Img_9290 説明板

Img_9297 河原橋(目久尻川)

建設中の道路がこの先、相模川沿いを北上するようだ。

Img_9302 田村の渡し跡あたり(神川橋から)

Img_9303 大山方向

Img_9306 田村の渡場跡碑(中央) 【ル-ト地図】の①

左は中村清四郎の歌碑「阿夫利嶺を まともに仰ぎ 旅人ら 声あげにけむ この渡しに」

右も田村の渡し場の説明の石碑で、その右に木の枝葉に隠れて説明板がある。

Img_9309 説明板

Img_9315 田村十王堂跡・大山道道標(旧田村十字路) 《地図

ここは八王子道の交差する所で、旅籠などもあり「田村の宿」とも呼ばれていた。十王堂は天文6年(1537)の小田原北条氏と上杉氏の相模原での合戦の戦死者を弔うため妙楽寺の住職が建立した。

Img_9312 説明板

Img_9321 田村駒返橋跡 《地図

古くからの馬の継ぎ立場で、ここにも家康が登場する逸話がある。

Img_9322 由来

Img_9325 妙楽寺

開基は足利基氏

Img_9334 一里塚跡碑(鹿見堂橋バス停) 【ル-ト地図】の②

家康が雨宿りした時に鹿を見かけたという鹿見堂は残らず、バス停にその名を留めるのみか。鹿見堂橋と、家康が箸(はし)を地面にさしたら森になったという弘法大師みたいな話の「箸立の森」はここより少し南にあったようだ。参考『箸立の森推定位置』(鹿見堂橋と権現堂(鹿見堂)?)の古い写真も載っている)

旧道は背後の道に入る。

Img_9332 説明板

Img_9339この先で東から来る四之宮の渡しからの道と合流する。

Img_9342 合流地点の庚申供養塔道標? 《地図

何が書かれているか判読できず。

ここから四之宮の渡し跡へ行ってみる。

Img_9358 前鳥(さきとり)神社 地図

もとは「前」神社だったという説もあるようだ。私もてっきり前島神社と思っていた。

発掘調査により神社周辺から、多量の墨書土器、彩釉陶器、装身具などが出土。さらに平成2年(1990)には国厨(くにのくりや)と書かれた土器が見つかった。このあたりが平安時代の相模国府跡で、古代東海道が東西に延びていたのだろう。

Img_9357_2説明板

Img_9362 四之宮の渡し跡へ

風に乗ってくる牛舎の匂いがきつい道を行く。正面が相模川の河川敷。

Img_9367四之宮の渡し跡あたり(平塚側)

対岸は旭ファイバーグラスなどの工場群。昔は畑地が開け、渡し船で耕作に行ったそうだ。

Img_9364 説明板 【ル-ト地図】の③

再び合流点へ戻り、中原御殿を目指す。暑い。

Img_9371真土(しんど)神社

Img_9375 古道中原街道碑 《地図

この先の中原御殿までの道筋ははっきりしていない。

Img_9373 説明板

Img_9372 説明板には「中原街道の昔の面影を最も良く残している」とあるが、もうそんなことはない普通の町並み、住宅地になっている。

Img_9378 日枝神社 《地図

家康が中原御殿を築く際に、鬼門除けとして修築した。

Img_9384 高札場跡 《地図

Img_9385 説明板

Img_9386 中原御殿跡(中原小学校) 【ル-ト地図】の④

雲雀野御殿、御鷹野御殿とも呼ばれた。明暦3年(1657)に取り払われた。

Img_9388 碑文

Img_9389 説明板

Img_9390 善徳寺山門 《地図

中原御殿の裏門を移築したものと伝えている。

Img_9391 説明板

Img_9396 諏訪部神社・大久保公園 《地図

正面に新旧の道祖神の小祠。

Img_9404 要法寺

ハスの花で埋まる境内。「平塚」の由来となった塚(墓)がある。

Img_9407東海道(正面)・右角に平塚宿西組問屋跡 

Img_9409 東海道上方見付跡、大磯宿方向。前方は高麗山。【ル-ト地図】の⑤

右が平塚宿西組問屋場跡、手前に平塚宿の中心部から平塚駅に向かった。

平年より早く、翌日に梅雨明けの発表があった。実際は今日だろう。

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2010年7月23日 (金)

中原街道③

2010年7月11日

中山駅(JR横浜線)・・・宮の下交差点・県道45号・長坂・・・長坂谷公園・・・大池公園・・・庚申塔・日蓮大菩薩塔・都筑郡役所跡碑・・・浜街道交差地点・・・都岡町交差点(八王子街道交差)・・・御殿橋(帷子川)・・・地蔵(右)・・・桜橋・・・下川井インター交差点(保土ヶ谷バイパス)・・旧道・・・一里塚跡・見晴らしポケットパーク・岩船地蔵尊・・・(追分市民の森)・・・県道45号・・・(相模鉄道)・・・二ツ橋由来碑・石橋供養塔(二ツ上橋交差点)・・・南台交差点(厚木街道(県道40号)交差)・・・椰の木の碑・・・(県道18号)・・・宗川寺・・鎌倉街道上の道交差地点・・・新道大橋(境川)・大坂①・・・順礼街道(巡礼道)分岐・・・(国道467号)・・・(滝山街道交差)・・・(小田急江ノ島線)・・桜株十一面観音・・・新道下大橋(引地川)・・・田中八幡宮・・・引地川公園ゆとりの森・・・綾瀬大橋入口交差点・春日新道(県道45号)・・・大坂②・・・蓼川橋(蓼川)・・・廻り坂・・庚申塔道標・・・大法寺・(県道42号)・・・新道橋(比留川)・・・早川交差点・・・高座豚発祥地・・・山根の道祖神・・・女坂・・・サイホウ塚(女坂交差点)・・・(東海道新幹線)・・・道祖神・・・用田辻(県道43号)・不動明王道標(大山道交差)・・・双体道祖神・・・旧道・・・大蔵交差点・・・旧道・・・日産工機・・・寒川駅(JR相模線)

 横浜市緑区→旭区→瀬谷区→大和市→綾瀬市→藤沢市→寒川町へと中原街道を行く。起伏の多い県道45号歩きがほとんどで、途中一部に旧道が残るがあまり見所はないか。午後から雨になるというので足早に進んだ。ちょうど寒川駅に着くあたりから降り出してきた。ここから平塚の中原御殿跡までは10kmもないか。梅雨の合間に東海道との合流点の平塚宿まで歩くことにしよう。

  【ル-ト地図

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Img_9024 長坂を上る。 【ル-ト地図】の①

文字通りの坂だ。坂上あたりに長坂公園がある。

Img_9031 坂下方向

Img_9036 この先は上り下りの多い道が続く。

Img_9046 都岡(つおか)辻バス停の所(右)に少し間隔をおいて庚申塔・日蓮大菩薩塔・都筑郡役所跡碑が並ぶ。

Img_9049 庚申塔

道標を兼ねていて、左側面に「左江戸ミチ」 右側面に「右かな川」のようだ。もとは浜街道との交差点にあったものか?

Img_9051 日蓮大菩薩塔

Img_9052 都筑郡役所跡碑

明治11年12月開庁

都岡町交差点へ下り、帷子(かたびら)川の御殿橋を渡る。家康が中原御殿へ行く途中、このあたりで休憩したことから御殿丸の字名がある。

Img_9063 下川井インター交差点を渡って左に石段を上り旧道に入る。《地図

Img_9065 雑草に覆われているがすぐに車道となる。

手前は石段のみで車は通れない。

Img_9071 一里塚 【ル-ト地図】の②

電柱の下に標柱が立つ。

Img_9072 一里塚標柱

宮の下から一里、桜株から一里とある。直径3m、高さ1mだったという塚跡はない。

Img_9075 見晴らしポケットパークから東方向

Img_9076 岩船地蔵尊(一里塚跡の先の右側)

Img_9077 岩船地蔵尊(享保9年(1724)建立)

  腫れ物、疣(イボ)に効用があるといわれ、近郷近在の人々の篤い信仰を集めていたという。ここに供えてある石を一つ持ち帰り、朝夕2回撫でると治るといい、祈願成就の暁には、借りた石とお礼に川原の小石数個を供えるのだそうだ。

Img_9083 追分市民の森

県道45号を挟んで北側にも広がっている。

県道45号に合流し旭区から瀬谷区に入り、相模鉄道をくぐる。

Img_9100 二ツ橋由来碑(右端)・石橋供養塔(左から2番目)・家康の歌碑(左端)(二ツ上橋交差点の所)

「道光親王」の歌(文明16年(1484)の作)がここの「二つ橋」のことだとすれば、この歌が地名の由来では。

Img_9096由来碑

Img_9109 椰(なぎ)の木の碑(南台交差点の先の左側)

寛文年間(1661~72)にこの地を治めていた島津久利が薩摩より取り寄せて植樹した。幕末の弘化元年(1844)の江戸城大火で焼失した本丸、西の丸の復旧にこの椰の木を伐採し、中原街道で急送し復興を果たしたいう。椰の木はイチイ科の常緑で暖地に自生し、約20mになる高木だそうだ。

Img_9114 宗川寺

瀬谷八福神」(達磨大師が加わり八福神)の福禄寿。

山門内に安産祈願の夫婦銀杏。寺の東が瀬谷問屋場跡。天正6年(1578)に後北条氏の関東経営の駅路として設置されたのが始まりという。

この先で鎌倉街道上の道と交差する。

Img_9121 境川(新道大橋)を渡り、大和市に入り大坂①を上る。《地図

「久田の大坂」と呼ばれ、昔は急坂で膝をついて這い上がったという。坂上で順礼街道と交差し、左に行けば左馬神社がある。このあたりはちょうど3年前に『大和市の坂-2』で歩いているが、だいぶ忘れている。

Img_9128 桜株十一面観音 【ル-ト地図】の③

手前の小田急線の桜株踏切は車が連なっていた。事故の再発がないことをこの観音と祈るのみ。

桜株は小田急線の東側の滝山街道との交差点あたりにあった大きな桜の木による地名。

Img_9127 説明板

この先で左折し南側の道を行き、田中八幡宮に寄る。

Img_9140 田中八幡宮 《地図

このあたりは「代官」という地名。保田筑後守の代官屋敷があったことによる。

Img_9144 引地川公園ゆとりの森 《地図

新道下大橋の下に引地川が流れているのだが、下の道路しか気づかなかった。

Img_9153 大坂②を下る。 本蓼川の綾瀬大橋入口交差点から南西に下る中原街道。 《地図

蓼川(たてかわ)の谷に下りる新道(中原街道)の坂で、『綾瀬村風土記』に「険悪にして車馬大いに苦しむ」とある。

Img_9158廻り坂を上る。 【ル-ト地図】の④

これは新廻り坂で、旧道は大坂の途中から北西にカーブして南西に下って大坂の坂下あたりに出た坂だったが、今は途中で雑草に覆われた道となり途切れ廃道になっている。『綾瀬市の坂-4』に記載。

Img_9162 庚申塔道標(右)・堅牢大地神(中)・地蔵(左)

庚申塔(文化11年(1814)建立)の左側面には「南大山道」、右側面は「西阿つぎ ?江戸道」か。

堅牢地神は、もとインド神話の神で十二天の一つ。仏教に入り、大地をつかさどる。地天、地神ともいう。

Img_9168 旧家(鶴ケ岡バス停そば)

特定郵便局長、それ以前はこのあたりの名主か何かの家柄か。

Img_9171 大法寺 《地図

地元の講中の寄進という「髭題目碑」(左)

この先の深谷交番前の交差点のフェンス内に不動明王が祀られていたのだが見当たらない。どこかに移されたのか? 比留川を渡り、上って早川交差点を越える。

Img_9180 高座豚発祥地

Img_9186 山根の道祖神(佐川急便自動車教習所手前のガソリンスタンド脇) 《地図

大正時代のもので古くはない。

Img_9191 女坂(めざか) 【ル-ト地図】の⑤

東方の東海道新幹線を越えた落合南の稲著社の東側の男坂(大山道・鎌倉道)に対する坂名。目坂谷、目坂台という地名もある。

坂上左の女坂食堂はやめてしまったようで、建物はあるが、「女坂食堂」の文字が消えていた。『綾瀬市の坂-1』に記載。

Img_9197 サイホウ塚(坂上の女坂交差点の角)

「南無妙法蓮華経為佐要坊塚」とあるそうだが消えていて全く読めず。

女坂交差点から藤沢市へ入り下って新幹線をくぐる。この間あまり見所はない。中将姫の祠があるようだが、通り過ぎてしまったようだ。

Img_9204 双体道祖神

Img_9213 不動明王道標(用田交差点) 《地図

磨り減っているが台座に「右大山・・・」とあるようだ。下にも角柱の道標。

Img_9233 庚申塔 《地図

左に曲がり大蔵(おおぞう)交差点へ。この道が旧道かどうかはよく分からん。

Img_9244 長屋門 《地図

Img_9240 すぐ先で右に旧道に入る。

日産工機の工場にぶつかり旧道の道筋は途切れる。工場沿いに進み寒川小学校前交差点を渡る。

Img_9251 分岐を右に 《地図

Img_9253 地蔵の前を通り寒川駅へ

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2010年7月21日 (水)

中原街道②

2010年7月9日

沼部駅(東急多摩川線)・・・丸子の渡し跡(東京側)・・・丸子橋(多摩川)・・・丸子の渡し跡(川崎側)・・・丸子橋交差点(綱島街道分岐)・県道45号・・・(東急東横線)・・・旧原家母屋跡・・・名主安藤家長屋門・・・小杉御殿の御主殿跡・・・小杉陣屋跡・・・西明寺・・・カギの道・・・小杉駅供養塔・・・庚申塔道標(大師道分岐)・・・小杉十字路・・・神地橋(二ケ領用水)・・・泉沢寺・・・庚申塔・・・地蔵尊・・・馬頭観音・・・(JR南武線)・・・大戸神社・鎌倉街道下の道合流地点・・・厳川橋跡(江川せせらぎ遊歩道)・・・千年交差点・旧道・蟻山坂・・・県道45号・・・野川橋(矢上川)・・・野川くぬぎ坂・・・妙法寺(久末義民地蔵尊)・・・久末交差点・・・(第三京浜国道)・・・鎌田堂・道中坂・旧道・・向坂・旧道・・・のちめ不動尊・・・山田神社・・・馬頭観音・清林寺・・・勝田橋(早渕川)・・・旧道分岐・・・関家住宅・・・稲荷神社・・・(横浜市営地下鉄)・・・向原交差点・・・大塚原交差点・・・東方原交差点・・・星ケ谷交差点・・・原庭バス停・庚申塔・・・関戸交差点・・・地蔵尊・滝ケ谷戸・・・(東漸寺)・・・佐江戸交差点・・・地蔵尊・・地蔵尊前交差点・辻の地蔵尊・・・落合橋(鶴見川)・・・八王子道分岐?・地神供養塔・・・中山橋(JR横浜線)・・・宮の下交差点・・・長泉寺・・・中山駅(JR横浜線)

 *『中原街道③』に続く。

  【ル-ト地図

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Img_8773 丸子橋を渡り川崎市へ

Img_8776 丸子の渡し跡碑 《地図

Img_8777 説明板

丸子橋交差点に出て東横線をくぐり、丸子通り(県道45号)を上丸子天神町、小杉陣屋町、小杉御殿町へと進む。

Img_8784 周辺案内図

Img_8783 原家住宅

大正2年に完成した総ケヤキ造り二階建ての母屋がここにあった。今は日本民家園に移築復元してある。

Img_8795 安藤家長屋門

旧名主の代表格で代官から賜った長屋門。門の内側に高札があるそうだ。なぜ高札が内側に?

Img_8797 石橋醤油店

今も醤油の販売店なのか?

Img_8798 説明板

Img_8804 小杉御殿の御主殿跡 【ル-ト地図】の①

このあたりが二代将軍秀忠が建てた小杉御殿の中心部の御主殿跡。御殿は家康の送迎、鷹狩りの休息所などに使われた。東海道が整備されると廃止された。

Img_8812 小杉陣屋跡 《地図

家康の命を受けた小泉次大夫はここに陣屋を設け、14年に及ぶ難工事の末、稲毛領、川崎領を潤す「二ケ領用水」を完成させた。小杉陣屋町はこれに因む町名。

Img_8811 西明寺

もとは川崎の有馬にあったが、木月の金剛院と合併し、この地に移る。
鎌倉時代は勅願寺の影向寺の末寺で、北条時頼が幾度も参拝し西明寺の再建に務めたことから、時頼が中興開山といわれている。境内の弁財天には北条時頼にまつわる伝説があるそうだ。「川崎七福神」の大黒天。参道付近はよく公の場として使われ、明治6年には本堂に「小杉学舎」が置かれ近代小学教育の場となった。

Img_8802 カギの道

西明寺参道前で左に曲がり、すぐに右に曲がる、宿場、城下にある「枡形」の道。

Img_8808 説明板

Img_8815 小杉駅供養塔(西明寺前バス停の所)

台座が道標で、「東江戸 西中原」

Img_8817 説明板

Img_8820 庚申塔道標

「東江戸 西大山道 南大師道」

大師道は川崎大師への道だろう。

Img_8828 神地橋(ごうじばし) 《地図

二ケ領用水の本流。このあたりでとれた良質の「稲毛米」と呼ばれ江戸の人々に喜ばれたそうだ。

Img_8831 泉沢寺

吉良氏の菩提寺。吉良氏は門前市を開きこの地の繁栄を図った。夏の泉沢寺の市は世田谷の「ボロ市」と並び広く知られていた。寺の周囲には構堀(かまえぼり)といわれる水堀があったそうだ。

Img_8832 説明板

Img_8833 庚申塔(左)

Img_8837 地蔵の小祠(右)

Img_8835 説明板

Img_8836 地蔵さん

Img_8838 馬頭観音の小祠(左)

正面はJR南武線のガード。

Img_8839 馬頭観音

かなり風化している。

Img_8842 大戸神社 《地図

狛犬が砲弾を抱えている。日露戦争の戦勝記念に奉納されたもの。
神社前で南から来る「鎌倉街道下の道」が合流する。

Img_8851 蟻山坂 【ル-ト地図】の②

右に旧道を上る。

Img_8856坂上から下って県道に合流し、少し先で左に旧道に入る。

Img_8860 蟻山坂改修記念碑

上が旧道、碑の手前が県道で「新蟻山坂」

Img_8866 旧道に並ぶ天照皇太神塔、青面金剛塔、秩父坂東回国供養塔、地蔵。

Img_8875 野川くぬぎ坂 《地図

第三京浜の西側の宮前区には「くぬぎ坂」がある。木々の間の緑の多い坂で、この坂より名前負けしていない。『川崎市の坂-4』に記載。

Img_8881 久末義民地蔵(右)・地蔵供養塔(左)(妙法寺内) 《地図

苛酷な年貢を取り立てる領主に直訴して殺された村民たちを供養する地蔵。

Img_8880 説明板

Img_8894 鎌田堂 《地図

由来碑によれば、堂の背後は鎌田兵衛正清の館跡でこの名がある。もとは観音像を安置していたが盗まれ、寛文13年(1673)に地蔵を建立した。寛永から安政(1624~1859)の頃には念仏道場として繁栄し、「道場坂」(今の道中坂)の名を残した。

Img_8896 由来

Img_8901 今も子育て、諸願成就の地蔵として庶民の信仰を集めている。

Img_8903 道中坂 【ル-ト地図】の③

坂上の第三京浜方向

Img_8904右に旧道に入る。

Img_8907合流した向坂の坂上から道中坂方向を振り返る。この先で再び右へ旧道に入る。 《地図

Img_8910 旧道を行くと石垣上に「のちめ不動尊」がある。

Img_8919 のちめ不動尊 【ル-ト地図】の④

今から150年ほど前、のちめの人が八王子から不動尊をかつぎ、この地に祀ったという。「のちめ」とはどのあたりのことなのか? なぜ八王子から背負ってきたのか? 八王子のどこかで造らせた像なのか? それとも八王子のどこかから、かっぱらって来たのか? 由来碑を読んでもよく分からん。年号も間違っていた。

Img_8924 山田神社前

鳥居から長い参道の石段を上る。社殿まではけっこうな距離があり、汗が噴き出てきた。

Img_8929 山田神社 《地図

仁平年間(1151~53)の源義朝の家来の鎌田兵衛正清の居城跡という。たしかにこのあたり一帯は丘陵地になっていて城(館)にはふさわしい地形だ。

7月の「虫送り」行事は今も行われているのだろうか?

Img_8951旧道は右だが関家住宅を見たいのでそのまま県道を進む。旧道は港北ニュータウンにぶつかり途切れてしまう。《地図

Img_8958 関家長表門 《地図

もとは後北条氏に仕えた地侍と伝える旧名主家。現在も居住中の屋敷。

Img_8955 説明板

この先、横浜市営地下鉄をくぐり、向原交差点に突き当たって右折、大塚原交差点を左折し、起伏のある道を南西に佐江戸を目指す。

Img_8973 東方原へ上る。《地図

Img_8977_2 星の谷へ下り

Img_8980 庚申塔の小祠(原庭バス停)

Img_8981 庚申塔

Img_8983 馬頭観音(介護老人福祉施設池辺前)

後ろに古いのもある。

Img_8992 地蔵

滝ケ谷戸バス停の所 

Img_9002 佐江戸バス停 《地図

「西土」が「佐江戸」と変化したという。鶴見川と恩田川の合流する交通の要衝地で、荷物の受け渡しをする継立場が設置されていた。

このあたりは車の往来が激しく、渋滞していてあたりをゆっくり散策する気分にはなれない。近くには東漸寺、無量寺、杉山神社もあるが。

Img_9004 辻の地蔵 【ル-ト地図】の⑤

中原街道(県道45号)の拡幅で、平成19年に地蔵尊前交差点の辻からここへ移された。

Img_9005 地蔵と地神

Img_9009 落合橋(鶴見川)

少し上流で左から恩田川が合流している。

Img_9011 八王子道(右)との分岐?(高周波前バス停の先の辻)

正面に地神供養塔と風化した石造物(馬頭観音か地蔵か)が立っている。

Img_9012 地神供養塔(右)・左は?

この先の宮の下交差点で今日の打ち止めにして中山駅に向かう。

Img_9018 長泉寺前の庚申塔

元禄6年(1693)の銘がある。

Img_9021 庚申塔か馬頭観音か(緑郵便局交差点の所)

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2010年7月18日 (日)

中原街道①

2010年7月4日

虎ノ門駅(地下鉄銀座線)・桜田通り(国道1号)・・・金比羅神社・・・葺城稲荷神社・・・西久保八幡神社・・・雁木坂・飯倉交差点(永井坂下・榎坂下)・土器坂・・・熊野神社・・・赤羽接遇所跡(飯倉公園)・・・赤羽橋(古川)・・・綱の手引き坂下・・・春日神社・・・三田3交差点・旧道・・・聖坂・・潮見坂下・・亀塚稲荷神社・・済海寺(竹芝寺)・・亀塚公園・・幽霊坂上・・・魚籃坂上・伊皿子坂上・・・大石良雄外忠烈の跡・・・承教寺・・・高野山東京別院・・・光福寺(ゆうれい地蔵 )・・・高輪3交差点・・・高輪台交差点・桜田通り・相生坂・・袖ヶ崎神社・・雉子神社・・五反田駅(JR山手線)・・・大崎橋(目黒川)・・ゆうぽうと・・・中原口交差点・旧道・・・子別れ地蔵  ・・・旧中原街道供養塔群①・②・・・中原街道(都道2号)・・・平塚の碑・・・旧道(旗が岡商店街)・・・中原街道・・・さいかち坂・・・(東急大井町線)・・・(環七通り)・・・洗足坂・延命地蔵尊・品川道合流地点・・・勝海舟別邸(洗足軒)・日蓮袈裟掛松・洗足池・・・庚申塔道標・・・品川道分岐地点・石橋供養塔・石川橋(呑川)・・・(環八通り)・旧道・桜坂・・おいと坂下・東光寺・六郷用水跡・・・(東急多摩川線)・・・丸子の渡し跡(多摩川)・・・沼部駅(多摩川線)

 江戸城の南端にあった虎ノ門から相州の平塚中原に通じる、東海道の脇往還の中原街道(相州街道・御酢(おす)街道)を歩く。坂道散歩で歩いている所が多いので道筋の心配はないだろう。今日は川崎市との境の多摩川の丸子の渡し跡まで、坂もけっこうあるがどれも歩いたことがある坂で新しい坂はない。

  【ル-ト地図

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Toranomon ありし日の虎ノ門(虎ノ門交差点付近)

明治6年に撤去された。

Img_8512 今は地下鉄の8番出口を上ると虎ちゃんのブロンズ像?が出迎えてくれる。

「梅雨のこんなに蒸し暑い中を、どこへ行くんだい」と言っていた。

Img_8750 中原街道説明板(さくら坂の途中に設置のもの)

御酢街道の名は、中原の酢屋の佐藤金助が製造した酢を御用の旗印を立て、馬で江戸幕府に毎年上納したことによるそうだ。

Img_8519 金比羅神社

讃岐丸亀藩主の京極高和が万治3年(1660)に金比羅大神を三田の藩邸に勧請したのが始まり。その後、延宝7年(1679)当地に移る。「こんぴら」人気が高まった文化年間(1804~17)に毎月10日に限り一般の参詣を許し人気を博した。鳥居は銅製。

Img_8521 葺城(ふきしろ)稲荷神社 《地図

葺手町(現内幸町)の人たちによって元禄4年(1691)に発見された神社という。葺手町は江戸城と街造りの屋根職人が集まった町で、江戸城の拡張、江戸の整備のためこの地に代地替えを命じられ、移り住んだ時に発見された。当時は、現地よりも丘の上の方の、松平右近将監の大名屋敷の外にあり、葺手町の人々が殿様にかけ合い町の氏神として奉ることを許され、町内の人たちで管理、運営されてきたそうだ。

Img_8522 こんな貼紙がしてあった。

都心の一等地だからいろいろと大変だ。土地は所有関係はどうなっているのだろうか。余計なお世話か。

Img_8528 西久保八幡神社 《地図

寛弘年間(1004~11)に、源頼信が、石清水八幡宮を勧請して霞ヶ関のあたり(榎坂とも)に創建したという。境内で大相撲が行われ、落語や講談に登場する阿武松緑之助(おうのまつみどりのすけ)も序二段の時に相撲を取っている。今は「野球賭博」で有名になった阿武松部屋の初代だ。落語『阿武松

Img_8532 雁木坂 《地図

階段になった坂を一般に雁木坂とういが、敷石が直角に組まれていたからともいい、当て字で岩岐坂とも書く。

このあたりは坂だらけだが、寄り道ばかりしていては先に進まないのでここだけにする。

Img_8535 飯倉交差点から土器(かわらけ)坂を下る。 【ル-ト地図】の①

坂下の赤羽は赤埴(赤土)で土器職人が多く住んでいたためという。ここを通った渡辺綱が馬喰(ばくろう)から買った馬の毛並み(かわら毛)でそれがいつしか土器坂になったという説もある。

Img_8541 赤羽接遇所跡(飯倉公園) 《地図

安政6年(1859)に建てられた外国人のための宿泊所兼応接所。シーボルトもここに泊まったそうだ。

Img_8540 説明板

Img_8545 綱の手引坂 《地図

源頼光の四天王の一人、渡辺綱にまつわる坂名。姥坂とも呼んだが、馬場坂の説もある。近くには綱坂もある。

Img_8555 潮見坂 《地図

坂上からは芝浦の海辺が見渡せ、潮の干満を知ることができたというが、今はそれは望むべくもない。

Img_8557 聖坂を上る。【ル-ト地図】の②

古代中世からの道(江戸時代前の古奥州街道)で、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所もあったという。更級日記の『竹芝伝説』の坂で「竹芝の坂」と呼んだとも。

Img_8563 亀塚稲荷神社(右)に古い板碑が集められている。

Img_8562 板碑

文永3年(1266)のものは港区で最古。どれだか分からず。

Img_8561 説明板

Img_8566 済海寺 《地図

『竹芝伝説』の竹芝寺か?

Img_8574 亀塚公園

江戸時代は上野の沼田藩土岐家の下屋敷で、明治以降は皇族の華頂宮邸の跡。ここも『竹芝伝説』の遺跡ともいわれる。

Img_8568 説明板

Img_8572 亀塚(古墳)

古墳かどうかははっきりしないようだ。

Img_8578 幽霊坂

坂の両側に寺院が並び、薄暗く寂しい坂なのでこの名がある。有礼坂の説もある。

Img_8584_2籃坂 《地図

坂の途中に籃観音を祀る魚籃寺がある。

『病院坂の首縊りの家』(横溝正史)の舞台はこの近くに設定してある。「・・・問題の坂は魚籃坂の近くにあり・・・・」

Img_8588 伊皿子坂

明国人伊皿子(いんべいす)が住んでいたと伝えるが、ほかに大仏(おさらぎ)のなまりとも、「いいさらふ」(意味不明?・更級日記?)の変化ともいう。

Img_8589 歯学医学教育発祥之地碑(伊皿子坂坂上)

Img_8594 赤穂浪士大石良雄外16名の切腹の地 《地図

肥後熊本藩細川越中守の下屋敷の一部だった。

Img_8596_2 説明板

Img_8599 とらや

羊羹の虎屋

Img_8608 承教寺

Img_8604 英一蝶の墓

Img_8603 説明板

Img_8608_2 光福寺 《地図

Img_8615 ゆうれい地蔵福寺)

赤子を残し死んだ母親の幽霊が地蔵となって飴を買い、子を育てたという、各地に残る「飴買い幽霊」の話の一つ。石川県金沢市の覚寺の前には「飴屋坂」が、長崎市の源寺には「ゆうれい坂」がある。『金沢市の坂⑥』・『長崎市の坂②』に記載。いずれも寺の名にがついているのが面白い。

Img_8629 相生坂を五反田駅へと下る。【ル-ト地図】の③

坂の途中で宝塔寺の前を通る坂と合流してY字形になっていてこの名がついたのだが、今は宝塔寺の前の坂は中原街道(桜田通り)をくぐってしまい、相生の意味も分かりにくくなっている。

JR五反田駅をくぐり、目黒川、国道1号を渡り、中原口交差点から旧道に入る。

Img_8646 子別れ地蔵(正面右) 

今でも北西に桐ヶ谷斎場がある。

Img_8647 由来

Img_8648 子別れ地蔵(享保12年(1727)建立) 

Img_8651 旧中原街道供養塔群①

もとは辻にあった地蔵(2)、馬頭観音、聖観音がここに移されている。

Img_8649 説明板

Img_8653 旧道らしく少しくねりが残っている。少し先の左側に供養塔群②がある。右は荏原一中。《地図

Img_8663 供養塔群②説明板

Img_8658 子育て地蔵・髭題目の墓碑(右下) 

Img_8657 庚申塔

Img_8664 庚申塔(左)・銘文不明の供養塔(右)

Img_8669 旧中原街道説明板(都道2号との合流点)

Img_8672 平塚の碑 《地図

後三年の役の帰途、八幡太郎義家を助けた新羅三郎源義光は野盗のために多くの部下を失った。その霊を弔った塚がこのあたりにあった。塚は取り壊されこの碑が建った。東海道平塚宿には「平塚の塚」がある。

Img_8675 旧道(左)に入り、うらぶれた感じの「旗が岡商店街」を抜け、再び都道に出る。《地図

Img_8680 さいかち坂を上る。【ル-ト地図】の④

今は「さいかち」の木はなくイチョウなどの並木となっている。

Img_8682 坂標

Img_8687 洗足坂を下る。

昔は短い急坂だったが、大正時代の改修により緩やかになり、さらに道路の拡幅で現在の坂となった。

ここ(洗足坂上交差点)で左(東)から来る品川道と合流する。

Img_8688 坂標

東京都で設置した鉄製の絵図入りの立派なものだが、磨り減り、文字も小さく読みにくい。都内には外にもいくつもあるが、どれもこれと大同小異の状態になっている。取っ払うか、オリンピックはいらないから新しいものに取り替えよだ。

Img_8690 延命地蔵

洗足坂の坂上右側 

Img_8692 勝海舟別邸 《地図

裏手には夫妻の墓がある。

Img_8691 説明板

Img_8707 妙福寺

Img_8696 日蓮袈裟掛けの松(三代目)

日蓮がここで休息し、松に袈裟を掛け千束池で足を洗って、洗足池になったとか。

Img_8694 説明板

Img_8699 馬頭観音道標(天保11年(1840)建立)

見慣れた馬頭観音像とは違った感じの像だ。台座の四面には東西南北への道標が彫られている。もとは中原街道沿いの碑文谷と池上を結ぶ道との辻にあったもの。

Img_8698 説明板

Img_8716 洗足池

中原街道から弁天島方向

Img_8709 説明板

Img_8725 亀と鯉がうようよいる。

Img_8729 庚申塔道標 《地図

延宝6年(1678)に建てられ、文化11年(1814)再建。ここは中原街道から九品仏に至る道の分岐点で、道しるべを兼ねている。江戸時代後期の特色を持つ角柱型の文字塔。

Img_8730 説明板

Img_8731石橋供養塔(呑川の石川橋手前)

ここで品川道が右に分かれて行く。

Img_8733 説明板

池上線の石川台駅、雪谷大塚駅の西側を通り、環8通りをくぐり左へ旧道に入る。

Img_8740 旧道

Img_8744 桜坂を下って多摩川の丸子の渡し跡へ。【ル-ト地図】の⑤

旧中原街道の切通しの坂で、「沼部の大坂」といわれた急坂で荷車の通行は大変だった。坂の両側に大正時代に植えられた桜並木にちなむ名。

Img_8748 坂下方向

子どもの頃はよくこの坂を自転車で下って、多摩川へ遊びに行った。行きは楽ちんだが、遊び疲れてこの長い坂を上って帰るのはちょっときつかった。

Img_8753 おいと坂 《地図

かつて坂下に北条時頼がこの地を訪れた時に傷をいやしたという「雄井戸」と呼ばれる井戸があり、旧中原街道を挟んで「雌井戸」があった。今は直線的な坂だが耕地整理前は竹薮の中の急で曲がった坂だったという。

Img_8756 東光院(桜坂の坂下)

北条政子がわらじの傷のためこの地に滞在した時、菩薩像を献じて夫の武運を祈願したという伝説がある。政子が傷を治した井戸が「雌井戸」ということか。

Img_8760 六郷用水跡(次大夫堀跡)は遊歩道になっている。(右側は東光院)

Img_8762 多摩川線(沼部駅)を渡り、多摩川の土手へ

Img_8765 丸子の渡し跡 《地図

昭和9年に丸子橋が完成するまでの渡し跡。4kmほど下流には昭和24年に多摩川大橋が完成するまで「矢口の渡し」があった。

Img_8768 説明板

Img_8763 今は上流の丸子橋を渡る。

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2010年7月17日 (土)

奥州街道(白坂宿→白河宿)

2010年6月30日

白坂駅(JR東北本線)・・・皮篭交差点・国道294号(奥州街道)・・・八幡宮・・・金売吉次兄弟の墓・・・一里段溜池(皮篭の一里塚跡あたり)・・・(国道289号)・・・戊辰の役古戦場跡・・・権兵衛稲荷神社・・・棚倉街道合流点・・・金比羅神社・・・南湖橋(谷津田川(やんたがわ))・白河宿・虚空蔵堂・奈良屋・山木屋・月よみの庭・勝軍地蔵堂・関川寺・・・白河駅(JR東北本線)

 昨日から降り続く本降りの雨だが、白河宿までは一息で気楽に行く。

  【ル-ト地図

 *この先は『奥州街道(白河宿→笠石宿)』・『白河市の坂』へ続く。

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Img_8476 八幡宮 《地図

義経が金売吉次兄弟の霊を弔い、合祀したと伝える八幡宮だろう。ここを左折して進むと金売吉次兄弟の墓がある。

Img_8473 金売吉次兄弟の墓 【ル-ト地図】の①

金売吉次の存在を裏付ける証拠はないらしい。奥州の金を商い義経の手助けをした商人がいて、それを吉次兄弟と言っているのだろう。

吉次らが賊に襲われた時に革籠を奪われたことから、付近を革籠原と呼んだという。それが今の地名の皮篭(籠)(かわご)の由来。

日光西街道(壬生通)にも金売吉次の墓がある。これも複数の吉次がいた証左だろう。『日光西街道(壬生通)②』に記載。ここの墓の方が立派だ。

Img_8474 説明板

Img_8477 雨にも負けず座り続ける地蔵さん。

台座に水準点記号の几号があるそうだ。

このあたりは新一里段という地名で、街道の左側に一里段溜池がある。皮篭の一里塚も近くにあったのだろう。  【ル-ト地図】の②

Img_8483 戊辰戦争古戦場跡 【ル-ト地図】の③

白河口の戦いで戦死した長州、大垣、会津藩士の墓などが並ぶ。

Img_8488 説明板

Img_8489 権兵衛稲荷神社(左) 【ル-ト地図】の④

突き当たりで棚倉街道と合流し、左折して九番町から南湖橋を渡り、一番町へと白河宿へ入って行く。

Img_8493 奈良屋

明治期に建てられた商家で、店先に宿場の出入り口に置かれた「馬つなぎ石」が残る。

Img_8495 虚空蔵堂 《地図

慶長6年(1601)作の「鍍金装笈」を安置する。

Img_8496 説明板

Img_8499 山木屋(和菓子店) 

江戸時代には蕎麦屋などを営んでいたという。栗羊羹、塩竃をみやげに買う。

後ろが天神神社のある天神山で、明治26年の夏、正岡子規が登って詠んだ歌碑がある。「夏木立 宮ありそうな ところかな」

街道は山木屋前を右折する。

Img_8501 今井醤油店

Img_8504 関川寺(かんせんじ)

南北朝時代の武将、結城宗広の墓や白河藩士の子で、赤穂義士の討入りに加わった中村勘助の妻の墓がある。

墓地の西側に戦国時代の城郭の空堀跡と土塁跡が残る。

Img_8505 勝軍地蔵堂 【ル-ト地図】の⑤

Img_8506 勝軍地蔵尊

正徳2年(1712)建立の銅製の大きな地蔵。どんないわれがあるのか? 

Img_8507 蔵を造り直した住宅。

Img_8511 白河駅

大正時代に建てられたレトロな駅舎。去年来た時には改修中だった。「東北の駅百選」に選定されているそうだ。

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2010年7月15日 (木)

奥州街道(大田原宿→鍋掛宿→越堀宿→芦野宿→白坂宿)

2010年6月29日

那須プラザホテル・・・大田原宿・・・蛇尾橋(蛇尾川)・河原交差点・県道72号・・・瀬尾家居館跡・・・二本松橋(巻川)・・・中田原の一里塚跡・・・追分道標(棚倉街道)・・・市野沢交差点・高野槙・・・弘法大師の碑・・・高野橋(相の川(金堀川))・・・麻疹地蔵堂・・・練貫交差点・・・常夜灯道標・・・明治天皇小休所跡・・・(那須塩原市)・・・樋沢神社(義家愛馬蹄跡・葛籠石)・・・鍋掛愛宕峠・愛宕神社・鍋掛の一里塚跡・・・鍋掛交差点・・・鍋掛宿・八坂神社(芭蕉句碑)・正観寺(枝垂れ桜)・昭明橋(那珂川)・・・越堀宿・浄泉寺(黒羽領界石)・・・高久靄の墓・・・馬頭観音・・・富士見峠・・・寺子の一里塚跡(一里塚公園)・・・会三寺・寺子橋(余笹川)・・・旧道・・・(八雲神社)・・蓄魂碑など・県道72号・石田坂・・・(那須町)・・・旧道・・・道標・・・県道72号・黒川橋(黒川)・・・夫婦石(神社)・・・夫婦石の一里塚跡・・・西坂・・・旧道・・・菖蒲橋(菖蒲川)・・・芦野氏居館跡・・・(国道294号)・・・奈良川・芦野宿・河原町地蔵尊・武家屋敷(平久江家)・本陣跡(石の美術館)・建中寺・新町地蔵尊・・奈良川・・・遊行柳・上の宮のイチョウ・・・国道294号・・・旧道・・・岩倉具視歌碑・・・愛宕神社・・・べこ石の碑・・・国道294号・・・旧道・・・奈良川・・・諭農碑・・板屋の一里塚跡・・・高徳寺・・・国道294号・・・地蔵・・・寄居標識・旧道・間の宿寄居・与楽寺・・・泉田の一里塚跡・国道294号・・・寄居大久保標識・旧道・・・初花清水・・・ふくべ石・国道294号・・・戸坂橋(奈良川)・・・旧道・山中集落・・・国道294号・・・馬頭観音・旧道・・・国道294号・・・境明神・・・弘法大師衣がえの清水・・・旗宿道分岐・・・戊辰戦争大垣藩士戦死地・・・白坂宿・・・・皮篭交差点・・・白坂駅(JR東北線)

  【ル-ト地図

 6時前にホテルを出発し、昨日歩いた大田原宿を蛇尾橋手前まで足早に進む。さて今日はどこまで行くか。芦野宿までが手頃な距離だが昼過ぎには着いてしまうだろう。するとバスの便がない。白坂宿か一気に白河宿まで行ってしまうか、雨・暑さと足の具合、途中の見所で費やす時間次第だろう。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_8086_2 蛇尾(さび)橋から対岸の大田原城址 《地図

昔は徒渡りだった。川面にうっすらと川霧が立っている。

Img_8088 蛇尾川の由来

なぜ「蛇尾」という字を当てたのかよく分からず。アイヌ語の「サッ・ピ・ナイ」(渇いた小石河原の川)に由来する説もある。

Img_8094 瀬尾家

平家の家柄で居館(中田原城)跡という石柱が2つ塀の前に立っている。

Img_8093 去年の10月に立てられたばかり。

Img_8092 源義家が奥州征討へ向かう時に、また秀吉も奥州鎮定の際にこの道を通ったということ。

Img_8099 中田原の一里塚跡 【ル-ト地図】の①

セブンイレブンの敷地内

Img_8102 追分(市野沢小入口交差点) 《地図

紫衣事件で沢庵和尚は上山へ、玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)は棚倉へ流される途中ここで別れた。沢庵が流された上山には沢庵坂、春雨庵が残る。『上山市の坂』に記載。流人ではなく客人扱いで丁重に厚遇されたようだ。棚倉町の玉室の謫居(たっきょ)跡には碑が建っている。

右(県道342号)が棚倉街道で、正面の「奥羽刑務所」看板下に道標(元禄7年(1694)建立)が立つ。看板には「黒羽刑務所、お気軽にお寄りください」で誰もがビックリだが、その下の「刑務所作業製品の展示場」のこと。

Img_8104 説明板

Img_8113 高野槙(市野沢交差点の先の左側)

推定樹齢400年、樹高17mだが、以前は30mもあったというが。

Img_8115 弘法大師の碑(右)

「蓑に添う 市野沢辺の ほたる哉」、むろん大師の歌でなく江戸時代に詠まれたもの。

Img_8120 麻疹(はしか)地蔵堂(左)

地蔵は拝めず。

Img_8129 永代常夜灯道標(手前の笠付きのもの)・十九夜塔・青面金剛塔など(練貫十字路の先で右にカーブする左側)

永代常夜灯(宝暦6年(1756))には、「右奥州海道 左原方那須湯道」

練貫の一里塚があったのはどのあたりか?

Img_8138 那須塩原市に入る。

Img_8145 義家愛馬蹄跡(桶沢神社境内)

凹んでいる所が源義家の足痕ということか。

Img_8144 由来

Img_8147 葛籠石(つづらいし)

ただの石ころにしか見えないよ。

Img_8150 「伝説の大うなぎ 桶沢の大沼」の看板が掛っているがどんな伝説なのか?

その先のホテル「不夜城」は、落城で廃城したようだ。はかない「一夜城」だったか。

Img_8161 鍋掛の一里塚跡 【ル-ト地図】の②

道路の拡張工事などで愛宕神社の石段脇に移されている。

Img_8160 説明板

Img_8158 鍋掛(愛宕)神社

昭和30年に愛宕神社に温泉神社と鶏鳥神社?が合祀され鍋掛神社と改称された。

鍋掛十字路を越えると鍋掛宿で、那珂川を挟んだ対岸の越堀(こえぼり)宿とで、宿場業務を果たした。正保3年(1646)以降は天領となった。街道沿いに宿場の家並みなどは残っていない。

鍋掛十字路にあるコンビニに入って、出て直進する所をなぜか左に曲がってかなり進んでしまいかなりのロスタイムとなった。この先は長いのにうっかりミスとは情けない。十字路で店などに入る時は入る前に位置を確認しておくこと、出たらもう一度進むべき道を確認することが肝要だ。おかげで鍋掛宿に入ってすぐの「清川地蔵尊」(延宝7年(1679)建立で、子育て地蔵として女性の信仰が篤い)を見逃すハメと相成った。

Img_8168 芭蕉句碑(文化5年(1808))の建立・八坂神社内)《地図

「野を横に 馬牽きむけよ ほとゝぎす」

Img_8167 説明板

Img_8173 正観寺の枝垂れ桜

推定樹齢250年以上。

Img_8177 昭明橋から那珂川

徒渡り、舟渡りから、後期は舟橋、土橋も利用されたという。

昭明橋を渡り越堀宿に入る。那珂川が川留めになった時などのために設けられた宿場で、鍋掛宿より遅い正保3年(1646)に開かれた。寛永12年(1635)参勤交代で江戸に向かう仙台藩の行列が増水で渡れず、この地に小屋を設けて逗留したのが宿場成立のきっかけにつながったともいわれる。ここも古い家並みなどは見当たらず。

Img_8180 黒羽領界石(浄泉寺境内)

もとは那珂川左岸の越堀宿側に建っていた。境内は「明治天皇小休所跡」で、「御膳水」の石碑もある。

Img_8182 説明板

Img_8185 「枡形の地」の石碑(右) 《地図

枡形は道路改修で緩やかなカーブとなり、昔は道の真ん中に堀があり小さな橋や柳もあったというが、今は何の痕跡、風情もない。

Img_8186 戦争の被害者は人だけではない。

Img_8187 坂本屋は旅籠だったのか?

越堀宿を出ると起伏の多い道となり富士見峠を目指す。

Img_8193 高久靄(たかくあいがい)の墓の標柱

江戸時代後期の文人画家。台東区谷中の天龍院にも墓があるようだ。

Img_8202 富士見峠 《地図

昔は木が茂ってなく富士の見晴らしがきいたのか? このあたりに茶屋が2.3軒あったという。

峠を下って間の宿の寺子宿へ。宿といっても旅籠はなく、茶屋があった程度だったようだ。

Img_8207 寺子の一里塚跡 【ル-ト地図】の③

一里塚公園になっている。

Img_8212 説明板

Img_8213 馬頭観音

右の安永4年(1775)のものはもとは富士見峠にあって、道標と里程標を兼ねていた。

左側面「日光山十六里 江戸四十一里 水戸二十二里 八溝山六里」・右側面「湯殿山六十六里 仙台五十里 会津二十四里 那須湯元五里」

Img_8209 説明板

Img_8217 会三寺(えさんじ)

14代法印旺盛の頃、麻疹(はしか)が流行し多くの幼児が亡くなった。これを哀れんだ法印が111体の木像の地蔵を彫り菩提を弔ったという。この地蔵を収めた「はしか地蔵堂」がある。那須三十三観音霊場の6番

Img_8223 寺子橋手前の余笹川見晴らし公園から 《地図

平成10年8月の台風4号の豪雨で、河岸の8割以上が決壊したそうだ。蛇行する暴れ川(だった)か。

Img_8227 寺子橋を渡り左に旧道に入る。

Img_8232 県道との合流点に蓄魂碑(牛の像)、馬頭観音、二十三夜塔、庚申塔などが集められている。

Img_8234 石田坂を上る。

この後も起伏のある道を進み、那須町に入る。

Img_8242 下りとなって旧道はここを直進する。《地図

Img_8245 道標(右)

黒川に突き当たり、左折し県道に出て黒川橋を渡る。

Img_8249 黒川橋

平成10年の台風4号の豪雨の時の水位は橋の路面直下まで達した。

Img_8253 夫婦石神社参道

左に腹身・日切・合掌・不動・財福のユニークな名と顔の地蔵 が並ぶ。

Img_8260 夫婦石神社と夫婦石(みょうといし) 《地図

敵に追われた男女二人がこの石の割れ目に身を隠した。石のそばに来た追手は、石の割れ目から現れた大蛇に恐れおののき逃げ帰り、二人を見落とした。二人は夫婦となり田畑を耕し仲良く暮らした。この「見落石」が誰ということなしに「夫婦石」になったとさ。

芦野宿と伊王野の里ガイドブック』には、これとは全く内容が違う民話が載っている。蛇・夫婦・夜になるとくっつく、というのは同じだ。

Img_8262 由来

Img_8263 夫婦石の一里塚跡

両側に塚跡が残っている。

Img_8264 説明板

Img_8272 西坂を下って正面の赤屋根の家の手前で左に旧道に入ってさらに下る。

道沿いには馬頭観音などの石造物がある。

Img_8278 尾大神

わらじ、サンダルがぶら下げてある。

Img_8295 芦野氏居館跡① 《地図

鎌倉時代初期頃からの居館跡。今は一面の畑で館跡は微高地になっている。

Img_8294 説明板

Img_8299 館山城址② 《地図

14世紀末から15世紀初頭の、足利将軍義持の頃に芦野氏が築いたという山城。《地図》

Img_8296 桜ケ城址(芦野城・御殿山)③ 《地図

天文年間(1532~54)とも天正18年(1590)の築城ともいわれる。

①→②→③の時代順の築城。

奈良川を渡ると下野(栃木)最北の芦野宿。

Img_8301 河原町地蔵堂(左)

宿の南端にあり道中安全と、悪疫退散、水害・水難除けなど道祖神的役割も担っていた。

Img_8302 地蔵尊

片足を前に投げ出している。題座に「水」の刻字がある。 

Img_8308 屋号、職種を記した石灯篭を並べている。

Img_8312 芦野宿の町並み

ここも昔は真ん中に堀があり、松や柳が植えられていたそうだ。

Img_8314 丁子屋

安達家は旅宿「丁子屋」で、蔵座敷八畳二室が残る。今はうなぎ料理で有名。

Img_8322 武家屋敷平久江家

推定樹齢400年のシダレ桜

Img_8325 門前に車が駐車していてこんな写真になってしまった。

Img_8324 説明板

この先の那須歴史探訪館から桜ケ城址に行ける。

Img_8321 本陣跡は「石の美術館」になっている。《地図

芦野氏の菩提寺の建中寺の先を左にカーブする。

Img_8329 新町地蔵尊

ここで芦野宿を出る。宿の北端の守り仏。

Img_8330 説明板

Img_8333 遊行柳 《地図

古来有名な歌枕。

芭蕉の『奥の細道』での「田一枚 植えて立ち去る 柳かな」

西行は「道のべに 清水流るる 柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」

蕪村は「柳散 清水涸 石処々」

Img_8337 説明板①

Img_8335 説明板②

Img_8341 上の宮の大イチョウ(遊行柳の後方)

推定樹齢400年

「遊行庵」でそばでも食べようかと思ったがやっていない。平日は客が少ないので閉めているのか、あえなく潰れたか。

Img_8346 愛宕神社の細く急な石段。ここから遥拝でご容赦を。

Img_8351 べこ石の碑 《地図

3500もの小さな文字と、右端に牛面人身の「炎帝神農氏」の姿が彫られている。民衆教化というが、こんなもの農民が読むはず、読めるはずがなかろうに。

Img_8347 説明板

Img_8360 諭農碑(左)・板屋の一里塚跡(右) 《地図

坂の傾斜を緩くする工事で削られ、塚の形ははっきりしなくなった。板屋は間の宿だったともいう。

Img_8361 諭農碑

これも「べこ石」と同じ戸村忠恕の建立。病害虫の駆除・予防、飢饉のための備荒法、飢人の看護法など農民を諭す文言が並ぶ。よほどお節介な閑人だったのだろう。

蟹沢、高瀬、脇沢を通り寄居へ向かう。

Img_8380 地蔵(県道の右側)の先で左に間の宿、寄居の集落に入る。

Img_8383 與楽寺 《地図

那須三十三観音霊場の10番。推定樹齢150年の那須の名木の山桜がある。

Img_8386 旧家

寄居は境の明神を越えて「みちのく」へ入る下野側で最後の休憩地だった。

Img_8389 泉田の一里塚跡 

関東地方最後の一里塚

Img_8392 「寄居大久保」の標識先で左に旧道に入る。

Img_8394 地蔵・二十三夜塔・馬頭観音などが集められている。「足尾山 旅行安全・・・」には「従是江戸四十五里五丁」とあるようだ。

Img_8401 初花清水 【ル-ト地図】の④

箱根霊験躄(いざり)仇討」の主人公・飯沼勝五郎は、この東の棚倉藩の武士であったとも、仇を探して棚倉の地に入ったともいう。また初花が棚倉の商家の娘で、棚倉に来た勝五郎と知り合い女房になったともいう。そして2人が隠れ住んだのがこのあたりか。その後、艱難辛苦の末、2人は東海道は箱根山で仇にめぐり合い見事本懐を遂げたという一席。箱根には2人の墓などがある。『箱根の坂-1』に記載。

今でもパイプから水が流れている。田んぼの用水に使われているのだろう。

Img_8406 瓢石(ふくべいし)

勝五郎がつれづれに彫ったものという瓢箪石。

Img_8414 山中の集落 《地図

ここにも明治天皇小休所跡がある。

Img_8419 馬頭観音

Img_8422 境の明神 【ル-ト地図】の⑤

Img_8426 玉津島神社(女神・栃木県側)

福島県側から見れば「住吉神社」(男神)

Img_8425 説明板①

Img_8427 説明板②の1

Img_8429 説明板②の2

「境の明神」は今でも県境で、参院選のポスターがコロリと変わる。当たり前か。当落のほどは興味もなく感知せず。

Img_8413 栃木県側

Img_8457 福島県側

Img_8440 玉津島神社(女神・福島県側)

栃木県側から見れば住吉神社(男神)

Img_8437 説明板

Img_8439 向かい側が峠の茶屋「南部屋」があった所で、「二所之関址」碑が建っている。

白河の関」は2つあった(ここと、旗宿)ということだろう。ちなみに「二所之関」は相撲の「二所ノ関部屋」の語源らしい。

Img_8443 弘法大師衣がえの清水(境の明神のすぐ先の左下)

大師が衣を濯ぎ、「奥の細道」の旅で芭蕉も立ち寄った清水。今でも清水は湧いている。

Img_8450 旗宿分岐 《地図

右へ行けば「白河の関」で、芭蕉もこの道を行った。

Img_8453 戊辰戦争大垣藩士戦死の跡

戦死した藩士の妹の歌碑が建つ。墓はこの先の観音寺にある。

Img_8454 説明板

Img_8459 白坂宿

宿の面影、痕跡は全く残っていない。こんな宿場も珍しいか。

Img_8464 観音寺

金売吉次が死ぬ間際に遺した言葉、「朝日さす夕日さす からすの横ばえ すずめのちょんちょん 三つ葉うつぎの下にある」の夕日とは、この観音寺の夕日観音のことだとか。とするとこの寺に吉次の隠し金が眠っているかも。だとしても寺でとっくに掘り出してしまっているだろうよ。左は平和観音だから、この下を掘らないように。

Img_8468 車の少ない県道で歩きやすいが雨が本降りとなってきた。

Img_8469 皮篭(かわご)交差点までとし、左折して白坂駅へ向かう。

Img_8470 交差点右に「革籠原の防塁跡(鍛冶屋敷跡)」の看板

直江兼続が徳川軍を迎え撃つべく数キロにおよぶ防塁を築いた所で、今も防塁跡と思われる遺構が残るそうだが、ここから東にだいぶ離れているようだ。家康はここまで来ず小山で引き返し、関が原の戦に向かった。まさに「幻の決戦地」に終わってしまった。

革籠原の地名は、このあたりで(境の明神付近とも)金売吉次が強盗に襲われ殺害された際、革籠を奪われたことによる。

Img_8471 白坂駅

無人駅・屋根なしのホーム・トイレもなし・スイカは使えず。

今日はけっこう歩いた。地図上では40kmだが、道を間違った分などを加えれば42kmはいくか。一日かけてフルマラソンの距離を歩いたということか。

 

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2010年7月10日 (土)

奥州街道(喜連川宿→佐久山宿→大田原宿)

2010年6月28

氏家駅(JR東北本線) バス→喜連川本町・県道114号・・・台町交差点・道標・旧道・・・県道114号・金龍橋(内川)・・・鶴ケ坂・・・県道25号・・・下河戸交差点・県道114号・・・道祖神・明治天皇小休所跡・・・宮下橋(江川)・・・合柄橋(がっからばし)・・・源氏ホタルの里標識・・・明治天皇小休所跡・・・引田の一里塚跡あたり・(大田原市)・・・高久宅のつつじ群・若林交差点・道標・県道48号・・・庚申塔群・・・和郷碑・・・佐久山案内板・・・佐久山前坂交差点・旧道・前坂・・・観音堂・・・県道48号・佐久山宿・八木沢家・佐久山城址(御殿山公園)・実相院・・・正浄寺・・・岩井橋(箒川)・・・養福院・・・田谷川・・・深川橋(深川)・・・薬王寺・・・間の宿八木沢・国井氏宅の赤松・女神橋(加茂内川)・蒲慮碑(ほろひ)・湯殿神社・町初碑・・・筋違橋(百村川)・・・八幡神社・・・浅香3交差点・・・室井病院・・・大田原宿新田木戸跡・神明町交差点(日光北街道分岐)・愛宕神社・忍精寺・薬師堂・本陣、問屋、高札場跡・正法寺・金燈篭・龍泉寺・大田原神社・大久保木戸跡・大田原城址(龍城龍頭公園)・光真寺・洞泉院・あらまち蔵屋敷・・・那須プラザホテル 

  【ル-ト地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_7800 高塩邸(たかしお薬局)

野口雨情の妻ヒロの実家。常陸の野口家に嫁いだヒロはさまざまな事情から離婚し、雨情は再婚し東京に移った。その後ヒロは子どもを養育するために野口家に戻り復籍し、そこで生涯暮らした。ヒロも短歌、俳句、詩などを創作していたそうだ。

歌人の高塩背山とは親戚の家柄か?

Img_7804_2 道標「左在郷道 右奥州街道) 《地図

台町交差点を渡った集会所の喜連川温泉の看板の下に移されている。

旧道は手前の小中屋酒店の所を右折する。

Img_7813 突抜井戸(金竜橋の先の街道沿いの民家内)

現役の三段式の自噴井戸。

Img_7825 鶴ヶ坂を上る。【ル-ト地図】の①

けっこう長い坂だ。

Img_7830 歩道がなく雑草が道まではびこっていて車が来ると歩きにくい。

Img_7837 長屋門

Img_7843 道祖神と明治天皇小休所跡の石柱(宮下橋の手前の右側)

このあたりに和田の一里塚があったのか?

県道114号を進み、宮下橋(江川)、合柄橋(大沢用水)、源氏ホタルの里標識、小公園内(ゲートボール場)の明治天皇小休所跡などを過ぎると大田原市が近くなる。

Img_7859 引田の一里塚跡あたり

大田原市へ入る直前の左側の手塚家の敷地内に塚跡が残るそうだが見落とした。

Img_7863 高久家のつつじ群(若林交差点の手前右側) 《地図

「与一の里名木」で、いろんな種類のつつじが群生している。推定樹齢200年の木もある。

Img_7867 道標(若林交差点の電柱の下)

「大田原 喜連川」は読める。

Img_7880 佐久山前坂交差点を直進し旧道の前坂を下る。 【ル-ト地図】の②

Img_7884 坂下方向

Img_7885 坂の途中の左側に観音堂

境内に「水準点191.6691M 観音堂境内」の表示札がある。ということは坂上の交差点あたりは200m位の高さがあるということか。鶴ケ坂でだいぶ上ったようだ。

Img_7892 八木沢家

門の右に「運用膏」の木の看板を掲げている。傷薬で戊辰戦争の時に官軍が用いて効き目抜群だったため、その後も注文がだいぶあったという。

Img_7901 那須与一トイレ

源平の屋島の戦いでの扇の的を射抜く、お馴染みの場面。

佐久山郵便局あたりが本陣井上家跡らしい。

Img_7908 佐久山城址(御殿山公園) 【ル-ト地図】の③

文治3年(1187)那須泰隆が築城、佐久山氏を称す。永禄6年(1563)に同族の福原資孝に攻められ廃城。元禄15年(1702)福原氏が佐久山城址を補修し、陣屋を構築し明治を迎えた。

Img_7907 説明板

Img_7916 小島饅頭店

安政2年(1855)創業。あんこからすべて手造りという「勘兵衛饅頭」を食べてみたかったが、定休日なのか閉まっていた。

Img_7922実相院山門 《地図

福原氏の室が寄進した和唐折衷の四脚門。石の屋根としては北限だそうだ。

Img_7921 説明板

Img_7929 箒川(岩井橋から)

向こうに見えるのは那須連山か?

滝沢の一里塚があったのはこの先か?

Img_7935 養福院

Img_7939 長屋門

Img_7940イトヨが生息するという田谷川(吉沢地区) 《地図

4~5月が産卵期で、産卵後は巣の片方に蓋をしてオスは外的を監視して目は燐光を放ち、背の三本刺を倒立させて巣のまわりを警戒し、「とげ魚」とも呼ばれているそうだ。えらいねえ。

Img_7942 長屋門

Img_7946 深川橋(深川)

ここがミヤコタナゴ(国指定天然記念物)の生息地か?

Img_7955 国井氏宅の赤松

これも樹齢約200年の「与一の里名木」

Img_7960 長屋門

Img_7961 茅葺の旧家

Img_7969 蒲蘆(ほろ)碑(湯殿神社の前)

蒲蘆とは蜃気楼のことで、文化9年(1812)、旅の僧が那須野原で蜃気楼を見た体験に重ねて、山口鉄太郎代官の善政を讃える一文を記し、後に代官の手代が石に刻んだという。為政者が善政を敷けば地に蒲や蘆(葦)が生えるように、自然と治績が上がるものだという内容らしい。

この地は享和3年(1803)に幕府直轄領となり、ここ八木沢に出張陣屋が置かれた。山口鉄太郎はその代官だった。出雲街道の久世宿には代官早川八郎の善政を讃える像が建っている。悪代官ばかりで、善政、徳政を敷いた代官は珍しいということの顕れだろう。

Img_7971 湯殿神社

木に覆われて涼しい社殿の前で小休止。

Img_7974 国井氏宅

門内の町初碑がある。

Img_7977 町初碑(まちおこりのひ・まちはじめのひ)

間(あい)の宿八木沢宿が開かれた記念碑みたいなものか。

Img_7976 説明板

Img_7982 昔このあたりは那須颪(おろし)の強風を防ぐ松並木が大田原宿の入口まで3kmも続いていたという。戦時中に松根油を採るために伐採されてしまい、今は百村川(もむらがわ)沿いのただの縄手道となってしまい、往時の面影は全く残らず。《地図

右前方を二人連れのおばちゃんが歩いている。大きなリュックを背負い、この蒸し暑さで相当バテているようだ。特に後ろの女人が。どこまで行くのだろうか。まあ普通は白河までだが。仙台か、まさか津軽の三厩から竜飛岬までではなかろう。挨拶を交わしただけで追い抜いて、詳しいことは聞かず。

街道右手の八幡宮あたりに大田原の一里塚があったようだ。

Img_7988 大田原宿新田木戸跡(室井病院の先の右側)

やっと大田原宿に入った。

Img_7990 神明町交差点(日光北街道分岐) 《地図

奥州街道は右へ、左に曲がるのは日光北街道で奥州の諸大名が日光に参詣するときはこの道を通った。

だんだん雲が切れてきて蒸し暑さがこの上ない。

Img_7991 愛宕神社

神社らしからぬ洒落た感じの建物。

Img_7996とうがらしの郷

なぜ唐辛子なのか。昭和30年~40年頃は大田原は全国一の唐辛子の生産量を誇っていたという。それを今、町起しに使おうとしているらしい。大田原と唐辛子は赤い糸で結ばれているという辛いお話で、それより奥州街道大田原宿を売り物にして、その中にピリッと唐辛子の薬味でも加えた方がましのような気がするが、余計なお世話か。

Img_7998 薬師堂

城下、宿場の西の守り。左端は元禄7年(1694)建立の舎利塔。

Img_8001七重塔(薬師堂境内)

建立当時は相輪部(九輪)があったようだ。

甲州屋旅館の前に「大田原宿 下町」の石柱が立っている。

Img_8012 大田原宿本陣・問屋・高札場跡(右側) 【ル-ト地図】の④

本陣は印南家が勤めた。脇本陣2軒は痕跡、表示はなし。

Img_8013 説明板

Img_8016 那須与一像

「幸矢の与一像」とある。

Img_8019 正方寺

おおたわら七福神」の寿老人

Img_8022金燈篭

文政2年(1819)、大田原宿の有志が防火や町内安全、旅人の夜道の無事を祈願し、上町十字路に建てたものの三代目。

Img_8023 旅館中川屋

なぜかバスケットボールのゴールが。

金燈篭交差点の次の交差点を左折。

Img_8024 那須屋呉服店

江戸時代の太物古着店「那須屋宇兵衛」

Img_8025 古い家並みが残っている。《地図

ホテルみつや(旅籠上州屋跡)の前に「大田原宿 寺町」の石柱が立つ。そこを右折し、枡形を曲がり龍泉寺、大田原神社へと進む。

Img_8034大田原神社

「おおたわら七福神」の恵比寿

晴れてきて暑さが増す。境内は涼しくここでも一休みするが、薮蚊の攻撃を受け早々に退散する。

Img_8050 大田原城址から蛇尾川 【ル-ト地図】の⑤

切り立った断崖で天然の要害だった。龍がとぐろを巻いているように見え「龍体城」と呼ばれた。今は花見の名所になっている。

Img_8043 説明板

Img_8060 本丸跡から

天文14年(1545)大田原資清が築城、以来明治4年の廃藩置県まで大田原氏の居城だった。

Img_8063 大久保木戸跡 《地図

県道に出る手前の大田原神社の東側の参道前に標柱が立つ。(写真は大田原神社の石柱)

Img_8064 光真寺

大田原氏の菩提寺。本堂の左側に歴代の墓所がある。「おおたわら七福神」の大黒天

Img_8065 説明板

Img_8074 洞泉寺のクスノキ

樹齢300年の「与一の里名木」。「おおたわら七福神」の布袋尊

Img_8075 和泉屋醤油店 《地図

江戸期の創業。醤油の香ばしい匂いが漂っている(気がする)が、今も醤油を造っているのだろうか? 

Img_8076 あらまち蔵屋敷

明治時代に建てられた商店(荒物か金物?)。6月30日まで移転工事中。移転といっても道路から少し後ろに建物をずらすだけのことだった。もうほぼ完了で、7月?日から再開するそうだ。

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2010年7月 6日 (火)

奥州街道(氏家宿→喜連川宿)

2010年6月27日

氏家駅(JR東北本線)・・・光明寺・・・上町交差点・・会津西街道・会津中街道分岐・・・御前城址(氏家小学校)・・・仙禽酒造・・・今宮神社・・・上町交差点・県道48号(奥州街道)・・・原方街道分岐・・・五行橋・・思案橋(五行川)・・・薬王寺・・・村上家・・・瀧澤家・・・八幡神社鳥居・・・桜野交差点・国道293号・・・田中橋・・・狭間田の一里塚跡(32)・・・松山交差点・・・市ノ堀用水路・大黒天(2体)・・・旧道・弥五郎坂(早乙女坂)・弥五郎殿・・・旧道・高塩背山の墓道標・・・羽黒集落・・・河東碧梧桐句碑・・・枝垂れ桜・勝善神碑・荒川土手・・・下妻道道標・連城橋(荒川)・・・喜連川宿・寒竹囲い・龍光寺・御用堀・喜連川神社・大手門(復元)・大蔵ケ崎(喜連川)城址(お丸山公園)・スカイタワー・街の駅本陣・脇本陣跡・喜連川の一里塚跡(33)・東漸寺・喜連川仲町バス停→氏家駅(東北本線)→宇都宮駅・・・善願寺(大豆三粒の金仏)・・・洗橋(田川)・・・宇都宮城址公園・・・二荒山神社(鉄の狛犬)・・・清厳寺(鉄塔婆)・・・宝蔵寺(およりの鐘)・・・宇都宮駅

 梅雨真っ盛りの中を、氏家宿から境の明神を越えて白河宿までの街道歩きです。この区間はJR東北線からは離れ、バスの便も悪いので行程の立て方に苦労する。今日は喜連川宿まで行き宇都宮に戻り、街道近辺を散策した。

  【ル-ト地図】①(氏家宿→喜連川宿)・【ル-ト地図】②(宇都宮市街)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_7552_2 光明寺の不動明王

高さ約3mの巨大な青銅像が屋根に乗り、氏家の宿場を憤怒の形相で護っている。この原型に使われた木造不動明王像がさくら市ミュージアムに展示されている。(前回に記載)

Img_7554 説明板

上町交差点を直進し、会津西街道へ入り御前城址へ。

Img_7559 御前城址の土塁跡(氏家小学校内) 【ル-ト地図】①の①

鎌倉時代初期に氏家公頼が築城した平城。室町時代に勝山城が鬼怒川の崖上に築かれ、二つの城が並存した。慶長2年(1597)宇都宮氏の改易に伴い両城とも廃城となる。

Img_7561 説明板

Img_7567 仙禽(せんきん)酒造

Img_7565 説明板

Img_7569 今宮神社楼門

修理中だった。

Img_7570 説明板

上町交差点まで戻り、奥州街道を進む。

Img_7578 思案橋 《地図

思案橋といえば、長崎、高知、金沢、出雲街道の津山などみな近くに遊郭があって「行こか、戻ろか」橋の上で思案したのだが、このあたりに氏家宿の遊郭があったとも思えないし、しばし思案にくれた。

Img_7590 庄屋村上家

Img_7589 享保8年(1723)の五十里(いかり)洪水の時の水位痕が門柱に残る。1m30~40cmの高さか。

日光街道宇都宮宿の一向寺の汗かき阿弥陀は五十里洪水の前日にも汗を流したとか。

Img_7587 説明板

Img_7593 瀧沢家長屋門

明治時代の紡績業の旧家。蔵屋敷、鐡竹堂(明治天皇の休憩所として使われた)も残る。

Img_7616 狭間田の一里塚跡(32)

松山交差点手前の坂本家内(右側)

Img_7615 説明板

Img_7623 大黒天石像(右)の所で国道は右へカーブする。旧道は直進して弥五郎坂を上る。

Img_7627 大黒天(左)の台座は水準点として利用された。ここは標高158mもあるようだ。《地図

Img_7625 説明板

Img_7631 弥五郎坂(早乙女坂) 【ル-ト地図】①の②

少し先の右の石段上に、天文18年(1549)の早乙女坂の合戦で、鮎ケ瀬弥五郎に討ち取られた宇都宮尚綱を供養する弥五郎殿がある。

別伝では、「弥五郎は宇都宮尚綱の家臣で、主人が討たれた後、敵陣に切り込み死んだのを、主人の子孫が供養した」とも。

Img_7635 弥五郎殿

中に尚綱を供養する石造の五輪塔が建っている。

Img_7636 由来

Img_7644 坂上方向

Img_7650 下りとなって右に旧道に入る。ちょっと分かりにくく、雑草に覆われ入りづらい。

Img_7651 入口に奥州街道の標柱が立っている。

Img_7655 倒木の下をくぐり進む。

途中に高塩背山(自然歌人・若山牧水の親友)の墓への道標がある。

Img_7664 羽黒集落に出て、左に車道を7.8分バックして上る。

Img_7666 河東碧梧桐句碑 《地図

正岡子規の弟子で、司馬遼太郎の『坂の上の雲』にも登場するそうだ。

Img_7667 説明板

Img_7674 荒川土手から大蔵ケ崎(喜連川)城址・スカイタワー 《地図

雨の中をあそこまで登るのだ。土手の手前に碧梧桐の句の説明板にある大桜(枝垂れ桜)がある。

Img_7679 道標(連城橋手前の交差点)

「右江戸道 左下妻道」

前方の国道293号沿いには早乙女の桜並木が続く。ここに明治大正期には氏家までの約8.3kmの喜連川人車鉄道が通っていた。

Img_7678 説明板

Img_7681 連城橋を渡り喜連川宿へ入る。

Img_7682 寒竹囲いの家

6代藩主の茂氏が家臣の屋敷の塀を腐りやすい板塀から、周辺に自生するオカメ笹(寒竹)の垣根とするように奨励した。

Img_7695 龍光寺の喜連川足利家の墓所

秀吉、家康は足利尊氏の流れを継ぐ、当家を特別待遇し、五千石にもかかわらず十万石の家格が与えられ、江戸城登城の時には御三家や百万石大名級の扱いを受けていたという。

Img_7694 説明板

Img_7696 御用堀 【ル-ト地図】①の③

昔は生活用水として使われていた。

Img_7705 説明板

Img_7704 旧家

Img_7708 今も鯉が泳ぐ清流だ。

Img_7712 高塩背山(左)と若山牧水(右)の歌碑(喜連川神社の裏参道)

「時をおき老樹の雫おつるごとしづけき酒は朝にこそあれ」 牧水

「かぜとよむ桜若葉のあひだよりのこれる花のちるはさびしき」 背山

Img_7715 喜連川神社

7月の天王祭の神輿渡御は荒神輿、暴れ神輿として有名だそうだ。

Img_7714 説明板

源惟朝とは喜連川塩谷氏15代目の塩谷惟朝のこと。17代目の惟久は秀吉の命に応ぜず領地、妻子を捨てて出奔した。惟久の妻は、古河公方の分家の小弓公方の血を引く足利頼純の娘の島子で、これが絶世の美女だったとか。色ボケ親爺の秀吉はこれ幸いにと早速彼女を側室にして、島子の弟の足利国朝を足利氏姫(最後の古河公方の足利義氏の娘)と結婚させ、塩谷氏に変わって喜連川の領主とした。若死にした国朝の跡をその弟の頼氏が継ぎ喜連川(足利家)を名乗った。

Img_7735 大手門(復元)

門をくぐった内側から街道方向。ここからお丸山公園(喜連川城址)、スカイタワーへ上る。シャトルエレベーターもあるのだが、上る途中で動いているのを見なかった。運転しているのだろうか? 

源義家を祖とする塩谷惟広(喜連川塩谷氏の祖)は、源平合戦で源義経の軍に従って戦功を立て、源頼朝から塩谷の里3千町を領地として与えられ、文治2年(1186)ここに大蔵ケ崎(喜連川・倉ケ崎)城を築いた。ここからお丸山公園に上る。【ル-ト地図】①の④

Img_7731 シャトルエレベーター

スカイタワーを往復する間、一度も動いてなかったようだが。雨とはいえ日曜なのに。

Img_7730 スカイタワーから喜連川城温泉、荒川。

Img_7795 本陣跡(街の駅本陣) 【ル-ト地図】①の⑤

建物は大正15年建築の警察署

Img_7737 説明板

Img_7742 「紙屋」といっても今は和菓子店

脇本陣を勤めた家で、明治以降に饅頭屋を開業。

Img_7743 京呉服の「ささや」(笹屋)

江戸時代から呉服を含む「ヨロズ屋」をやっていたという。蔵が後ろの喜連川小学校前の通りまで続いている。

Img_7745 喜連川の一里塚跡(33) 

「喜連川市街地MAP」によると、仲町交差点の所だが痕跡、表示はない。

Img_7746 東漸寺(右)の前

枡形の名残りか。

Img_7748 説明板

東漸寺の放火事件の実話が書かれている。スカイタワーでもらった「喜連川市街地MAP」では、昔話「お城と東漸寺の焼きくらべ」の舞台となっている。

Img_7750 突抜井戸(喜連川小学校内)

明治時代以降、上総掘りという井戸掘り工法による自噴井戸があちこちに掘られ、生活用水として使用していた。地下40m前後まで掘るときれいな水が豊富に湧出するという。三段式になっている。

***ここからは宇都宮散歩***

Img_7754 大豆三粒の大仏(善願寺の銅造盧舎那仏坐像) 【ル-ト地図】②の①

高さ3.6m、台座は1.6m、大豆三粒の寄進をもとに享保20年(1735)に建立されたことからこう呼ばれるそうだ。「土や石積れば富士の山となる豆も佛となるとこそきけ」。「ちりも積もれば山となる」ということか。

Img_7761 宇都宮城址公園 【ル-ト地図】②の②

平成18年に城址公園として整備された。

Img_7774 二荒山(ふたあらやま)神社 【ル-ト地図】②の③

下野国一之宮

Img_7775 鉄の狛犬

普通の石造の狛犬と違っておとなしそうで迫力がない感じ。もう片方の相棒がいないので元気がないのだろう。

Img_7781 およりの鐘(宝蔵寺) 【ル-ト地図】②の⑤

説明板のいわれのほかに①鐘の音が一里四方(四里)に聞こえた。②身分の高い人が宇都宮に「お寄り」になる時に撞いた。

Img_7780 説明板

Img_7783 清厳寺 【ル-ト地図】②の④

山門をくぐった右側に鉄塔婆の収納蔵がある。扉を開いて、電気をつけて見ることができる。無料で許可不用とは、この寺は偉い。他の寺社も見習うべし。

Img_7765 鉄塔婆

高さが3.3mもあり、緻密な浮き彫りも見事。さすが国重文のことはある。

Img_7784 説明板

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