奥州街道(氏家宿→喜連川宿)
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梅雨真っ盛りの中を、氏家宿から境の明神を越えて白河宿までの街道歩きです。この区間はJR東北線からは離れ、バスの便も悪いので行程の立て方に苦労する。今日は喜連川宿まで行き宇都宮に戻り、街道近辺を散策した。
【ル-ト地図】
写真をクリックすると拡大します。
高さ約3mの巨大な青銅像が屋根に乗り、氏家の宿場を憤怒の形相で護っている。この原型に使われた木造不動明王像がさくら市ミュージアムに展示されている。(前回に記載)
上町交差点を直進し、会津西街道へ入り御前城址へ。
鎌倉時代初期に氏家公頼が築城した平城。室町時代に勝山城が鬼怒川の崖上に築かれ、二つの城が並存した。慶長2年(1597)宇都宮氏の改易に伴い両城とも廃城となる。
修理中だった。
上町交差点まで戻り、奥州街道を進む。
思案橋 《地図》
思案橋といえば、長崎、高知、金沢、出雲街道の津山などみな近くに遊郭があって「行こか、戻ろか」橋の上で思案したのだが、このあたりに氏家宿の遊郭があったとも思えないし、しばし思案にくれた。
享保8年(1723)の五十里(いかり)洪水の時の水位痕が門柱に残る。1m30~40cmの高さか。
日光街道宇都宮宿の一向寺の汗かき阿弥陀は五十里洪水の前日にも汗を流したとか。
明治時代の紡績業の旧家。蔵屋敷、鐡竹堂(明治天皇の休憩所として使われた)も残る。
松山交差点手前の坂本家内(右側)
大黒天石像(右)の所で国道は右へカーブする。旧道は直進して弥五郎坂を上る。
大黒天(左)の台座は水準点として利用された。ここは標高158mもあるようだ。《地図》
少し先の右の石段上に、天文18年(1549)の早乙女坂の合戦で、鮎ケ瀬弥五郎に討ち取られた宇都宮尚綱を供養する弥五郎殿がある。
別伝では、「弥五郎は宇都宮尚綱の家臣で、主人が討たれた後、敵陣に切り込み死んだのを、主人の子孫が供養した」とも。
中に尚綱を供養する石造の五輪塔が建っている。
下りとなって右に旧道に入る。ちょっと分かりにくく、雑草に覆われ入りづらい。
途中に高塩背山(自然歌人・若山牧水の親友)の墓への道標がある。
正岡子規の弟子で、司馬遼太郎の『坂の上の雲』にも登場するそうだ。
荒川土手から大蔵ケ崎(喜連川)城址・スカイタワー 《地図》
雨の中をあそこまで登るのだ。土手の手前に碧梧桐の句の説明板にある大桜(枝垂れ桜)がある。
「右江戸道 左下妻道」
前方の国道293号沿いには早乙女の桜並木が続く。ここに明治大正期には氏家までの約8.3kmの喜連川人車鉄道が通っていた。
6代藩主の茂氏が家臣の屋敷の塀を腐りやすい板塀から、周辺に自生するオカメ笹(寒竹)の垣根とするように奨励した。
秀吉、家康は足利尊氏の流れを継ぐ、当家を特別待遇し、五千石にもかかわらず十万石の家格が与えられ、江戸城登城の時には御三家や百万石大名級の扱いを受けていたという。
昔は生活用水として使われていた。
「時をおき老樹の雫おつるごとしづけき酒は朝にこそあれ」 牧水
「かぜとよむ桜若葉のあひだよりのこれる花のちるはさびしき」 背山
7月の天王祭の神輿渡御は荒神輿、暴れ神輿として有名だそうだ。
源惟朝とは喜連川塩谷氏15代目の塩谷惟朝のこと。17代目の惟久は秀吉の命に応ぜず領地、妻子を捨てて出奔した。惟久の妻は、古河公方の分家の小弓公方の血を引く足利頼純の娘の島子で、これが絶世の美女だったとか。色ボケ親爺の秀吉はこれ幸いにと早速彼女を側室にして、島子の弟の足利国朝を足利氏姫(最後の古河公方の足利義氏の娘)と結婚させ、塩谷氏に変わって喜連川の領主とした。若死にした国朝の跡をその弟の頼氏が継ぎ喜連川(足利家)を名乗った。
門をくぐった内側から街道方向。ここからお丸山公園(喜連川城址)、スカイタワーへ上る。シャトルエレベーターもあるのだが、上る途中で動いているのを見なかった。運転しているのだろうか?
源義家を祖とする塩谷惟広(喜連川塩谷氏の祖)は、源平合戦で源義経の軍に従って戦功を立て、源頼朝から塩谷の里3千町を領地として与えられ、文治2年(1186)ここに大蔵ケ崎(喜連川・倉ケ崎)城を築いた。ここからお丸山公園に上る。
スカイタワーを往復する間、一度も動いてなかったようだが。雨とはいえ日曜なのに。
スカイタワーから喜連川城温泉、荒川。
建物は大正15年建築の警察署
脇本陣を勤めた家で、明治以降に饅頭屋を開業。
江戸時代から呉服を含む「ヨロズ屋」をやっていたという。蔵が後ろの喜連川小学校前の通りまで続いている。
「喜連川市街地MAP」によると、仲町交差点の所だが痕跡、表示はない。
枡形の名残りか。
東漸寺の放火事件の実話が書かれている。スカイタワーでもらった「喜連川市街地MAP」では、昔話「お城と東漸寺の焼きくらべ」の舞台となっている。
明治時代以降、上総掘りという井戸掘り工法による自噴井戸があちこちに掘られ、生活用水として使用していた。地下40m前後まで掘るときれいな水が豊富に湧出するという。三段式になっている。
氏家駅(東北本線)→宇都宮駅***ここからは宇都宮散歩***
高さ3.6m、台座は1.6m、大豆三粒の寄進をもとに享保20年(1735)に建立されたことからこう呼ばれるそうだ。「土や石積れば富士の山となる豆も佛となるとこそきけ」。「ちりも積もれば山となる」ということか。
平成18年に城址公園として整備された。
下野国一之宮
普通の石造の狛犬と違っておとなしそうで迫力がない感じ。もう片方の相棒がいないので元気がないのだろう。
説明板のいわれのほかに①鐘の音が一里四方(四里)に聞こえた。②身分の高い人が宇都宮に「お寄り」になる時に撞いた。
山門をくぐった右側に鉄塔婆の収納蔵がある。扉を開いて、電気をつけて見ることができる。無料で許可不用とは、この寺は偉い。他の寺社も見習うべし。
高さが3.3mもあり、緻密な浮き彫りも見事。さすが国重文のことはある。
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