中原街道④
2010年7月16日
寒川駅(JR相模線)・・・車地蔵堂・・・一之宮小学校入口交差点・梶原景時館跡(天満宮)・・・県道47号・四之宮の渡し跡・田村の渡し跡分岐・・・西寒川駅跡(八角広場)・・・四之宮の渡し跡あたり(寒川側)・・・分岐点・・・大山道道標・河原不動堂・・・河原l橋(目久尻川)・・・神川橋(相模川)・・・田村の渡し跡碑・・・八坂神社・・・田村十王堂跡・大山道道標(旧田村十字路)・・・貞性寺・・・田村駒返橋跡・・妙楽寺・・・一里塚跡碑(鹿見堂橋バス停)・・・国道129号・・・四之宮交番前交差点・・・旧道・・・諏訪神社・・・供養塔道標(四之宮道合流点)・・・(国道129号)・・・前鳥神社・・・四之宮の渡し跡(平塚側)・・・合流点・・・真土神社・古道中原街道碑・・・日枝神社・・・高札場跡・・・中原御殿跡(中原小学校)・・・善徳寺・・・道祖神・諏訪部神社・・・要法寺(平塚の碑)・・・東海道平塚宿問屋場跡・・・(東海道)・・・平塚駅(JR東海道線)
【ル-ト地図】
梅雨明けかと思わせるような、ぎんぎらぎん照りの下を相模川を越え、中原御殿跡から東海道平塚宿まで歩く。
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車地蔵堂 《地図》
小田原城主大森実朝の孫で、田端(寒川町)の生往寺開基の菊地泰次が慶長2年(1597)に建立し、安産子育地蔵を祀ったと伝えられる。車に乗った地蔵をお祈りする人には自分の子や孫の時代に幸せが車に乗ってやって来るという、「三界ハ輪廻ノ如シ」という仏教の教えに従ったものだそうだ。霊験あらたかな子育地蔵として江戸時代には講を組織し、参詣する人も多かったという。暗い堂内の写真を撮ってみると、地蔵の上半身は写っていたが、足元の方は写ってなく車に乗っているかどうかは見えなかった(この地蔵は前仏かも)。 一般的な車地蔵は、柱に取り付けられた後生車(地蔵車)を回すと六道の苦難から救われ、後生安楽に成仏できるというもの。『鶴見区の坂-6』に記載。
梶原景時館跡(天満宮) 《地図》
ここは広大な館の物見の場所で、後に里人が文武両道に秀でた景時を讃え天満宮を建てたともいう。
田村の渡し跡(右へ)・四之宮の渡し跡(左へ)分岐点 《地図》
西寒川駅跡(八角広場)
線路の一部が残る。ここは相模海軍工廠跡で2002年に化学兵器(毒薬)が発掘されて話題となった。
正面は下流の湘南銀河大橋、その下流に東海道の馬入橋が架かる。
古くは奥州道、中原街道の渡しで、家康が中原御殿から江戸城へ帰る時の「四之宮の逆船」(「郷土の名所旧跡の2-7」)の説話も残る。実際の船着場は流れの変動に応じて目久尻川の合流点付近や前鳥神社のすぐ東付近の間でたびたび移動した。その後、東海道の整備と大山詣の流行などで渡しの主流は下流の「馬入の渡し」(東海道)と上流の「田村の渡し」(中原街道・大山道)の方に移った。街道筋の渡しとしての役割は薄れたが、主に左岸(寒川側)にある四之宮の飛び地での農耕作業のための渡船場として昭和26年までは盛んに利用されていたが、昭和30年頃に姿を消した。四之宮とは平塚側の渡し場近くの前鳥(さきとり)神社のこと。
分岐点に戻り、田村の渡し跡に向かう。
河原不動尊・大山道道標 《地図》
道標天明6年(1786)に江戸浅草黒船町の大黒屋が建立したもので、正面に「右大山道」・左側面に「左江戸道」とある。街道沿いのどこからかここに移されたもの。ここは大山道(田村道)と重なる道筋で大山への参詣人、中原街道から東海道や八王子道へ抜ける旅人などの往来で賑やかだったのだろう。
建設中の道路がこの先、相模川沿いを北上するようだ。
左は中村清四郎の歌碑「阿夫利嶺を まともに仰ぎ 旅人ら 声あげにけむ この渡しに」
右も田村の渡し場の説明の石碑で、その右に木の枝葉に隠れて説明板がある。
田村十王堂跡・大山道道標(旧田村十字路) 《地図》
ここは八王子道の交差する所で、旅籠などもあり「田村の宿」とも呼ばれていた。十王堂は天文6年(1537)の小田原北条氏と上杉氏の相模原での合戦の戦死者を弔うため妙楽寺の住職が建立した。
田村駒返橋跡 《地図》
古くからの馬の継ぎ立場で、ここにも家康が登場する逸話がある。
開基は足利基氏
家康が雨宿りした時に鹿を見かけたという鹿見堂は残らず、バス停にその名を留めるのみか。鹿見堂橋と、家康が箸(はし)を地面にさしたら森になったという弘法大師みたいな話の「箸立の森」はここより少し南にあったようだ。
旧道は背後の道に入る。
合流地点の庚申供養塔道標? 《地図》
何が書かれているか判読できず。
ここから四之宮の渡し跡へ行ってみる。
前鳥(さきとり)神社 《地図》
もとは「前島」神社だったという説もあるようだ。私もてっきり前島神社と思っていた。
発掘調査により神社周辺から、多量の墨書土器、彩釉陶器、装身具などが出土。さらに平成2年(1990)には国厨(くにのくりや)と書かれた土器が見つかった。このあたりが平安時代の相模国府跡で、古代東海道が東西に延びていたのだろう。
風に乗ってくる牛舎の匂いがきつい道を行く。正面が相模川の河川敷。
対岸は旭ファイバーグラスなどの工場群。昔は畑地が開け、渡し船で耕作に行ったそうだ。
再び合流点へ戻り、中原御殿を目指す。暑い。
古道中原街道碑 《地図》
この先の中原御殿までの道筋ははっきりしていない。
説明板には「中原街道の昔の面影を最も良く残している」とあるが、もうそんなことはない普通の町並み、住宅地になっている。
日枝神社 《地図》
家康が中原御殿を築く際に、鬼門除けとして修築した。
高札場跡 《地図》
雲雀野御殿、御鷹野御殿とも呼ばれた。明暦3年(1657)に取り払われた。
善徳寺山門 《地図》
中原御殿の裏門を移築したものと伝えている。
諏訪部神社・大久保公園 《地図》
正面に新旧の道祖神の小祠。
ハスの花で埋まる境内。「平塚」の由来となった塚(墓)がある。
東海道(正面)・右角に平塚宿西組問屋跡
東海道上方見付跡、大磯宿方向。前方は高麗山。【ル-ト地図】の18
右が平塚宿西組問屋場跡、手前に平塚宿の中心部から平塚駅に向かった。平年より早く、翌日に梅雨明けの発表があった。実際は今日だろう。
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