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2010年7月31日 (土)

木下(きおろし)街道①

2010年7月25日

行徳駅(地下鉄東西線)・・・県道6号・・・押切稲荷神社・・・押切交差点・・・行徳宿・ぽっくり稲荷(田中翁生誕地)・・枡形・・豊受神社・・枡形・・笹屋うどん跡・・旧江戸川・行徳新河岸跡・常夜灯・・神明宮・・八幡神社・・芭蕉句碑(田中家)・・神明(豊受)神社・・稲荷神社・・正源寺・・胡録神社・春日神社・・行徳橋(江戸川)・・・(稲荷木緑道)・・・雙輪寺・・・稲荷神社・・・一本松跡・延命地蔵・庚申塔道標・(京葉道路)・・・甲大神社・・・(JR総武本線本八幡駅)・・・本八幡交差点・成田街道合流地点・国道14号・・・(京成本線)・・・八幡宿・葛飾八幡宮・・不知森(神社)・・境橋(真間川)・・・鬼越2丁目交差点(成田街道分岐地点)・中村邸・県道59号・・・高石神社・・・深町坂・・・東山魁夷記念館・・・北方(ぼっけ)十字路・中山競馬場・・・白幡神社・・・(船橋法典駅・JR武蔵野線)・・・七面堂・・・法宣庵・・・藤原観音堂・・・私塾安川舎跡・・・神明宮・・・藤原新田高札場跡・・・(東武野田線馬込沢駅)・・・馬込天満宮・・・馬込十字路(県道8号)・・・源兵衛坂・清長庵(地蔵道標)・・・平六坂・・・鎌ヶ谷宿・延命寺・・(鎌ヶ谷大仏駅・新京成電鉄)・・鎌ヶ谷八幡神社・・鎌ヶ谷大仏・・・(県道57号)・・・魚文句碑・・・天神社・・・(中央競馬会競馬学校)・・・国道464号・・・白井駅(北総鉄道)

 江戸からは香取・鹿島・息栖(いきす)の三社詣や、銚子浦への遊覧ルートで、「鹿島道」、「印西道」、「銚子道」とも呼ばれ、木下からは銚子沖で獲れた鮮魚を利根川、江戸川を経由して運ぶ際の両河川をつなぐ陸路で、「鮮魚街道(なま道)」、「行徳道」、「江戸道」とも呼ばれていた「木下(きおろし)街道」を2回で歩く。

  【ル-ト地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_9413 押切稲荷神社 《地図

十一面観音が尊体(神体?祭神?本地仏?)という変わった神社。神仏習合思想では、稲荷の本地仏は荼枳尼天(だきにてん)で、祭神は宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)などだが。お狐さんもびっくり、とまどいの表情を見せているか。

Img_9412 由緒

押切交差点を右に曲がると行徳宿で「行徳千軒寺百軒」といわれたように寺社が多く、旧家もぼちぼちと見られ、南から伊勢宿、下新宿という地名も残っている。

Img_9415 旧家

Img_9417 行徳の発展に尽くした田中幸之助の胸像、田中稲荷の小祠(通称ぽっくり稲荷)、ぽっくり蛙などが並ぶ一角。平成20年に造られたようだ。街道を歩いていて「ぽっくり」逝ってしまうのは御免蒙りたいので、さっと通り過ぎる。

Img_9419 枡形の跡

Img_9420 旧家

Img_9421 旧家

Img_9425豊受神社(もとは神明社)

3年に一度の10月の本祭りでは行徳独特の神輿の揉み方で練り歩くそうだ。

Img_9428 後藤御輿店

2階の両側に浮き彫りの絵が描かれている。

Img_9431 旧家

Img_9432 笹屋うどん跡

日本橋小網町から行徳船に乗った旅人は行徳河岸で降りると、まずはここのうどんで腹ごしらえをしたといい、古くは源頼朝が安房に逃れる時に寄り、宮本武蔵も立ち寄ったという伝えもあるほどの老舗。下新宿の徳願寺には武蔵の描いた絵があるとか。

Img_9436 行徳新河岸常夜灯(文化9年(1812)の建立) 【ル-ト地図】の①

Img_9443 説明板

Img_9446 旧江戸川(新河岸跡から下流の東京湾方向)

行徳の塩、木下河岸から駄送(馬による陸上運送)された鮮魚は、ここから行徳船で日本橋小網町へ向かった。旧江戸川を下り→右に細い新川に入り→(旧)中川に出る。ここに船改めの中川番所があった→小名木川に入り→隅田川に出る→細い水路を入ると日本橋小網町の行徳河岸→日本橋魚市場という水路。なお旧暦の5月から7月の夏季には関宿まわり(利根川→江戸川)の全航程水路による「活舟」(船底に魚を活ける装置のある船)で送った。

レジャーの船はみな東京湾の方向へ向かっている。川の上はさぞかし涼しいだろう。こん酷暑の日に、汗を拭き拭き街道を歩くのは風雅をわきまえぬ所業なのだ。

Img_9450 旧家

Img_9453 神明宮

日を浴びて一部黄葉しているようにも見える。

Img_9465 田中家

行徳塩田の所有者の「塩場師」(しょばし)で、行徳船で新河岸から日本橋小網町まで塩を運んだ。「ぽっくり稲荷」の田中幸之助氏もここの家系だろう。

左手前に芭蕉句碑がある。「月はやし 梢は雨を 持ちながら」 『鹿島紀行』の鹿島での句。

Img_9469 澤木酒店

Img_9473 平川医院

Img_9479 神明(豊受)神社 《地図

16世紀前半の頃、金海法印という山伏が建立したという。この山伏はが高く、いが正しいので人々から「行徳さま」と崇められ、行徳の地名になったという。

Img_9487正源寺

一度も開帳したことがないという、「盲目弁財天」があるそうだ。見ると目がつぶれるという、「弁天のご開帳」か?? たとえ盲目になるとも、スケベな私としてはぜひとも拝ませてもらいたいものだ。実際は見るとがっかりしてしまう醜女弁財天で、もっともらしい由来話を作って秘仏なんて言っているのが落ちだろうよ。
行徳・浦安三十三観音霊場の第7番札所。

Img_9488 由緒

Img_9495 胡録神社(右)・春日神社(左)

Img_9498 行徳橋(江戸川)

歩道が狭く自転車とすれ違うのに苦労する。日曜で通行が多くなおさらだ。

Img_9500 下流の東京湾方向

正面は新行徳橋(県道6号)

Img_9507雙輪(そうりん)寺

行徳・浦安三十三観音霊場の9番・10番

Img_9509稲荷神社

このあたりは「稲荷木(とうかぎ」という地名。「下総いちかわふれあい七社」の一つ。

Img_9513 一本松跡・延命地蔵・庚申塔道標・馬頭観音 【ル-ト地図】の②

昭和48年に伐採され切り株だけが残る。庚申塔道標(正徳3年(1713))には「これより右やわたミち」、「これより左市川国分寺みち」。延命地蔵(享保13年(1728))も、もとは本八幡交差点(成田街道・国道14号)にあって道標も兼ねていた。

Img_9519 説明板

Img_9525 甲大(かぶと)神社 《地図

将門の兜を祀るとも源義家の兜を祀るともいう。葛飾八幡宮の摂社で「注連下」と称する。古来、武将が社の前で馬に乗り打ちすれば必ず落馬したという。

国道14号の本八幡駅あたりから真間川あたりまでが八幡宿だったようだが、宿場の面影は皆無。旅籠も数軒だけだったようだが。

Img_9533 葛飾八幡宮随神門

もとは仁王像だったが、明治の神仏分離で左右大臣像に変えられ仁王像は徳願寺へ移された。

Img_9530 由緒

Img_9536 社殿の右端に鐘楼

神仏分離までは上野寛永寺の末寺が境内にあり、鐘楼はその名残り。

Img_9539 千本公孫樹

多数の樹幹が束のように集まって一本の木のように見える。

Img_9538 説明板

Img_9545 頼朝駒止石

あちこちにある「・・・石」の一つのただの石。「ひづめの跡」すらはっきりしない。

Img_9544 説明板

Img_9548 不知森(神社) 《地図

入ってはいけない理由は6説もある、訳の分からぬ森。竹薮が多いようだ。黄門さんもこの森に入って祟りにあったという。「この紋どころが目に入らぬか」と印籠を振りかざしてみても、神には通じなかったようだ。

鳥居の右側に常陸から江戸に通じる街道筋に百の石橋を架けた、江戸浅草花川戸の醤油屋、伊勢屋宇兵衛の「不知八幡森」碑が建っている。

Img_9552 説明板

Img_9561 境橋(真間川)を渡る。

Img_9568 中村味噌店(鬼越2丁目交差点・成田街道分岐地点) 《地図

もう営業はしていないようだ。裏手に東葛人車鉄道の中山荷扱所があった。ここで左折し木下街道の主要ルートの県道59号に入る。
成田街道は東進する。

Img_9570 高石神社

石段上左側に神社への道標を兼ねる題目塔がある。他所から移されたものだろう。

Img_9576 深町坂を上る。【ル-ト地図】の③

ここを東葛人車鉄道が走っていた。

Img_9578 坂上近く

坂上右に東山魁夷記念館がある。

Img_9579 東山魁夷記念館

昭和20年から平成11年に亡くなるまで市川に在住したそうだ。

Img_9581 中山競馬場

非開催で場外発売だけだが、この暑さの中を電車、自動車、バス、自転車、オートバイ、徒歩で続々と人参代を持って来てくれる。中央競馬会の連中は、「濡れ手で粟」、「棚ぼた」、「果報は寝て待て」で笑いが止まらずか。そういう自分も随分貢いだが。過去形か?

Img_9582 白幡神社 《地図

右は題目塔道標(享保16年(1731)建立)で、左側面に「従是左中山法華経寺道」 

船橋法典駅の上を過ぎる。「法典」も宮本武蔵と縁の地のようだ。ただし小説上の話だが。『千葉妖怪伝説

Img_9589 七面堂

Img_9591 法宣庵入口の地蔵

頭上に「妙法」とある日蓮宗系のもの。馬込の脱走塚から移されたという、戊辰戦争幕府方脱走兵の鈴木梅之輔の墓もあるという。

Img_9592 藤原観音堂 《地図

山賊に襲われた時に身代わりになったという観音像を安置。手前の石灯篭は堂建立に際し、新田の開墾を請け負った者から元禄3年(1690)に寄進されたもの。宝暦5年(1755)銘の丸彫り石造地蔵の小堂もある。

Img_9593 説明板

Img_9596 この観音像は前仏だろう。

Img_9600 安川家(私塾安川舎跡)

文化8年(1811)の開塾で父子5代にわたって近隣村々の子弟の教育に尽くした。広い雑木林の奥に家があるようだ。「立入り禁止」の表示板があった。

ここは「貝塚道」バス停のそば。街道沿いには「○○道」というバス停が多い。

法典小学校手前の中沢道バス停交差点に「藤原新田高札場」があったようだ。

Img_9612 馬込天満宮 《地図

鳥居の先に冠木門? 境内左に庚申塔が集められている。

Img_9608 庚申塔道標(右から3番目・文化4年(1807)建立)

左側面に「左かねが作ミち」で、もとは県道8号との交差点の北東側にあったもの。「金ケ作」は陣屋のあった松戸市の新八柱駅(JR武蔵野線)の北側。

Img_9619 源兵衛坂を上る。【ル-ト地図】の④

坂の途中の清長庵に地蔵道標がある。

Img_9624 地蔵道標(正徳5年(1715)建立)

鎌ヶ谷市内最古の道標で、地蔵道標は市内で唯一。街道沿いのどこにあったのかは不明だそうだ。

Img_9623 説明板

「じんほう」とは船橋のことのようだ。

Img_9633 平六坂 《地図

下って上る坂か?

Img_9635 延命寺(中山法華経寺の末寺)

このあたりから大仏十字路までが鎌ヶ谷宿で、問屋が1軒、旅籠が6軒(船橋屋・鹿島屋・銚子屋・柴崎屋・江戸屋・丸屋)あった。鹿島屋で文政8年(1825)渡辺崋山が昼食をとったそうだ。

Img_9636旅籠丸屋

天保9年(1838)に大原幽学が宿泊している。

Img_9642 鎌ヶ谷八幡神社

左に百庚申が並ぶ。社殿の右には庚申塔道標がある。

Img_9639 由緒

Img_9644_2 百庚申説明板

Img_9647庚申塔道標(中央・寛政7年(1795)建立)

台座の右側面に「東 さくら道」、左側面に「西 こがね道」、もとは大仏十字路付近にあったという一里塚の上にあったもの。

Img_9646 説明板

Img_9658 鎌ヶ谷大仏(安永5年(1776)建立) 【ル-ト地図】の⑤

開眼供養の席には江戸の八百善の料理300人分が運ばれたという。

Img_9656 説明板

Img_9664 魚文(ぎょぶん)句碑道標(明和元年(1764)建立) 《地図

「ひとつ家へ 人を吹込む 枯野かな」

芭蕉の高弟の直系の高弟? 芭蕉の威光は大したものだ。右側面に「右 きおろし道」、左側面に「左 中木戸道」

Img_9666 説明板

この先で白井市に入ると、関牧場、白井開拓などのバス停がある。あたり一帯は幕府直轄の広大な馬牧だった。明治になって牧が廃止され、旧下級武士の失業対策の開墾事業が始まった。開墾された新しい土地には数字のつく縁起のいい名がつけられた。「初富・二和・三咲・豊四季・五香・六実・七栄・八街・九美上・十倉・十余一・十余二・十余三」と9市にもまたがるのだから、その広さが分かる。

Img_9673 大きな農家

Img_9676 天満宮

お囃子が聞こえるが人はわずか。祭りのリハーサル中か?

Img_9677日本中央競馬会競馬学校 《地図

天才武豊はただのおじさんジョッキーになってしまったし、一年目で大天狗になった三浦皇成は、勝ち鞍が半減以下になってしまった。世界に通用する人馬は俺の生きている間は出現の望み無しか。

Img_9681 白井駅(北総鉄道)

もとは北総開発鉄道といった。開発が終了したのか、開発が破壊を伴うという意味合い持つのを避けたのか開発の文字がなくなったが、運賃が高いことは相変わらずだ。白井駅から東松戸駅まで約10kmで480円とは。

 

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