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2010年7月15日 (木)

奥州街道(大田原宿→鍋掛宿→越堀宿→芦野宿→白坂宿)

2010年6月29日

那須プラザホテル・・・大田原宿・・・蛇尾橋(蛇尾川)・河原交差点・県道72号・・・瀬尾家居館跡・・・二本松橋(巻川)・・・中田原の一里塚跡・・・追分道標(棚倉街道)・・・市野沢交差点・高野槙・・・弘法大師の碑・・・高野橋(相の川(金堀川))・・・麻疹地蔵堂・・・練貫交差点・・・常夜灯道標・・・明治天皇小休所跡・・・(那須塩原市)・・・樋沢神社(義家愛馬蹄跡・葛籠石)・・・鍋掛愛宕峠・愛宕神社・鍋掛の一里塚跡・・・鍋掛交差点・・・鍋掛宿・八坂神社(芭蕉句碑)・正観寺(枝垂れ桜)・昭明橋(那珂川)・・・越堀宿・浄泉寺(黒羽領界石)・・・高久靄の墓・・・馬頭観音・・・富士見峠・・・寺子の一里塚跡(一里塚公園)・・・会三寺・寺子橋(余笹川)・・・旧道・・・(八雲神社)・・蓄魂碑など・県道72号・石田坂・・・(那須町)・・・旧道・・・道標・・・県道72号・黒川橋(黒川)・・・夫婦石(神社)・・・夫婦石の一里塚跡・・・西坂・・・旧道・・・菖蒲橋(菖蒲川)・・・芦野氏居館跡・・・(国道294号)・・・奈良川・芦野宿・河原町地蔵尊・武家屋敷(平久江家)・本陣跡(石の美術館)・建中寺・新町地蔵尊・・奈良川・・・遊行柳・上の宮のイチョウ・・・国道294号・・・旧道・・・岩倉具視歌碑・・・愛宕神社・・・べこ石の碑・・・国道294号・・・旧道・・・奈良川・・・諭農碑・・板屋の一里塚跡・・・高徳寺・・・国道294号・・・地蔵・・・寄居標識・旧道・間の宿寄居・与楽寺・・・泉田の一里塚跡・国道294号・・・寄居大久保標識・旧道・・・初花清水・・・ふくべ石・国道294号・・・戸坂橋(奈良川)・・・旧道・山中集落・・・国道294号・・・馬頭観音・旧道・・・国道294号・・・境明神・・・弘法大師衣がえの清水・・・旗宿道分岐・・・戊辰戦争大垣藩士戦死地・・・白坂宿・・・・皮篭交差点・・・白坂駅(JR東北線)

  【ル-ト地図

 6時前にホテルを出発し、昨日歩いた大田原宿を蛇尾橋手前まで足早に進む。さて今日はどこまで行くか。芦野宿までが手頃な距離だが昼過ぎには着いてしまうだろう。するとバスの便がない。白坂宿か一気に白河宿まで行ってしまうか、雨・暑さと足の具合、途中の見所で費やす時間次第だろう。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_8086_2 蛇尾(さび)橋から対岸の大田原城址 《地図

昔は徒渡りだった。川面にうっすらと川霧が立っている。

Img_8088 蛇尾川の由来

なぜ「蛇尾」という字を当てたのかよく分からず。アイヌ語の「サッ・ピ・ナイ」(渇いた小石河原の川)に由来する説もある。

Img_8094 瀬尾家

平家の家柄で居館(中田原城)跡という石柱が2つ塀の前に立っている。

Img_8093 去年の10月に立てられたばかり。

Img_8092 源義家が奥州征討へ向かう時に、また秀吉も奥州鎮定の際にこの道を通ったということ。

Img_8099 中田原の一里塚跡 

セブンイレブンの敷地内

Img_8102 追分(市野沢小入口交差点) 《地図

紫衣事件で沢庵和尚は上山へ、玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)は棚倉へ流される途中ここで別れた。沢庵が流された上山には沢庵坂、春雨庵が残る。『上山市の坂』に記載。流人ではなく客人扱いで丁重に厚遇されたようだ。棚倉町の玉室の謫居(たっきょ)跡には碑が建っている。

右(県道342号)が棚倉街道で、正面の「奥羽刑務所」看板下に道標(元禄7年(1694)建立)が立つ。看板には「黒羽刑務所、お気軽にお寄りください」で誰もがビックリだが、その下の「刑務所作業製品の展示場」のこと。

Img_8104 説明板

Img_8113 高野槙(市野沢交差点の先の左側)

推定樹齢400年、樹高17mだが、以前は30mもあったというが。

Img_8115 弘法大師の碑(右)

「蓑に添う 市野沢辺の ほたる哉」、むろん大師の歌でなく江戸時代に詠まれたもの。

Img_8120 麻疹(はしか)地蔵堂(左)

地蔵は拝めず。

Img_8129 永代常夜灯道標(手前の笠付きのもの)・十九夜塔・青面金剛塔など(練貫十字路の先で右にカーブする左側)

永代常夜灯(宝暦6年(1756))には、「右奥州海道 左原方那須湯道」

練貫の一里塚があったのはどのあたりか?

Img_8138 那須塩原市に入る。

Img_8145 義家愛馬蹄跡(桶沢神社境内)

凹んでいる所が源義家の足痕ということか。

Img_8144 由来

Img_8147 葛籠石(つづらいし)

ただの石ころにしか見えないよ。

Img_8150 「伝説の大うなぎ 桶沢の大沼」の看板が掛っているがどんな伝説なのか?

その先のホテル「不夜城」は、落城で廃城したようだ。はかない「一夜城」だったか。

Img_8161 鍋掛の一里塚跡 

道路の拡張工事などで愛宕神社の石段脇に移されている。

Img_8160 説明板

Img_8158 鍋掛(愛宕)神社

昭和30年に愛宕神社に温泉神社と鶏鳥神社?が合祀され鍋掛神社と改称された。

鍋掛十字路を越えると鍋掛宿で、那珂川を挟んだ対岸の越堀(こえぼり)宿とで、宿場業務を果たした。正保3年(1646)以降は天領となった。街道沿いに宿場の家並みなどは残っていない。

鍋掛十字路にあるコンビニに入って、出て直進する所をなぜか左に曲がってかなり進んでしまいかなりのロスタイムとなった。この先は長いのにうっかりミスとは情けない。十字路で店などに入る時は入る前に位置を確認しておくこと、出たらもう一度進むべき道を確認することが肝要だ。おかげで鍋掛宿に入ってすぐの「清川地蔵尊」(延宝7年(1679)建立で、子育て地蔵として女性の信仰が篤い)を見逃すハメと相成った。

Img_8168 芭蕉句碑(文化5年(1808))の建立・八坂神社内)《地図

「野を横に 馬牽きむけよ ほとゝぎす」

Img_8167 説明板

Img_8173 正観寺の枝垂れ桜

推定樹齢250年以上。

Img_8177 昭明橋から那珂川

徒渡り、舟渡りから、後期は舟橋、土橋も利用されたという。

昭明橋を渡り越堀宿に入る。那珂川が川留めになった時などのために設けられた宿場で、鍋掛宿より遅い正保3年(1646)に開かれた。寛永12年(1635)参勤交代で江戸に向かう仙台藩の行列が増水で渡れず、この地に小屋を設けて逗留したのが宿場成立のきっかけにつながったともいわれる。ここも古い家並みなどは見当たらず。

Img_8180 黒羽領界石(浄泉寺境内)

もとは那珂川左岸の越堀宿側に建っていた。境内は「明治天皇小休所跡」で、「御膳水」の石碑もある。

Img_8182 説明板

Img_8185 「枡形の地」の石碑(右) 《地図

枡形は道路改修で緩やかなカーブとなり、昔は道の真ん中に堀があり小さな橋や柳もあったというが、今は何の痕跡、風情もない。

Img_8186 戦争の被害者は人だけではない。

Img_8187 坂本屋は旅籠だったのか?

越堀宿を出ると起伏の多い道となり富士見峠を目指す。

Img_8193 高久靄(たかくあいがい)の墓の標柱

江戸時代後期の文人画家。台東区谷中の天龍院にも墓があるようだ。

Img_8202 富士見峠 《地図

昔は木が茂ってなく富士の見晴らしがきいたのか? このあたりに茶屋が2.3軒あったという。

峠を下って間の宿の寺子宿へ。宿といっても旅籠はなく、茶屋があった程度だったようだ。

Img_8207 寺子の一里塚跡 

一里塚公園になっている。

Img_8212 説明板

Img_8213 馬頭観音

右の安永4年(1775)のものはもとは富士見峠にあって、道標と里程標を兼ねていた。

左側面「日光山十六里 江戸四十一里 水戸二十二里 八溝山六里」・右側面「湯殿山六十六里 仙台五十里 会津二十四里 那須湯元五里」

Img_8209 説明板

Img_8217 会三寺(えさんじ)

14代法印旺盛の頃、麻疹(はしか)が流行し多くの幼児が亡くなった。これを哀れんだ法印が111体の木像の地蔵を彫り菩提を弔ったという。この地蔵を収めた「はしか地蔵堂」がある。那須三十三観音霊場の6番

Img_8223 寺子橋手前の余笹川見晴らし公園から 《地図

平成10年8月の台風4号の豪雨で、河岸の8割以上が決壊したそうだ。蛇行する暴れ川(だった)か。

Img_8227 寺子橋を渡り左に旧道に入る。

Img_8232 県道との合流点に蓄魂碑(牛の像)、馬頭観音、二十三夜塔、庚申塔などが集められている。

Img_8234 石田坂を上る。

この後も起伏のある道を進み、那須町に入る。

Img_8242 下りとなって旧道はここを直進する。《地図

Img_8245 道標(右)

黒川に突き当たり、左折し県道に出て黒川橋を渡る。

Img_8249 黒川橋

平成10年の台風4号の豪雨の時の水位は橋の路面直下まで達した。

Img_8253 夫婦石神社参道

左に腹身・日切・合掌・不動・財福のユニークな名と顔の地蔵 が並ぶ。

Img_8260 夫婦石神社と夫婦石(みょうといし) 《地図

敵に追われた男女二人がこの石の割れ目に身を隠した。石のそばに来た追手は、石の割れ目から現れた大蛇に恐れおののき逃げ帰り、二人を見落とした。二人は夫婦となり田畑を耕し仲良く暮らした。この「見落石」が誰ということなしに「夫婦石」になったとさ。

芦野宿と伊王野の里ガイドブック』には、これとは全く内容が違う民話が載っている。蛇・夫婦・夜になるとくっつく、というのは同じだ。

Img_8262 由来

Img_8263 夫婦石の一里塚跡

両側に塚跡が残っている。

Img_8264 説明板

Img_8272 西坂を下って正面の赤屋根の家の手前で左に旧道に入ってさらに下る。

道沿いには馬頭観音などの石造物がある。

Img_8278 尾大神

わらじ、サンダルがぶら下げてある。

Img_8295 芦野氏居館跡① 《地図

鎌倉時代初期頃からの居館跡。今は一面の畑で館跡は微高地になっている。

Img_8294 説明板

Img_8299 館山城址② 《地図

14世紀末から15世紀初頭の、足利将軍義持の頃に芦野氏が築いたという山城。《地図》

Img_8296 桜ケ城址(芦野城・御殿山)③ 《地図

天文年間(1532~54)とも天正18年(1590)の築城ともいわれる。

①→②→③の時代順の築城。

奈良川を渡ると下野(栃木)最北の芦野宿。

Img_8301 河原町地蔵堂(左)

宿の南端にあり道中安全と、悪疫退散、水害・水難除けなど道祖神的役割も担っていた。

Img_8302 地蔵尊

片足を前に投げ出している。題座に「水」の刻字がある。 

Img_8308 屋号、職種を記した石灯篭を並べている。

Img_8312 芦野宿の町並み

ここも昔は真ん中に堀があり、松や柳が植えられていたそうだ。

Img_8314 丁子屋

安達家は旅宿「丁子屋」で、蔵座敷八畳二室が残る。今はうなぎ料理で有名。

Img_8322 武家屋敷平久江家

推定樹齢400年のシダレ桜

Img_8325 門前に車が駐車していてこんな写真になってしまった。

Img_8324 説明板

この先の那須歴史探訪館から桜ケ城址に行ける。

Img_8321 本陣跡は「石の美術館」になっている。《地図

芦野氏の菩提寺の建中寺の先を左にカーブする。

Img_8329 新町地蔵尊

ここで芦野宿を出る。宿の北端の守り仏。

Img_8330 説明板

Img_8333 遊行柳 《地図

古来有名な歌枕。

芭蕉の『奥の細道』での「田一枚 植えて立ち去る 柳かな」

西行は「道のべに 清水流るる 柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」

蕪村は「柳散 清水涸 石処々」

Img_8337 説明板①

Img_8335 説明板②

Img_8341 上の宮の大イチョウ(遊行柳の後方)

推定樹齢400年

「遊行庵」でそばでも食べようかと思ったがやっていない。平日は客が少ないので閉めているのか、あえなく潰れたか。

Img_8346 愛宕神社の細く急な石段。ここから遥拝でご容赦を。

Img_8351 べこ石の碑 《地図

3500もの小さな文字と、右端に牛面人身の「炎帝神農氏」の姿が彫られている。民衆教化というが、こんなもの農民が読むはず、読めるはずがなかろうに。

Img_8347 説明板

Img_8360 諭農碑(左)・板屋の一里塚跡(右) 《地図

坂の傾斜を緩くする工事で削られ、塚の形ははっきりしなくなった。板屋は間の宿だったともいう。

Img_8361 諭農碑

これも「べこ石」と同じ戸村忠恕の建立。病害虫の駆除・予防、飢饉のための備荒法、飢人の看護法など農民を諭す文言が並ぶ。よほどお節介な閑人だったのだろう。

蟹沢、高瀬、脇沢を通り寄居へ向かう。

Img_8380 地蔵(県道の右側)の先で左に間の宿、寄居の集落に入る。

Img_8383 與楽寺 《地図

那須三十三観音霊場の10番。推定樹齢150年の那須の名木の山桜がある。

Img_8386 旧家

寄居は境の明神を越えて「みちのく」へ入る下野側で最後の休憩地だった。

Img_8389 泉田の一里塚跡 

関東地方最後の一里塚

Img_8392 「寄居大久保」の標識先で左に旧道に入る。

Img_8394 地蔵・二十三夜塔・馬頭観音などが集められている。「足尾山 旅行安全・・・」には「従是江戸四十五里五丁」とあるようだ。

Img_8401 初花清水 

箱根霊験躄(いざり)仇討」の主人公・飯沼勝五郎は、この東の棚倉藩の武士であったとも、仇を探して棚倉の地に入ったともいう。また初花が棚倉の商家の娘で、棚倉に来た勝五郎と知り合い女房になったともいう。そして2人が隠れ住んだのがこのあたりか。その後、艱難辛苦の末、2人は東海道は箱根山で仇にめぐり合い見事本懐を遂げたという一席。箱根には2人の墓などがある。『箱根の坂-1』に記載。

今でもパイプから水が流れている。田んぼの用水に使われているのだろう。

Img_8406 瓢石(ふくべいし)

勝五郎がつれづれに彫ったものという瓢箪石。

Img_8414 山中の集落 《地図

ここにも明治天皇小休所跡がある。

Img_8419 馬頭観音

Img_8422 境の明神 

Img_8426 玉津島神社(女神・栃木県側)

福島県側から見れば「住吉神社」(男神)

Img_8425 説明板①

Img_8427 説明板②の1

Img_8429 説明板②の2

「境の明神」は今でも県境で、参院選のポスターがコロリと変わる。当たり前か。当落のほどは興味もなく感知せず。

Img_8413 栃木県側

Img_8457 福島県側

Img_8440 玉津島神社(女神・福島県側)

栃木県側から見れば住吉神社(男神)

Img_8437 説明板

Img_8439 向かい側が峠の茶屋「南部屋」があった所で、「二所之関址」碑が建っている。ちなみに「二所之関」は相撲の「二所ノ関部屋」の語源らしい。

Img_8443 弘法大師衣がえの清水(境の明神のすぐ先の左下)

大師が衣を濯ぎ、「奥の細道」の旅で芭蕉も立ち寄った清水。今でも清水は湧いている。

Img_8450 旗宿分岐 《地図

右へ行けば「白河の関」で、10世紀に入り、律令国家の崩壊とともに、官関の機能は失われ、「白河の関」は歌枕として都人の憧景の地へと変化する。芭蕉もこの道を行った。

Img_8453 戊辰戦争大垣藩士戦死の跡

戦死した藩士の妹の歌碑が建つ。墓はこの先の観音寺にある。

Img_8454 説明板

Img_8459 白坂宿

宿の面影、痕跡は全く残っていない。こんな宿場も珍しいか。

Img_8464 観音寺

金売吉次が死ぬ間際に遺した言葉、「朝日さす夕日さす からすの横ばえ すずめのちょんちょん 三つ葉うつぎの下にある」の夕日とは、この観音寺の夕日観音のことだとか。とするとこの寺に吉次の隠し金が眠っているかも。だとしても寺でとっくに掘り出してしまっているだろうよ。左は平和観音だから、この下を掘らないように。

Img_8468 車の少ない県道で歩きやすいが雨が本降りとなってきた。

Img_8469 皮篭(かわご)交差点までとし、左折して白坂駅へ向かう。

Img_8470 交差点右に「革籠原の防塁跡(鍛冶屋敷跡)」の看板

直江兼続が徳川軍を迎え撃つべく数キロにおよぶ防塁を築いた所で、今も防塁跡と思われる遺構が残るそうだが、ここから東にだいぶ離れているようだ。家康はここまで来ず小山で引き返し、関が原の戦に向かった。まさに「幻の決戦地」に終わってしまった。

革籠原の地名は、このあたりで(境の明神付近とも)金売吉次が強盗に襲われ殺害された際、革籠を奪われたことによる。

Img_8471 白坂駅

無人駅・屋根なしのホーム・トイレもなし・スイカは使えず。

今日はけっこう歩いた。地図上では40kmだが、道を間違った分などを加えれば42kmはいくか。一日かけてフルマラソンの距離を歩いたということか。

 

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