奥州街道(大田原宿→鍋掛宿→越堀宿→芦野宿→白坂宿)
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【ル-ト地図】
6時前にホテルを出発し、昨日歩いた大田原宿を蛇尾橋手前まで足早に進む。さて今日はどこまで行くか。芦野宿までが手頃な距離だが昼過ぎには着いてしまうだろう。するとバスの便がない。白坂宿か一気に白河宿まで行ってしまうか、雨・暑さと足の具合、途中の見所で費やす時間次第だろう。
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蛇尾(さび)橋から対岸の大田原城址 《地図》
昔は徒渡りだった。川面にうっすらと川霧が立っている。
蛇尾川の由来
なぜ「蛇尾」という字を当てたのかよく分からず。アイヌ語の「サッ・ピ・ナイ」(渇いた小石河原の川)に由来する説もある。
平家の家柄で居館(中田原城)跡という石柱が2つ塀の前に立っている。
源義家が奥州征討へ向かう時に、また秀吉も奥州鎮定の際にこの道を通ったということ。
セブンイレブンの敷地内
追分(市野沢小入口交差点) 《地図》
紫衣事件で沢庵和尚は上山へ、玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)は棚倉へ流される途中ここで別れた。沢庵が流された上山には沢庵坂、春雨庵が残る。『上山市の坂』に記載。流人ではなく客人扱いで丁重に厚遇されたようだ。棚倉町の玉室の謫居(たっきょ)跡には碑が建っている。
右(県道342号)が棚倉街道で、正面の「奥羽刑務所」看板下に道標(元禄7年(1694)建立)が立つ。看板には「黒羽刑務所、お気軽にお寄りください」で誰もがビックリだが、その下の「刑務所作業製品の展示場」のこと。
推定樹齢400年、樹高17mだが、以前は30mもあったというが。
「蓑に添う 市野沢辺の ほたる哉」、むろん大師の歌でなく江戸時代に詠まれたもの。
地蔵は拝めず。
永代常夜灯道標(手前の笠付きのもの)・十九夜塔・青面金剛塔など(練貫十字路の先で右にカーブする左側)
永代常夜灯(宝暦6年(1756))には、「右奥州海道 左原方那須湯道」
練貫の一里塚があったのはどのあたりか?
凹んでいる所が源義家の足痕ということか。
ただの石ころにしか見えないよ。
「伝説の大うなぎ 桶沢の大沼」の看板が掛っているがどんな伝説なのか?
その先のホテル「不夜城」は、落城で廃城したようだ。はかない「一夜城」だったか。
道路の拡張工事などで愛宕神社の石段脇に移されている。
昭和30年に愛宕神社に温泉神社と鶏鳥神社?が合祀され鍋掛神社と改称された。
鍋掛十字路を越えると鍋掛宿で、那珂川を挟んだ対岸の越堀(こえぼり)宿とで、宿場業務を果たした。正保3年(1646)以降は天領となった。街道沿いに宿場の家並みなどは残っていない。
鍋掛十字路にあるコンビニに入って、出て直進する所をなぜか左に曲がってかなり進んでしまいかなりのロスタイムとなった。この先は長いのにうっかりミスとは情けない。十字路で店などに入る時は入る前に位置を確認しておくこと、出たらもう一度進むべき道を確認することが肝要だ。おかげで鍋掛宿に入ってすぐの「清川地蔵尊」(延宝7年(1679)建立で、子育て地蔵として女性の信仰が篤い)を見逃すハメと相成った。
芭蕉句碑(文化5年(1808))の建立・八坂神社内)《地図》
「野を横に 馬牽きむけよ ほとゝぎす」
推定樹齢250年以上。
徒渡り、舟渡りから、後期は舟橋、土橋も利用されたという。
昭明橋を渡り越堀宿に入る。那珂川が川留めになった時などのために設けられた宿場で、鍋掛宿より遅い正保3年(1646)に開かれた。寛永12年(1635)参勤交代で江戸に向かう仙台藩の行列が増水で渡れず、この地に小屋を設けて逗留したのが宿場成立のきっかけにつながったともいわれる。ここも古い家並みなどは見当たらず。
もとは那珂川左岸の越堀宿側に建っていた。境内は「明治天皇小休所跡」で、「御膳水」の石碑もある。
「枡形の地」の石碑(右) 《地図》
枡形は道路改修で緩やかなカーブとなり、昔は道の真ん中に堀があり小さな橋や柳もあったというが、今は何の痕跡、風情もない。
越堀宿を出ると起伏の多い道となり富士見峠を目指す。
高久靄厓(たかくあいがい)の墓の標柱
江戸時代後期の文人画家。台東区谷中の天龍院にも墓があるようだ。
富士見峠 《地図》
昔は木が茂ってなく富士の見晴らしがきいたのか? このあたりに茶屋が2.3軒あったという。
峠を下って間の宿の寺子宿へ。宿といっても旅籠はなく、茶屋があった程度だったようだ。
一里塚公園になっている。
右の安永4年(1775)のものはもとは富士見峠にあって、道標と里程標を兼ねていた。
左側面「日光山十六里 江戸四十一里 水戸二十二里 八溝山六里」・右側面「湯殿山六十六里 仙台五十里 会津二十四里 那須湯元五里」
14代法印旺盛の頃、麻疹(はしか)が流行し多くの幼児が亡くなった。これを哀れんだ法印が111体の木像の地蔵を彫り菩提を弔ったという。この地蔵を収めた「はしか地蔵堂」がある。那須三十三観音霊場の6番
寺子橋手前の余笹川見晴らし公園から 《地図》
平成10年8月の台風4号の豪雨で、河岸の8割以上が決壊したそうだ。蛇行する暴れ川(だった)か。
県道との合流点に蓄魂碑(牛の像)、馬頭観音、二十三夜塔、庚申塔などが集められている。
この後も起伏のある道を進み、那須町に入る。
下りとなって旧道はここを直進する。《地図》
黒川に突き当たり、左折し県道に出て黒川橋を渡る。
平成10年の台風4号の豪雨の時の水位は橋の路面直下まで達した。
左に腹身・日切・合掌・不動・財福のユニークな名と顔の地蔵 が並ぶ。
夫婦石神社と夫婦石(みょうといし) 《地図》
敵に追われた男女二人がこの石の割れ目に身を隠した。石のそばに来た追手は、石の割れ目から現れた大蛇に恐れおののき逃げ帰り、二人を見落とした。二人は夫婦となり田畑を耕し仲良く暮らした。この「見落石」が誰ということなしに「夫婦石」になったとさ。
『芦野宿と伊王野の里ガイドブック』には、これとは全く内容が違う民話が載っている。蛇・夫婦・夜になるとくっつく、というのは同じだ。
両側に塚跡が残っている。
西坂を下って正面の赤屋根の家の手前で左に旧道に入ってさらに下る。
道沿いには馬頭観音などの石造物がある。
わらじ、サンダルがぶら下げてある。
芦野氏居館跡① 《地図》
鎌倉時代初期頃からの居館跡。今は一面の畑で館跡は微高地になっている。
館山城址② 《地図》
14世紀末から15世紀初頭の、足利将軍義持の頃に芦野氏が築いたという山城。《地図》
天文年間(1532~54)とも天正18年(1590)の築城ともいわれる。
①→②→③の時代順の築城。
奈良川を渡ると下野(栃木)最北の芦野宿。
宿の南端にあり道中安全と、悪疫退散、水害・水難除けなど道祖神的役割も担っていた。
片足を前に投げ出している。題座に「水」の刻字がある。
ここも昔は真ん中に堀があり、松や柳が植えられていたそうだ。
安達家は旅宿「丁子屋」で、蔵座敷八畳二室が残る。今はうなぎ料理で有名。
推定樹齢400年のシダレ桜
この先の那須歴史探訪館から桜ケ城址に行ける。
芦野氏の菩提寺の建中寺の先を左にカーブする。
ここで芦野宿を出る。宿の北端の守り仏。
遊行柳 《地図》
古来有名な歌枕。
芭蕉の『奥の細道』での「田一枚 植えて立ち去る 柳かな」
西行は「道のべに 清水流るる 柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」
蕪村は「柳散 清水涸 石処々」
推定樹齢400年
「遊行庵」でそばでも食べようかと思ったがやっていない。平日は客が少ないので閉めているのか、あえなく潰れたか。
べこ石の碑 《地図》
3500もの小さな文字と、右端に牛面人身の「炎帝神農氏」の姿が彫られている。民衆教化というが、こんなもの農民が読むはず、読めるはずがなかろうに。
諭農碑(左)・板屋の一里塚跡(右) 《地図》
坂の傾斜を緩くする工事で削られ、塚の形ははっきりしなくなった。板屋は間の宿だったともいう。
これも「べこ石」と同じ戸村忠恕の建立。病害虫の駆除・予防、飢饉のための備荒法、飢人の看護法など農民を諭す文言が並ぶ。よほどお節介な閑人だったのだろう。
蟹沢、高瀬、脇沢を通り寄居へ向かう。
與楽寺 《地図》
那須三十三観音霊場の10番。推定樹齢150年の那須の名木の山桜がある。
寄居は境の明神を越えて「みちのく」へ入る下野側で最後の休憩地だった。
関東地方最後の一里塚
地蔵・二十三夜塔・馬頭観音などが集められている。「足尾山 旅行安全・・・」には「従是江戸四十五里五丁」とあるようだ。
「箱根霊験躄(いざり)仇討」の主人公・飯沼勝五郎は、この東の棚倉藩の武士であったとも、仇を探して棚倉の地に入ったともいう。また初花が棚倉の商家の娘で、棚倉に来た勝五郎と知り合い女房になったともいう。そして2人が隠れ住んだのがこのあたりか。その後、艱難辛苦の末、2人は東海道は箱根山で仇にめぐり合い見事本懐を遂げたという一席。箱根には2人の墓などがある。『箱根の坂-1』に記載。
今でもパイプから水が流れている。田んぼの用水に使われているのだろう。
勝五郎がつれづれに彫ったものという瓢箪石。
山中の集落 《地図》
ここにも明治天皇小休所跡がある。
福島県側から見れば「住吉神社」(男神)
「境の明神」は今でも県境で、参院選のポスターがコロリと変わる。当たり前か。当落のほどは興味もなく感知せず。
栃木県側から見れば住吉神社(男神)
向かい側が峠の茶屋「南部屋」があった所で、「二所之関址」碑が建っている。ちなみに「二所之関」は相撲の「二所ノ関部屋」の語源らしい。
大師が衣を濯ぎ、「奥の細道」の旅で芭蕉も立ち寄った清水。今でも清水は湧いている。
旗宿分岐 《地図》
右へ行けば「白河の関」で、10世紀に入り、律令国家の崩壊とともに、官関の機能は失われ、「白河の関」は歌枕として都人の憧景の地へと変化する。芭蕉もこの道を行った。
戦死した藩士の妹の歌碑が建つ。墓はこの先の観音寺にある。
宿の面影、痕跡は全く残っていない。こんな宿場も珍しいか。
金売吉次が死ぬ間際に遺した言葉、「朝日さす夕日さす からすの横ばえ すずめのちょんちょん 三つ葉うつぎの下にある」の夕日とは、この観音寺の夕日観音のことだとか。とするとこの寺に吉次の隠し金が眠っているかも。だとしても寺でとっくに掘り出してしまっているだろうよ。左は平和観音だから、この下を掘らないように。
交差点右に「革籠原の防塁跡(鍛冶屋敷跡)」の看板
直江兼続が徳川軍を迎え撃つべく数キロにおよぶ防塁を築いた所で、今も防塁跡と思われる遺構が残るそうだが、ここから東にだいぶ離れているようだ。家康はここまで来ず小山で引き返し、関が原の戦に向かった。まさに「幻の決戦地」に終わってしまった。
革籠原の地名は、このあたりで(境の明神付近とも)金売吉次が強盗に襲われ殺害された際、革籠を奪われたことによる。
無人駅・屋根なしのホーム・トイレもなし・スイカは使えず。
今日はけっこう歩いた。地図上では40kmだが、道を間違った分などを加えれば42kmはいくか。一日かけてフルマラソンの距離を歩いたということか。
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