奥州街道(喜連川宿→佐久山宿→大田原宿)
2010年6月28日
氏家駅(JR東北本線) バス→喜連川本町・県道114号・・・台町交差点・道標・旧道・・・県道114号・金龍橋(内川)・・・鶴ケ坂・・・県道25号・・・下河戸交差点・県道114号・・・道祖神・明治天皇小休所跡・・・宮下橋(江川)・・・合柄橋(がっからばし)・・・源氏ホタルの里標識・・・明治天皇小休所跡・・・引田の一里塚跡あたり・(大田原市)・・・高久宅のつつじ群・若林交差点・道標・県道48号・・・庚申塔群・・・和郷碑・・・佐久山案内板・・・佐久山前坂交差点・旧道・前坂・・・観音堂・・・県道48号・佐久山宿・八木沢家・佐久山城址(御殿山公園)・実相院・・・正浄寺・・・岩井橋(箒川)・・・養福院・・・田谷川・・・深川橋(深川)・・・薬王寺・・・間の宿八木沢・国井氏宅の赤松・女神橋(加茂内川)・蒲慮碑(ほろひ)・湯殿神社・町初碑・・・筋違橋(百村川)・・・八幡神社・・・浅香3交差点・・・室井病院・・・大田原宿新田木戸跡・神明町交差点(日光北街道分岐)・愛宕神社・忍精寺・薬師堂・本陣、問屋、高札場跡・正法寺・金燈篭・龍泉寺・大田原神社・大久保木戸跡・大田原城址(龍城龍頭公園)・光真寺・洞泉院・あらまち蔵屋敷・・・那須プラザホテル
【ル-ト地図】
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野口雨情の妻ヒロの実家。常陸の野口家に嫁いだヒロはさまざまな事情から離婚し、雨情は再婚し東京に移った。その後ヒロは子どもを養育するために野口家に戻り復籍し、そこで生涯暮らした。ヒロも短歌、俳句、詩などを創作していたそうだ。
歌人の高塩背山とは親戚の家柄か?
道標「左在郷道 右奥州街道) 《地図》
台町交差点を渡った集会所の喜連川温泉の看板の下に移されている。
旧道は手前の小中屋酒店の所を右折する。
現役の三段式の自噴井戸。
けっこう長い坂だ。
このあたりに和田の一里塚があったのか?
県道114号を進み、宮下橋(江川)、合柄橋(大沢用水)、源氏ホタルの里標識、小公園内(ゲートボール場)の明治天皇小休所跡などを過ぎると大田原市が近くなる。
大田原市へ入る直前の左側の手塚家の敷地内に塚跡が残るそうだが見落とした。
高久家のつつじ群(若林交差点の手前右側) 《地図》
「与一の里名木」で、いろんな種類のつつじが群生している。推定樹齢200年の木もある。
「大田原 喜連川」は読める。
境内に「水準点191.6691M 観音堂境内」の表示札がある。ということは坂上の交差点あたりは200m位の高さがあるということか。鶴ケ坂でだいぶ上ったようだ。
門の右に「運用膏」の木の看板を掲げている。傷薬で戊辰戦争の時に官軍が用いて効き目抜群だったため、その後も注文がだいぶあったという。
那須与一トイレ
源平の屋島の戦いでの扇の的を射抜く、お馴染みの場面。
佐久山郵便局あたりが本陣井上家跡らしい。
文治3年(1187)那須泰隆が築城、佐久山氏を称す。永禄6年(1563)に同族の福原資孝に攻められ廃城。元禄15年(1702)福原氏が佐久山城址を補修し、陣屋を構築し明治を迎えた。
安政2年(1855)創業。あんこからすべて手造りという「勘兵衛饅頭」を食べてみたかったが、定休日なのか閉まっていた。
福原氏の室が寄進した和唐折衷の四脚門。石の屋根としては北限だそうだ。
向こうに見えるのは那須連山か?
滝沢の一里塚があったのはこの先か?
4~5月が産卵期で、産卵後は巣の片方に蓋をしてオスは外的を監視して目は燐光を放ち、背の三本刺を倒立させて巣のまわりを警戒し、「とげ魚」とも呼ばれているそうだ。えらいねえ。
ここがミヤコタナゴ(国指定天然記念物)の生息地か?
これも樹齢約200年の「与一の里名木」
蒲蘆とは蜃気楼のことで、文化9年(1812)、旅の僧が那須野原で蜃気楼を見た体験に重ねて、山口鉄太郎代官の善政を讃える一文を記し、後に代官の手代が石に刻んだという。為政者が善政を敷けば地に蒲や蘆(葦)が生えるように、自然と治績が上がるものだという内容らしい。
この地は享和3年(1803)に幕府直轄領となり、ここ八木沢に出張陣屋が置かれた。山口鉄太郎はその代官だった。出雲街道の久世宿には代官早川八郎の善政を讃える像が建っている。悪代官ばかりで、善政、徳政を敷いた代官は珍しいということの顕れだろう。
木に覆われて涼しい社殿の前で小休止。
門内の町初碑がある。
間(あい)の宿八木沢宿が開かれた記念碑みたいなものか。
昔このあたりは那須颪(おろし)の強風を防ぐ松並木が大田原宿の入口まで3kmも続いていたという。戦時中に松根油を採るために伐採されてしまい、今は百村川(もむらがわ)沿いのただの縄手道となってしまい、往時の面影は全く残らず。《地図》
右前方を二人連れのおばちゃんが歩いている。大きなリュックを背負い、この蒸し暑さで相当バテているようだ。特に後ろの女人が。どこまで行くのだろうか。まあ普通は白河までだが。仙台か、まさか津軽の三厩から竜飛岬までではなかろう。挨拶を交わしただけで追い抜いて、詳しいことは聞かず。
街道右手の八幡宮あたりに大田原の一里塚があったようだ。
やっと大田原宿に入った。
神明町交差点(日光北街道分岐) 《地図》
奥州街道は右へ、左に曲がるのは日光北街道で奥州の諸大名が日光に参詣するときはこの道を通った。
だんだん雲が切れてきて蒸し暑さがこの上ない。
神社らしからぬ洒落た感じの建物。
なぜ唐辛子なのか。昭和30年~40年頃は大田原は全国一の唐辛子の生産量を誇っていたという。それを今、町起しに使おうとしているらしい。大田原と唐辛子は赤い糸で結ばれているという辛いお話で、それより奥州街道大田原宿を売り物にして、その中にピリッと唐辛子の薬味でも加えた方がましのような気がするが、余計なお世話か。
城下、宿場の西の守り。左端は元禄7年(1694)建立の舎利塔。
七重塔(薬師堂境内)
建立当時は相輪部(九輪)があったようだ。
甲州屋旅館の前に「大田原宿 下町」の石柱が立っている。
本陣は印南家が勤めた。脇本陣2軒は痕跡、表示はなし。
「幸矢の与一像」とある。
「おおたわら七福神」の寿老人
文政2年(1819)、大田原宿の有志が防火や町内安全、旅人の夜道の無事を祈願し、上町十字路に建てたものの三代目。
なぜかバスケットボールのゴールが。
金燈篭交差点の次の交差点を左折。
江戸時代の太物古着店「那須屋宇兵衛」
古い家並みが残っている。《地図》
ホテルみつや(旅籠上州屋跡)の前に「大田原宿 寺町」の石柱が立つ。そこを右折し、枡形を曲がり龍泉寺、大田原神社へと進む。
「おおたわら七福神」の恵比寿
晴れてきて暑さが増す。境内は涼しくここでも一休みするが、薮蚊の攻撃を受け早々に退散する。
大田原城址から蛇尾川
切り立った断崖で天然の要害だった。龍がとぐろを巻いているように見え「龍体城」と呼ばれた。今は花見の名所になっている。
天文14年(1545)大田原資清が築城、以来明治4年の廃藩置県まで大田原氏の居城だった。
大久保木戸跡 《地図》
県道に出る手前の大田原神社の東側の参道前に標柱が立つ。(写真は大田原神社の石柱)
大田原氏の菩提寺。本堂の左側に歴代の墓所がある。「おおたわら七福神」の大黒天
樹齢300年の「与一の里名木」。「おおたわら七福神」の布袋尊
和泉屋醤油店 《地図》
江戸期の創業。醤油の香ばしい匂いが漂っている(気がする)が、今も醤油を造っているのだろうか?
明治時代に建てられた商店(荒物か金物?)。6月30日まで移転工事中。移転といっても道路から少し後ろに建物をずらすだけのことだった。もうほぼ完了で、7月?日から再開するそうだ。
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