中原街道①
2010年7月4日
虎ノ門駅(地下鉄銀座線)・桜田通り(国道1号)・・・金比羅神社・・・葺城稲荷神社・・・西久保八幡神社・・・雁木坂・飯倉交差点(永井坂下・榎坂下)・土器坂・・・熊野神社・・・赤羽接遇所跡(飯倉公園)・・・赤羽橋(古川)・・・綱の手引き坂下・・・春日神社・・・三田3交差点・旧道・・・聖坂・・潮見坂下・・亀塚稲荷神社・・済海寺(竹芝寺)・・亀塚公園・・幽霊坂上・・・魚籃坂上・伊皿子坂上・・・大石良雄外忠烈の跡・・・承教寺・・・高野山東京別院・・・光福寺(ゆうれい地蔵 )・・・高輪3交差点・・・高輪台交差点・桜田通り・相生坂・・袖ヶ崎神社・・雉子神社・・五反田駅(JR山手線)・・・大崎橋(目黒川)・・ゆうぽうと・・・中原口交差点・旧道・・・子別れ地蔵 ・・・旧中原街道供養塔群①・②・・・中原街道(都道2号)・・・平塚の碑・・・旧道(旗が岡商店街)・・・中原街道・・・さいかち坂・・・(東急大井町線)・・・(環七通り)・・・洗足坂・延命地蔵尊・品川道合流地点・・・勝海舟別邸(洗足軒)・日蓮袈裟掛松・洗足池・・・庚申塔道標・・・品川道分岐地点・石橋供養塔・石川橋(呑川)・・・(環八通り)・旧道・桜坂・・おいと坂下・東光寺・六郷用水跡・・・(東急多摩川線)・・・丸子の渡し跡(多摩川)・・・沼部駅(多摩川線)
江戸城の南端にあった虎ノ門から相州の平塚中原に通じる、東海道の脇往還の中原街道(相州街道・御酢(おす)街道)を歩く。坂道散歩で歩いている所が多いので道筋の心配はないだろう。今日は川崎市との境の多摩川の丸子の渡し跡まで、坂もけっこうあるがどれも歩いたことがある坂で新しい坂はない。
【ル-ト地図】
写真をクリックすると拡大します。
明治6年に撤去された。
今は地下鉄の8番出口を上ると虎ちゃんのブロンズ像?が出迎えてくれる。
「梅雨のこんなに蒸し暑い中を、どこへ行くんだい」と言っていた。
御酢街道の名は、中原の酢屋の佐藤金助が製造した酢を御用の旗印を立て、馬で江戸幕府に毎年上納したことによるそうだ。
讃岐丸亀藩主の京極高和が万治3年(1660)に金比羅大神を三田の藩邸に勧請したのが始まり。その後、延宝7年(1679)当地に移る。「こんぴら」人気が高まった文化年間(1804~17)に毎月10日に限り一般の参詣を許し人気を博した。鳥居は銅製。
葺城(ふきしろ)稲荷神社 《地図》
葺手町(現内幸町)の人たちによって元禄4年(1691)に発見された神社という。葺手町は江戸城と街造りの屋根職人が集まった町で、江戸城の拡張、江戸の整備のためこの地に代地替えを命じられ、移り住んだ時に発見された。当時は、現地よりも丘の上の方の、松平右近将監の大名屋敷の外にあり、葺手町の人々が殿様にかけ合い町の氏神として奉ることを許され、町内の人たちで管理、運営されてきたそうだ。
都心の一等地だからいろいろと大変だ。土地は所有関係はどうなっているのだろうか。余計なお世話か。
寛弘年間(1004~11)に、源頼信が、石清水八幡宮を勧請して霞ヶ関のあたり(榎坂とも)に創建したという。境内で大相撲が行われ、落語や講談に登場する阿武松緑之助(おうのまつみどりのすけ)も序二段の時に相撲を取っている。今は「野球賭博」で有名になった阿武松部屋の初代だ。落語『阿武松』
雁木坂 《地図》
階段になった坂を一般に雁木坂とういが、敷石が直角に組まれていたからともいい、当て字で岩岐坂とも書く。
このあたりは坂だらけだが、寄り道ばかりしていては先に進まないのでここだけにする。
坂下の赤羽は赤埴(赤土)で土器職人が多く住んでいたためという。ここを通った渡辺綱が馬喰(ばくろう)から買った馬の毛並み(かわら毛)でそれがいつしか土器坂になったという説もある。
赤羽接遇所跡(飯倉公園) 《地図》
安政6年(1859)に建てられた外国人のための宿泊所兼応接所。シーボルトもここに泊まったそうだ。
綱の手引坂 《地図》
源頼光の四天王の一人、渡辺綱にまつわる坂名。姥坂とも呼んだが、馬場坂の説もある。近くには綱坂もある。
潮見坂 《地図》
坂上からは芝浦の海辺が見渡せ、潮の干満を知ることができたというが、今はそれは望むべくもない。
古代中世からの道(江戸時代前の古奥州街道)で、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所もあったという。更級日記の『竹芝寺の伝説』の坂で「竹芝の坂」と呼んだとも。
文永3年(1266)のものは港区で最古。どれだか分からず。
済海寺 《地図》
最初のフランス公使館跡「説明板」更級日記の『竹芝寺伝説』の竹芝の建てた竹芝寺ともいう。竹芝と姫の子どもは足立郡司となり武蔵武芝を名乗り、平将門の乱にも登場する。(『竹芝伝説』より)
江戸時代は上野の沼田藩土岐家の下屋敷で、明治以降は皇族の華頂宮邸の跡。ここも『竹芝伝説』の遺跡ともいわれる。
古墳かどうかははっきりしないようだ。
坂の両側に寺院が並び、薄暗く寂しい坂なのでこの名がある。有礼坂の説もある。
魚籃坂 《地図》
『病院坂の首縊りの家』(横溝正史)の舞台はこの近くに設定してある。「・・・問題の坂は魚籃坂の近くにあり・・・・」
明国人伊皿子(いんべいす)が住んでいたと伝えるが、ほかに大仏(おさらぎ)のなまりとも、「いいさらふ」(意味不明?・更級日記?)の変化ともいう。
赤穂浪士大石良雄外16名の切腹の地 《地図》
肥後熊本藩細川越中守の下屋敷の一部だった。
羊羹の虎屋
英一蝶の墓
光福寺 《地図》
ゆうれい地蔵 (光福寺)
赤子を残し死んだ母親の幽霊が地蔵となって飴を買い、子を育てたという、各地に残る「飴買い幽霊」の話の一つ。石川県金沢市の光覚寺の前には「飴屋坂」が、長崎市の光源寺には「ゆうれい坂」がある。『金沢市の坂⑥』・『長崎市の坂②』に記載。いずれも寺の名に光がついているのが面白い。
坂の途中で宝塔寺の前を通る坂と合流してY字形になっていてこの名がついたのだが、今は宝塔寺の前の坂は中原街道(桜田通り)をくぐってしまい、相生の意味も分かりにくくなっている。
JR五反田駅をくぐり、目黒川、国道1号を渡り、中原口交差点から旧道に入る。
今でも北西に桐ヶ谷斎場がある。
もとは辻にあった地蔵(2)、馬頭観音、聖観音がここに移されている。
旧道らしく少しくねりが残っている。少し先の左側に供養塔群②がある。右は荏原一中。《地図》
平塚の碑 《地図》
後三年の役の帰途、八幡太郎義家を助けた新羅三郎源義光は野盗のために多くの部下を失った。その霊を弔った塚がこのあたりにあった。塚は取り壊されこの碑が建った。東海道平塚宿には「平塚の塚」がある。
旧道(左)に入り、うらぶれた感じの「旗が岡商店街」を抜け、再び都道に出る。《地図》
今は「さいかち」の木はなくイチョウなどの並木となっている。
昔は短い急坂だったが、大正時代の改修により緩やかになり、さらに道路の拡幅で現在の坂となった。
ここ(洗足坂上交差点)で左(東)から来る品川道と合流する。
東京都で設置した鉄製の絵図入りの立派なものだが、磨り減り、文字も小さく読みにくい。都内には外にもいくつもあるが、どれもこれと大同小異の状態になっている。取っ払うか、オリンピックはいらないから新しいものに取り替えよだ。
洗足坂の坂上右側
勝海舟別邸 《地図》
裏手には夫妻の墓がある。
日蓮がここで休息し、松に袈裟を掛け千束池で足を洗って、洗足池になったとか。
見慣れた馬頭観音像とは違った感じの像だ。台座の四面には東西南北への道標が彫られている。もとは中原街道沿いの碑文谷と池上を結ぶ道との辻にあったもの。
中原街道から弁天島方向
庚申塔道標 《地図》
延宝6年(1678)に建てられ、文化11年(1814)再建。ここは中原街道から九品仏に至る道の分岐点で、道しるべを兼ねている。江戸時代後期の特色を持つ角柱型の文字塔。
石橋供養塔(呑川の石川橋手前)
ここで品川道が右に分かれて行く。
池上線の石川台駅、雪谷大塚駅の西側を通り、環8通りをくぐり左へ旧道に入る。
桜坂を下って多摩川の丸子の渡し跡へ。【ル-ト地図】の5
旧中原街道の切通しの坂で、「沼部の大坂」といわれた急坂で荷車の通行は大変だった。坂の両側に大正時代に植えられた桜並木にちなむ名。
子どもの頃はよくこの坂を自転車で下って、多摩川へ遊びに行った。行きは楽ちんだが、遊び疲れてこの長い坂を上って帰るのはちょっときつかった。
おいと坂 《地図》
かつて坂下に北条時頼がこの地を訪れた時に傷をいやしたという「雄井戸」と呼ばれる井戸があり、旧中原街道を挟んで「雌井戸」があった。今は直線的な坂だが耕地整理前は竹薮の中の急で曲がった坂だったという。
北条政子がわらじの傷のためこの地に滞在した時、菩薩像を献じて夫の武運を祈願したという伝説がある。政子が傷を治した井戸が「雌井戸」ということか。
六郷用水跡(次大夫堀跡)は遊歩道になっている。(右側は東光院)
丸子の渡し跡 《地図》
昭和9年に丸子橋が完成するまでの渡し跡。4kmほど下流には昭和24年に多摩川大橋が完成するまで「矢口の渡し」があった。
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