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2010年8月30日 (月)

成田街道②

2010年8月25日

本八幡駅(JR総武線)・・・国道14号・八幡宿・・・木下街道分岐(鬼越2丁目交差点)・・・(京成中山駅)・・・法華経寺・・・妙円寺・・・吉澤野球博物館・・・子之神社・妙見八幡社・・・小栗原稲荷神社・・・多聞寺・二子藤の池・二子浦の池・・・東明寺・・・中山競馬場入口交差点・県道180号・・薬師如来庚申塔・・・国道14号・道祖神・・・葛飾神社・・・春日神社・・・(JR武蔵野線)・・・庚申塔道標・・・山野浅間神社・・・龍神社・・・大覚院・・・入日神社・・・(JR総武線)・・・海神念仏堂・観音堂・・・地蔵院・・・日枝神社・・・西向地蔵堂・刑場跡・・船橋宿・稲荷神社・浄勝寺・専修院・行法寺・不動院・最勝寺・覚王寺・円蔵院・・・船橋橋(海老川)・・・(大神宮下駅)・・・中野木交差点・国道296号・・・成田街道入口交差点(東金御成街道追分)・・・札場の庚申・・・(JR総武線)・・・(新京成電鉄)・・・前原駅(新京成電鉄)

  『成田街道③』へ続く

 八幡宿から木下(きおろし)街道追分までは『木下街道①』に記載。船橋宿から東金御成街道追分までは『東金御成街道①』にも記載。

  【ル-ト地図

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Img_1919法華経寺仁王門(赤門)

手前の黒門は修理中

Img_1926 昔ながらの荒物店

Img_1927吉澤野球博物館 《地図

2014年3月末で休館となった。

Img_1928 子之神社(右)・妙見八幡社(左)

子之神社はもとは妙円寺に、妙見八幡社は屋敷神だったそうだ。

Img_1933 小栗原稲荷神社

このあたり一帯は小栗原城址で、神社の高台はその名残りの一部。

Img_1934 多聞寺

日蓮の高弟の日伝の開創といい、日蓮作と伝える毘沙門天を安置。寺の前が二子藤の池。

Img_1937 二子藤の池 【ル-ト地図】の①

藤の古木に由来する「葛飾湧水群」の溜(池)の一つで、街道を往来する人に親しまれていた。昭和20年代後半までは水田へのひき水や、水稲の種籾を浸けて発芽を促すタナヤ(種井)として利用され、「タナヤの池」とも呼ばれていた。

Img_1942 二子浦の池

日蓮が鎌倉へ旅立ったという、ここが二子浦の「降り津」か。

Img_1944 旧家

Img_1946 庚申塔(文政6年(1823))

Img_1951 東明寺

Img_1950 行基の作と伝える本尊の「部田薬師如来」像か。

Img_1948 説明板

Img_1953 手前が青面金剛庚申塔(享保20年?)で、後ろが薬師如来庚申塔 《地図

Img_1954 薬師如来の庚申塔(寛文10年(1670))は千葉県内唯一という。

台座に「薬師如来」とある。

Img_1963 道祖神(天保9年(1838))

街道から左に入った所。

Img_1965 葛飾神社

もとは熊野神社

Img_1966 春日神社 《地図

すぐ先で武蔵野線のガードをくぐる。

Img_1967 庚申塔道標(享和元年(1801)) 街道から左折した所。

「左り いち川道」、もとは街道沿いにあったのだろう。

Img_1972 山野浅間神社

昭和30年代までは海上遥かに富士山を眺望できたという。

Img_1976 龍神社 【ル-ト地図】の②

弘法大師にまつわる『石芋伝説』がある。四国札所の「喰わず芋」と同じ話だ。

日本武尊が東征の折、この地を通ると海上に光り輝く船の柱に神鏡が掛っていた。それを浜に持ち帰り祀った場所(入日神社ともいう)という由来伝説がある。昔は当社と入日神社の参道は海岸から続いていて、海から来た漂着神だろう。

Img_1981 この池に大師ゆかりの「片葉の葦」が生えているようだ。

Img_1987 大覚院赤門 《地図

「あかもん寺」と呼ばれている。

Img_1986 入日神社

祭神は天照大神と日本武尊で、船橋大神宮の前身の意富比神社の元宮と伝えられている。

 この先の地下歩道で総武線をくぐる。

Img_1998 海神観音堂・念仏堂 【ル-ト地図】の③

手前左に船橋市内最古の道標(元禄7年(1694))が立つ。もとは陸橋下の三叉路の行徳道との分岐にあったもの。堂を寄進建立した江戸神田の高麗屋は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に半島から連行されてきた者の子孫だとか。

Img_1993_2 道標(元禄7年(1694))

船橋市最古の道標で、正面に「右 いち川みち 左 行とくみち」

Img_1992 道標説明板

Img_1995 観音堂説明板

8月10日が開帳日だった。

Img_1997 念仏堂説明板

Img_2000 日枝神社

Img_2001 西向地蔵堂 【ル-ト地図】の④

ここは処刑場(仕置場)跡という伝承がある。

Img_2003 右端の地蔵は万治元年(1658)の造立で市内最古という。

Img_2007 お女郎地蔵(中央の供養塔・浄勝寺)

昔の住職が下の病いに苦しむ船橋宿の女郎たちのために建てたとも、常陸国から来た高貴な女性(御上臈)の墓で、やはり下の病に効くとして遊女たちの信仰を集めたとも。中山道の大宮宿の手前にも「お女郎地蔵」、桶川宿の大雲寺には「女郎買い地蔵」がある。

Img_2017 釈迦如来坐像(飯盛地蔵・不動院門前)

延享3年(1746)の津波の溺死者の供養のために建立。毎年、津波の溺死者と漁場を守り牢死した者たちの供養のための大仏追善供養が行われる。牢内で飯もろくに食えなかっただろうと、白米の飯を大仏の前に供えることから、飯盛地蔵とも呼ばれている。てっきり船橋宿の「飯盛女」を供養する地蔵と思っていた。

Img_2009 説明板

Img_2018 覚王院

Img_2019 説明板

Img_2026 円蔵院

Img_2025 因果(えんが)地蔵

万願成就の地蔵で、とくに盗難にあったらこの地蔵を左結いの繩で縛ると、盗人の体に痛みが起こり、盗品が返るといい伝えられているそうだ。永禄元年(1558)に造立とも、海から上がったものともいう。「因果」とはそれだけの意味なのか?

Img_2027 船橋橋(海老川)から京葉道路、京葉港方向

「船橋」でいいと思うが。

Img_2028 旧家

Img_2035 東金御成街道追分(成田街道入口交差点) 《地図

交差点の向こう正面に成田山の道標が立つ。

Img_2037 札場の庚申 【ル-ト地図】の⑤

右端の不動明王道標(安永6年(1777))で、正面に「右 なり田道」

ここに高札場があったのだろう。

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2010年8月28日 (土)

成田街道①

2010年8月24日

亀有駅(JR常磐線)・・・水戸街道・・・中川橋・・・新宿・・・国道6号・水戸街道追分・・・三猿浮彫道標・北向地蔵・・・(貨物線路)・・・大秀寺・・崇福寺・・・(京成金町線)・・・さくら道・・・(北総鉄道)・・・親水さくらかいどう・・・岩槻慈恩寺道地蔵道標・・・江戸川不動尊(唐泉寺)・・・正真寺・・・天祖神社・・・真光院・・・光ケ嶽観音堂・・・(江戸川駅・京成本線)・・・北野神社・・・岩槻慈恩寺道道標・元佐倉道合流地点・・・宝林寺・・・本蔵寺・・・市川橋(江戸川)・・・市川関所跡・・・市川広小路・観音寺・庚申塔道標・・・胡録神社・・・庚申塔道標・・・春日神社・・・新田胡録神社・・・弘法大師道標・・・諏訪神社・・・本八幡交差点(行徳街道(木下街道)合流地点)・・・本八幡駅(JR総武線)

 佐倉藩をはじめ房総方面の諸大名の参勤交代の佐倉街道で、江戸時代中期以降は成田山参詣の道として賑わった成田街道を、水戸街道の新宿(にいじゅく)の追分から歩く。

  【ル-ト地図

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Img_1801 水戸街道追分 【ル-ト地図】の①

正面の車の止まっている細い道が成田街道。

Img_1807 三猿浮彫道標(左端) 【ル-ト地図】の②

元禄6年(1693)造立の葛飾区内最古の道標。上部は三猿のようにも仏(弘法大師)の坐像のようにも見える。左から3番目が下河原北向地蔵、その右が庚申供養地蔵(正徳?年)か。

Img_1810 説明板

「さくら海道」は佐倉街道で、後の成田街道のこと。

Img_1817 崇福寺

Img_1816 説明板

Img_1827 親水さくらかいどう

Img_1828 説明板

Img_1834 地蔵道標・馬頭観音堂 【ル-ト地図】の③

向こうは江戸川の土手

Img_1835 慈恩寺道地蔵道標(右端)

正徳3年(1713)の造立の坂東三十三観音の第12番札所の岩槻慈恩寺への道標で、江戸川区最古の道標。前記の葛飾区の道標の方が20年古かったか。まあ現存、発見されているものの比較だから。ここから北に『岩槻慈恩寺道』で歩いている。

Img_1831 説明板

Img_1841 江戸川不動尊(唐泉寺)

「ボケ封じ」にご利益があるそうだ。護摩を炊いて封じてもらおうか。まあそれもすぐに忘れてしまうだろう。もうボケているから。

Img_1843 庚申塔道標(正真寺内)

享保8年(1723)の造立で、「これより左ばんどうみち」

Img_1842 説明板

Img_1847 天祖神社

Img_1854 真光院

どらえもん?の後ろは何の像か?

Img_1849 説明板

Img_1858 光ケ嶽(てるがたけ)観音堂 《地図

地蔵の後ろの堂

Img_1856 説明板

Img_1857 一寸八分の観音像だろう。

里見義豊義俊の守り本尊だったという。義豊は戦国時代、義俊は平安時代末期の武将で随分と時代に隔たりがあるが、まあ伝承だから。

Img_1860 伊予田の観世音道道標 (若竹寿司店の前)《地図

慈恩寺への道標か?

Img_1868 北野神社

Img_1870 説明板

一里塚はJR総武線のガードの南側あたりの元佐倉道(千葉街道)沿いにあった。一里塚バス停、一里塚交差点にその名が残る。

Img_1873 慈恩寺道標(安永4年(1775)) 《地図

ここは元佐倉道との合流地点で、このあたりは小岩市川関所があり御番所町と呼ばれていた。ここから土手に向かえば関所があり、小岩市川の渡し場だった。『元佐倉道』に記載。

Img_1871 説明板

Img_1877 常夜灯(宝林寺)

もとは小岩市川の渡し場に天保10年(1839)に建てられたもの。

Img_1880本蔵寺

小岩市川関所の役人を代々務めた中根氏の館跡といわれ、菩提寺と伝える。

Img_1881説明板

Img_1884 小岩市川の渡し場跡あたり(市川橋から)

Img_1887 市川関所跡 【ル-ト地図】の④

役人が旅人を取調べた番所は小岩側にあった。

Img_1888 説明板

Img_1895 行徳道分岐(観音寺の前) 《地図

庚申塔道標の小堂がある。

Img_1894 庚申塔道標(安永3年(1774))

左側面に「これより行とくみち」

Img_1898 庚申塔道標 《地図

『歴史の道調査報告書』によれば、右側面に「東八わ■十六丁 中山■丁 市川新田」、左側面に「西 市川八丁 江戸両こく三り十丁 北 ■七丁 国分寺十二丁」だが、国分寺の手前にという字がつく地名などあるの(あった)だろうか?

Img_1908 弘法大師道標(寛政11年(1799)) 《地図

右側面に「右やわた道」、左側面に「左 すがの道」
後ろも道標で「左 宮久保山道」と読める。

Img_1914 行徳街道(木下街道)合流地点(本八幡交差点) 【ル-ト地図】の⑤

ここにあった大きな地蔵道標は稲荷木の一本松跡に移されている。

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2010年8月25日 (水)

東金御成街道③

2010年8月20日

千城台駅(千葉モノレール)・・・御成台1交差点・・・鼻付き坂・・・提灯塚(一里塚跡・御成公園)・・・金親宿・・・金光院・・・御茶屋御殿跡・・・中田宿・・・(県道66号)・・・中田橋(平川)・・・真光寺・・・富田橋(鹿島川)・・椎の古木(富田の一里塚跡)・・・千葉市乳牛育成牧場・・・街道消滅地点・風景谷の険・・・(鍋島開墾)・・・沖十文字交差点・県道289号・・・街道復活地点・・・蛇田谷の険・・・上砂の一里塚跡・馬渡しの険・・・太郎坊・・・ビンダライ池・・・(千葉東金道路)・・・(県道301号)・・・国道409号・・・道祖神・・・滝交差点・県道301号・・・東金高等技術専門校・・・地蔵(道祖神)道標・旧道(表道)・・・おあし坂・・・油井(一本松)の一里塚跡・・・国道126号・・・裏道(県道301号)・・・コンレイ(魂霊)坂・・・楓ケ池・・・丸山公園・・・八鶴湖・・・東漸寺・東金城址・東金御殿跡(東金高校)・・・最福寺・・・東金駅(JR東金線)

 千城台駅から先、御成街道は交通の便が悪くなる。一気に東金御殿まで行くことにする。この区間は家康ゆかりの所や逸話の残る所も多く楽しみだ。今日は少し暑さが和らいでいるのでぶっ倒れることもないだろう。

  【ル-ト地図

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Img_1576 鼻付き坂 《地図

御成台一丁目交差点から先は、アップダウンが続き、道幅も狭くなり歩道もついていない。前から後ろから車がぶんぶん来るので気疲れする。

Img_1579 提灯塚(一里塚跡・御成公園) 【ル-ト地図】の①

塚上にあった大木に昼は白旗、夜は提灯をかかげ、直線道を造る目安にしたという。

Img_1582 塚跡?

Img_1583 なかなかいい坂だ。車が通らなければ尚更なのだが。坂を上り返せば金親宿だ。

Img_1586 金親(かなおや)宿 《地図

長屋門が3つ残っている。この3軒が江戸時代の名主家で、宿内には高札場あり、石井家には高札が保存されているそうだ。人馬継ぎ立てが多い場合に業務を行っていた間の宿のような所だった。

Img_1589長屋門②

Img_1591長屋門③

Img_1590 説明板(大宮神社下)

Img_1592 金光院

御茶屋御殿の裏門という。裏門とはいえ御殿の門とは思えない小振りで質素な門だ。

Img_1595 家康が2度目の鷹狩りの時(元和元年(1615)11月16日)に宿泊したといい、その時、褒め称えたという「御手掛桜」があったという。なぜ、御茶屋御殿に泊まらなかったのか?

Img_1596 アップダウンが続く。このあたりは歩道もついている。

Img_1603 御茶屋御殿跡 《地図

空堀、土塁の向こうが主殿跡で、広場になっている。

Img_1605 空堀が囲んでいる。

今でも薬研堀のV字形が残っている。

Img_1600 説明板

Img_1606 主殿跡

Img_1613 中田宿あたり

人馬の継ぎ立て業務だけで旅籠などはなく、間の宿の役割だったようだ。

Img_1620 真光寺 《地図

傾斜のきつい屋根だ。

Img_1627 道標

「西 中田 古泉道」・「東 沖小間子砂 東金道」

Img_1631 椎の古木(一里塚跡) 富田新田バス停そば

向いの仲田家にも大きな椎の木があってアーチ形になっていたそうだ。

Img_1643千葉市乳牛育成牧場 《地図

写真を撮ろうとしたら人なつこいのか何頭も近寄ってきた。

Img_1646 風景谷(ふがさく)の険へ

Img_1651街道消滅地点 《地図

旧道はここを直進して上ったが、今は左に迂回する。手前に説明板が立つ。

昔は急坂で家康は駕籠から馬に乗り換えて登ったという。登り切った所から下総台地が一望でき、その遠大さに感嘆したところから、「風景谷」の名が起こったといわれる。
山林中に旧道の一部が残るというが、踏み跡も分からず。

Img_1650 説明板

Img_1652 左から右に迂回する坂を上る。

Img_1654 千城台駅行きのバスしかない。

Img_1656 鍋島開墾

ここは小間子牧跡で明治時代に鍋島家の所有となり開墾された。

街道はこの中を直進していた。この先の竹林や住宅地内に街道の跡が残るようだが、沖十字路経由で迂回する。

Img_1662 街道復活地点 《地図

墓地の中を通りここへ出ていた。

Img_1661 標識

Img_1664 蛇田谷(へびたさく)の険 《地図

慶長19年(1614)、家康一行がこのあたりで昼食を取った時に、女中が杓子(しゃくし)を川に落としてしまい、それが1.5km先の角谷(すみや)の岸まで流された。後にこの杓子が根付いて、大樹になったという伝承があるそうだ。この大樹は「角谷(すみや)の杓子神」と呼ばれていた。

このあたりは人も車も通らず、今でも蛇が出そうな雰囲気だ。

Img_1665 両側は雑草に覆われている。川の姿などはない。

Img_1673 馬渡し(まわたし)の険 【ル-ト地図】の②

急坂が下って、上り返している。下りは今でも斜度14%で、御成街道で一番起伏のある所。家康はここで駕籠から馬に乗り換えたことからこの名がついたとも、野馬を追い込んで、向こう側の丘に渡らせる唯一の渡し場だったことから「馬渡し」の名がついたともいう。

Img_1679 上砂(かみいさご)の一里塚跡(馬渡しの険の途中)

Img_1675 説明板

Img_1682 振り返ると今は何ていうこともない坂だが。

Img_1687 このあたりは太郎坊(たらんぼう)という地名で古戦場跡。

天正10年(1582)、東金城主酒井小太郎と土気城主酒井胤治父子が椎崎城主椎崎三郎と争った。この地で酒井氏が椎崎軍の侵入を防いだところから「太郎」との地名がつき、後に「太郎坊」になったという。付近には椎崎軍の捕虜の首を切ったという「首切り谷」、大将の首を埋めた「かま塚」や「死人谷(しびとざく)」などの地名が残るそうだ。今はのどかな田園風景が広がっている。

Img_1689 説明板

Img_1694 ビンダライ池 《地図

家康一行はここの風景に目を見張り休憩したという。池の水を鬢盥(ビンダライ)に入れ、髪の乱れを直したと伝える。年を取ってもお洒落なお爺ちゃんなのだ。昭和52年までは池は街道の両側にあったが、左側は埋め立てられた。

Img_1695 静かで気分のいい道が続く。

Img_1696 暑さ疲れも忘れさせてくれる。

Img_1697 木々のトンネルを抜ける。

Img_1702県道301号を渡り直進する。

未舗装の道になる。

Img_1704 この道は八街市(左)と東金市(右)との境になっている。

この先で国道409号に出て東金市に入る。滝交差点からは県道301号となる。

Img_1710 旅籠「長南屋」があった所か?

Img_1712 道祖神の小祠

Img_1719 表道・裏道分岐 《地図

表道(本道)は右へ入り「おあし坂」を下る。裏道は県道301号を進み、「コンレイ坂」を下る。今は表裏が逆転しているが。

Img_1724表道(今の旧道)は、②の地蔵(道祖神)道標から、③おあし坂、④油井の一里塚跡、⑤十六石殿→東金御殿

裏道(県道301号)は、⑥からコンレイ坂を下り、厳島神社前を通り、表道と合流し、→東金御殿

Img_1725 分岐点の地蔵道標

Img_1726 地蔵(道祖神)道標

説明板などでは道祖神としているが地蔵に見える。地元では「地蔵様」と呼ばれているようだ。「地蔵道祖神」としておこう。

正面に「是より下間東金道 是より上間左倉道」で、表道(本道)がおあし坂経由だったことが分かる。左側面に「是より西 江戸道」。

Img_1720 説明板①

Img_1721 説明板②

Img_1722 説明板③

Img_1728 おあし坂へ向かうが行き止まりのような感じで不安になるが、正面のフェンスの「御成街道 おし坂入口 →」の表示板が掛っていて一安心。

Img_1730 ここから下ると思うとまたちょっと不安になる。

急坂で歩幅を広くとり、大足で上り下りしたことからおあし(大足)坂の名がついた。

Img_1731 おあし坂 【ル-ト地図】の③

落ち葉と樹木に覆われた坂で廃道に近い感じだ。逗子市の古東海道の「七曲り」を思い出した。

家康がここを通った時にはもっと整備された道だったのだろう。

Img_1733 暗くてシャッターが下りず、薮蚊の総攻撃を受け足早に進む。

Img_1737明るい所へ出てほっとする。

Img_1740油井(一本松)一里塚跡あたり 《地図

Img_1742 案内板

1970年代まで高さ2mほどの塚の上に黒松が立っていたという。この先、表道は大豆谷(まめざく)の十六石殿(説明板①の⑦)と呼ばれた星野家前を通り、国道126号沿いにあった東金御殿表門へと向かうのだが、坂道散歩としては裏道のコンレイ坂へ行かねばならない。国道126号まで出て戻り、裏道まで行くことにする。

Img_1753 裏道のコンレイ(魂霊)坂の坂下に出る。【ル-ト地図】の④

天正18年(1590)に家康軍の侵攻で戦死した酒井氏家臣をこの付近の大木の下に葬ったところから、生物の魂を守る聖域であり、近づくことを恐れたという。

坂上に殿山の一里塚があった。

Img_1754 道標

「此方 東金道」などと刻まれているようだ。

Img_1769 丸山公園の先で右折し、日吉神社の東側の坂を八鶴湖(はっかくこ)へと下る。《地図

Img_1772 八鶴湖から東金御殿跡(東金高校)、東漸寺、その背後が東金城址

八鶴湖は文禄3年(1594)に灌漑と防火用水のために造られた人造湖。

Img_1781 東漸寺

境内には家康が「御手植えの蜜柑橘子」という大木があったそうだ。

Img_1778 燕塚(右)と歌碑

昭和27年の寒波で凍死した多くの越冬つばめの供養塚。

歌碑は昭和26年に中西悟堂が詠んだもの。「みんなみに 帰り得ざりし 燕らが 冬越すここは 上総東金」

Img_1782_3東金御殿説明板(東金高校前) 【ル-ト地図】の⑤

Img_1784 東金城址説明板

Img_1786 八鶴湖から最福寺

Img_1788 八鶴亭(国登録有形文化財)

明治18年創業の湖畔の料亭

Img_1795 最福寺

歌舞伎の「切られ与三」のモデルとなった人の墓があるそうだが探さなかった。

Img_1793 説明板

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2010年8月23日 (月)

東金御成街道②

2010年8月19日

実籾駅(京成本線)・・・県道69号・・・長作交差点・・庚申塔道標・・・三嶋神社・・・天戸台十字路・・・椎の古木・六十六部供養塔・・・出羽三山碑・庚申塔道標・稲荷神社・・・六十六部供養塔・花島観音標識塔・・・馬頭観音・庚申塔・・・如意輪観音・天戸大橋(花見川)・・・庚申塔・・・広尾十字路・・・子安観音・如意輪観音・・・油作の坂・・犢橋宿・地蔵尊・地蔵堂・土分の坂・・・(東関東自動車道)・・・庚申塔・・・御瀧神社・・・元観音堂・・・県道69号・・・(国道16号)・県道66号・・地蔵尊・・・駒形観音堂・駒形大仏・・・庚申塔・・・御成街道消滅地点(長沼原町交差点)・・・(北側へ迂回)・・・御成街道復活地点(鎌池交差点)・・・JR総武本線・・焼塚(一里塚跡)・・・(国道51号)・・・春日神社・・・御成台1交差点・・・千城台駅(千葉モノレール)→千葉駅

  【ル-ト地図

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Img_1454 庚申塔道標(中央・(宝暦3年(1753))・長作交差点を左折した所)

右側面に「北さくらみち 南海辺道」、左右は二十三夜塔と二十六夜塔。いずれももとは長作交差点にあったもの。

Img_1465 椎の古木 《地図

下に六十六部供養塔がある。

Img_1467 六十六部供養塔(天明7年(1787))

Img_1466 説明板

Img_1469 稲荷神社

庚申塔道標(享保20年(1735))で、右側面に「右江戸みち」、左側面に「左けみ川ミち」

Img_1473 稲荷神社前の坂

稲荷坂と呼ばれているだろか?

Img_1476 廻国供養塔(宝暦13年(1763))

すぐ先の交差点に花島観音標識塔が立つ。

Img_1479 花島観音(天福寺)標識塔 【ル-ト地図】の①

明治14年の造立で、右側面に「是北観音堂へ八町」・左側面に「西ふなばし道」

Img_1478 説明板

Img_1483 庚申塔道標(右・明治25年)・馬頭観音 《地図

庚申塔の右側面に「此方花島柏井 ○井みち」、左側面に「此方けみ川 此方おゝわだ道」 

ここから花島観音までは1kmほどだがパスした。

Img_1488 天戸大橋(花見川)の手前

左に如意輪観音の小祠

Img_1489 如意輪観音

Img_1492橋を渡った左側に庚申塔の小祠

Img_1493 庚申塔

右の青面金剛像は寛政8年(1796)の造立で、左側面に「こてはしむら男女講中」とある。左の猿田彦大神像は万延元年(1860)の造立。

Img_1501 広尾十字路を過ぎ、下り坂の途中右に子安観音と如意輪観音の小祠がある。

Img_1503 子安観音・如意輪観音(右端)

左三体の子安観音はしっかりと赤子を抱いている。

Img_1507 油作の坂 《地図

犢橋(こてはし)宿へ上る坂。

Img_1511_2油作の坂の 旧道が一部残っている。《地図

御成街道はほぼ直線に造成されたが、このあたりは工事を担当した村と村の接点で、東に向い工事してきた村と西に向かい工事してきた村とが目測を誤り、直線道として結びつかず、互いに主張を譲らなかったために曲がってしまったとか。

Img_1513地蔵の丸彫り (旧道左の墓地入口)

女講中により 天明元年(1781)の造立。

Img_1510 地蔵堂(犢橋郵便局の向い側)

Img_1514 堂内の元禄13年(1700)造立の高さ117cmの丸彫り石地蔵   

Img_1518 犢橋宿の旧家 【ル-ト地図】の②

表札に「家号花島佐平治」とある。犢橋宿は船橋宿の次の継ぎ立場で、旅籠が2軒、餅屋、荒物屋、酒屋、駄菓子屋、湯屋などの商家が10数軒あった。旅籠からは昼間から夜遅くまで三味線の音が聞こえ、道沿いには派手な着物の女が立ち客引きをしていたという。今のこのあたりの家並みからは夢、幻の光景だ。

Img_1520 土分(どぶ)の坂 

犢橋宿から下る坂で、土分は字名。この先には松並木があったという。

Img_1523 庚申塔(左)は天和3年(1683)の造立という古い物で、上部を接合している。右は三猿の庚申塔のようだが、「道祖神」と刻まれている。《地図

Img_1524 御瀧神社(御瀧権現) 《地図

家康が喉の渇きをいやしたという滝があったと伝える。

Img_1526 元観音堂(奥之院馬頭観世音) 【ル-ト地図】の③

元和6年(1620)、家光が鷹狩りの帰途愛馬を失い、その霊を弔った地と伝える。境内には多くの石絵馬が奉納されている。

Img_1532 地蔵(国道16号長沼交差点を渡った左側)

享保12年(1727)の造立 

Img_1533 駒形観音堂

元禄16年(1703)に馬頭観音を本尊として開基。境内右に子安観音、駒形大仏がある。

Img_1535 駒形大仏 【ル-ト地図】の④

元禄16年(1703)の建立

Img_1536 説明板

Img_1540 旧家

Img_1541 庚申塔(長沼コミュニティ前交差点の手前左側)

明和2年(1765)の造立

Img_1544 子安観音の祠

Img_1545 子安観音

Img_1548 街道消滅地点(長沼原町交差点) 《地図

街道は正面の住友重機工場、陸上自衛隊下志津駐屯地内を南東に横切り、鎌池交差点に出ていたが、2.5kmほど寸断されている。大きく北側を迂回する。

Img_1550 街道復活地点 《地図

鎌池交差点から駐屯地方向

Img_1552 焼塚(一里塚跡) 【ル-ト地図】の⑤

街道を造成する時、狼煙(のろし)を上げたり、白旗を掲げたりした場所で、一里塚とも呼ばれていたという。

この先右側の若松高校の所にあった鎌池は昭和46年に埋め立てられた。

Img_1553 標識は「御成街道」で、地元でもこう呼んでいる。

Img_1566 春日神社 《地図

このあたりは天保14年(1843)に佐倉城主堀田正睦の命で吉岡本郷に住んでいた8世帯が移住し、開拓した「吉岡新開」(四街道市吉岡)で、開拓者の繁栄を願って建立されたという。

Img_1573 千葉モノレール千城台(ちしろだい)駅

Img_1575今日はこれに乗るのを楽しみにしていた。

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2010年8月22日 (日)

東金御成街道①

2010年8月13日

船橋駅(JR総武線)・・・(京成本線)・・・御殿通り・・・道祖神社・・・船橋御殿跡(東照宮)・・・御蔵稲荷神社(郷蔵跡)・・・県道69号・・・厳島神社・・・海老川橋(海老川)・・・(京成本線)・・・船橋大神宮・・・宮坂・・・西福寺・・・了源寺・・・日枝神社・・・馬頭観音堂・・・(県道8号)・・・徳兵衛地蔵堂・・・成田街道追分・道標・・・(新京成電鉄)・・・藤崎交番前交差点・・・藤崎古道・・・森林公園・旧大沢家住宅・・・藤崎堀込貝塚・・・県道69号・・・薬師寺・・・誉田八幡神社・・・道六神・・・庚申塔・・・大原神社・・・(京成本線)・・・一里塚跡あたり・・・実籾本郷公園・旧鴇田家住宅・・・無量寺・・・実籾駅(京成本線)

 東金御成街道は徳川家康が鷹狩りのため、短期間で造らせた船橋御殿と東金御殿を結ぶ直線的な街道で、「一夜街道」・「提灯街道」・「権現道」とも呼ばれていた。「鷹狩り」は表向きの理由で、房総の諸勢力の動向を牽制・警戒し、いざという時の兵力移動の軍事道路でもあったようだ。家康2回、秀忠10回、家光1回の「御成り」が記録されている。

  参考:『千葉県歴史の道調査報告書 9』・『東金御成街道を探る』(本保弘文)

  【ル-ト地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_0920 東金街道説明板(藤崎交番前交差点に設置)

Img_0922 経路

(船橋御殿南)→(船橋大神宮下)→成田街道追分→藤崎→長作→犢橋→長沼→金親→中田→富田→滝→油井→大豆谷→東金御殿

Img_0837 道祖神社

Img_0839 愛染明王?(文化8年(1811))と三面八臂の馬頭観音(安永3年(1774))

Img_0848 船橋御殿跡(東照宮) 【ル-ト地図】の①

ここが御殿の中心部。家康は一回しか泊まらなかった。

Img_0849 説明板

Img_0847 周辺案内図

Img_0845 御蔵稲荷神社 《地図

郷蔵跡で、ここ九日市村は船橋宿の中心で、五日市村、海神村と一体となり人馬継ぎ立ての業務を行っていた。このほか御成街道には、犢橋(こてはし)宿、金親宿、中田宿、東金宿があったが、継ぎ立て業務が主で、宿場町というイメージとは違っていたようだ。

Img_0853 説明板

Img_0833 ひろせ直船堂(御成街道沿い)

パン・お菓子の店。店の後ろの中庭みたいな空間も敷地のようで相当広い。

Img_0835 この店はお盆休み

Img_0857海老川橋

船橋の地名の由来伝説にちなみ、船の舳が欄干から突き出している。

Img_0861 由来碑

東征した古代の英雄とは、日本武尊のことか。

Img_0868 船橋大神宮

もとは延喜式の意富比(おおい)神社

Img_0867 説明板

Img_0874 船玉神社(大神宮内)

社殿は船に乗っている。

Img_0873 灯明台(大神宮内)

和洋折衷の擬洋風建築の変わった形の常夜灯(というより灯台)だが、木々に覆われ全体が見えないし、そばに近づく道もない(分からない)。

Img_0871 説明板

Img_0875 宮坂 《地図

大神宮(右)に沿って上る坂

Img_0885 西福寺

左に並ぶのは「ふくふく(冨久福)地蔵」

Img_2030 了源寺

享保年間に幕府の大砲試射台があった。その跡に鐘楼堂が建てられ、明治4年まで時の鐘として船橋一帯に時を告げた。

Img_2031 説明板

太田南畝の狂歌は、黒船来航の時の 「泰平の眠りをさます上喜撰(じょうきせん) たった四はいで夜も寝られず」と少し似ているか?

Img_0890 日枝神社

Img_0894 馬頭観音(船橋防災センター手前の小堂内)

左は文化4年(1807)、右は明治時代の造立。

Img_0906 徳兵衛地蔵堂(サイゼリアの先の右側) 《地図

由緒沿革碑によれば、安政年間(1854~59)に悪疫が流行った時、屋号が「徳兵衛」の原田氏の寄進と願により、西福寺の住職が造立した。(違っているかも)

Img_0901 徳兵衛地蔵と呼ばれているかは定かでない。

Img_0909成田街道分岐(左) 【ル-ト地図】の②

ここまでは成田街道で、ここが東金御成街道の始点だろう。道路標識もここまでは「成田街道」となっている。

Img_0910 道標(明治12年造立)

右側面に「従是房總街道」とある。それが東金御成街道のこと。

藤崎交番前交差点を右折すると、すぐに藤崎古道の入口がある。

Img_0923 藤崎古道

御成街道以前の道。家康が近くの子安神社で休憩した時、境内の藤の花が見事に咲いているのを見て、「藤咲村」と命名したという。

Img_0926 古道 【ル-ト地図】の③

古道といってもほんの一部が残るだけで、すぐに一般道に上ってしまう。

森林公園に向かう途中で、新しい住宅地の中に入ってしまい何度も行き止まりの憂き目にあい、抜け出すのに苦労した。

Img_0932 森林公園 

Img_0941旧大沢家住宅(移築復元)《地図

寛文4年(1664)に建てられた旧名主宅。

Img_0933 説明板

Img_0935 藤崎堀込貝塚 【ル-ト地図】の④

Img_0937 説明板

Img_0939 鳥居の内側には富士塚が築かれている。頂上には天保4年(1833)造立の石祠が立つ。

下には貝殻片が散らばっている。縄文時代のものなのか? 貝塚の西側はかつては楕円形の凹地になっていて「ダイダラ坊の足跡」と呼ばれていたそうだ。

ここから御成街道に出るのもずいぶんと回り道をして時間がかかった。

Img_0949 薬師寺 《地図

右の説明板には、「六地蔵は市角頼母により享保13年(1728)の建立された」とある。

Img_0951 誉田八幡宮

碑文には、延宝年間(1673~80)に豊臣方の武将市角頼母が河内の誉田八幡宮を勧請したとある。市角頼母は、豊臣方の武将でありながら、随分と長生きをしたようだ? なんだかしっくりこない感じだ。

Img_0954 酒店

火事か?

Img_0955 「足の神様の道六神」の祠(享保13年(1728)の造立) (酒店の先の右側)

わらじなどの姿はない。信心はすたれたのか。

Img_0957 庚申塔が民家の窓下にしっかりと守られている。(道六神の先の交差点を右折した右側)

道路拡張で2度移された。ここが安住の地になればよいが。右の2つは三猿の庚申塔で、延宝8年(1680)と元禄14年(1701)のものだそうだ。

Img_0961 大原神社

Img_0963 縁起

Img_0964 庚申塔と廻国供養塔(右端)(大原神社の東南角)

右から寛政5年(1793)、宝暦2年(1752)、正徳元年(1711)の造立。

Img_0968 実籾の一里塚跡あたり 【ル-ト地図】の⑤

かつては右側の塚上に椎の古木が立っていたという。これは左の塚跡のようにも見える?

一里塚は船橋から東金までの間に8つあった。①実籾の一里塚(一里山・習志野市実籾)、②向山(庚申塚・千葉市犢橋(こてはし)町)、③焼塚(千葉市若松町)、④提灯塚(千葉市千城台東)、⑤椎の古木(千葉市冨田町)、⑥クヌギ山(一里塚・八街市上砂)、⑦の1 一本松(一里塚・東金市油井)・⑦の2 殿山(東金市黒田) (⑦が2つあるのは表道と裏道の2つの道筋があったため)

Img_0972鴇田(ときた)家住宅(実籾本郷公園に移築復元)

御成街道沿いにあった実籾村の名主家。

公開は16時30分までで、外から眺めるだけ。

Img_0975 門の隙間から

享保12年(1727)から翌13年に建てられた、東北地方に多い「曲屋(まがりや)」形式の住宅。

Img_0977 御成街道に戻ると立派な旧家が並んでいる。

Img_0978 旧家

Img_0981 長屋門

Img_0979 無量寺 《地図

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2010年8月21日 (土)

水戸街道(荒川沖宿→中村宿→土浦宿→中貫宿)

2010年8月18日

荒川沖駅(JR常磐線)・・・荒川沖宿・姫宮神社・火防地蔵・鶴町たばこ店・・・国道6号・・・中村南4交差点・旧道・・・原の前一里塚跡あたり・原の前交差点・(国道6号)・・・中村宿・本陣跡・・・(国道354号)・・大川橋(花室川)・・・大聖寺・男厄除坂・・・(国道6号)・・・県道354号・・・中高津の道標(布施街道道標)・・・旧道・・・下高津の道標・・・愛宕神社・・・銭亀橋(備前川・桜川)・・・一里塚の井戸跡あたり・・・大町交差点・・・土浦城南門跡・土浦宿・等覚寺・花蔵院・中城天満宮・野村家住宅・尾形家住宅・(本陣山口家跡)・琴平神社・不動院・亀城公園(土浦城址)・桜橋跡・・本陣大塚家跡(商工会議所)・月読神社・土浦城北門跡・・新川橋(新川)・・・(つくばりんりんロード)・・・照井の井戸(善応寺)・・・真壁宿通り・・・国道125号・土浦一高・筑波街道分岐・・・旧道・・・松並木・・・板谷の一里塚跡・・・国道125号・・・中貫跨道橋(国道6号)・・・旧道・・・中貫宿・本陣跡・馬頭観音・・・国道6号・・・中貫バス停→土浦駅(JR常磐線)

  【ル-ト地図

  水戸街道稲吉宿→府中宿)へ続く。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_1208 姫宮神社 《地図

祭神は木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)。神護景雲年間(767~69)に今は廃寺の由義寺内に創建されたいう。
神社前の道は鎌倉街道。

Img_1210 火防地蔵 

Img_1221 鶴町たばこ店

鶴町は姓で、このあたりに多い。

Img_1223_2 道標

「日先大神道」のようだ。東に常磐線を越えると日先神社がある。社伝によると前九年の役の天喜5年(1057)、源頼義・義家の軍勢が当社に到着したという。

Img_1227 鶴町皮フ科 《地図

Img_1232 中村南4交差点 《地図

旧水戸街道は右斜めへ、国道6号(現水戸街道)は直進、左斜めに入るのが鎌倉街道。

Img_1234道標

これも「日先大神道」、隣の石仏(地蔵?)も道標になっているようだ。

Img_1236 原の前一里塚跡あたり 【ル-ト地図】の①

この先で国道6号を横切り、中村宿へ。

Img_1240 中村宿の町並み 【ル-ト地図】の②

宿場の面影はない。

Img_1244 地蔵などが並ぶ一角

頭がデカイのは地蔵だろうか? ユニークな顔をしている。

Img_1243 双体道祖神

こちらも稚拙な彫り方、素朴というべきか。

Img_1248 川村家(左)

水戸街道開通の時に西根の住民が移って来た集落で、総家数65軒、問屋場、旅籠も揃っていたという。落ち着いた、静かな町並みだが宿場の面影はない。

Img_1252 本陣の川村茂右衛門家?

Img_1251 門から遠い奥にある蔵か?

犬がぎゃんぎゃん吠えるので早々に立ち去る。

Img_1255 宿を抜け国道354号を横切り、花室川を渡る。

Img_1262 大聖寺山門

寺伝によれば、貞享2年(1685)土浦城主松平信興から木材の寄進を受けて建立したという。

Img_1264 男厄除坂

男の厄年42歳の42段の石段。いったん平場に出てさらに上る。女厄除坂はあるのかは未確認。

四国札所の23番薬王寺の厄除坂が有名だ。『四国遍路道

Img_1272 中高津の道標(布施街道道標) 《地図

馬頭観音(天保15年(1844))には「水海道 布施 関宿 流山道」

Img_1273 馬頭観音道標の前の小さな布施街道道標。 

「右やたべ おばり いたばし みつかいどう」(谷田部、小張、板橋、水海道」

Img_1276 少し布施街道を進んでみる。この先の旧道は消滅しているようだが。

柏の根戸で水戸街道から分岐し、七里の渡し、守谷、伊奈、谷田部、大角豆(ささぎ)、天川と進み、ここで合流する脇街道。利用者が多く水戸街道の7宿が衰え、水戸藩では本街道を通るようにとの通達まで出したという。近いうちにこの街道も歩く予定。『布施街道』(2010年9月)で歩いた。

Img_1280 旧家

Img_1291 下高津の道標(享保18年(1733)) 《地図

正面に「右江戸道」、左側面に「左なめ川 阿ば道」で、観音講中の連中が建てたもの。ここは水戸街道と坂東街道の交叉点というが、この先は行き止まりのようだが。

Img_1307 愛宕神社

よく手入れされた茅葺の屋根が見事だ。

Img_1297 山田酒店

Img_1301 銭亀橋から桜川

『土浦八景』の一つ。

「ゆふたちや 日の暮れ直す 橋の反」

Img_1305 旧家

この先の鈴木医院の手前左側角に一里塚の井戸(18番目の一里塚跡)があるはずだが、何度往復してみても見つからず、そばの茶舗で聞くと数年前に市で撤去しまったとのこと。

大町交差点を横切り、土浦城南門跡から枡形を通り、土浦宿へ入る。

Img_1315 南門跡の枡形を曲がり宿場に入る。《地図

Img_1316 前原商店

Img_1318 等覚寺銅鐘(国指定重文)

もとはこの寺の前身の藤沢城内極楽寺にあった。建永元年(1206)小田城主筑後入道尊念(八田知家)が寄進したもの。藤沢城が落城後、土浦城内に移され、明治17年に極楽寺ゆかりの当寺に移された。「常陸三古鐘」(般若寺・長勝寺)の一つ。

藤沢城址、小田城跡は『筑波街道②』・『つくば市の坂』に記載。

Img_1322 花蔵院

町人学者の沼尻墨僊(ぼくせん)の墓がある。

Img_1321 説明板

Img_1325 山口酒店

Img_1327 中城天満宮

前九年の役の時、源頼義・義家が境内で閲兵したと伝える。江戸時代には3月に駒市が立ち、多い年は700頭もの馬が集まったという。

Img_1330 そば屋「吾妻庵総本店」

Img_1332 中城通りの町並み

Img_1335 矢口酒店

Img_1333 説明板

Img_1338 まちかど蔵大徳(尾形家住宅) 《地図

この裏あたりに本陣山口家があったようだ。

Img_1341 説明板

Img_1342 まちかど蔵野村(野村家住宅)

江戸時代からの商家で、明治時代には砂糖を商っていた。

Img_1344 不動院(正面)・琴平神社(左)

不動院は永享年間(1429~40)若泉氏により開山。手前の石碑は「退筆塚」で、沼尻墨僊の遺徳を讃えて門人たちが文久2年(1862)に建立。

Img_1354土浦城旧前川口門(高麗門)

城跡は亀城公園になっている。

Img_1355 説明板

Img_1366 堀に囲まれた城の姿が水に浮かぶ亀に見えたことから、別名「亀城」と呼ばれている。

Img_1359 本丸表門(太鼓櫓門)

Img_1357 説明板

Img_1361 西櫓

Img_1360 説明板

Img_1376 保立食堂 《地図

店の前には川口川が流れ桜橋が架かっていた。角に桜橋の親柱と道路元標が残っている。

Img_1375 説明板

Img_1374 桜橋説明板

Img_1379 福祉の店ポプラ(保立食堂の向かい側)

食堂か?

Img_1382 右の商工会議所あたりが大塚本陣跡 《地図

Img_1389 土浦城北門跡 《地図

このあたりは馬出しでS字形に曲がっていたそうだ。

Img_1388_2 説明柱

Img_1396 つくばりんりんロードを横切る。

ここから土浦の起点まで1.5km。

Img_1398 旧家

Img_1399 旧家

Img_1402 照井の井戸(照井山善応寺の脇) 《地図

ちょうど車で来たおばさんが大きなペットボトルに何本も水を詰めていた。足とお尻の一部が写ってしまった。「ケツ礼、アシからず」

Img_1401説明板

Img_1409 「真壁宿通り」のプレートが道沿いに貼ってある。

確かに古い家並みが残るが土浦宿からはすぐだし、間の宿でもないだろうが?

Img_1413 筑波街道分岐 【ル-ト地図】の③

向かいの正面角に「真壁の道標」が立っていた。今は市立博物館に移されている。

Img_1363_2真壁の道標

Img_1362 説明板

Img_1416大学ボウルの先で、右に旧道に入ると松並木が残っている。

Img_1418 松並木

Img_1420 説明板

Img_1422 板谷の一里塚跡(19) 【ル-ト地図】の④

Img_1423 右塚(東側)

Img_1424 左塚(西側)

Img_1425 説明板

国道125号に出て、中貫跨道橋で国道6号を越え、中貫宿へ入る。

Img_1436 中貫宿の家並み

Img_1442 本陣本橋家 【ル-ト地図】の⑤

大名らの休憩のみの小休本陣で、宿泊はしなかったようだ。天狗党の焼打ちにあっている。

Img_1446 主屋

Img_1445 説明板

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2010年8月15日 (日)

水戸街道(若柴宿→牛久宿→荒川沖宿)

2010年8月14日

佐貫駅(JR常磐線)・・・佐貫駅東入口交差点・・・大坂・・・八坂神社・・若柴宿・・延命寺坂・延命寺跡・・会所坂・・薬師寺跡・・仲宿坂(東屋坂)・・牛女坂・・足袋屋坂・・鍛冶屋坂・ねがら道・・観音寺跡・金竜寺・・田舎庵・・・星宮神社・・・(県道243号)・・・成井一里塚跡・・・銅像山踏切(常磐線)・・・(国道6号)・・・下町坂下橋(根古屋川)・・牛久宿・下惣門跡・明治天皇行在所跡(飯島家)・・正源寺・・上惣門跡・・・国道6号・・・(常磐線)・・・牛久シャトー・・・国道6号・・・鹿嶋神社・薬師寺・・・(国道408号)・・・小野川橋(小野川・圏央道)・・・牛久橋跨道橋(県道274号)・・・(中根・荒川沖)一里塚跡・・・八幡神社・荒川沖宿・荒川橋(乙戸川)・荒川沖天満宮・・・荒川沖駅(常磐線)

 若柴宿で街道から「ねがら道」に下る何本かの坂に出会い、久しぶりに本業の坂道散歩に戻った半日だった。お盆で国道6号は昼過ぎまで下りが渋滞し、寺は墓参の人たちで賑わいを見せていた。蒸し暑い中を街道歩きなんかしている時ではないか。

  【ル-ト地図

 写真をクリックすると拡大します。

Img_0984 水田の間の道を行くと大坂の上りとなる。

Img_0987 坂上近く 【ル-ト地図】の①

左へ曲がり、八坂神社から若柴宿へ入って行く。金竜寺までの600mほどが宿場だった。

Img_0988坂上の旧家

Img_0991 八坂神社

ここは戦国時代の若柴城の外城跡、今でも地元ではこのあたりをトジョウと呼んでいるそうだ。

Img_1057 周辺図(田舎庵の前に掲示)

宿場の案内図というより、坂道散歩図で嬉しいね。街道とねがら道(根絡道)の間の坂を上り下りしている地元の人たちもいた。いい運動になるだろう。

Img_0992 延命寺坂(坂下方向)

昔、坂の途中に延命寺があった。

Img_0995 延命寺跡(右)を通り、ねがら道(根絡道)に下る。

Img_1002 長屋門

Img_1003_3 明治19年の大火で宿の大半が焼失してしまった。昔は坂名の由来となった足袋屋、鍛冶屋もあったのだが。今は宿場の家並みというより、豪農のお屋敷町という感じで、商家、旅籠風の家はない。

Img_1004 立派な塀、門構えの旧家が続く。

Img_1005旧家

Img_1023 会所坂上

旧家の脇を右に下る。坂の途中の平場に村役人の事務所があった。すぐ先に薬師寺跡がある。

Img_1010 坂下方向

Img_1012 坂下でねがら道に出る。

Img_1018 仲宿坂(東屋坂) 坂下方向

ここは仲町で、この坂は街道からねがら道ではなく、北方向へ下る坂。

Img_1022 坂上方向

Img_1021 坂下方向

Img_1031_2 足袋屋坂(坂上方向)

坂上に足袋屋があった。むき出しになった何本もの木の根が坂を飾っている。

Img_1027 坂下はねがら道

Img_1033 鍛冶屋坂(坂下方向)

坂上に鍛冶屋があった。

Img_1036 坂下方向

Img_1038 坂下方向

大きく左にカーブしてねがら道に出る道と、直進する道がある。

Img_1040 坂下はねがら道(椿の小径) 《地図

Img_1061 ねがら道説明板

Img_1049金竜寺

境内裏手に新田義貞の墓ほか新田家代々の墓がある。東海道小田原宿の手前には新田義貞の首塚があった。『東海道大磯宿→小田原宿』に記載。

この寺には新田義貞、牛久沼の名前とも縁のある2つの昔話、「わら干し観音」・「牛になった小坊主」がある。『龍ヶ崎の昔話

Img_1067 田舎庵

民家風のそば屋。

Img_1072星宮神社

「平貞盛駒止めの石」があるのだが見逃した。あちこちにある「○○の駒止め石」同様ただの石だが。

Img_1084 成井一里塚跡 【ル-ト地図】の②

Img_1085 説明板

Img_1090 旧道らしくうねうねと曲がっている。

常磐線の銅像山踏切を渡り、国道6号を横切り牛久宿へ入る。銅像山とはどこにあるのか?

Img_1100 牛久宿 【ル-ト地図】の③

下惣門はこのあたりか。もう少し先か。

Img_1111飯島家

「明治天皇牛久行在所」の石柱が立つ。この宿も宿場風情の名残りは少ない。少し手前右側の旅籠大黒屋には水戸の天狗党が泊まったそうだ。文化元年(1804)には助郷に苦しめられた農民たちによる牛久一揆(女化騒動)が起こった。

郵便局の手前を左に入ると、得月院、河童絵の小川芋銭記念館牛久城跡から牛久沼へ行かれるがパス。

Img_1115 正源寺 《地図

山門をくぐると下方に現代的な本堂がある。右は旧観音堂跡で、本尊の馬頭観音は刈谷の牛久観音に祀られ、今は火伏せの秋葉三尺堂となっている。

寺の手前に本陣があった。

Img_1121 宮崎利兵衛商店

Img_1133 牛久シャトー(シャトーカミヤ)

浅草の神谷バーで大ヒットした「電気ブラン」の神谷伝兵衛により明治時代に創設された、日本初の本格的ワイナリー。本館の建物は明治36年(1903)に完成した。

Img_1143 薬師寺 《地図

参道の途中に厳島神社がある。

Img_1139 大日如来(厳島神社境内)

寛文8年(1668)造立。

Img_1138_2 説明板

Img_1150 地蔵など石仏たち(猪子区民館の敷地)

右端の地蔵?は頭からすっぽり着物を被されている。暑くてたまらないだろう。

Img_1164 中根一里塚跡(右側、牛久市) 【ル-ト地図】の④

Img_1167 説明板

Img_1165 荒川沖一里塚跡(左側、土浦市)

Img_1166 説明板

塚の保存状態、説明文の内容とも似たようなもの。

Img_1175 国道から離れ荒川沖宿へ入る。右側に小さな八幡神社がある。

Img_1180 荒川橋から常磐線 《地図

荒川ではなく、乙戸川に架かる橋。荒川は流れていないのになぜ「荒川沖」か? 昔はこの乙戸川も水量は豊富で、荒れる川の性格を持っており、これが地名になった。沖は東の旧村の荒川本郷から離れた新しい村という意味。水戸街道開通にともない宿場を作るために荒川本郷の人たちが西の街道筋に移住させられたそうだ。
今では細い用水路みたいで、荒れた川だったとは想像できないが。

Img_1205 曽良の歌碑(荒川沖駅前)

曽良も荒川という地名に疑問を持っていたようだ。そして実際に川の流れをみて、なるほどと納得したのだろう。やはり乙戸川は昔は荒ぶる川だったのだ。

Img_1182 荒川沖宿 【ル-ト地図】の⑤

人通りもなく静まり返っている。牛久宿と共同で継立てを行っていたので本陣などはない。

Img_1188 宇野家

Img_1193 荒川沖天満宮

Img_1212 天満宮の裏の駐車場内の墓石

Img_1216 遊女の墓石だろう。

安永9年、「○○信女」と刻まれている。遊女といっても女郎部屋の哀れな女郎たちだが、墓があるだけましか。

Img_1196 名主兼問屋だった川村家

Img_1198 旅籠佐野屋跡(荒川沖局の隣)

今も佐野家住宅。

Img_1202 鈴木呉服店

荒川沖駅近く。

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2010年8月11日 (水)

水戸街道(我孫子宿→取手宿→藤代宿)

2010年8月9日

我孫子駅(JR常磐線)・・・国道356号・・我孫子宿本陣跡・大光寺・脇本陣跡・・・成田道分岐・道標・・・浜街道踏切(JR成田線)・・・(国道6号)・・・(JR常磐線)・・・柴崎神社・・円福寺・・・東源寺・・・柴崎交差点・国道6号・・・青山台交差点・旧道・・・青山の渡し跡あたり(利根川土手)・・国道6号・・・大利根橋・・・(JR常磐線)・・・取手宿・・・新道バス停・・・吉田バス停・・・薬師堂・・・水戸街道道標・・・来応寺道標(土橋・相野谷川)・・・旧陸前浜街道標柱・・・百井戸橋・・・釜神橋・・・藤代・牛久道標・・・(JR常磐線)・・・(谷中本田交差点)・・(県道201号)・・藤代宿・相馬神社・高蔵寺・本陣跡・愛宕神社・・・熊野神社・・小貝川土手(宮和田の渡し跡)・・・国道6号・・文巻橋(小貝川)・・旧道・・十一面観音堂・・・(常磐線)・・・往還橋(谷田川)・・・県道5号・・・道標(馴柴小入口交差点)・・・(関東鉄道竜ヶ崎線)・・・道標(馴柴小学校)・古水戸街道分岐・・・佐貫駅東入口交差点・・・佐貫駅(JR常磐線)

  【ル-ト地図

  取手宿は『取手市の坂-1』に記載。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_0627 我孫子宿

「旅籠松島屋」は割烹旅館角松本店になっている。

Img_0631 大光寺

新四国相馬霊場の42番

Img_0633 旅籠扇屋は染井金物店に。

Img_0635 本陣小熊家跡(右) 【ル-ト地図】の①

手前に問屋場があった。

Img_0639 脇本陣小熊家

Img_0642 渡辺材木店

Img_0645 料亭鈴木屋

Img_0655 成田道直進・水戸街道左折 《地図

木の下に道標が集められている。一つには「右成田道」とある。

Img_0661柴崎神社

日本武尊が東征の折に武運を祈願したとも、平将門の祈願所ともいう。相馬一族の守護神の伝えもある。

Img_0666 円福寺

新四国相馬霊場の55番

左に鯖大師堂がある。

Img_0669 鯖大師

四国八十八ケ所に別格霊場の「鯖大師堂」がある。

Img_0677 東源寺 《地図

新四国相馬霊場の75番。樹齢250年の榧(かや)の木。

Img_0679このあたりは名主だった川村姓の家が多い。表札を確かめていたら、後ろから家の人が来て怪訝そうな表情で門を入っていった。めげない、懲りない、くじけない。

Img_0683 旧家

青山台交差点から右に旧道に入る。

Img_0691 青山西屋敷バス停の名の通り、立派な屋敷が多い。

Img_0692 旧家

Img_0698 青山の渡し跡あたり

利根川に架かる橋では最長の全長1209mの大利根橋を渡り、茨城県取手市に入る。河川敷が広く、川幅自体はさほどでもない。

今でも常磐線鉄橋下の「取手ふれあい桟橋」から、三点間で、「小堀(おおほり)の渡し」が就航している。

Img_0702 取手宿の通り

奈良漬の新六本店

Img_0705 本陣跡(染野家) 【ル-ト地図】の②

金・土・日に公開している。

Dsc065472007年3月25日撮影

Dsc06542 主屋

Dsc06539 説明板

徳川斉昭の歌の最後の部分は「とくつきにけり」

Img_0706 金物店

Img_0708 ここを直進すれば小堀の渡しの「サッカー場乗船場」に行かれる。左は八坂神社。

Img_0710 設計事務所?

Img_0713 旧道(本街道)は右へ(新道バス停の交差点)

利根川、小貝川の水害に備え、藤代宿への4本の道があった。
①本街道(今日歩いた道筋・旧陸前浜街道)・・・吉田→清水→中田→谷中→藤代  
②中通り(ここを直進する陸前浜街道で明治になってからの本道)・・・県道229号(取手谷中線)→藤代
③椚木(くぬぎ)廻り道・・・桑原→毛有→椚木→藤代 ④大廻り道・・・寺田→和田→小貝川→藤代

Img_0715 歩道は雑草で覆われている。

利根川土手の手前の吉田バス停の所で左斜めに入る。

Img_0720 薬師堂 《地図

吉田公民館の建物に同居だ。

Img_0723 右のサイカチの木の下に新しい道標が立つ。

Img_0725 水戸街道

左には「水戸与利十八里十八丁」とある。

Img_0729 水田の間の縄手道を行く。

Img_0733 来応寺道標(土橋) 《地図

相野谷川沿いの500mほど南に寺はある。

Img_0735 旧陸前浜街道の標柱

Img_0739 不動明王と石祠

Img_0741 右側を流れる用水に百井戸橋が架かっている。100もの井戸があったのだろうか? このあたりは昔は百井戸村で、今も百井戸橋バス停がある。

Img_0746 道標

「北谷中藤代宮和田ヲ経テ牛久」

常磐線、県道を渡り藤代宿へ入る。

Img_0758 藤代宿

右は坂本呉服店、突当たり左に相馬神社

Img_0759 相馬神社

藤代宿、宮和田宿の総鎮守。

Img_0762 高蔵寺

室町時代末期の寄木造りの薬師如来坐像を安置。

Img_0765 本陣跡(中央公民館)の老松と百日紅(さるすべり・正面奥) 【ル-ト地図】の③

唐破風造りの玄関で茅葺き建物の本陣を取り壊し、残ったのはこの木2本だけ。もったいないことをしたものだ。

Img_0763 説明板

Img_0771 宮和田宿

藤代宿とつながっていて独立した宿ではなかったようだ。

Img_0772 熊野神社

創建は千葉常胤(鎌倉時代)、俊胤(戦国時代)の説がある。

Img_0777宮和田の渡し跡

今は小貝川は文巻橋で渡る。《地図

Img_0782 小通十一面観音堂(慈眼院) 【ル-ト地図】の④

平将門を討った平貞盛が天慶年間(938~946)に建てたという。

Img_0783 説明板

Img_0789 成田道標(馴柴(なれしば)小入口交差点) 《地図

左の電柱下に屋根付の道標がある。「右りゅうがさき なりた 左わかしば 水戸」だそうだ。

Img_0799 道標(馴柴小角) 【ル-ト地図】の⑤

江戸時代初期の水戸街道(直進・布佐方向)との合流点。

昔は取手を通らず我孫子から布佐(なま道の起点)に下り、利根川を渡り北上し、ここへ出た。貞享年間(1684~87)に取手を通るようになり、二つの水戸街道がここで合流していた。「水戸十六里」・「江戸十三里」・「布川三里」と刻む。

Img_0797 説明板

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2010年8月10日 (火)

水戸街道(松戸宿→小金宿→我孫子宿)

2010年8月7日

馬橋駅(JR常磐線)・・・江戸見坂・・・八ケ崎交差点・水戸街道道標・国道6号・・一里塚跡・・・蘇羽鷹神社・二ツ木向台遺跡・・旧道・大坂・・・(JR武蔵野線)・・・和尚坂・・庚申堂・・・北小金駅入口交差点・旧道・・・小金宿・永妻家・一月寺・旅籠玉屋跡・東漸寺・本土寺道標・水戸街道道標・・・横宿坂・・・根木内交差点・(国道6号)・県道261号・・西ノ下坂・・根木内城跡(根木内歴史公園)・・北ノ下坂・・根木内城址橋・・・新宿坂(行人坂)・・根木内城址橋・・・庚申塚・・・行念寺・・・香取神社・一里塚碑・・・稲荷神社・・・八坂神社・・・日光東往還分岐・新木戸跡・・・別雷神社・稲荷神社・・・豊受稲荷神社・・・神明神社・・・(東武野田線)・・・柏神社・柏木戸跡・・・明治天皇柏小休所跡・・・旧水戸街道入口交差点・(国道16号)・・・(常磐線)・・・馬頭観音道標・・・呼塚河岸跡・呼塚橋(大堀川)・・・(国道6号)・・・根戸大坂・・・(北柏駅)・・・庚申塔など・・・東陽寺・・・妙蓮寺・・・根戸十字路(県道7号・布施街道分岐)・・・(国道6号)・・・(常磐線)・・・興陽寺・・・八坂宮・・・我孫子駅(JR常磐線)

 *馬橋駅周辺は『松戸市の坂-2』に記載。

  【ル-ト地図

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Img_0460 江戸見坂(坂上方向) 【ル-ト地図】の①

水戸街道を江戸に向う旅人が、ここではじめて江戸の空を遠望することができたといわれる。坂上から国道6号を左折してもまだ上っている。そこから松戸宿の渡し場までは直線で5kmぐらい。江戸の空だけでなく、江戸川、金町も望めたかも。

Img_0469 水戸街道道標(文化3年(1806)・八ケ崎交差点を渡った所)

「左 水戸街道」・「右 印西道」

Img_0465 一里塚跡 【ル-ト地図】の②

Img_0477 蘇羽鷹神社

千葉氏の守護神と伝わる。

Img_0476 姫宮様(境内)

「姫は千葉氏の一族、高城氏のお姫様、小松姫の祠です。大谷口城(小金城)が落城し、落ちのびる時の血芽の話は有名です」とある。 「血芽の話」とはどんな話か知りたいものだ。
境内北側の山林は縄文時代前期(約6千年前)の貝塚の二ツ木向台遺跡。

国道6号を横切り旧道に入ると大坂の下りとなる。

Img_0828 大坂を下る。《地図

標柱には「当時の道形を残している」とある。

Img_0825 武蔵野線をくぐると、和尚坂の上りとなる。

Img_0823 確かにくねった道で旧道らしさはあるが、昔風情のある家並みではない。

Img_0821 坂上方向

左に常行院があるので和尚坂か。

Img_0819 坂上近くの庚申堂

小祠内に庚申塔はないようだが。 

坂上で北小金駅入口交差点に出て国道6号を横切り、駅方面に小金宿に入る。

Img_0498 永妻家

屋号が「あめや」の小金宿の飴製造販売業者。

Img_0497 説明板

Img_0489 一月寺 《地図

もとは鎌倉時代に金先禅師によって創建された普化宗(虚無僧)の寺。江戸時代には青梅の鈴法寺(『青梅街道⑤』とともに触頭として関東の普化宗諸派の寺を総括した。明治4年に太政官布告で普化宗は廃止された。
下田街道沿いの龍源寺跡には虚無僧の墓がある。

この寺と東漸寺の間が宿場の中心部だが、日暮玄番の水戸殿旅館跡、脇本陣跡はどれか特定できず。

Img_0499 旅籠玉屋跡

代々惣右衛門を名乗る鈴木家。

Img_0500 東漸寺

文明13年(1481)根木内に開かれた高城氏と深いつながりを持ち、天文6年(1537)に高城氏の小金移転に伴い当地に移った。関東十八檀林の一つ。

Img_0811 山門

木々が多い境内は、よく手入れが行き届き気持ちがいい。

Img_0804 大塚家が本陣だったようだ。

Img_0509 本土寺道標(文化5年(1808))

日蓮宗三長三本(池上の長栄山本門寺、鎌倉の長興山妙本寺)の長谷山本土寺(あじさい寺)の参道の始点だが、今はすぐに北小金駅(常磐線)にぶつかってしまう。

Img_0505 水戸道中道標・水戸海道道標(明和5年(1768)?)《地図

八坂神社は西方の線路沿いに移っているようだ。

Img_0513 横宿坂を根木内交差点へ下る。《地図

横宿坂→西ノ下坂→北ノ下坂→新宿坂(行人坂)と続いている。

Img_0515 根木内交差点

左前方が根木内城跡。ここを直進して西ノ下坂を上るのだが、なぜか左折して国道6号を進んでしまった。下に常磐線が走っているのを見てやっとおかしいと気がついた。往復2km近くのロスとなった。こんな暑いときは注意力も散漫になる。街道歩きなんかするもんじゃないか。

Img_0526 根木内城跡 【ル-ト地図】の③

土塁跡

Img_0522 主郭部か

Img_0529 空堀上の土橋跡

Img_0538 西ノ下坂を上ると、北ノ下坂の下りとなって根木内城址橋へ下り、新宿坂の上りとなる。いずれの坂も今は緩やかな坂になっている。

Img_0545 新宿坂(行人坂) 《地図

昔は杉林と竹林に覆われた薄暗い坂だったという。坂上は中新宿村、行人坂は坂上の「行を念ずる寺」の行念寺へ向かう坂ということか。

Img_0546 庚申塚(新宿坂の坂上右側)

左は享保9年(1724)、右は宝暦12年(1762)

Img_0549 行念寺

100m程先の左側に立場があり、飲食、馬のかいばや水を用意していたという。

Img_0551聖徳太子塔(文化13年(1816))・庚申塔(享和元年(1801))

中新宿村とある。

Img_0554 一里塚の碑(香取神社前) 【ル-ト地図】の④

名文か美文、それとも思い入れ過剰の駄文か?

Img_0555 庚申塔(正面右・享保6年(1721)・神社境内)

邪鬼の下に三猿、その下にも三猿がいる。

Img_0558 野馬(除け)土手の名残り

Img_0560 稲荷神社 《地図

屋根がいいねえ。

Img_0563日光東往還』分岐 《地図

直進が水戸街道。左折が日光東往還。昭和50年代までは松並木の一部が残っていたというが、この光景からは想像できず。このあたりに木戸があった。今でも「新木戸」バス停がある。

Img_0561 説明板(八坂神社前)

Img_0573 神明神社

Img_0574 説明板

明治時代の小金牧、佐倉牧の開墾順に、「初富・・・豊四季、五香、六実・・・十余三」という地名がついた。

Img_0578 柏神社

Img_0577 柏木戸跡説明板

Img_0579 明治天皇小休所跡(柏4-5)

この先の諏訪神社の前に一里塚があり、屋号「一里塚」の金子家があったそうだ。

Img_0586 常磐線を跨線橋で越える。《地図

正面は「マリアチャペル マリベール柏」(旧玉姫殿) 玉姫殿は各地あるが運営母体はそれぞれ異なるようだ。

Img_0591 馬頭観音道標(寛政11年(1799))国道6号に出る手前

こちらの面に「ながれやまみち」、反対側に「馬頭観音」

呼塚河岸で陸揚げされた荷物は、高田の水切場、野々下の水切場などを通り、流山や加村の河岸場に運ばれた。

Img_0596 呼塚河岸跡(呼塚橋から。正面は常磐線、その先は手賀沼) 《地図

江戸幕府からは公認されていない河岸だが、成田詣や銚子、佐原方面に向かう旅人達の乗船場となっていた。手賀沼、手賀川から利根川に出たのだろう。河岸にあった常夜灯(慶応元年(1865)に地元の有志が建立)は北柏橋付近に移されているそうだ。

Img_0598 根戸大坂(坂上方向)【ル-ト地図】の⑤

Img_0599 坂上近く

坂上右が北柏駅

Img_0607 庚申塔・十九夜塔・馬頭観音・出羽三山供養塔などさまざまな石造物が集められている。(東陽寺の手前右側の東陽寺墓地内)

Img_0608 東陽寺

Img_0613 妙蓮寺 《地図

手前左に清正公堂がある。

Img_0612 説明板

この先の根戸十字路(県道7号)で水戸街道の脇街道の布施街道が左に分岐する。

Img_0620 興陽寺 《地図

新四国相馬霊場の第59番

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2010年8月 8日 (日)

水戸街道(千住宿→新宿→松戸宿)

2010年8月3日

北千住駅(つくばエクスプレス)・・・日光街道千住宿・・・水戸街道分岐・・・清亮寺・・・荒川土手・・・堀切橋・・・小谷野神社・・・正覚寺・・・小菅稲荷神社・・・小菅御殿跡(東京拘置所)・・・小菅銭座跡・・・水戸橋(綾瀬川)・・・小菅神社・・・鵜の森橋・・・蓮昌寺・・・昌栄稲荷社(小菅3交差点)・・・大曲・・・善養寺・・・曳舟川親水公園・・・一里塚跡・・・(環七通り)・・・中川橋(中川)・・・新宿・宝蓮寺・西念寺・日枝神社・浄心寺・・中川大橋東交差点(国道6号・現水戸街道)・佐倉(成田)街道分岐・・・馬捨場跡・寒念仏供養塔・・・地蔵ほか石造物群・・・(貨物線路)・・・国道6号・・・(京成金町線)・・・(常磐線)・・・葛西神社・・・桜堤・・・金町関所跡・・・葛飾橋(江戸川)・・・松戸宿・・・(常磐線)・・・雷電神社・・・竹ケ花交差点・・・上本郷交差点・・・国道6号・・・首斬り地蔵・・・馬橋駅入口交差点・・・馬橋駅(常磐線)

 千住宿は『日光街道』に、松戸宿は『松戸市の坂-1』、『なま道(鮮魚街道)②』に記載。

  【ル-ト地図

 写真をクリックすると拡大します。

Img_0302 日光街道千住宿

Img_0309 日光街道との追分 【ルート地図】の①

直進が日光街道、右に曲がるのが水戸街道。右に道標が立つ。「北へ 旧日光道中」・「東へ旧水戸佐倉道」。この先が下妻街道との追分で道標が立つ。

Img_0313小菅の渡し跡から荒川土手を南に迂回して堀切橋を渡る。

堀切橋の少し先にTVの「3年B組金八先生」のロケ地だった足立区立第二中学校があった。今は東京未来大学となっている。

Img_0320 ずらっと簡易宿泊小屋が並ぶ。簡易といっても造りはしっかりし、上を首都高の屋根が架かって涼しく、風通しもよく、静かで住み心地はよさそうだ。

Img_0327小菅稲荷神社

小菅御殿や伊奈家の鎮守。右は東京拘置所(小菅御殿跡)

Img_0330石灯籠 《地図

江戸時代初期の作。

東京拘置所正門内にある。内といっても拘置所にお世話になる必要はない。

Img_0332 説明板

Img_0333 小菅御殿跡(東京拘置所) 

寛永元年(1624)に関東郡代伊奈氏の下屋敷となり、将軍の鷹狩りの際の休息所に使われ、元文元年(1736)には徳川吉宗の命により小菅御殿が造られた。明治に入り一時小菅県庁が置かれ、その後に東京拘置所となった。ここはもっと居心地がいいか。

Img_0335 小菅銭座跡(西小菅小学校) 【ルート地図】の②

ここも小菅御殿の一角だった。

Img_0336 説明板

Img_0339 水戸橋(綾瀬川)から 《地図

この橋に出る妖怪を黄門さんがこらしめ、自ら水戸橋と命名したそうだ。今、妖怪が出たら川の上を渡る幾つもの得体の知れない物体を見て、腰を抜かしすごすごと退散するだろう。

Img_0341 小菅神社

Img_0344 鵜の森橋

古隅田川の遊歩道となっている。

Img_0345 蓮昌寺

将軍家光がこの寺の蓮(ハス)を大変気に入って寺の名を変えさせたとか。

この先に立場があったそうだ。

Img_0352 旧道

大きく北へ常磐線の線路沿いまで迂回するので、「大曲」というようだ。

Img_0355 曳舟親水公園 《地図

Img_0361 亀有の一里塚跡 【ルート地図】の③

テレビの人気も下火になってきたようで不機嫌そうな顔の黄門さん一行。

Img_0363 説明板

Img_0364こちら、「こち亀」の両さんもぱっとしないようだ。

Img_0367 中川橋から中川下流方向

ここには「新宿の渡し場」があった。左に大きく蛇行している。

中川橋を渡ると街道は右折し大きくカギ形に南へ迂回する。枡形にしては一辺が長すぎる。宝蓮寺裏は湿地帯で生洲と呼ばれた大きな池があり、街道はこれを避けたのだそうだ。池でとれた鯉、フナ、どじょう、うなぎは旅籠で出されていたという。

Img_0370 新宿(にいじゅく)の町並み 《地図

宝蓮寺、問屋場、高札場、西念寺、日枝神社と続いていた。日枝神社の前には旧中島邸の長屋門があったが、保存運動もむなしく昭和57年に撤去され、旧宿場町の面影は皆無となった。

Img_0373 日枝神社

Img_0374 新宿一里塚?

亀有の一里塚からまだ3kmもないよ。看板に偽りありか。

Img_0378 中川大橋東交差点

正面を入るのが佐倉(成田)街道 《地図》 ここにあった石橋供養塔道標は葛飾郷土博物館?へ移されたようだ。「右なりた千葉寺道 左水戸街道」と刻まれているようだ。

Img_0383 馬捨場跡・寒念仏塔(左) 《地図

馬頭観音はあったっけ? 暑さでボケたか。

Img_0380 説明板

Img_0390 一本松・地蔵・八大龍神碑(左端)・帝釈道碑(右端)  《地図

八大龍神碑は大正末に埋め立てられた大池(生洲)の主の蛇の祟りを鎮めるために昭和56年?に建てられたとか。帝釈道は柴又帝釈天への道のこと。

Img_0385 説明板

Img_0396 京成金町線を越える。

ここには明治32年から大正元年まで、柴又帝釈天行きの帝釈人車鉄道が通っていた。

国道6号とも分かれ、常磐線をくぐり江戸川方向へ進む。このあたりは『岩槻慈恩寺道』で歩いている

Img_0407 葛西神社前 《地図

雑草の中にぽつんと庚申塔(文政2年(1819))が立つ。

Img_0411葛西神社

Img_0419 桜堤 

昭和22年9月のカスリーン台風で決壊し足立区、葛飾区、江戸川区に濁流の被害をもたらした。今は堤防の役目はなく、水元公園まで見事な桜並木が続いている。

Img_0417 説明板

Img_0415 決壊の様子

右→左へ濁流が押し寄せている。

Img_0418 周辺地図

Img_0422 金町関所跡碑 【ルート地図】の④

関所があったのは現在の堤防下の河川敷で、一帯は金町御番所町と呼ばれていた。

Img_0424 説明板

Img_0431葛飾橋から江戸川上流方向

右が松戸宿

Img_0435この先で堤防を降り、角町交差点を左折して松戸宿へ入った。

堤防をそのまま進むと金町関所からの下横町渡船場跡(下河岸)で、堤防下に「御料松戸宿碑」が立っている。

Dsc01289 御料松戸宿碑

2006年6月3日撮影

Dsc01288 説明板

Img_0437 松戸宿の町並み 《地図

所々に古い商家が残る。

Img_0442 ひどいね、これは

ここは松戸市民劇場前の松戸駅に向かう人通りの多い交差点。よくこんなになるまで放置しているよ。文化ホールの職員も、近くの市立図書館の職員も気がつかないのか、気がついても何とも思わないのか、見て見ぬ振りか、自分とは関係なし、どうでもいいのかも。情けないね。

松戸宿を抜け、常磐線を越え、上本郷交差点で国道6号に出る。

Img_0452 右は龍善寺の森

Dsc02810 首斬り地蔵(左) 【ルート地図】の⑤

倒幕派の密偵(佐藤久太郎)が水戸藩に捕らえられ斬首された。その場所に地蔵を立てたが首がなくなり、新しい首をつけてもすぐに無くなるという。『わがまちブック松戸1』

2006年7月2日撮影

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2010年8月 6日 (金)

筑波街道②

2010年8月2日

土浦駅(JR常磐線)バス→土浦一高前・水戸街道追分・八坂通り・・・八坂神社・・・国道125号・・・真壁跨道橋(国道6号)・・旧道・・・国道125号・・・稲荷社・・・並木橋(常磐自動車道)・・・藤沢小学校・旧道・・国道125号・・藤沢下宿・・・道標(藤沢十字路)・・・神宮寺・・・藤沢城址・・・藤原藤房卿遺跡・・・遍照寺・八坂神社・旧道・・・二十三夜塔板碑・・国道125号・・・鹿島神社・・・(県道201号)・・・(県道53号)・・・旧道・・・小田集落・解脱寺・・・庚申塔道標・・・八坂神社・・・延寿院・・・八幡橋(八幡川)・・・北条新田交差点・・・八坂神社・・・つくば道道標・・・(裏堀用水路)・・・(つくばリンリンロード)・・・国道125号・・・旧筑波庁舎バス→つくば駅(つくばエクスプレス)

 筑波山神社→筑波山→つくば道道標は『筑波山・つくば道(筑波街道①)』に、北条の町は『つくば市の坂』に記載。『宝篋山①②』にも周辺の記事がある。

  【ル-ト地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_0120 土浦一高前で旧水戸街道から左に筑波街道の八坂通りに入る。もとは分岐点に土浦最古の真壁の道標(享保17年(1732))があった。「左きよたきつくば 右 ふちう水戸」で、「きよたき」は坂東三十三観音霊場の26番の清瀧寺、「ふちう」は国府のあった石岡のこと。今は市立博物館に移されている。

土浦一高のゴシック様式の旧本館校舎は国の重要文化財。

Img_1363 真壁の道標

2010年8月18日撮影(水戸市立博物館)

Img_1362 説明板

Img_0121 八坂通り

Img_0127 八坂神社

ムクの木、けやきなどの大木が参道に並ぶ。

Img_0130 稲荷社

常名清水バス停そば。

Img_0135 武者塚古墳

この暑さの中、往復3kmは遠慮した。後で調べると墳丘は残っていない。行かなくて正解だった。

Img_0138 旧道(右)

Img_0142 藤沢下宿へ入ると立派な家並みが続く。 《地図

Img_0146 旧家

この先が藤沢十字路

Img_0147_2道標(藤沢十字路)

「都和村 並木 真鍋 小田 北条」などの地名が見える。都和村(つわむら)はなくなったが、都和という地名は残っている。

Img_0167 神宮寺

Img_0153 藤沢城址へ(右)

直進する県道は藤沢城址の間を切り通して造られたようだ。

Img_0157藤沢城址 【ル-ト地図】の①

ここは私有地なのだろう。案内板、説明板などはない。ちょうど車で農作業に来たおじさんに確認し、ここで間違いなし。周辺の昔の様子などを聞く。むし暑いことこの上なく、お互いの顔から汗が流れ落ちていた。

南北朝時代から戦国時代の末期まで、この先の小田氏の小田城の支城だった。豊臣秀吉によって攻められて小田城は落ち、藤沢城も廃城となった。

Img_0162 土塁跡だろう

民家の敷地内

Img_0165 藤原藤房卿遺跡 【ル-ト地図】の②

Img_0164 説明板

小田治久は北畠親房を小田城に迎えた、藤原氏の家系の宇都宮氏の支流の小田家の8代当主。小田治久が南朝方となったのは藤原藤房の影響からか。
東海道の石部宿手前の三雲駅前には「微妙大師万里小路藤原藤房卿墓所」への道標石柱が立つ。『東海道(水口宿→石部宿)』に記載。日光西街道(壬生通)にも藤房ゆかりの「公家塚」があるそうで、藤房が諸国を遍歴したことは事実のようだ。

Img_0175 遍照寺

Img_0177 八坂神社

Img_0179 遍照寺の先で右に旧道に入る。

Img_0180 二十三夜塔(板碑)堂 《地図

Img_0182 板碑

前が慶長12年(1607)の二十三夜板碑だそうだが、扉の上から撮ったので、彫られている字はよく見えない。

Img_0183枡形の名残りのような旧道を行くと国道125号に合流する。

Img_0187 広い国道125号を下る。

Img_0195 鹿島神社

後ろの国道沿いには地蔵などの石仏、境内左には享和4年(1804・文化元年)の二十三夜塔などがある。

Img_0203 馬頭観音から宝篋山(461m)

Img_0204 大形集落へ右に入る。

Img_0205大小二棟の長屋門が並ぶ。

西大形バス停先で右へ旧道

Img_0215 馬頭観音

倒れたままのは何とかならないものか。

Img_0217 小田集落へ直進する。《地図

Img_0219 庚申塔(左)と名号塔道標(右)

道標の文字は磨り減っていて読めず。

Img_0223 解脱寺

正面は二十三夜堂

Img_0226 旧家の先の十字路左に庚申塔道標が立つ。 【ル-ト地図】の③

Img_0234 庚申塔道標から宝篋山

庚申塔は、正面の「庚申」だけ読める。裏は「土う羅道」(土浦)で、側面に「徒久者道」(筑波)と刻まれているそうだ。

Img_0239 周辺図

Img_6713 小田城址

12世紀末に八田知家が築いた平城。南北朝時代に北畠親房がここで「神皇正統記」を書いたそうだ。

2008年4月28日撮影

Img_6715 城址碑

Img_6721 説明板

Img_0243 旧家

門前の2人は?

Img_0244 静かで、立派な構えの家並が続く。

Img_0180 五輪塔(延寿院裏)

天文7年(1538)の建立。在銘五輪塔の中で県内で3番目に古いもの。

Img_0179 説明板

Img_0259 後生車(右端)

中央に車がついていて、今でも回る。明治33年の建立の五輪塔。

ここの手前の右側に「だんご石」あるはずだが見つからず。

Img_0261これは何?

日天と月天か、違うだろうな。

Img_0269筑波山の女体山がうっすらと見えるか。

Img_0277 両側に旧家が続く道を行く。

Img_0283 北条新田交差点を突っ切る。

Img_0284 右に行けば北条大池、平沢官衙跡

Img_0460 北条大池から筑波山、平沢官衙跡の復元(右手前)

2007年12月14日撮影

Img_0465 説明板

Img_0287 北条の町に入ると枡形跡が残っている。

Img_0291 五輪塔(八坂神社) 【ル-ト地図】の④

高さ201cm、花崗岩。天文6年(1537)造立で県内で2番目に古いもの。もとは別当寺の吉祥院にあったが、明治の廃仏毀釈の際に移されたという。

Img_0290 説明板

Img_0294 つくば道道標 【ル-ト地図】の⑤

ここを右に曲がれば筑波山神社から筑波山だ。

Img_0296 説明板

Img_0295 つくば道道標

正徳5年(1715年・7代将軍家綱)に建立され、寛政10年(1798年・11代将軍家斉)に再建された筑波山参詣道の花崗岩製の道標。高さ306cm、

ここから正面に筑波山が見えるのだが、今日はうす曇りでだめ。

Img_0297 花屋

この先で左に曲がり、裏堀用水、つくばリンリンロードを越えで旧筑波庁舎バス停に向かった。

Img_6826裏堀用水

多気城の外堀だったという。

Img_0298つくばりんりんロード 《地図

1987年に廃線になった筑波鉄道の線路跡につくられたJR土浦駅(常磐線)からJR岩瀬駅(水戸線)の間の約40kmのサイクリングロード。

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2010年8月 5日 (木)

なま道(鮮魚街道)②

2010年7月29日

六実(むつみ)駅(東武野田線)・・・県道281号・・・六実の火の見やぐら・・・高龗神社・・・五香稲荷神社・・・(新京成電鉄)・・・金比羅神社・・・子和清水・・・門前公園・金ケ作陣屋跡・・さくら通り・・・(新京成電鉄・JR武蔵野線)・・・かっぱ横丁・・・(新京成電鉄)・・・庚申塔・・・国道464号・・・(国道6号)・・・(千葉大園芸学部)・・・跨線橋(JR常磐線)・・・県道5号・・・坂川・・・角町交差点・水戸街道松戸宿・本陣跡・春雨橋(坂川)・千葉周作修行の地・納屋河岸跡・・・JR松戸駅

 雨と強風の中、松戸宿の納屋河岸を目指す。見所は少ないが気温が低めなのがせめてもの救いだ。

  松戸宿周辺は『松戸市の坂』に記載。

  【ル-ト地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_0063 高龗(たかお)神社 【ル-ト地図】の①

雨水を司る龍神を祀る。江戸時代の馬牧を開墾した「開墾記念碑」、「史跡香実会所跡碑」などが建つ。開墾した順に五香、六実などの地名がつけられた。

Img_0067 五香稲荷神社 《地図

この先で五香十字路を直進するのが旧道のようだが、新京成の線路に阻まれる。線路を越えると金比羅神社の北側から常盤平中学校の南側を通り子和清水と旧道は残っている。(下の生街道の標柱に記載あり)《地図》 そうとは知らず、新京成をくぐってそのまま県道を進んだ。

Img_0069 金比羅神社 【ル-ト地図】の②

Img_0076 生街道(鮮魚街道)標柱(子和清水交差点手前)

「江戸時代銚子にあがった魚は利根川をのぼり、その後、陸路を布佐(我孫子)~金ケ作~日暮~松戸新田~陣ケ前~納屋川岸と運ばれました。この道筋を生街道といいます。当時の街道は現在地より北へ約50mの常盤平中学校に沿った道でした」

Img_0080こっちが旧道のようだ。左は常盤平中学校。

Img_0084 子和清水【ル-ト地図】の③

「親には酒で、子にはただの水」だったという他愛もない話だが、なま道を運んできた魚にここの水をかけ、鮮度を保ったというから大事な清水だったのだろう。以前は池になっていたようだが涸れてしまったのか。

Img_0083 説明板

この先の常盤平柳町交差点で右に進む。

Img_6311金ヶ作陣屋跡(門前公園) 《地図

(2017年2月25日撮影)

このあたりの住民は陣屋の権威をちらつかせ、魚を運ぶ人夫から魚をせしめたとか。「虎の威を借る狐」だ。

Img_6312説明板

Img_6304さくら通りを少し進む。

(2017年2月25日撮影)

Img_6306金ヶ作陣屋跡の表柱 《地図

新京成線、武蔵野線を越えて行く。かっぱ横丁に入り、みのり台駅手前で再び新京成を渡る。

Img_0094 庚申塔(文化11年(1814)) 《地図

国道464号の分実(わかざね)交差点、美野里橋、松戸隧道口から国道6号を渡り千葉大園芸学部に沿って進み常磐線を跨線橋で越え、坂川を渡り角町交差点から水戸街道松戸宿へ入る。

Img_0105松戸宿本陣跡(左) 【ル-ト地図】の④

2004年の夏までここに本陣の建物があった。

Img_0103 今は「本陣跡地碑」のみ

Img_0104 説明板

Img_0106 松戸宿の家並み

Img_0107 岡松菓子店

Img_0108 旧家

商家なのか? 昔風情、情緒のある家だが何の表示もない。

Img_0110 フクヲカ種苗店?

まだ営業しているのだろうか。

Img_0112 千葉周作修行の地

浅利道場が宝光院(正面)と善照寺の間にあった。千葉周作は少年時代を、奥州街道の栗原郡荒谷村(現大崎市古川)の斗瑩稲荷神社下の屋敷で過ごした。

Img_0111 説明板

Img_0113 原田米店

元文2年(1737)創業という。今は営業していないようだ。

Dsc01283納屋河岸の旧船問屋の青木源内家の復元された塀

ここは魚、野菜など物資を扱う河岸で、旅客は少し下流の下横町渡船場(下河岸)から松戸宿へ入った。(2006年6月3日撮影

Dsc01285 江戸川土手から 【ル-ト地図】の⑤

銚子沖で獲れた魚は前日の夕刻、銚子を発って利根川をさか上り、布佐に翌日未明に着き、なま道で駄送され昼までにここに着いた。江戸川を下り夕方から夜に日本橋に着き、翌朝のせりに掛けられた。

ここは往時は蔵や納屋が立ち並んでいたそうだ。

Img_0115 江戸川

ここから下って旧江戸川へ入り、日本橋小網町までの水路は行徳みち(木下街道)と同じ。旧江戸川を下り→右に細い新川に入り→中川に出る。ここに船改めの番所があった→小名木川に入り→隅田川に出る→細い水路を入ると日本橋小網町→日本橋魚市場という水路。

Img_0116 新しい常夜灯も建っている。

強風で傘も壊れ、歩きも雑になった半日だった。

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2010年8月 4日 (水)

なま道(鮮魚街道)①

2010年7月28日

布佐駅(JR成田線)・・・観音堂・・布佐河岸跡(利根川)・・・(JR成田線)・・・(国道356号)・・・関枠橋(手賀川)・・若山牧水歌碑・・・・旧道・・・大杉神社・最勝院・・・長屋門・・・下前川橋(亀成川)・・・県道59号・浦部の坂・・・永治郵便局・旧道・・・大六天神社・・・月影の井戸・・・県道59号・・・浦部の百庚申・出羽三山碑・・・馬頭観音・・・阿夫利神社鳥居・旧道・・・阿夫利神社・・・道標・馬頭観音・・・出羽三山碑・庚申塔群・・・白井第二工業団地・・・河原子台交差点・・・大師堂・・・(国道16号)・・・金比羅社・・・富塚鳥見神社・・・(矢ノ橋)・・・成田道道標・・・金比羅宮・大沼枕山撰碑・・・台町の坂・鮮魚街道常夜灯・相馬商店・・・海上自衛隊下総航空基地を迂回・・・給水場・・・報恩寺・・・動物愛護センター・・・旧道へ復帰・・・山王橋・・・佐津間城跡・・・(県道8号)・・・(東武野田線)・・・六実駅(東武野田線)

 鮮魚街道の主流ルートだった「なま道(松戸みち)」を2回で歩く。ただし、この時期は鮮魚は関宿回りの全部水路の船による運送だったが。
 今日も鮮魚なら1時間も経たないうちに腐ってしまうような暑さだ。自販機で買った冷たいお茶も、すぐにホットティーに変わってしまった。暑さに加え、街道は自衛隊基地に分断され大きく迂回せねばならず、気分的な疲れが倍増した。今日は五香駅(新京成電鉄)までの予定でいたが、手前の六実駅までで切り上げた。 

  【ル-ト地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_9876 なま道の説明板(観音堂の裏)

分かりやすく書かれている。

Img_9880 観音堂 《地図

新四国相馬霊場の58番

Img_9886 布佐河岸跡(下流方向) 【ル-ト地図】の①

左にカーブした先に木下(きおろし)河岸がある。

Img_0031 なま道(松戸道・鮮魚街道)のルート

南側の点線(木下河岸→白井→鎌ヶ谷→八幡→行徳)が前回歩いた行徳道(木下街道・鮮魚街道)で鮮魚街道としては本街道だが、陸路が短く、通し馬で運べたこちらの松戸道の方が常に優位に立っていた。

観音堂裏手に戻り南に進み、成田線、手賀川を渡る。

Img_9895 若山牧水歌碑 【ル-ト地図】の②

大正14年に手賀沼で舟遊びをした時の歌。「はるけくて・・・・」?

Img_9906 旧道に入るとほっとする風景が広がる。

Img_9909 旧家

Img_9911 大杉神社(右)・最勝院(左) 《地図

Img_9918 長屋門

中の母屋も立派だ。

Img_9926 下前川橋(亀成川)

昨日までは工事中で迂回しなければならなかった。ついてる。

Img_9930 浦部の坂を上る。《地図

永治郵便局の手前の旧道に入る。

Img_9936 大六天神社 《地図

前方後円墳の上に小祠、印西八景「大六天の手賀沼」の標柱、手賀沼干拓発祥の地の碑がある。水田の彼方に手賀沼が見えるというのだが、全然気がつかなかった。たしかに手賀沼までは直線で1kmくらいか。

Img_9939 月影の井 【ル-ト地図】の③

「日本三井」の一つという。底に水が少し溜まっているように見える。右の井戸はもう使えないのだろう。

鎌倉の「星の井」は『鎌倉市の坂-4』に、「日影の井」は奥州街道二本松の霞ケ城内にある。「星の井」は鎌倉十井の一つだが、日本三井との記述は見当たらなかったが。

西方200mが千葉氏の一族の大菅氏の龍崖城址

Img_9940 説明板

Img_9943 竹林のうす暗い道を上り県道59号に出る。

Img_9950 浦部の百庚申・出羽三山碑

天保10年(1839)の文字庚申塔がほとんど。青面金剛像のもある。ここのも赤く塗られているのは何故か?

Img_9959 蛙好きの農家?

Img_9963 阿夫利神社鳥居

昔は、旧道を跨いで建っていたそうだ。ここを右に曲がる。直進すればすぐに清戸道バス停交差点で、木下街道に出る。

Img_9967途中で右に入る。

Img_9971阿夫利神社 《地図

拝殿だろう。さらに左の石段を上る。

Img_9973「石尊さま」と呼ばれている、由来となった2つの石を祀ってあるのだろう。

Img_9972由来

「石尊さま」にもいろいろあったのだ。

Img_9980 成田山道標・馬頭観音など

道標には、「亀成 一里 木下 二里 成田 七里」、「十余一 舩穂 佐倉 千葉」、「中村 松戸 東京」などとある。

Img_9989白井工業団地を抜ける。味気ない通りで余計に暑さが増す。

Img_9992 大師堂

この先で国道16号を渡る。

Img_9999 金比羅社のようだ。

なま道からはずれ、富塚鳥見神社へ寄り道する。

Img_0001 旧家

Img_0009 富塚鳥見神社 《地図

本殿はそれほどでもないが、歓喜天像は面白い。

Img_0008 説明板

Img_0015 歓喜天像

男女和合、縁結び、子恵みの神という名に恥じず、堂々と抱き合い口先を絡めている。見ているだけで暑さが増すか?

Img_0010 説明板

Img_0018 参道に並ぶ庚申塔の中に「切られ庚申」があるというがどれか分からず。

ある晩、鮮魚師が銚子から魚を輸送中に火の玉に襲われ刀を振り降ろしたところ、庚申塔に切りつけてしまったという。その刃跡が残っているというが。

Img_0005 道標

鎌ヶ谷、藤ケ谷、六実駅などの文字が見える。

Img_0023 矢ノ橋近くの池

「金山落し」という手賀沼へ注ぐ小川(今は暗渠)で《地図》、戦国時代に川を挟んだ激戦があり、両軍の矢が橋のように重なり合ったという。また『村雨丸伝説』もある。村雨公園もあるようだが、どこか分からず。

Img_0027 成田山道標(道路を挟んで右はセブンイレブン)

ここからはなま道だ。

Img_0033 金比羅宮 《地図

なま道で鮮魚を運ぶ人、道沿いに暮らす人に信仰されてきた水運の神も、今は店じまいかこんな状態。致し方なしか。右に大沼枕山(ちんざん)撰碑が立つ。

Img_0029 説明板

Img_0034_2大沼枕山撰碑

五日市街道の石浜古戦場跡にも、枕山の詩碑がある。

Img_0036 台町の坂を上る。《地図

坂の途中、左に常夜灯、相馬屋商店。

Img_0037 常夜灯 【ル-ト地図】の④

明治になって建てられたもの。このあたりは鮮魚街道の中継地として賑わい、輸送人夫たちの食事、休憩、宿泊所や「酒、賭博、女」の遊興の場所もあった。向こうは相馬商店で、かつて人夫たちはここの井戸水を魚にかけ、一休みしたという。

Img_0038 説明板

Img_0046 広大な自衛隊航空基地にぶち当たり街道は途切れ大きく北に迂回する。

Img_0048 迂回し南に進む。左は自衛隊基地 《地図

昔は一面の茅(かや)の原と鬱蒼とした山林で、街道の傍らに芽を刈って積んで置くと、魚を運ぶ人夫たちがそこに魚を隠し(後で猫糞(ねこばば)するため)、それを村人が横取り、失敬したという話や、「狐の嫁入り」の話、狼が棲んでいたなど、時々聞こえる無機質な航空機?の音からは想像できない世界が広がっていたのだ。

Img_0049 佐津間城址 【ル-ト地図】の⑤

正面のこんもりした所。

Img_0050 旧道はここへ通じていた。正面奥は自衛隊基地。《地図

Img_0057 佐津間城跡

住宅地をウロウロしたが入口が分からず、あきらめかけ六実駅に向かいかけてやっと見つけた。

Img_0059 佐津間村は戦国時代後半には小金大谷口城(松戸市小金)の高城氏の支配下にあったと考えられ、その配下の豪族の砦として利用されたらしい。土塁跡?を分断し階段がつけられ、上は住宅地で遺構は残らず。

Img_0058 説明板

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2010年8月 2日 (月)

木下街道②

2010年7月26日

白井駅(北総鉄道)・・・県道59号・・・(県道189号)・・・徳本念仏塔など・・・天満宮・(国道16号)・・・(県道280号)・・・秋本寺・・・金比羅社・・・白井宿・・鳥見神社・・伊勢宇橋碑(白井橋(神埼川))・・・神々廻木戸バス停・・・馬頭観音道標・・・香取神社・・・清戸道バス停交差点・念仏塔道標・・・千葉ニュータウン・県道189号・・・(県道61号)・・・泉新田大木戸野馬堀遺跡・・・新泉寺跡・・・八幡神社・・・泉王寺・・・県道4号・・・旧道・・・道標(鹿黒集会所)・・・県道4号・・・鹿黒橋(亀成川)・・大森宿・・大森陣屋跡(大森坂上)・馬坂・・大森交差点(国道356号)・・・印西署入口交差点・・・上町観音堂・いんざい七福神・・・(JR成田線)・・木下宿・・木下河岸跡(利根川)・・吉岡邸(まちかど博物館)・・柏屋・・・木下駅(JR成田線)

  【ル-ト地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_9690 徳本念仏塔(文化12年(1815)建立・白井第一小学校前) 【ル-ト地図】の①

馬頭観音などの石造物もある。

Img_9699 秋本寺

しろい七福神」の毘沙門天

Img_9703 金比羅社

小堂の中はあまり手入れされていないようだ。

Img_9707 鳥見神社 【ル-ト地図】の②

正徳3年(1713)建立の市内最古の石造の明神鳥居。

Img_9708 説明板

Img_9712 白井宿の町並み(本白井郵便局前)

枡形の名残りか

Img_9714 旧家の前を下って白井橋へ。

Img_9718 白井橋脇の「伊勢宇橋碑」 《地図

江戸浅草花川戸の醤油屋、伊勢屋宇兵衛が、亡き父の供養を兼ねて故郷の常陸国江戸崎から江戸日本橋に通じる道筋に百の石橋を架けた。この白井橋の元々は86番目にあたる橋だった。

Img_9728 門だけが残っている。

Img_9735 昭和から江戸時代までの庚申塔が集められているが、赤く塗られているのは何故か?

Img_9739 街道風情が少し残る所もある。

Img_9743 馬頭観音(神廻々(ししば)木戸バス停の少し先)

右端は道標を兼ねていて、「左 ひらつかみち」、「右 うらべみち」とあるそうだ。平塚も浦部も次回歩く、布佐河岸から松戸の納屋河岸までの「なま道(鮮魚街道)」(松戸みち)沿いにある。

Img_9746 香取神社

Img_9750 清戸道バス停交差点

木下街道は右へ、左へ曲がるとすぐに「なま道」(鮮魚街道・松戸みち)に出る。木下街道も木下河岸から行徳新河岸までの鮮魚街道(行徳みち)だが、鮮魚運送の主流は松戸みちだった。

芭蕉は『鹿島紀行』で、このあたりから「なま道」に入り、布佐から船で利根川を下ったのだろうか。昨日から付き合ってきた県道59号ともここでお別れとなり、千葉ニュータウンを突っ切って行く。

Img_9753 念仏塔道標(これも徳本念仏塔か) 《地図

右側面に「大も里むらみち」、左側面に「ふさむらみち」

大森村(木下街道)と布佐村(なま道)で、逆方向だから、ここへ移されたものだろう。

Img_9758 千葉ニュータウンの長い単調な道を進む。暑さが増す感じだ。

Img_9762 行き止まりだが、もちろんお構いなく直進して県道61号を渡り、造成中の区画を突っ切る。県道61号を左に行って大きく迂回できるが、そんな悠長な人は尊敬に値するか。《地図

Img_9764 ここを突っ切り、正面の柵を乗り越える。下の土はひび割れていた。雨や雨上がりの時などは、歩くと靴と足が泥の中に沈んで抜けなくなるかも。そうなるとみっともない状態になる。「経験者は語る」のだ。

Img_9765 振り返るとこんな感じ。

この間の一部始終を鈴木梨園の売店のおばさんに見られていた。同じことをする人を見かけるそうだ。しばし、このあたりの変わり様などについて聞きながら小休止とする。

Img_9766泉新田大木戸野馬堀遺跡 【ル-ト地図】の③

印西牧の中を東西に貫いていた木下街道と牧が接する所に設置された木戸、野馬除けの土手と堀跡。

Img_9767説明板

このあたりは土埃が多く、まだ設置してから5年も経っていないのにこんな状態。たまには拭き掃除くらいしろよ。

Img_9769 造成で野間堀の土手が削られているのか?

Img_9771 新泉寺跡(左)

やっと庚申塔など並び旧道らしくなったが、この先は再び味気ない道となる。

Img_9779 泉王寺?

「愛宕山紀念」の門柱が建っていたが。

この先で左に曲がり県道4号に出て北上する。曲がり角に小さな道標があるそうだが見落とした。

Img_9782 野馬の姿を彷彿とさせる原野が広がっているが、ここもすべて住宅で埋め尽くされてしまうのか。

Img_9784 左に旧道があるのだが、造成工事中のフェンスで遮断され入れない。

Img_9797 フェンスが途切れやっと左に入れた。直進し突き当たりを左折するとここ(鹿黒集会所)に出る。旧道は写真の正面方向からここに通じている。8月20日からは通行可能となる。集会所の敷地内には馬頭観音などが集められ、カーブミラーの下に道標が立つ。 《地図

Img_9796 道標には、「東 大もり 木下道」・「南 泉新田道」・「西 和泉 小倉道」・「北 かめなり ほつさく道」

Img_9803 鹿黒橋(亀成川)へ下る。

Img_9805 鹿黒橋から上りとなって馬坂の坂上に出る。この坂も馬坂と呼んでいたかも。

Img_9811 馬坂を下る。【ル-ト地図】の④

大森坂上バス停あたりに大森陣屋があった。享保8年(1723)に山城の淀へ移封された佐倉藩主稲葉家の印旛郡に残った飛地支配のための代官所だった。

Img_9814 坂下は国道356号

右は馬頭観音

国道356号を渡り、印西警察署入口交差点を右折して上町観音堂から木下河岸跡へ向かう。

Img_9833 上町観音堂 《地図

手前の笠付き庚申塔と、その右の十九夜塔(天明2年(1782))は道標を兼ねている。

庚申塔の右側面は「従是左さくらみち 従是東鹿島みち 従是右江戸みち」で、十九夜塔は「右えどみち」、「左さくらみち」か。右に「いんざい七福神」の寿老人の小祠がある。

Img_9830 説明板

Img_9846 木下河岸跡(利根川下流方向) 【ル-ト地図】の⑤

ここまで利根川を上って船で運ばれた魚は、行徳河岸まで駄送(馬による陸上運送)された。木下街道は「鮮魚街道」、「行徳みち」とも呼ばれた所以だ。行徳河岸からは水路(「木下街道①」に記載)で日本橋まで運ばれた。

鮮魚の輸送路としては、少し上流の布佐から松戸に至る「なま道」、「松戸道」の方が常に優位を保っていた。駄送の距離が短いのと、宿の継ぎ立てがなく、通し馬で運べたことによる。「なま道」は次回歩く。

Img_9837 説明板

Img_9848 上流の布佐方向

布佐河岸から松戸の納屋河岸までの鮮魚街道「なま道」(松戸みち)は次回歩く。

Img_9850 木下河岸風景

江戸から明治時代かけ利根川の舟運で栄え、文化、文政期には利根川を下り、香取神宮、鹿島神宮、息栖(いきす)神社の三社参りや銚子の磯を楽しむ木下茶船の旅が流行し、最盛期には50軒余りの旅籠や飲食店が軒を連ねていた。その後の成田鉄道の開通、木下駅の開業、利根川堤防の河川改修などにより、河岸周辺の家々は移転し河岸は衰退していった。

Img_9853 吉岡家

右の蔵は「まちかど博物館」になっている。毎月第一土曜だけ開館。

Img_9860 柏屋そば店

どっしり落ち着いた古い造りの店で入ってみたかったが、ちょっと前に大森交差点の中華屋でボリュームのある昼飯を済ませたばかりで、残念ながら外から眺めるだけ。

Img_9863 近江屋酒店

今は営業していないようだ。

Img_9818 近江屋酒店(印西警察署入口交差点の先)

ここは営業中だ。

Img_9865 木下駅(JR成田線)

Img_9873

説明板

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