成田街道②
2010年8月25日
本八幡駅(JR総武線)・・・国道14号・八幡宿・・・木下街道分岐(鬼越2丁目交差点)・・・(京成中山駅)・・・法華経寺・・・妙円寺・・・吉澤野球博物館・・・子之神社・妙見八幡社・・・小栗原稲荷神社・・・多聞寺・二子藤の池・二子浦の池・・・東明寺・・・中山競馬場入口交差点・県道180号・・薬師如来庚申塔・・・国道14号・道祖神・・・葛飾神社・・・春日神社・・・(JR武蔵野線)・・・庚申塔道標・・・山野浅間神社・・・龍神社・・・大覚院・・・入日神社・・・(JR総武線)・・・海神念仏堂・観音堂・・・地蔵院・・・日枝神社・・・西向地蔵堂・刑場跡・・船橋宿・稲荷神社・浄勝寺・専修院・行法寺・不動院・最勝寺・覚王寺・円蔵院・・・船橋橋(海老川)・・・(大神宮下駅)・・・中野木交差点・国道296号・・・成田街道入口交差点(東金御成街道追分)・・・札場の庚申・・・(JR総武線)・・・(新京成電鉄)・・・前原駅(新京成電鉄)
『成田街道③』へ続く
*八幡宿から木下(きおろし)街道追分までは『木下街道①』に記載。船橋宿から東金御成街道追分までは『東金御成街道①』にも記載。
【ル-ト地図】
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法華経寺仁王門(赤門)
手前の黒門は修理中
2014年3月末で休館となった。
子之神社はもとは妙円寺に、妙見八幡社は屋敷神だったそうだ。
このあたり一帯は小栗原城址で、神社の高台はその名残りの一部。
日蓮の高弟の日伝の開創といい、日蓮作と伝える毘沙門天を安置。寺の前が二子藤の池。
藤の古木に由来する「葛飾湧水群」の溜(池)の一つで、街道を往来する人に親しまれていた。昭和20年代後半までは水田へのひき水や、水稲の種籾を浸けて発芽を促すタナヤ(種井)として利用され、「タナヤの池」とも呼ばれていた。
日蓮が鎌倉へ旅立ったという、ここが二子浦の「降り津」か。
手前が青面金剛庚申塔(享保20年?)で、後ろが薬師如来庚申塔 《地図》
薬師如来の庚申塔(寛文10年(1670))は千葉県内唯一という。
台座に「薬師如来」とある。
街道から左に入った所。
もとは熊野神社
春日神社 《地図》
すぐ先で武蔵野線のガードをくぐる。
「左り いち川道」、もとは街道沿いにあったのだろう。
昭和30年代までは海上遥かに富士山を眺望できたという。
弘法大師にまつわる『石芋伝説』がある。四国札所の「喰わず芋」と同じ話だ。
日本武尊が東征の折、この地を通ると海上に光り輝く船の柱に神鏡が掛っていた。それを浜に持ち帰り祀った場所(入日神社ともいう)という由来伝説がある。昔は当社と入日神社の参道は海岸から続いていて、海から来た漂着神だろう。
大覚院赤門 《地図》
「あかもん寺」と呼ばれている。
祭神は天照大神と日本武尊で、船橋大神宮の前身の意富比神社の元宮と伝えられている。
この先の地下歩道で総武線をくぐる。
手前左に船橋市内最古の道標(元禄7年(1694))が立つ。もとは陸橋下の三叉路の行徳道との分岐にあったもの。堂を寄進建立した江戸神田の高麗屋は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に半島から連行されてきた者の子孫だとか。
船橋市最古の道標で、正面に「右 いち川みち 左 行とくみち」
8月10日が開帳日だった。
ここは処刑場(仕置場)跡という伝承がある。
昔の住職が下の病いに苦しむ船橋宿の女郎たちのために建てたとも、常陸国から来た高貴な女性(御上臈)の墓で、やはり下の病に効くとして遊女たちの信仰を集めたとも。中山道の大宮宿の手前にも「お女郎地蔵」、桶川宿の大雲寺には「女郎買い地蔵」がある。
延享3年(1746)の津波の溺死者の供養のために建立。毎年、津波の溺死者と漁場を守り牢死した者たちの供養のための大仏追善供養が行われる。牢内で飯もろくに食えなかっただろうと、白米の飯を大仏の前に供えることから、飯盛地蔵とも呼ばれている。てっきり船橋宿の「飯盛女」を供養する地蔵と思っていた。
万願成就の地蔵で、とくに盗難にあったらこの地蔵を左結いの繩で縛ると、盗人の体に痛みが起こり、盗品が返るといい伝えられているそうだ。永禄元年(1558)に造立とも、海から上がったものともいう。「因果」とはそれだけの意味なのか?
「船橋」でいいと思うが。
交差点の向こう正面に成田山の道標が立つ。
右端の不動明王道標(安永6年(1777))で、正面に「右 なり田道」
ここに高札場があったのだろう。
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