成田街道①
2010年8月24日
亀有駅(JR常磐線)・・・水戸街道・・・中川橋・・・新宿・・・国道6号・水戸街道追分・・・三猿浮彫道標・北向地蔵・・・(貨物線路)・・・大秀寺・・崇福寺・・・(京成金町線)・・・さくら道・・・(北総鉄道)・・・親水さくらかいどう・・・岩槻慈恩寺道地蔵道標・・・江戸川不動尊(唐泉寺)・・・正真寺・・・天祖神社・・・真光院・・・光ケ嶽観音堂・・・(江戸川駅・京成本線)・・・北野神社・・・岩槻慈恩寺道道標・元佐倉道合流地点・・・宝林寺・・・本蔵寺・・・市川橋(江戸川)・・・市川関所跡・・・市川広小路・観音寺・庚申塔道標・・・胡録神社・・・庚申塔道標・・・春日神社・・・新田胡録神社・・・弘法大師道標・・・諏訪神社・・・本八幡交差点(行徳街道(木下街道)合流地点)・・・本八幡駅(JR総武線)
佐倉藩をはじめ房総方面の諸大名の参勤交代の佐倉街道で、江戸時代中期以降は成田山参詣の道として賑わった成田街道を、水戸街道の新宿(にいじゅく)の追分から歩く。
【ル-ト地図】
写真をクリックすると拡大します。
水戸街道追分 【ル-ト地図】の①
正面の車の止まっている細い道が成田街道。
元禄6年(1693)造立の葛飾区内最古の道標。上部は三猿のようにも仏(弘法大師)の坐像のようにも見える。左から3番目が下河原北向地蔵、その右が庚申供養地蔵(正徳?年)か。
「さくら海道」は佐倉街道で、後の成田街道のこと。
向こうは江戸川の土手
正徳3年(1713)の造立の坂東三十三観音の第12番札所の岩槻慈恩寺への道標で、江戸川区最古の道標。前記の葛飾区の道標の方が20年古かったか。まあ現存、発見されているものの比較だから。ここから北に『岩槻慈恩寺道』で歩いている。
「ボケ封じ」にご利益があるそうだ。護摩を炊いて封じてもらおうか。まあそれもすぐに忘れてしまうだろう。もうボケているから。
享保8年(1723)の造立で、「これより左ばんどうみち」
どらえもん?の後ろは何の像か?
光ケ嶽(てるがたけ)観音堂 《地図》
地蔵の後ろの堂
里見義豊、義俊の守り本尊だったという。義豊は戦国時代、義俊は平安時代末期の武将で随分と時代に隔たりがあるが、まあ伝承だから。
伊予田の観世音道道標 (若竹寿司店の前)《地図》
慈恩寺への道標か?
一里塚はJR総武線のガードの南側あたりの元佐倉道(千葉街道)沿いにあった。一里塚バス停、一里塚交差点にその名が残る。
慈恩寺道標(安永4年(1775)) 《地図》
ここは元佐倉道との合流地点で、このあたりは小岩市川関所があり御番所町と呼ばれていた。ここから土手に向かえば関所があり、小岩市川の渡し場だった。『元佐倉道』に記載。
もとは小岩市川の渡し場に天保10年(1839)に建てられたもの。
小岩市川関所の役人を代々務めた中根氏の館跡といわれ、菩提寺と伝える。
役人が旅人を取調べた番所は小岩側にあった。
行徳道分岐(観音寺の前) 《地図》
庚申塔道標の小堂がある。
左側面に「これより行とくみち」
庚申塔道標 《地図》
『歴史の道調査報告書』によれば、右側面に「東八わ■十六丁 中山■丁 市川新田」、左側面に「西 市川八丁 江戸両こく三り十丁 北 ■劇七丁 国分寺十二丁」だが、国分寺の手前に劇という字がつく地名などあるの(あった)だろうか?
弘法大師道標(寛政11年(1799)) 《地図》
右側面に「右やわた道」、左側面に「左 すがの道」
後ろも道標で「左 宮久保山道」と読める。
行徳街道(木下街道)合流地点(本八幡交差点) 【ル-ト地図】の⑤
ここにあった大きな地蔵道標は稲荷木の一本松跡に移されている。
| 固定リンク
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 坂道散歩(2023年11月~)追加分(2023.12.14)
- 「歩いた坂」追加分(2023.12.10)
- JR京浜東北線を歩く①(2022.10.22)
- 大落古利根川・中川を歩く(2023.11.22)
- 柴又街道②(2023.11.21)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント