木下街道②
2010年7月26日
白井駅(北総鉄道)・・・県道59号・・・(県道189号)・・・徳本念仏塔など・・・天満宮・(国道16号)・・・(県道280号)・・・秋本寺・・・金比羅社・・・白井宿・・鳥見神社・・伊勢宇橋碑(白井橋(神埼川))・・・神々廻木戸バス停・・・馬頭観音道標・・・香取神社・・・清戸道バス停交差点・念仏塔道標・・・千葉ニュータウン・県道189号・・・(県道61号)・・・泉新田大木戸野馬堀遺跡・・・新泉寺跡・・・八幡神社・・・泉王寺・・・県道4号・・・旧道・・・道標(鹿黒集会所)・・・県道4号・・・鹿黒橋(亀成川)・・大森宿・・大森陣屋跡(大森坂上)・馬坂・・大森交差点(国道356号)・・・印西署入口交差点・・・上町観音堂・いんざい七福神・・・(JR成田線)・・木下宿・・木下河岸跡(利根川)・・吉岡邸(まちかど博物館)・・柏屋・・・木下駅(JR成田線)
【ル-ト地図】
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徳本念仏塔(文化12年(1815)建立・白井第一小学校前)
馬頭観音などの石造物もある。
「しろい七福神」の毘沙門天
小堂の中はあまり手入れされていないようだ。
正徳3年(1713)建立の市内最古の石造の明神鳥居。
枡形の名残りか
白井橋脇の「伊勢宇橋碑」 《地図》
江戸浅草花川戸の醤油屋、伊勢屋宇兵衛が、亡き父の供養を兼ねて故郷の常陸国江戸崎から江戸日本橋に通じる道筋に百の石橋を架けた。この白井橋の元々は86番目にあたる橋だった。
昭和から江戸時代までの庚申塔が集められているが、赤く塗られているのは何故か?
右端は道標を兼ねていて、「左 ひらつかみち」、「右 うらべみち」とあるそうだ。平塚も浦部も次回歩く、布佐河岸から松戸の納屋河岸までの「なま道(鮮魚街道)」(松戸みち)沿いにある。
木下街道は右へ、左へ曲がるとすぐに「なま道」(鮮魚街道・松戸みち)に出る。木下街道も木下河岸から行徳新河岸までの鮮魚街道(行徳みち)だが、鮮魚運送の主流は松戸みちだった。
芭蕉は『鹿島紀行』で、このあたりから「なま道」に入り、布佐から船で利根川を下ったのだろうか。昨日から付き合ってきた県道59号ともここでお別れとなり、千葉ニュータウンを突っ切って行く。
念仏塔道標(これも徳本念仏塔か) 《地図》
右側面に「大も里むらみち」、左側面に「ふさむらみち」
大森村(木下街道)と布佐村(なま道)で、逆方向だから、ここへ移されたものだろう。
行き止まりだが、もちろんお構いなく直進して県道61号を渡り、造成中の区画を突っ切る。県道61号を左に行って大きく迂回できるが、そんな悠長な人は尊敬に値するか。《地図》
ここを突っ切り、正面の柵を乗り越える。下の土はひび割れていた。雨や雨上がりの時などは、歩くと靴と足が泥の中に沈んで抜けなくなるかも。そうなるとみっともない状態になる。「経験者は語る」のだ。
この間の一部始終を鈴木梨園の売店のおばさんに見られていた。同じことをする人を見かけるそうだ。しばし、このあたりの変わり様などについて聞きながら小休止とする。
印西牧の中を東西に貫いていた木下街道と牧が接する所に設置された木戸、野馬除けの土手と堀跡。
このあたりは土埃が多く、まだ設置してから5年も経っていないのにこんな状態。たまには拭き掃除くらいしろよ。
やっと庚申塔など並び旧道らしくなったが、この先は再び味気ない道となる。
「愛宕山紀念」の門柱が建っていたが。
この先で左に曲がり県道4号に出て北上する。曲がり角に小さな道標があるそうだが見落とした。
野馬の姿を彷彿とさせる原野が広がっているが、ここもすべて住宅で埋め尽くされてしまうのか。
左に旧道があるのだが、造成工事中のフェンスで遮断され入れない。
フェンスが途切れやっと左に入れた。直進し突き当たりを左折するとここ(鹿黒集会所)に出る。旧道は写真の正面方向からここに通じている。8月20日からは通行可能となる。集会所の敷地内には馬頭観音などが集められ、カーブミラーの下に道標が立つ。 《地図》
道標には、「東 大もり 木下道」・「南 泉新田道」・「西 和泉 小倉道」・「北 かめなり ほつさく道」
鹿黒橋から上りとなって馬坂の坂上に出る。この坂も馬坂と呼んでいたかも。
大森坂上バス停あたりに大森陣屋があった。享保8年(1723)に山城の淀へ移封された佐倉藩主稲葉家の印旛郡に残った飛地支配のための代官所だった。
右は馬頭観音
国道356号を渡り、印西警察署入口交差点を右折して上町観音堂から木下河岸跡へ向かう。
上町観音堂 《地図》
手前の笠付き庚申塔と、その右の十九夜塔(天明2年(1782))は道標を兼ねている。
庚申塔の右側面は「従是左さくらみち 従是東鹿島みち 従是右江戸みち」で、十九夜塔は「右えどみち」、「左さくらみち」か。右に「いんざい七福神」の寿老人の小祠がある。
ここまで利根川を上って船で運ばれた魚は、行徳河岸まで駄送(馬による陸上運送)された。木下街道は「鮮魚街道」、「行徳みち」とも呼ばれた所以だ。行徳河岸からは水路(「木下街道①」に記載)で日本橋まで運ばれた。
鮮魚の輸送路としては、少し上流の布佐から松戸に至る「なま道」、「松戸道」の方が常に優位を保っていた。駄送の距離が短いのと、宿の継ぎ立てがなく、通し馬で運べたことによる。「なま道」は次回歩く。
布佐河岸から松戸の納屋河岸までの鮮魚街道「なま道」(松戸みち)は次回歩く。
江戸から明治時代かけ利根川の舟運で栄え、文化、文政期には利根川を下り、香取神宮、鹿島神宮、息栖(いきす)神社の三社参りや銚子の磯を楽しむ木下茶船の旅が流行し、最盛期には50軒余りの旅籠や飲食店が軒を連ねていた。その後の成田鉄道の開通、木下駅の開業、利根川堤防の河川改修などにより、河岸周辺の家々は移転し河岸は衰退していった。
右の蔵は「まちかど博物館」になっている。毎月第一土曜だけ開館。
どっしり落ち着いた古い造りの店で入ってみたかったが、ちょっと前に大森交差点の中華屋でボリュームのある昼飯を済ませたばかりで、残念ながら外から眺めるだけ。
今は営業していないようだ。
ここは営業中だ。
『手賀川を歩く』・『総州六阿弥陀』でもこの駅を訪れた。
説明板
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