なま道(鮮魚街道)①
2010年7月28日
布佐駅(JR成田線)・・・観音堂・・布佐河岸跡(利根川)・・・(JR成田線)・・・(国道356号)・・・関枠橋(手賀川)・・若山牧水歌碑・・・・旧道・・・大杉神社・最勝院・・・長屋門・・・下前川橋(亀成川)・・・県道59号・浦部の坂・・・永治郵便局・旧道・・・大六天神社・・・月影の井戸・・・県道59号・・・浦部の百庚申・出羽三山碑・・・馬頭観音・・・阿夫利神社鳥居・旧道・・・阿夫利神社・・・道標・馬頭観音・・・出羽三山碑・庚申塔群・・・白井第二工業団地・・・河原子台交差点・・・大師堂・・・(国道16号)・・・金比羅社・・・富塚鳥見神社・・・(矢ノ橋)・・・成田道道標・・・金比羅宮・大沼枕山撰碑・・・台町の坂・鮮魚街道常夜灯・相馬商店・・・海上自衛隊下総航空基地を迂回・・・給水場・・・報恩寺・・・動物愛護センター・・・旧道へ復帰・・・山王橋・・・佐津間城跡・・・(県道8号)・・・(東武野田線)・・・六実駅(東武野田線)
鮮魚街道の主流ルートだった「なま道(松戸みち)」を2回で歩く。ただし、この時期は鮮魚は関宿回りの全部水路の船による運送だったが。
今日も鮮魚なら1時間も経たないうちに腐ってしまうような暑さだ。自販機で買った冷たいお茶も、すぐにホットティーに変わってしまった。暑さに加え、街道は自衛隊基地に分断され大きく迂回せねばならず、気分的な疲れが倍増した。今日は五香駅(新京成電鉄)までの予定でいたが、手前の六実駅までで切り上げた。
【ル-ト地図】
写真をクリックすると拡大します。
分かりやすく書かれている。
観音堂 《地図》
新四国相馬霊場の58番
左にカーブした先に木下(きおろし)河岸がある。
南側の点線(木下河岸→白井→鎌ヶ谷→八幡→行徳)が前回歩いた行徳道(木下街道・鮮魚街道)で鮮魚街道としては本街道だが、陸路が短く、通し馬で運べたこちらの松戸道の方が常に優位に立っていた。
観音堂裏手に戻り南に進み、成田線、手賀川を渡る。
大正14年に手賀沼で舟遊びをした時の歌。「はるけくて・・・・」?
大杉神社(右)・最勝院(左) 《地図》
最勝院は『総州六阿弥陀』の回向所。
中の母屋も立派だ。
昨日までは工事中で迂回しなければならなかった。ついてる。
浦部の坂を上る。《地図》
永治郵便局の手前の旧道に入る。
大六天神社 《地図》
前方後円墳の上に小祠、印西八景「大六天の手賀沼」の標柱、手賀沼干拓発祥の地の碑がある。水田の彼方に手賀沼が見えるというのだが、全然気がつかなかった。たしかに手賀沼までは直線で1kmくらいか。
「日本三井」の一つという。底に水が少し溜まっているように見える。右の井戸はもう使えないのだろう。
鎌倉の「星の井」は『鎌倉市の坂-4』に、「日影の井」は奥州街道二本松の霞ケ城内にある。「星の井」は鎌倉十井の一つだが、日本三井との記述は見当たらなかったが。
西方200mが千葉氏の一族の大菅氏の龍崖城址。
天保10年(1839)の文字庚申塔がほとんど。青面金剛像のもある。ここのも赤く塗られているのは何故か?
昔は、旧道を跨いで建っていたそうだ。ここを右に曲がる。直進すればすぐに清戸道バス停交差点で、木下街道に出る。
阿夫利神社 《地図》
拝殿だろう。さらに左の石段を上る。
「石尊さま」と呼ばれている、由来となった2つの石を祀ってあるのだろう。
「石尊さま」にもいろいろあったのだ。
道標には、「亀成 一里 木下 二里 成田 七里」、「十余一 舩穂 佐倉 千葉」、「中村 松戸 東京」などとある。
この先で国道16号を渡る。
なま道からはずれ、富塚鳥見神社へ寄り道する。
富塚鳥見神社 《地図》
本殿はそれほどでもないが、歓喜天像は面白い。
男女和合、縁結び、子恵みの神という名に恥じず、堂々と抱き合い口先を絡めている。見ているだけで暑さが増すか?
参道に並ぶ庚申塔の中に「切られ庚申」があるというがどれか分からず。
ある晩、鮮魚師が銚子から魚を輸送中に火の玉に襲われ刀を振り降ろしたところ、庚申塔に切りつけてしまったという。その刃跡が残っているというが。
鎌ヶ谷、藤ケ谷、六実駅などの文字が見える。
「金山落し」という手賀沼へ注ぐ小川(今は暗渠)で《地図》、戦国時代に川を挟んだ激戦があり、両軍の矢が橋のように重なり合ったという。また『村雨丸伝説』もある。村雨公園もあるようだが、どこか分からず。
ここからはなま道だ。
金比羅宮 《地図》
なま道で鮮魚を運ぶ人、道沿いに暮らす人に信仰されてきた水運の神も、今は店じまいかこんな状態。致し方なしか。右に大沼枕山(ちんざん)撰碑が立つ。
大沼枕山撰碑
五日市街道の石浜古戦場跡にも、枕山の詩碑がある。
台町の坂を上る。《地図》
坂の途中、左に常夜灯、相馬屋商店。
明治になって建てられたもの。このあたりは鮮魚街道の中継地として賑わい、輸送人夫たちの食事、休憩、宿泊所や「酒、賭博、女」の遊興の場所もあった。向こうは相馬商店で、かつて人夫たちはここの井戸水を魚にかけ、一休みしたという。
広大な自衛隊航空基地にぶち当たり街道は途切れ大きく北に迂回する。
迂回し南に進む。左は自衛隊基地 《地図》
昔は一面の茅(かや)の原と鬱蒼とした山林で、街道の傍らに芽を刈って積んで置くと、魚を運ぶ人夫たちがそこに魚を隠し(後で猫糞(ねこばば)するため)、それを村人が横取り、失敬したという話や、「狐の嫁入り」の話、狼が棲んでいたなど、時々聞こえる無機質な航空機?の音からは想像できない世界が広がっていたのだ。
正面のこんもりした所。
旧道はここへ通じていた。正面奥は自衛隊基地。《地図》
住宅地をウロウロしたが入口が分からず、あきらめかけ六実駅に向かいかけてやっと見つけた。
佐津間村は戦国時代後半には小金大谷口城(松戸市小金)の高城氏の支配下にあったと考えられ、その配下の豪族の砦として利用されたらしい。土塁跡?を分断し階段がつけられ、上は住宅地で遺構は残らず。
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コメント
坂道散歩様
先日たのしく鮮魚街道①「布佐~高柳」を歩きました。「道中指南」ありがとうございました。当会の当日の会報をお送りいたします。高梨
道しるべ No.57
道しるべ」は皆様の声の「広場」です。 街道四季の会
お気軽に、ご意見や情報をお寄せ下さい。 2012年6月10日
第57回例会
なま道/鮮魚街道①「布佐から六実へ」終わる
2012年5月12日(第二・土)
コース;布施駅(集合/スタート)9:16~10:05岡田武松邸跡~10:25榎本家~山崎家~11:00和歌山牧水歌碑~11:50松山下公園(昼食)12:40~13:10月影の井~13:20百庚申~13:50阿夫利神社~15:30来迎寺~16:18自衛隊前 =バス=16:25高柳駅(ゴール/解散) 21km
参加者; 磯谷、打田、高梨、高橋、4名
案内人; 高梨 天気;晴れ 気温;28度
鮮魚街道を歩いての感想 高橋
5月27日(日)9:32布佐駅に常連3名と、久しぶり参加の私が集合した。
天気は快晴、26℃まであがる予想。私はチラシ通りの13キロの歩行なら行けそうとの予想で、軽い気持ちで参加。常連さんは、それは嘘の発表と最初から読んでいた様子。
まず利根川の土手に登って、当時の河岸の様子を勝手に想像。次に鮮魚街道の出発点と言われる観音堂へ行き、案内板を見てなるほどと確認。いよいよ享保年間完成の鮮魚街道歩きが始まった。終着の松戸までは、約30キロだが、今日はその約半分の13キロ、海上自衛隊下総航空基地まで。ここで街道が消滅している為。出発して最初の数キロは手賀沼の東側を進む。途中高梨さんが、色々と史跡を案内してくれる。楽しい。よくこんなところを江戸時代の人は駄馬と言う背の低い馬で、生魚状態の魚を大量に運んだものだと感心する。
高梨さんは私の歩行速度に合わせてくれ、大変助かった。遅れて、磯谷さんと、打田さんが付いてくる。磯谷さんの疲れを癒し、スピードアップさせる手段は、久美ちゃんの話を持ち出すことだと、今回の歩きで分かったのは私の収穫であった。結局磯谷さんのお笑いに元気をもらったのは私であった。トータル21キロを歩いた。自分でもびっくり。今後の自信になった。東武野田線高柳駅のスーパーでビールと各自思い思いのつまみを買って、ベンチに座って疲れをとる。ビールも焼き鳥も実にうまかった。日焼けした顔がますます赤くなる。お世話になりました。
打田さんからのお便り
快い疲労感がありましたが、翌朝はすっきりしました。色々と有難うございました。私は単に話をしながら歩いているだけでも満足しています。
街道に関する話や、一軒見落としそうな所に興味ある逸話が聞けたりして更に満足しています。当時の人々の経済活動が偲ばれ、いつも興味を持って話を伺っています。(しかし時には数日経つとすぐ忘れたりしますが)事前の下見など大変と思います。適当で結構ですから(たまにはハプニングがあった方が良いかも)、
これからも長く続けて頂きたいと思います。私は無能ですが、今後ともよろしくお願いします。 打田
道しるべ No.57
道しるべ」は皆様の声の「広場」です。 街道四季の会
お気軽に、ご意見や情報をお寄せ下さい。 2012年6月10日
第57回例会
なま道/鮮魚街道①「布佐から六実へ」終わる
2012年5月12日(第二・土)
コース;布施駅(集合/スタート)9:16~10:05岡田武松邸跡~10:25榎本家~山崎家~11:00和歌山牧水歌碑~11:50松山下公園(昼食)12:40~13:10月影の井~13:20百庚申~13:50阿夫利神社~15:30来迎寺~16:18自衛隊前 =バス=16:25高柳駅(ゴール/解散) 21km
参加者; 磯谷、打田、高梨、高橋、4名
案内人; 高梨 天気;晴れ 気温;28度
鮮魚街道を歩いての感想 高橋
5月27日(日)9:32布佐駅に常連3名と、久しぶり参加の私が集合した。
天気は快晴、26℃まであがる予想。私はチラシ通りの13キロの歩行なら行けそうとの予想で、軽い気持ちで参加。常連さんは、それは嘘の発表と最初から読んでいた様子。
まず利根川の土手に登って、当時の河岸の様子を勝手に想像。次に鮮魚街道の出発点と言われる観音堂へ行き、案内板を見てなるほどと確認。いよいよ享保年間完成の鮮魚街道歩きが始まった。終着の松戸までは、約30キロだが、今日はその約半分の13キロ、海上自衛隊下総航空基地まで。ここで街道が消滅している為。出発して最初の数キロは手賀沼の東側を進む。途中高梨さんが、色々と史跡を案内してくれる。楽しい。よくこんなところを江戸時代の人は駄馬と言う背の低い馬で、生魚状態の魚を大量に運んだものだと感心する。
高梨さんは私の歩行速度に合わせてくれ、大変助かった。遅れて、磯谷さんと、打田さんが付いてくる。磯谷さんの疲れを癒し、スピードアップさせる手段は、久美ちゃんの話を持ち出すことだと、今回の歩きで分かったのは私の収穫であった。結局磯谷さんのお笑いに元気をもらったのは私であった。トータル21キロを歩いた。自分でもびっくり。今後の自信になった。東武野田線高柳駅のスーパーでビールと各自思い思いのつまみを買って、ベンチに座って疲れをとる。ビールも焼き鳥も実にうまかった。日焼けした顔がますます赤くなる。お世話になりました。
打田さんからのお便り
快い疲労感がありましたが、翌朝はすっきりしました。色々と有難うございました。私は単に話をしながら歩いているだけでも満足しています。
街道に関する話や、一軒見落としそうな所に興味ある逸話が聞けたりして更に満足しています。当時の人々の経済活動が偲ばれ、いつも興味を持って話を伺っています。(しかし時には数日経つとすぐ忘れたりしますが)事前の下見など大変と思います。適当で結構ですから(たまにはハプニングがあった方が良いかも)、
これからも長く続けて頂きたいと思います。私は無能ですが、今後ともよろしくお願いします。 打田
例会を終えて 高梨
参加者4名が、9時32分に布佐駅に着く。事前に人数を把握していたので、10時3分の集合時間を待たずそのままスタートする。
皆様の中に、久方ぶりの高橋さんの元気なお顔が在った。とても嬉しい。昨年手術をされてリハビリをされていたと聞く。今日は可能であれば当日の行程を完歩したい。長丁場なので皆様の体調を見て、途中、北総鉄道に逃げる2カ所のリタイヤコースを用意し無理を避ける予定を組む。今回、事前に下見をする時間が取れず、何度も「図上演習」で各行程を検討する。パソコンの調子も悪く、会報No56も間に合わなかった。全行程16キロを時速3キロで設定する。気温は24度、快晴無風。湿度無し。歩くのにはベストである。
コンビニ一つない駅前を後にし、利根川の土手に向かう。初代中央気象台長の岡田武松邸跡、魚問屋の榎本家や山崎家に寄り、地元のスーパーでお昼の弁当を買う。
利根川の土手にかつての河岸の痕跡は無いが、今にも倒れそうな小さなお堂が在る。観音堂である。寄付金を記した碑が沢山あることから当時如何に「ご利益」を期待したかが想像出来る。「魚」を下に二つその上に一つ乗せた三つで一組の漢字=鱻で「ナマ」と読むと高橋さんの説明がある。私なら「ギョギョギョ」と読んでしまうところだ。私の頭がナマっているのか? 当会の会員の知的レベルの高さがうかがえる「ギョッ!」とするためになるお話でした。
そう、「なま道」「鮮魚街道」はここから始まる。松戸まで7里半30キロの道のりである。当初は東隣の木下(きおろし)から行徳新河岸までの木下街道9里36キロを使い、銚子沖で取れた魚を江戸日本橋の河岸に運んでいたのが、松戸へのこの街道に荷をとられたと言う。木下の方は、背替えによる乗継料を取られるので、「通し馬」と言われる荷替え料が要らないこの裏街道に客が流れたと言うが、こちらの方が道中2里(8キロ)も短いのが本当の理由だろう。当時、幕府は、鮮魚に限り、街道での馬の乗継料を禁じていたのと、木下には魚の荷揚げの記録が無いと識者は伝える。二つの街道が荷を取り合ったと言う話は、話としては面白いが一考の余地があるようだ。
銚子で採れた魚は、頭と内臓を取る生け締めで笹の葉に包み、三日以内に日本橋に着くよう定められていて、遅れた場合は、逆連鎖で罰金が科せられたと言うからキビシ~イ! 全国の「サムライ駐屯地」化した膨大な江戸とその普請等に係る職人や町人の胃袋を支えることは大変なことであったらしい。維新後に岡蒸気(機関車)で多くの街道がすたれる明治30年頃まで、この街道は、現役だったというからその利便性はスゴ~イ!
観音堂近くの信号機に「都」の表記がある。閑散とした現在とは違い、昔は荒くれオトコでごった返していたのか。但しここは、関宿まで船が登れない渇水期の冬場だけで、もちろん、夏場は冷凍設備の無い当時、鮮魚など運べる術は無かった。
JR成田線の発作踏切を越え、関枠橋を渡る。手賀沼から利根川に注ぐ手賀川のこの辺は雄大だ。近くに若山牧水歌碑が在る。底の平たいサッパ船で牧水が遊んだと言う。多分この辺は茫漠たる大湿地帯だったのだろう。現行の道路の脇を並行に走る道を往く。発作(ほっさく)の集落だ。土盛りをしたのか自然堤防なのか、道に沿いに道より一段高く土盛りをした農家が延々と続く。中には、立派な長屋門を構えている。大杉神社があるこの辺の住民は元々農民では無く、海路で秋田まで勢力をもった「香取海の水軍」の末裔かも知れない。途中、海野作兵衛の碑がある。親子三代でこの地を開拓した江戸の海鮮問屋だ。この碑が在る海野建設さんは、その末裔か。右か左か「どうひよう?」と「南 江戸道」の道標前で悩む。昼食予定の松山下公園に急ぐため、幹線道路に一旦出る。予定の40分前に公園の見晴らしの良い東屋に着く。湖から吹く5月の風が心地よい。芝生の上で家族連れがお弁当を広げていた。早めに駅を出発したので、昼食に50分も時間が取れた。牧歌的な岡の上で気持ち良いそよ風にほほをなでられ、黙々とお弁当をほうばる4人のオヤジのシルエットは、風光明美には全く絵にならない。食べ終わったゴミを片手に笑顔で去るその姿は、微笑ましくもある。
永治郵便局を右に折れると、大六天神社の杜に入る。下手賀沼を見降ろす台地は、素晴らしい。神社を後に浦部の集落に下る。月影の井が在る。説明によれば、鎌倉の日影の井、二本松の星影の井と「日本三井」の一つだそうだ。何でそ~なのかは解らない。解らないからこそ、押せばロマンの泉湧く。「お水ウマウマ」と重い荷を背にした馬もここで一休みしたのか。
先を急ぐ。車の通りが多く、歩道が無い古道歩きは恐い。ヒヤヒヤしながら進むと、街道に庚申塔がズラ~と並んでいる。百庚申と言う。下総では、同様のものが他にも散見される。庚申信仰が、盛んになるとその数量で功徳の深さ競うようになったという。百基もないのに「百」と言うのは「多い」と言う意味なのか。
その先のY路地にド~ンと構える真新しい大きな鳥居が見える。ハテ?付近には神社らしき物が何にもない? かつて道路に鳥居がまたいでいたと聞く。そこは神社の参道だった。社殿まで1キロぐらいはあろうか実に長い! 参道は、正しくは「正中」(せいちゅう)と言い、「神様がお通りめされる道」で、生身の人間はその脇を歩かねばならないという。それが、今では参道が普通の道路となり、今では「そこのけそこのけ自動車が走る」 自動車は神様か?
神社は、阿夫利神社と言い、銚子の海から漁師が引きあげたと言う二枚の石像が蔡神でと言う。当時の石尊大権現・大山寺(現在の相模大山阿夫利神社)に寄贈するはずが、何故かここで祀られた。明治以前は石尊様といわれ、神仏分離で「神社」になったのは明治からだ。修験憎の相模坊が崇徳上皇の霊を慰めたことから、明治に出来た国家神道の「序列」に組み込まれたのか。
維新後、国家神道にとって邪魔な「神々」は、維新でバタバタ廃止された。その数は全国で3万社にのぼると言われる。この様な所領を含め、天皇家は、維新からの敗戦までの78年間に「長野県の広さに近い土地」を手に入れた。勿論、戦後、GHQにより、他の財産と共に没収され、主権在民の「新しい国家」に返される。
拝殿の屋根を見上げると鰹木の数が8個、千木は「外削り」だ。神社の建築様式では、かつおぎは奇数が男神で偶数が女神、ちぎは外削りが男神で内削りが女神と決まっている。では「女の神様」は何処に? 居ない。では、ここの神様は両性なのか? 説明では、日本武尊を始め4人もの男神が蔡神だ。一社一神が原則の手前、もうハチャメチャだ。この辺は、石碑の多さからすると出羽三山信仰も盛んだったようである。
街道は、白井工業団地隣接の産廃銀座に入る。かつて車で通ったことがあり、歩く気が湧かない。そこで、台地の縁を巻いて走る古道をゆくことにする。気温は28度を指すが、5月の風が気持ち良い。この辺は、よほどの土地勘が無いと地元民以外は歩けない。かつて、この辺の広大な森の中で迷った事がある。女性が一人では歩けない昼なお暗~くうっそ~たる森である。ここを勝手に「ウッソ~の森」と呼ぶ。この辺から松戸にかけ、梨の産地でもある。最近、「梨ブランデー」を商品化したここ白井市の第三セクの会社が倒産したと聞く。これは冗談ナシである。
森のはずれの来迎寺に着くまでの間、南の方角から20機近くの対潜哨戒機が車輪を出しながら轟音とともに頭上を次々降下する。海上自衛隊の下総航空基地が近い。方々で自衛隊の基地が「街道」を分断している。ここでも、街道は、基地のフェンスの中に消え、フェンスの反対側に現れる。この基地は、戦後は占領軍、戦前は旧軍、明治は東洋一のゴルフ場、江戸以前は小金五牧の中の中野牧の一部であった。頭上の対潜哨戒機は、P-3Cオライオン(ORION)といい、4発のプロペラ機だが、1機130億円もし、世界展開するアメリカの200機に次ぐ日本の100機とは、あまりにも異様な数字だ。この機種は、「総理の犯罪」(1976年)で有名になったロッキード社製だ。この手の裏社会の話、「わっかるかな~」
この街道のちょうど中間点である藤ヶ谷の常夜塔は時間の関係であえて探さない。古地図でも解りづらいこの辺を無事に抜け、基地がある丘陵地の坂を急ぐ。4時18分、自衛隊正門前に着くと同時にバスが来る。「ラッキー! 飛び乗れ!」 次は5時過ぎだ。ゴールの高柳駅前のスーパーの前のベンチで男4人の青空宴会が始まる。カンパ~イ! 細胞にアルコールがググ~と沁み込んでゆく。「ウッマ~~!」 今日は「ウマウマづくし」の旅となった。「エ~、21キロ!?」と、皆様の万歩計では三万歩近くだ。道中の磯谷さんのお笑いとジョ~クが疲れた筋肉へのモルヒネ注射となる。「気分爽~快で楽しかった~!」との明るく皆様の評。
皆様お疲れさまでした~。
次回予告; 2012年二期(5~6月)予定
6月24日(第四・日)鎌倉街道/中ッ道②「幸手~岩槻」
東武日光線/幸手駅 AM9時30分集合、
東武野田線/岩槻駅PM3時30分頃解散
雨天中止 食事解散又はコンビニ弁当
難
投稿: 高梨和信 | 2012年6月 3日 (日) 07:17
楽しそうな会ですね。私が歩いた時季と違い、今は歩くにはいい季節です。
どうか、たっぷりと楽しんできてください。
投稿: 高梨様へ(坂道散歩) | 2012年5月26日 (土) 16:08
はじめまして、「街道四季の会」の高梨と申します。明日、57回目の例会で、なま道「布佐~高柳」間を歩く予定でおります。今回は4人と言う少人数ですが、楽しみにしております。直前の下調べで、貴方の「旅日記」が目に止まりました。とても楽しく拝見させて頂きました。大変参考になりました。ありがとう御座いました。では、元気に行ってきます。
投稿: 高梨和信 | 2012年5月26日 (土) 14:25